黄泉の歌姫は月と海の狭間に揺れる

 黒くて暗い雲が横須賀の空を覆う。いまにも大荒れになりそうな天気の中、天珠はあの逮捕劇ぶりに鎮守府の床を踏みしめていた。
 あれからたった3日。だが、生きた心地のしない3日間だった。

 彼の目の前を歩くのは見知らぬ少将。向かう先がどこなのか、10年以上軍に居れば嫌でもわかる。

(背筋を伸ばして、跳ね返せ…)

 かつて長澤に言われた言葉を心で呟く。喉がカラカラに乾き、跳ね続ける心臓が痛い。
 だが結局、それはまだ序の口だった。開かれた重厚な扉の向こうへ、「失礼します」と敬礼し入った途端、天珠はもう呼吸ができなくなった。

 重たく黒い長机が目の前に伸びている。そこに並ぶのは、数名の海軍将校と特高の重鎮。雲の上の存在たちの刺すような視線が、一斉に天珠に突き刺さる。

「ッ…!!」

 その一番下手の席に、瑞樹がいた。すらりと伸びた立ち姿。彼だけが、いつもと同じ穏やかな笑みを浮かべている。いっそその表情のほうが場違いにさえ思えてきた。
 彼の後ろにある椅子。自分の席はそこなのだろう。そう察して、天珠は逃げるようにその空席へ向かう。
 
 異能部隊の代表2人が揃い、席に着く。それをうけて、海軍の大将が口を開いた。

「これより、異能技術研究部隊に関する合同審議を開始する。」

 この会議次第で、長澤の運命も、自分たちの処遇も決まる。天珠はもう、胃が痛くて仕方がない。
 
「まず、此度の逮捕に至る根拠をこちらから申し上げます。」

 そう話し始めたのは、特高だった。

「本来逮捕状が出ていたのは堂児天珠大尉です。」

 ハイエナのような視線がじっとりと天珠を刺す。目を合わせたら負ける気がして、必死に瑞樹の背中だけを見つめた。

「彼は先の死のう団による割腹騒ぎの際、国会議事堂および警視庁の前でその姿を目撃されています。その際、異常な身体変化を示していたとの報告があります。加えて、彼はまるで空を飛んでいるような上空にいたそうです。常人離れした膂力(りょよく)でしょう。」

 要はお前は人じゃないと言いたいのだ。聞き慣れた言い分に、心臓の痛みを身体から切り離そうと天珠は努めた。

「出自が極めて不透明であり、戸籍記録は不完全。さらに出生地も曖昧。国家保安上、危険分子として監視対象に置くべきとの判断に至りました。捜査には海軍にもご協力を頂いております。」

 だが努力虚しく、激しい耳鳴りが止まらない。呼吸の仕方を忘れたように、肩が上下する。
 
「海軍を代表して補足いたします。」

 続く発言は、身内であるはずの白い軍服からだった。

「彼は兵舎内において複数回の暴力事件、器物損害事件の報告がある。」

 いま、自分は何を言われたのだろう。
 天珠に浮かんだのは、そんな現実味のない感想だった。

「異能技術研究部隊へ配属後、堂児大尉の指導による通常軍規から逸脱した結束傾向が確認されている。閉鎖的な独自文化を持ち、上官への私的忠誠の強要。下士官にあたる安倍照昌少尉への暴行。民間女性を鎮守府内へ連れ込み風紀を著しく紊乱(びんらん)する行為。」

 特高の攻撃と違い、あの少将が言っていることは全て身に覚えがない。言いがかりにもほどがある。それがまかり通っていることに眩暈がした。耳鳴りはもはや頭痛の域だ。

「このような行為は、海軍士官としてあるまじき行為だ。思想的依存対象を持つ兵は統制を乱し、国家秩序に対する脅威となり得る。隊内から複数、同様の報告があがっている。」

 もし、いじめの主犯格らが、事実を捻じ曲げ悪意ある報告・噂を流したとしたら。
 彼らならやりかねない。異能部隊に配属されるなり一気に尉官へ昇格した天珠に対して、逆恨みをしていたっておかしくないのだから。

