黄泉の歌姫は月と海の狭間に揺れる

 その日の夜。唄子は台所でクツクツと歌う鍋を指揮していた。
 長澤にお願いして受け取ったお金で買ってきた冬野菜と魚。切り分けられたそれらが出汁の効いた汁の中で踊る。米の炊けた香りも漂ってきたので、唄子は手際良く火を止めた。
 そして味噌汁に味噌を溶かし、仕上げをしていく。

 唄子が来るまで、荒れ果てた戦場のようだったこの台所。しかし、料理に必要な道具は全て揃っていた。
 ここの元の主はきっと、唄子が使わせて貰っている部屋の元の主と同じなのだろう。

「ただいまぁ〜!」
「ただいま。」

 そこへ聞こえてきた、照昌と天珠の声。火の始末を確認し、唄子は玄関へと駆けた。

「おかえりなさいませ。堂児さん、安倍さん。我儘を聞いて下さり、ありがとうございます。」

 現在夜の9時。この時間に2人が帰って来るのは、唄子がこの家に来てから初めて。
 というのも、彼女が2人にお願いしたからだ。

「んん〜!めっちゃええ匂い!これもう夕食食べれる?」

 目をキラキラさせた照昌が問いかける。唄子が頷けば、彼は跳ねるように駆けて行く。

「こら安倍!!室内を走るな!!」

 天珠の注意は、残念ながら彼には届かない。

「ったく…。すまない、小野さん。手伝います。」

 生真面目な天珠らしい対応。それに対し、唄子は緩く首を振った。

「いえ…あとはよそって運ぶだけなので。居間でお待ちください。」
「そういう訳には。俺だって下宿させてもらってる身だ。家がぐちゃぐちゃだったのに言えたものではないが…多少の家事くらいは…」
「んっと…」

 玄関先での小さな攻防。何かしていないと落ち着かないのは、2人の共通点だろう。

「なあー!!小野ちゃん!!めっちゃ美味そうなんやけどーー!!早う食べよう!!」
「あ……!はい!熱いので、お鍋触らないでくださいね…!」

 台所から聞こえてくる照昌の騒がしさ。どうにか唄子も声を張り上げるが、果たして聞こえていただろうか。

「……安倍が荒らす前に行きましょうか。」
「そ…そうですね。」

 眉間に皺を寄せる天珠が呟く。それに唄子が頷くと、2人揃って台所に急ぐのだった。



 夕食は、唄子がこれまで経験したことがないほど賑やかで、温かかった。
 美味い美味いと繰り返す照昌。目を輝かせ、ほうと息をつく天珠。そんな2人と、まさか同席できると思っていなかった唄子。
 多めに作った鱈鍋と味噌汁は、あっという間に空になった。最初に確保しておかなければ、長澤の分は残らなかっただろう。

 お風呂場の小窓から湯気と照昌の鼻歌が漏れている。食器洗いは、天珠に押し切られてしまった。

 勝手口の井戸のそばに、唄子は佇む。生活の音を少し遠くに聞きながら、思い返すのは今日の異能部隊でのこと。
 
(……死霊使い……)

 そんな自覚はない。けれど歌に寄ってくる霊に心当たりはある。不安と恐怖に揺れながら、唄子はそっと息を吸った。
 
 日課の歌。両手を胸の前でキツく握りしめ、震える声で紡いでいく。

 ふと、唄子は目を開けてしまった。

「ひっ…!」

 その瞬間、目に入った景色に彼女は引きつった悲鳴をあげた。

 地面から人体の半身がいくつも生えている。闇に溶けそうな灰色が、彼女に向けて手を伸ばす。
 半透明のその身体は、今までただの光に見えていたもの。光だと、思おうとしていたもの。

(あの人達が言ってたこと、本当なの…!?)

