唄子の部屋の、鏡台の前。新聞紙のうえに座る彼女の後ろで、ハサミを持つ照昌の手が宙を泳ぐ。
「ほ……ほんまにええの……?」
鏡に映る唄子の髪はすでに短い。今更何を言ったところで手遅れなのだが、照昌はそう尋ねずにはいられなかった。
彼女の耳元で、時には後ろ姿で尻尾のように、いつも揺れていた黒い髪。いくらまた伸びるとはいえ、こんなのはあんまりだ。
「うん、切って整えて。だって、このままじゃあまりに不格好でしょ?」
「……」
唄子の声は、痛いほど静か。鏡に映る表情は硬いが、涙はない。
その覚悟に敬意を表して、照昌は丁寧にハサミを入れ始めた。
「……どこから、聞いとったん?さっきの軍議……」
細かい傷跡の残る櫛で、丁寧に髪をすいていく。穏やかな照昌の声に、唄子は視線を落として答えた。
「……私への支援を打ち切る、って……長……隊長が言った辺りから。」
「ああー……」
なんと酷な運命のイタズラか。原因は自分の忘れ物なのだが、それは棚にあげておく。
「……中国で、ほんまの戦闘になるかもしれへんのやって。せやから、長澤はんは……」
「うん。」
いたたまれなくて、隊長の弁護を口走る。けれどそれを遮り、唄子は硬い声で言った。
「隊長は……理不尽に追い出す人じゃない、とは……信じ……てる。」
「小野ちゃん……」
肌が白くなるほど握られた両手。それを見て、照昌は彼女が語った過去を思いだした。
京都の実家で何不自由なく育った自分とは、真逆の人生。
「……皆が、戦ってるの……、分かってて……」
「……うん……」
「私だけ、もう要らない、なんて……」
「……うん……」
言葉が途切れ、大きく息を吸う唄子。ハラハラと舞う髪と同じように、大粒の雫が頬を伝っていく。
「そんなの、嫌ァ……!!」
「……そやなぁ……」
静かに相槌を打つ。照昌の脳裏に蘇るのは、彼女とのこれまでだ。ずっと隣で、互いの努力を見てきた。
「一緒に、やってきたもんなぁ。」
「……うん……」
励ますように、彼女の黒髪を撫でる。すると唄子はゴシゴシと腕で目元を拭った。
そして下手くそな笑みを浮かべて、照昌を見上げる。
「……安倍さん」
「んー?」
「……私の味方してくれて、ありがとう」
「……」
ピタリと、ハサミを持つ手が止まった。
「悲しかったけど……嬉しかった」
「……」
結局自分は、味方になりきれなかったというのに。チクリチクリと、照昌は胸が痛んだ。
(敵わへんなぁ……ほんま。)
心の中で白旗を掲げる。そして彼はため息と共に、彼女に鏡を向かせた。
再び髪を整えていく。そうやって恥ずかしさを誤魔化しながら、照昌は語り始めた。
「……小野ちゃんが居ったから、俺もここまでやれてるんやで?」
「……そうなんですか?」
「せや。内緒やで?」
この本音は、彼なりの謝罪であり返礼だ。
チョキチョキという音を伴奏にして、話し続ける。
「堂児はんって、10年以上軍隊に居るから、なーんや敵う気ぃせぇへんねん。長澤はんや神宮寺はんなんて、もーっと別次元。」
「……確かに……」
急に、東京の本家当主から呼び出されたのは去年だ。訳もわからないまま始まった入隊準備。まさか海軍に入るなんて、学生の頃の自分に話したって絶対に信じない。
そして始まった軍人生活の、キツいこと。
長澤は面白いが無茶振りが激しい。瑞樹は穏やかだがおっかない。何より、当時の天珠の厳しさたるや。いったい何度殴られただろう。
「そやけど、小野ちゃんはちゃうやん?」
「……?」
初めて後輩に会ったあの冬の日を、照昌は今も覚えている。
「元々軍なんて関係あらへんかった。力を使う場所もなかった。……俺と、一緒や。」
ボロ服を身にまとい、今にも死にそうな顔をしていた女の子。それを軍に出入りさせる長澤が、信じられなかった。
どうせ直ぐに逃げ出すと、思っていたのに。
「それなんに、小野ちゃんったらドンドン前に行ってまうから……」
「……」
ハハ、と自嘲気味に笑う。初めて3人で行った遠征の帰り道、前を向く唄子は自分よりずっと「軍人」に見えた。
「負けられへん……ってな。俺のが先輩やし。」
「安倍さん……」