 特高の無機質な声が続く。

「彼の拘束の際、長澤弘道中佐本人が我々の妨害をしてきました。その際、彼は堂児大尉の行動が危険思想の元である場合、上官である自身にその思想があるからだと明言いたしました。そのため、異能技術研究部隊の隊長である彼を拘束するに至りました。」

 天珠は唇を噛む。あの日自分を庇った隊長の言葉が、そんな風に使われるだなんて。

「先ほども申し上げました死のう団による割腹騒ぎの際、同部隊に所属する安倍少尉の姿も宮城広場にて確認されており、特高の管轄である本件に関して部隊として越権行為があったと見受けられます。」

 そこで一度言葉を切る。次いで彼らは、海軍全体を見渡して、盤面へ別の駒を進めていく。

「越権行為に関しましては、陸軍からも以下のような報告があがっております。」

 それは、2.26事件でのこと。海軍は東京湾に艦隊を配備したものの、武力行使の事実はない。しかし現場では、正体不明の勢力による妨害報告が複数存在するという。

 一部はその通りだろう。異能部隊としての最初の任務は、2.26事件の実態把握と都内警備だったのだから。
 けれど、陸軍との交戦には至ってない。そんなことがあっては、内乱だ。当時長澤からきつく注意を受けたのを、天珠はよく覚えている。

「この報告が異能技術研究部隊によるものの場合、長澤弘道中佐は1つの部隊を私兵化したことになりますよ。」

 鉛が会議室にのしかかる。以上です、という特高のしたり顔。それは勝利を確信しているような笑みだった。

 腹痛と頭痛と眩暈で、天珠はもう倒れそうだ。それでも視線を落とさず、背筋を伸ばして席についている。それは偏に(ひとえに)、目の前に瑞樹がいるおかげだ。
 彼の長い髪が、一直線にその背中に垂れる。広い背中を覆う軍服に、皺は一切ない。

 議長たる海軍大将が発言を許可した。瑞樹の右腕がゆっくりと持ち上がる。

「では。順に反論させて頂きます。」

 あの銀縁眼鏡をあげているのだろう。隊の軍議でいつも見る姿。それだけで、天珠はほんの少し呼吸が楽になる気がした。

「最初に堂児大尉個人への偏見…いえ、容疑について。次に長澤中佐、および異能技術研究部隊にかかる越権行為という言いがかり…失礼、疑惑について。この順でお話し致します。」

 瑞樹の声が途切れる。酷く静かすぎる語り口調の中に、憤怒が顔を覗かせている。一瞬だけ楽になった呼吸は、別の意味で喉に詰まり始めた。

 彼の頭部がわずかに動く。毒蛇のごとき視線が、特高の発言主に向いた。
 
「優れた力を有することの、何が問題でしょうか。彼の身体特徴を危険性根拠とするのであれば、海軍全体の身体検査基準そのものを改定する必要がありますね。」

 始まった反撃。瑞樹の言葉に、口がへの字に曲がる背広の男。 

「また戸籍についてですが、関東大震災による記録消失者は多数存在しています。堂児大尉のみを特例的に危険視する合理性はありません。もしもそちらの主張が正しいのであれば、どのように彼の志願が海軍省に受理されたのか、むしろ説明いただけますか?」

 特高の男の顔がぐしゃぐしゃになっていく。ぐうの音もでないのだろう。
 一方瑞樹は、特高の味方をした少将へも言葉を返す。

 「次に暴力事件その他鎮守府内からの報告に関してですが。ご提示いただいた資料に記載されている報告者は、堂児大尉への継続的暴行および侮辱行為で既に処分済みです。」

 やっぱり彼等だった。
 だが、天珠はわずかに目を見開いた。処分済みというのは、初耳だ。

「なお当時、堂児大尉本人には栄養失調、肋骨損傷、過度の睡眠不足が確認されています。」

 思い出すのは、長澤と瑞樹に出会ったあの日。上官直々の手当だなんて、忘れられない。

「また、民間女性への不純行為を指摘するのであれば、女性側本人へ事情聴取するのが筋と考えます。恐れ入りますが、閣下はその女性から報告を受けたのでしょうか。その女性の素性を開示頂けますか。」

