黄泉の歌姫は月と海の狭間に揺れる

 そろそろ梅雨が明けて来た。雨の余韻で湿る山肌に照り注ぐ日差しで、汗が滲む。洗濯物が乾くようになってきたのは、唄子にとってありがたい。

「……よし。」

 袴の裾を絞り終え、唄子は立ち上がる。これから、日課のランニングだ。始めたばかりの頃に比べれば、かなり走れるようになってきた。実感があるというのは、実に楽しい。

 いざ最初の下り坂へ、という瞬間、目に入ったのは坂を登ってくる郵便のお兄さんだった。

「あぁ、お嬢さ〜ん!長澤さんのとこに下宿してる子だよね〜?」
「あ、はい!」

 出鼻をくじかれてしまった。仕方ないので唄子の方からお兄さんへ駆け寄っていく。すると汗を拭いながら、お兄さんは鞄から1つの封書を取り出した。

「はい、これ。軍人さんなご主人に。」
「ありがとうございます…!」

 受け取ったのは、ズッシリと重たい封筒だった。達筆な赤字が告げる「極秘」「速達」の文字。
 唄子は顔が曇る。なんだか嫌な予感がして、体温が下がっていく感覚がした。

「いやぁ、軍人さん宛の速達なんてもう怖くって!」
「あぁ……。」
「しかと預けましたんで、ご主人によろしくお伝え下さい!」
「はーい……」

 次の配達先へ向かうお兄さんを見送る。そして改めて手元の封書に視線を落とした。
 差出人には、かの有名な平安時代の陰陽師の名前が。まさか冥府からの速達か。だが、住所欄にあるのは麹町。

「……安倍さんのご親族……かな……?」

 唄子に推測できるのは、そこまでだ。

 一旦家に戻り、鎮守府に行く時の荷物に封筒を入れる。これで忘れはしないだろう。

 改めて、唄子は基礎体力向上の為に駆け出すのだった。 
  
 ◇

 異能技術研究部隊の執務室に、紙をゆっくりめくる音だけが響く。賑やかな若手3人が帰宅した後。
 
 長澤の机にあるのは、唄子が持ってきた封書に入っていた書類だ。
 日焼けした紙に並ぶ中国語と日本語。数々の赤で入れられた補足や注釈。
 
「…………」

 資料に綴られた情報の重さに、長澤は舌を巻いていた。
 
「…それは?」

 そこへ、扉の開閉の音が響く。声をかけ、席へ向かう瑞樹。そんな相棒を横目に、長澤は口を開いた。

「……安倍の大旦那から届いた、阿片中毒による異能発現についての調書。明治の中頃の、清でのものだがな。」
「阿片中毒による異能…!?」
「あぁ……。」

 英国に留学していた頃に2人が見た、半ば都市伝説じみた記録。
 そこにあったのは、アヘン戦争にて、かの大国清を内部から壊した異能者の暴徒のこと。英国の脅威というよりもむしろ、清軍を翻弄したと言う。

 本当にあったとは。
 自らの目を疑っていた訳ではない。だが、2人に浮かぶのはその言葉だ。

 長澤から差し出された書類を受け取った瑞樹でさえ、顔をしかめていた。

「阿片……なぁ……。」

 ギシ、と音を立てて椅子の背に身を預ける。呟きながら、長澤は奥の壁にかけられた世界地図を睨んだ。

「未だに……蔓延していますね。」
「あぁ。」

 くい、と瑞樹は眼鏡を押し上げる。短い返事の後、長澤は続けた。

「満州でも台湾でも…、上海でも。」
「……」

 昨夜遅く、中国の盧溝橋付近で行われていた夜行演習。その中に、発砲音が響いた。そこから、日中両軍の衝突が始まっている。
 
 発砲者は未だ不明。弾丸すら見つかっていない。
 例えばそれが、異能者による攻撃だとしたら……。

「瑞樹、部隊の訓練を実演式に完全に切り替える。中国出征が決まれば、俺達が相手にするのは馬鹿みたいな異能を使う理性なき化け物の可能性がある。」
「承知しました、隊長。」

 執務室を貫く長澤の鋭い声。瑞樹は即答し、直ぐ様訓練計画作成に取り掛かった。
 そこに、隊長の指示が続く。彼はその言葉に、目を丸くした。

 思わず長澤の顔を見る。だが直ぐに、副官は視線を手元へ戻した。

「……そう、ですね。妥当な判断かと。」
「……だよな。」

 静かに告げられる同意。眉間に深い皺を刻んだまま、長澤は己を納得させるように深く深く息を吐いた。