仕上げとして、部屋から持ってきた椿油を手に軽く塗る。その手で彼女の髪に艶を加えながら、糸目の青年はくくくと笑った。
「ほい、できた!ええ感じやで!」
「ありがとうございます、安倍さん。」
肩にかけていた新聞紙をバサリと外す。覚悟を表した唄子の新しい姿に、兄妹弟子たちは揃って笑い合うのだった。
◇
同日、夜、冥府にて。
訪れた唄子の予想外の姿は、夜見之宮と篁にとっては青天の霹靂だ。
「また追い出されそうだったから…、切っちゃいました!」
えへへ、と曇った笑みで言う唄子。
そんな痛々しさに、耐えられる2人ではない。
「よおおぉしあの軍人だな??うちの可愛い唄子を出家させるとは、何しやがったあんの海賊がぁ!!」
「父上!?ちょ、ちょっと待ってください!」
ボキボキと拳を鳴らして篁が黄泉比良坂の方を向く。今にも殴り込みに行きそうな彼の服に、唄子は必死にしがみついた。
「う、唄子……髪……なぜ……」
一方、夜見之宮は顔面蒼白だ。髪があった箇所を撫でて、うわ言のように呟いている。
「夜見之宮さん、あの、髪はまた伸びますから……!それより父上を止めるの手伝って……」
「離せ唄子!!これは父として、奴に一発くれてやらねばならない!!」
「止めて下さいってば!!父上!!」
「……よい、篁……。行ってこい……」
「夜見之宮さん!?!」
まさかの許可。余計に荒ぶる篁は、唄子を引きずってでも現世へ向かう。そこに追従する夜見之宮。
これでは、長澤が冥府送りにされかねない。
「もおお!話を聞いてくれないなら嫌いになりますよ!!父上!!」
「なに……!?!」
唄子の渾身の一撃。篁への効果は抜群だ。
石のように固まった冥府の役人。彼の中で、裁きの天秤はたっぷり10秒揺れていただろう。
最終的に勝利したのは、長澤への怒りではなく唄子への情だった。
さて、閑話休題。いつもの彼岸花畑で、唄子はことの経緯を夜見之宮と篁へ話したのだった。
「それは……髪を……切るほど、だったのか……?唄子や……」
夜見之宮の静かな声が、唄子の耳を撫でる。その隣で、篁は未だに憤慨していた。
唄子が考えていた以上に、2人にとって断髪は重いらしい。故に納得いかないのだろう。
けれど彼女は、恋人の肩に身を預けて答えた。
「今までは、我慢できた、けど…。異能部隊まで追い出されたら、もう、本当に行くところなんてどこにもないもん。かと行って、自殺して冥府に来ても……夜見之宮さんとの約束、破っちゃうでしょう?」
長澤の隣で、異能部隊で、自分の生を生ききる。その花嫁修行を経てやっと、月讀命の妻となる。
そう誓ってから、まだ三月しか経っていない。
「長澤さんに何言われても……、譲れなかった。」
耳元に触れる。そこはもう、整えてもらった毛先があるだけだ。
「だから、切っちゃった…。髪を切ったって、男性にも、軍人にも、なれるわけじゃないのに……。」
ゆるゆると、唄子の視線が落ちる。今更になって、怒りでやらかしたことの重みがのしかかってきた気がする。
「…ご、ごめんなさい…」
「唄子……。」
カフェーでも、髪の綺麗な女給の方が稼ぎがよかった。長い黒髪は、女性の美の象徴だ。
神々しいほどの美貌を持つ夜見之宮と篁もまた、髪は長い。
切ってしまったことで、夜見之宮にまで捨てられたらどうしよう。
ありもしないはずの不安に、唄子は身体を縮こまらせた。
「唄子や……」
「……?」
「なぜ……そなたの生きる場所を、あの戦人の隣と定めた……。そなたの思う……、自分の好きなことや、大事な人とは……なんだ……?」
月の光は、悲しげだが優しい。そんな彼の穏やかな問いに、唄子はゆっくりと答えていく。
「私は……歌が、好き。歌ってる時が、一番自分らしく居られるから。」
「……うむ」
「大事な人は……長澤さん、安倍さん、神宮寺さん、堂児さん……。」
「なぜ……そやつらなのだ……?」
「だって……」
彼等と過ごした半年間が、脳裏を駆け巡る。
長澤が助けてくれた、カフェーでの冤罪事件。神話を教えてくれた瑞樹。天珠が「背筋を伸ばせ」と言ってくれたこと。