 視線が海軍の少将に集まる。鼻の下を飾る髭を触りながら、彼は渋面で囁いた。

「…いや…。」
「であれば、ただの噂にすぎません。少将閣下ともあろう御方が、根も葉もない噂を正式な軍議の場に持ち込み、根拠といたしますか?」

 瑞樹は静かに、盤面を優位へと進めていく。

「こちらの資料は、堂児大尉の勤務記録です。」

 彼の手から、とある紙が全体へ渡っていった。

「欠勤日はほぼゼロ。素行良し、訓練成績良し、座学成績良しの、模範的海軍士官です。先の海軍記念日の際は、横須賀鎮守府の代表として戦艦長門の公開に尽力し、かの戦艦乗組員からも、その知識と熱量を称賛されています。」

 長年身体中を縛り付けていた「危険な鬼の子」という重厚な枷が、彼の言葉によって外されていく。

「この彼のいったいどこが、国家秩序に対する脅威なのでしょうか。反論のある場合、数字および記録をご提示の上仰って頂きたい。」

 唾を飲み込み、涙をこらえる。天珠は、体中の血液が熱をもって駆け回っているような感覚がした。

 これに応えるのはもう、ただ背筋を伸ばし、感情を乱さず居ることで、自身が説得力となるしかない。

「さて…続いて、越権行為と申し上げる点について。」

 再び、瑞樹の腕が動く。重い無音の中に轟く彼の声。

「部下が不当な扱いを受けた際、上官が身を挺して守ることの何が問題でしょうか。先ほど、私的忠誠および軍規から逸脱した結束傾向と仰いましたが、それを問題視するのであれば、帝国海軍に存在する優秀な部隊の大半が同様の嫌疑を受けることになりますね。」

 この言葉に、海軍少将側も特高を睨み返す。味方は瑞樹だけではないと分かって、天珠は密かに胸をなで下ろした。

「先ほどご提示した資料から明らかな通り、堂児大尉に対する疑義は全て言いがかりです。であれば、それを庇い立てする為に長澤中佐が発言した内容が自白として扱われるのは、いかがなものでしょうか。それは果たして、適切な捜査対応ですか?」

 誰一人として、反論はあがらない。それを確認し、瑞樹は盤面を支配していく。

「異能技術研究部隊は、海軍省直轄特務編成に属しております。指揮権は長澤中佐に帰属。作戦許可権は海軍側に存在します。独自行動権は認められていません。」

 淡々と、静かに、突きつけられる制度という正論。

「また2.26事件当時、異能技術研究部隊による民間人被害、軍内部反乱行為は一件も確認されておりません。死のう団による割腹自殺未遂事件においても同様です。」

 彼の手から再び、資料の束が各出席者へ渡された。

「これらが、配属記録と、越権行為と申されました各事件における異能技術研究部隊の作戦命令書と戦果報告書です。どれも正式に、海軍省の承認を得ております。」
 
 凍り付いたこの場を、ぐるりと瑞樹は見回す。
 
「……以上により、異能技術研究部隊は、正式な帝国海軍の一個分隊です。」

 会議室に聞こえる音は、もはや彼の声ただひとつ。
 
「“私兵”の定義を……ご説明いただけますか?」
 
 特高が積み上げた論理は、この言葉で崩れ去った。

 一方、この一部始終を見ていた天珠はといえば。

(じ、神宮寺少佐…すごすぎる…!!かっこいい…!!)