 脳裏に浮かぶ長澤。そして瑞樹。唄子を死霊使いと断定した彼らの言葉が、実感と共に襲いかかる。

 その時、背後から白魚のような手が唄子を抱きしめた。
 
「……唄子」
「…!!」

 囁かれる名前。その声は、彼女にとって最も安心だった人のもの。
 
「……去れ。居るべき場所へ戻りなさい。」

 夜見之宮の声がそう告げる。すると、灰色の人影たちはまるで煙のようにゆらゆらと霧散していった。

「夜見之宮……さん……」

 ゆっくりと解けた抱擁から一歩抜け出し、唄子は振り返る。昔から変わらない美貌が、包むように彼女を見つめていた。
 
「……怪我は、ないか?唄子。」
「……はい……」

 穏やかな問いかけに、どうにか頷く。声音にのる影に気づいた夜見之宮が、伺うように首を傾げた。
 唄子は迷う。だが、昔から知っている最も信頼している彼へ、彼女は意を決して尋ねた。
 
「私の……歌、は……」
「……?」
「……死霊使いの能力……なんですか……?」
「……」

 冬の風が2人の黒髪を揺らす。雲が月明かりを遮った時、夜見之宮はゆっくりと口を開いた。

「……そうだ」
「……!!」

 目を見開く唄子。そんな彼女の頬に触れ、夜見之宮は続ける。
 
「死者の霊を引き寄せ、歌により意のままに操る力。」
「……」
「篁の子孫よ……。彼以来、これほど力の強い者は、現れて居なかった。」
「篁……って、小野篁…?」
「そうだ。……私は、そなたを放っておけなかったのだ。」

 ひんやりとつめたい掌。温めてあげたくて、その手に自分の手を重ねる。指の腹が唄子の目元を優しくなぞった。

「……これからの世は、そなたにとって生きづらいだろう……」
「……?」

 予言のような言葉。憂いを帯びた月光の瞳に宿る、吸い寄せられるような神々しさ。

「貴方、は…」
「……?」

 つめたい彼の手を握る唄子。溢れるような声で、彼女は問いかけた。
 
「……神様、なんですか……?」
「……!!」

 夜見之宮が目を見開く。
 
「月讀、命……様……?」
「……」

 その名を口にしたとき、わずかに俯く夜見之宮。彼の髪はさらりと、小雨のように降り注ぐ。
 
「……そうだ」
「……!!」

 短い、肯定。
 唄子は思わず息を呑んだ。
 
「だから、私は…そなたを見守ることしかできなかった……」
「あ…あの…」

 鼓動が高鳴る。唄子は、夜見之宮…否、月讀命から目が離せない。
 彼の手が、唄子の腰を引き寄せる。吐息がかかるような距離の中、感じる熱は自分の体温のみ。 

「神様なら」

 神秘さを破壊する銃声のような声が突如響く。
 悲鳴の代わりに肩を大きく震わせて唄子が振り向けば、開いた勝手口で腕を組んでいるのは長澤だった。

「あんまり人の営みに口出しするもんじゃねーのでは?ん?」
「……」

 淡々と告げる長澤。月讀命は、ひと言も返さない。
 跳ねる心臓を抑えながら、唄子はそんな2人を交互に見てしまう。

「……そう、だな……」
「えっ…」

 そして、静かに離れていく月讀命の手。

「……邪魔をした」

 離れていく月讀命。聞こえてくる、さざ波の音。

 「待って……!!」

 唄子は手を伸ばす。けれどそれは神に届くことはなく、最も貴い御子の一柱の姿は夜闇に溶けて消えてしまった。

「っ……」

 ザワザワと、心が落ち着かない。急に実感した冬の寒さが、肌を刺す。触れられていた頬だけが熱い。

(まさか、もう……会えないの…??)

 そんな根拠のない不安が、彼女の胸のうちに渦巻いていた。

「ところで小野。」
「……え!?あ、はい…!」

 長澤のものとは思えない穏やかな声で呼ばれ、返事は一拍遅れてしまった。
 慌てて振り向くと、先程と全く同じ体勢のまま長澤は尋ねた。
 
「明日の昼間空いてるな?」
「……?はい……」

 当然の確認に、戸惑いながら頷く。するとニッと口角を上げて、長澤は宣言した。
 
「じゃ、ちょっと付き合え。1330(ひとさんさんまる)、横須賀鎮守府の第一食堂な。門は通れるようにしておく。」

 それだけ伝えると、彼は部屋の中へと引っ込んで行ってしまった。

「……え?」

 1人取り残された唄子は、呆然と立ち尽くすしか出来なかった。