そして、最後まで味方してくれた照昌。
「異能部隊の皆が、初めて私のこと、仲間にしてくれたから……」
「……」
そう、気持ちを言葉にする。そして、唄子はこれまでを振り返るように続けた。
「最初はね、怖かったよ。軍隊なんて、戦う人たちだし、大変そうだし、男性しかいないし。」
「……うむ……」
「でも異能部隊のおかげで……、私の歌は不幸を呼ぶんじゃなくて、役に立てるものなんだって、ちゃんとわかったから……。」
これまで出会った数々の霊たちを思い出し、唄子の頬が緩む。
「長澤さんの言ってた、救国の英雄ってのも……もしかしたら、本当にできるかも、なんて……」
「……そうか……」
「……うん」
そう思えた矢先の、追放宣言。結局今までと同じなのかと、目の前が真っ暗になった。他でもない、長澤の言葉だったからこそ、余計に。
けれど長澤からだからこそ、反発できた。
「長……隊長、は……私の努力、否定はしないはず……って、思えたんだ。」
言語化できた思いに、心が軽い。チクチクと痛みはあるが、苦しくはなかった。
「唄子の気持ちはわかる。が、海賊は有罪!!」
憤然とそう言った篁の言葉には、自然と笑うことができた。
「……唄子や」
「なんですか?夜見之宮さん」
呼ばれて、恋人を見上げる。すると彼は名残惜しそうに髪を撫でながら、一段低い声で告げた。
「もうまもなく、この国に死者が溢れる……。」
「……それ……」
聞き覚えのある言葉。記憶を辿れば、それは夜見之宮と長澤が初めて会った時、喧嘩になりそうだった言葉だ。
「その渦中で生ききると決めたのならば……私は……そなたを見守ろう……。」
「……うん」
照昌が髪を切りながら言っていた話と、神の言葉が繋がる。中国と、本当に戦争になるのかもしれない。
突然の実感に、唄子は両手をぎゅっと握りしめる。すう、と血の気が引いた。
「……見守ってて、夜見之宮さん。」
自分の手が冷たい。怖いものは怖い。
けれど唄子の決意は、変わらなかった。
穏やかな満月は優しく、けれど強く、そんな彼女を抱きしめた。
「……唄子!」
「……はい?父上」
たっぷり体温を分け合ったところに、篁の声が響く。包容を解いた彼女に、篁は告げた。
「有罪な海賊を見返してやれ!!お前に……黄泉の軍勢を教えよう!!」
「……え!」
堂々たる宣言。それは、彼女の死霊使いとして最大の特訓の始まりだった。
◇
誰もいない執務室に、長澤が1人。初めて行った実戦演習の成果と改善点と次回訓練の内容を書き上げて、大きく伸びをした。
「……帰るか……」
自分に言い聞かせるように呟く。久しぶりに足が重いが、帰ってこいと天珠が口酸っぱく釘を差してきた。下宿させ始めた頃の怯えっぷりが嘘のようだ。
そう思うと、彼とよく似た変化を見せている唄子の顔が浮かぶ。視線の先には、彼女が使っている机があった。
元々は空席だった。照昌がよく式神を広げていた席。
借りてきた猫のようにそこに座った初日。最初に置いていった私物は、瑞樹から渡された古事記、今昔物語、そして篁物語の3冊だった。
そこに訓練日誌と筆記用具が加わり、国際情勢の本なんて立てかかるようになり。
いつからか、部隊の予定把握の為の黒板にまで「小野」の欄ができている。
(お前は軍人じゃない、なんて……)
その机を撫でながら、長澤は眉根を寄せた。
(どの口が言ったもんか……全く……)
机の上には、水色の髪紐が畳まれている。散った髪の毛を掃除した天珠が、置いたのだろう。
無惨にも切られたその紐に、長澤は唇を噛んだ。
長く、長く、息を吐く。そして顔を上げると、その髪紐を引っ掴む。
扉の隣に置かれたゴミ箱へそれを放って、長澤は執務室を後にした。
(確かに、神話上の死者の軍勢を再現できるなら、それほど強い戦力はない。)
薄暗い廊下を進みながら、長澤は己の判断を自分に言い聞かせた。
(だがそんなもの……味方さえ混乱に落としかねない。実戦投入はリスクが高すぎる)
だから、部隊からは外す。たとえ彼女がどれ程嫌がったとしても、それは揺るがない。
家から追い出すわけじゃない。そう考えることで、胸の奥の鈍い痛みを誤魔化しながら、彼は帰路につくのだった。