 感動。その一言では表しきれないほど、心の中での拍手喝采。こちらのターンが始まった瞬間から、上がった体温が下がらない。それと同時に、瑞樹だけは怒らせないようにしようと、堅く心に誓う天珠だった。

 だが、徐々に相手方も威勢を取り戻してきた。「運用面に問題が…」「長澤中佐は昔から行動が目立って…」と、もはや感情論ともとれそうなことを言い出したではないか。

 そして放たれる、皮肉を込めた痛烈なひと言。

「そもそも、異能なんて眉唾物を掲げる部隊になんの意味がありますか。近代国家の軍が、聞いて呆れる。制度を隠れ蓑にした、異質で前時代的な私兵集団ではないという証明にはならないでしょう。書類など、いくらでも取り繕えます。」

 諦めの悪さに、天珠は膝の上で拳を握りしめた。一方、瑞樹の姿勢は一切乱れていない。

「一理ありますね。……では、議長閣下。」

 彼の発言に場が静まり返る。発言許可の視線を受け、瑞樹の提案が会議の空気を変えた。

「陸軍との合同演習を提案致します。」

 ざわつく会議室。そこへ彼は、キングの駒を奪うべく一石を投じる。

「その際、我々異能技術研究部隊は、大将閣下が指定された海軍の部隊の中に配置頂けますでしょうか。」

 波紋のようにどよめきが広がっていく。特高からすれば、軍の演習など当てにならないと言いたいのだろうか。
 そんな彼等へ、瑞樹は鋭い一言を告げた。

「なお、長澤中佐の身柄を演習までに釈放しろと要求するつもりはありません。」

 天珠は一瞬、彼が何を言っているのか耳を疑ってしまった。それは先方も同じだったのだろう。怪訝な顔をする背広の男たちへ、部隊の副官は余裕の声で追い打ちをかける。

「もしも本当に、我々が彼の私兵なのであれば、長澤中佐本人が居なければ我々は機能しないはずでしょう?我々が真に帝国海軍の一員であるかどうか、演習の結果を以ってご判断頂きたい。」

 そして瑞樹は静かに、身を乗り出した。

「それとも……諸閣下は、実証よりも風聞を優先されますか。」

 この言葉こそ、チェックメイト。
 その演習は可決され、即座に日程調整が行われることとなった。

 会議の最後に響いたのは、特高の苦し紛れの攻撃。

「異能部隊の運用実態を確認するため、長澤中佐を除く部隊所属全員の参加を条件とする。特例的に出入りしている民間協力者も含めてだ!」
 
 声を荒げるその言葉に対し、瑞樹の声はひどく静か。

「えぇ…かまいませんよ。」

 その一言だけだった。
 
 ◇

 チク、タク……と、柱時計の音だけが居間に響く。
 照昌はもう何度その盤面を確認したかわからない。唄子は今日何度、玄関先を覗き込んだか覚えていない。

 待機と言われても日ごろの習慣は変えられず、日の出と共に起きておにぎりを頬張って。仕方ないから3人で家の掃除をしていたところに、突如天珠だけが鎮守府へ来るよう指示があったのだ。

 そもそもの発端は彼への不当逮捕命令。その彼への呼出なんて、心配でしょうがない。
 だが未だに特高は玄関の少し先に張り付いている。照昌と唄子は、様子を探ることすらできなかった。
 
 長澤を追った照昌の式神は、隊長本人の魔術で撃ち落とされてしまった。黙って待ってろと言うことか。

 1日が長いことこの上ない。彼らは全く、地に足がつかなかった。

 そこへ、ようやく響いた玄関扉の開く音。その音を合図に、照昌は居間から駆け出し、唄子は着ようとしていたエプロンを放り出した。
 
「ただいま……」

 どっと疲れの滲む天珠の声は、弟たちの足音に簡単にかき消された。

「堂児はん!!無事でよかったわぁほんま!!なあ何があったん!?なあ!!」
「堂児さん、何もされてませんか?長澤さんはご無事ですよね!?神宮寺さんにはお会いしましたか!?」

 ワッと勢いよく詰め寄る2人。それは残念ながら、不協和音の大合唱となり果てた。
 
「ちょ、ちょっと待て!!1人ずつ喋ってくれ!!」

 驚いた天珠の悲鳴じみた突っ込みが、まるで普段と変わらない日常かのように長澤邸の玄関に響き渡る。
 その姿は、数日前の瑞樹の姿と瓜二つだ。

 なお、会議の顛末と陸軍との合同演習の話を聞き、照昌と唄子はやる気に顔を輝かせたのだった。