「ほ……ほんまにええの……?」
鏡に映る唄子の髪はすでに短い。今更何を言ったところで手遅れなのだが、照昌はそう尋ねずにはいられなかった。
彼女の耳元で、時には後ろ姿で尻尾のように、いつも揺れていた黒い髪。いくらまた伸びるとはいえ、こんなのはあんまりだ。
「うん、切って整えて。だって、このままじゃあまりに不格好でしょ?」
「……」
唄子の声は、痛いほど静か。鏡に映る表情は硬いが、涙はない。
その覚悟に敬意を表して、照昌は丁寧にハサミを入れ始めた。
「……どこから、聞いとったん?さっきの軍議……」
細かい傷跡の残る櫛で、丁寧に髪をすいていく。穏やかな照昌の声に、唄子は視線を落として答えた。
「……私への支援を打ち切る、って……長……隊長が言った辺りから。」
「ああー……」
なんと酷な運命のイタズラか。原因は自分の忘れ物なのだが、それは棚にあげておく。
「……中国で、ほんまの戦闘になるかもしれへんのやって。せやから、長澤はんは……」
「うん。」
いたたまれなくて、隊長の弁護を口走る。けれどそれを遮り、唄子は硬い声で言った。
「隊長は……理不尽に追い出す人じゃない、とは……信じ……てる。」
「小野ちゃん……」
肌が白くなるほど握られた両手。それを見て、照昌は彼女が語った過去を思いだした。
京都の実家で何不自由なく育った自分とは、真逆の人生。
「……皆が、戦ってるの……、分かってて……」
「……うん……」
「私だけ、もう要らない、なんて……」
「……うん……」
言葉が途切れ、大きく息を吸う唄子。ハラハラと舞う髪と同じように、大粒の雫が頬を伝っていく。
「そんなの、嫌ァ……!!」
「……そやなぁ……」
静かに相槌を打つ。照昌の脳裏に蘇るのは、彼女とのこれまでだ。ずっと隣で、互いの努力を見てきた。
「一緒に、やってきたもんなぁ。」
「……うん……」
励ますように、彼女の黒髪を撫でる。すると唄子はゴシゴシと腕で目元を拭った。
そして下手くそな笑みを浮かべて、照昌を見上げる。
「……安倍さん」
「んー?」
「……私の味方してくれて、ありがとう」
「……」
ピタリと、ハサミを持つ手が止まった。
「悲しかったけど……嬉しかった」
「……」
結局自分は、味方になりきれなかったというのに。チクリチクリと、照昌は胸が痛んだ。
(敵わへんなぁ……ほんま。)
心の中で白旗を掲げる。そして彼はため息と共に、彼女に鏡を向かせた。
再び髪を整えていく。そうやって恥ずかしさを誤魔化しながら、照昌は語り始めた。
「……小野ちゃんが居ったから、俺もここまでやれてるんやで?」
「……そうなんですか?」
「せや。内緒やで?」
この本音は、彼なりの謝罪であり返礼だ。
チョキチョキという音を伴奏にして、話し続ける。
「堂児はんって、10年以上軍隊に居るから、なーんや敵う気ぃせぇへんねん。長澤はんや神宮寺はんなんて、もーっと別次元。」
「……確かに……」
急に、東京の本家当主から呼び出されたのは去年だ。訳もわからないまま始まった入隊準備。まさか海軍に入るなんて、学生の頃の自分に話したって絶対に信じない。
そして始まった軍人生活の、キツいこと。
長澤は面白いが無茶振りが激しい。瑞樹は穏やかだがおっかない。何より、当時の天珠の厳しさたるや。いったい何度殴られただろう。
「そやけど、小野ちゃんはちゃうやん?」
「……?」
初めて後輩に会ったあの冬の日を、照昌は今も覚えている。
「元々軍なんて関係あらへんかった。力を使う場所もなかった。……俺と、一緒や。」
ボロ服を身にまとい、今にも死にそうな顔をしていた女の子。それを軍に出入りさせる長澤が、信じられなかった。
どうせ直ぐに逃げ出すと、思っていたのに。
「それなんに、小野ちゃんったらドンドン前に行ってまうから……」
「……」
ハハ、と自嘲気味に笑う。初めて3人で行った遠征の帰り道、前を向く唄子は自分よりずっと「軍人」に見えた。
「負けられへん……ってな。俺のが先輩やし。」
「安倍さん……」
仕上げとして、部屋から持ってきた椿油を手に軽く塗る。その手で彼女の髪に艶を加えながら、糸目の青年はくくくと笑った。
「ほい、できた!ええ感じやで!」
「ありがとうございます、安倍さん。」
肩にかけていた新聞紙をバサリと外す。覚悟を表した唄子の新しい姿に、兄妹弟子たちは揃って笑い合うのだった。
◇
同日、夜、冥府にて。
訪れた唄子の予想外の姿は、夜見之宮と篁にとっては青天の霹靂だ。
「また追い出されそうだったから…、切っちゃいました!」
えへへ、と曇った笑みで言う唄子。
そんな痛々しさに、耐えられる2人ではない。
「よおおぉしあの軍人だな??うちの可愛い唄子を出家させるとは、何しやがったあんの海賊がぁ!!」
「父上!?ちょ、ちょっと待ってください!」
ボキボキと拳を鳴らして篁が黄泉比良坂の方を向く。今にも殴り込みに行きそうな彼の服に、唄子は必死にしがみついた。
「う、唄子……髪……なぜ……」
一方、夜見之宮は顔面蒼白だ。髪があった箇所を撫でて、うわ言のように呟いている。
「夜見之宮さん、あの、髪はまた伸びますから……!それより父上を止めるの手伝って……」
「離せ唄子!!これは父として、奴に一発くれてやらねばならない!!」
「止めて下さいってば!!父上!!」
「……よい、篁……。行ってこい……」
「夜見之宮さん!?!」
まさかの許可。余計に荒ぶる篁は、唄子を引きずってでも現世へ向かう。そこに追従する夜見之宮。
これでは、長澤が冥府送りにされかねない。
「もおお!話を聞いてくれないなら嫌いになりますよ!!父上!!」
「なに……!?!」
唄子の渾身の一撃。篁への効果は抜群だ。
石のように固まった冥府の役人。彼の中で、裁きの天秤はたっぷり10秒揺れていただろう。
最終的に勝利したのは、長澤への怒りではなく唄子への情だった。
さて、閑話休題。いつもの彼岸花畑で、唄子はことの経緯を夜見之宮と篁へ話したのだった。
「それは……髪を……切るほど、だったのか……?唄子や……」
夜見之宮の静かな声が、唄子の耳を撫でる。その隣で、篁は未だに憤慨していた。
唄子が考えていた以上に、2人にとって断髪は重いらしい。故に納得いかないのだろう。
けれど彼女は、恋人の肩に身を預けて答えた。
「今までは、我慢できた、けど…。異能部隊まで追い出されたら、もう、本当に行くところなんてどこにもないもん。かと行って、自殺して冥府に来ても……夜見之宮さんとの約束、破っちゃうでしょう?」
長澤の隣で、異能部隊で、自分の生を生ききる。その花嫁修行を経てやっと、月讀命の妻となる。
そう誓ってから、まだ三月しか経っていない。
「長澤さんに何言われても……、譲れなかった。」
耳元に触れる。そこはもう、整えてもらった毛先があるだけだ。
「だから、切っちゃった…。髪を切ったって、男性にも、軍人にも、なれるわけじゃないのに……。」
ゆるゆると、唄子の視線が落ちる。今更になって、怒りでやらかしたことの重みがのしかかってきた気がする。
「…ご、ごめんなさい…」
「唄子……。」
カフェーでも、髪の綺麗な女給の方が稼ぎがよかった。長い黒髪は、女性の美の象徴だ。
神々しいほどの美貌を持つ夜見之宮と篁もまた、髪は長い。
切ってしまったことで、夜見之宮にまで捨てられたらどうしよう。
ありもしないはずの不安に、唄子は身体を縮こまらせた。
「唄子や……」
「……?」
「なぜ……そなたの生きる場所を、あの戦人の隣と定めた……。そなたの思う……、自分の好きなことや、大事な人とは……なんだ……?」
月の光は、悲しげだが優しい。そんな彼の穏やかな問いに、唄子はゆっくりと答えていく。
「私は……歌が、好き。歌ってる時が、一番自分らしく居られるから。」
「……うむ」
「大事な人は……長澤さん、安倍さん、神宮寺さん、堂児さん……。」
「なぜ……そやつらなのだ……?」
「だって……」
彼等と過ごした半年間が、脳裏を駆け巡る。
長澤が助けてくれた、カフェーでの冤罪事件。神話を教えてくれた瑞樹。天珠が「背筋を伸ばせ」と言ってくれたこと。
そして、最後まで味方してくれた照昌。
「異能部隊の皆が、初めて私のこと、仲間にしてくれたから……」
「……」
そう、気持ちを言葉にする。そして、唄子はこれまでを振り返るように続けた。
「最初はね、怖かったよ。軍隊なんて、戦う人たちだし、大変そうだし、男性しかいないし。」
「……うむ……」
「でも異能部隊のおかげで……、私の歌は不幸を呼ぶんじゃなくて、役に立てるものなんだって、ちゃんとわかったから……。」
これまで出会った数々の霊たちを思い出し、唄子の頬が緩む。
「長澤さんの言ってた、救国の英雄ってのも……もしかしたら、本当にできるかも、なんて……」
「……そうか……」
「……うん」
そう思えた矢先の、追放宣言。結局今までと同じなのかと、目の前が真っ暗になった。他でもない、長澤の言葉だったからこそ、余計に。
けれど長澤からだからこそ、反発できた。
「長……隊長、は……私の努力、否定はしないはず……って、思えたんだ。」
言語化できた思いに、心が軽い。チクチクと痛みはあるが、苦しくはなかった。
「唄子の気持ちはわかる。が、海賊は有罪!!」
憤然とそう言った篁の言葉には、自然と笑うことができた。
「……唄子や」
「なんですか?夜見之宮さん」
呼ばれて、恋人を見上げる。すると彼は名残惜しそうに髪を撫でながら、一段低い声で告げた。
「もうまもなく、この国に死者が溢れる……。」
「……それ……」
聞き覚えのある言葉。記憶を辿れば、それは夜見之宮と長澤が初めて会った時、喧嘩になりそうだった言葉だ。
「その渦中で生ききると決めたのならば……私は……そなたを見守ろう……。」
「……うん」
照昌が髪を切りながら言っていた話と、神の言葉が繋がる。中国と、本当に戦争になるのかもしれない。
突然の実感に、唄子は両手をぎゅっと握りしめる。すう、と血の気が引いた。
「……見守ってて、夜見之宮さん。」
自分の手が冷たい。怖いものは怖い。
けれど唄子の決意は、変わらなかった。
穏やかな満月は優しく、けれど強く、そんな彼女を抱きしめた。
「……唄子!」
「……はい?父上」
たっぷり体温を分け合ったところに、篁の声が響く。包容を解いた彼女に、篁は告げた。
「有罪な海賊を見返してやれ!!お前に……黄泉の軍勢を教えよう!!」
「……え!」
堂々たる宣言。それは、彼女の死霊使いとして最大の特訓の始まりだった。
◇
誰もいない執務室に、長澤が1人。初めて行った実戦演習の成果と改善点と次回訓練の内容を書き上げて、大きく伸びをした。
「……帰るか……」
自分に言い聞かせるように呟く。久しぶりに足が重いが、帰ってこいと天珠が口酸っぱく釘を差してきた。下宿させ始めた頃の怯えっぷりが嘘のようだ。
そう思うと、彼とよく似た変化を見せている唄子の顔が浮かぶ。視線の先には、彼女が使っている机があった。
元々は空席だった。照昌がよく式神を広げていた席。
借りてきた猫のようにそこに座った初日。最初に置いていった私物は、瑞樹から渡された古事記、今昔物語、そして篁物語の3冊だった。
そこに訓練日誌と筆記用具が加わり、国際情勢の本なんて立てかかるようになり。
いつからか、部隊の予定把握の為の黒板にまで「小野」の欄ができている。
(お前は軍人じゃない、なんて……)
その机を撫でながら、長澤は眉根を寄せた。
(どの口が言ったもんか……全く……)
机の上には、水色の髪紐が畳まれている。散った髪の毛を掃除した天珠が、置いたのだろう。
無惨にも切られたその紐に、長澤は唇を噛んだ。
長く、長く、息を吐く。そして顔を上げると、その髪紐を引っ掴む。
扉の隣に置かれたゴミ箱へそれを放って、長澤は執務室を後にした。
(確かに、神話上の死者の軍勢を再現できるなら、それほど強い戦力はない。)
薄暗い廊下を進みながら、長澤は己の判断を自分に言い聞かせた。
(だがそんなもの……味方さえ混乱に落としかねない。実戦投入はリスクが高すぎる)
だから、部隊からは外す。たとえ彼女がどれ程嫌がったとしても、それは揺るがない。
家から追い出すわけじゃない。そう考えることで、胸の奥の鈍い痛みを誤魔化しながら、彼は帰路につくのだった。


