4月11日、夜。長澤邸の庭にて。
月讀命と小野篁は、井戸の側から唄子達の様子を伺っていた。
「結界は上々。昨夜確認したが、唄子も仕上がっていた。何も問題はないだろう。」
「……」
腕を組み、成功を確信している顔の篁。だがその隣で、月讀命の顔は暗い。
唄子が舞台へ上がる。彼女が身につけている大きめの着物は、再会を望む女性の遺品。手に持つ楽譜は、料理の手順書。髪をまとめた簪までもがそうだ。
まるで、戦人の妻の成り代わり。面白くない、物凄く。
ふと、こちらを向いた唄子と目が合った。はにかみ、小さく手を振る彼女。その可憐さに、月讀命は手を振り返さずにはいられない。
そして死霊使いの巫女は正面を向く。そちらに居るであろう戦人を真っ直ぐに見つめ、歌い始めた。
それは、この街のお祭りで歌われるもの。鈴とあたり鉦が室内から聞こえ、まるで霊へ捧ぐ神楽だ。
歌う唄子が舞い始める。その振りに、月讀命は目を見開いた。
自身が黄泉の国で行う舞いと同じ振付なのだ。月と夜を司り、死者を慰める神として奉納する舞い。
それを、愛しい女性が舞っている。この地に縁のある霊達が喜び、共に踊り、彼女の姿に癒されている。
目を奪われるほどの美しさだ。
「ぶっちゃけ、死霊使いに舞いは不要なんですがね。」
隣の篁がつぶやく。そして彼は、こちらの背をトントンと叩いた。
「貴方が喜ぶかと思いまして。唄子に提案したら、喜んで覚えてましたよ。」
「……そう、か……」
唄子から、目が離せない。
生きる彼女のなんと愛おしく、美しいことか。その生がどれだけ戦人に向けられようと、彼女の心から己が姿を消すことはないのだろう。
そんな彼女の想いを、歌い舞う姿から受け取ることができた。
その時、唄子の歌に1人の女性の霊が応え現れる。それに気づいた彼女が、女性の手を取った。
そして、指差すのは屋敷の方。
『旦那様……!!』
そう声を震わせ、その霊は室内へと一目散に駆けていった。
◇
「京……華……?」
声が震える。思わず呼んだその名前に応えるように、青白い光がこちらへ飛び込んできた。
「……!?」
だがその姿は受け止められず、長澤の身体をすり抜けていく。
彼女がこの世の者ではないと、痛いほど突きつけられた。
『す…すみません、私ったら……!死んでもじゃじゃ馬って治りませんね……!』
そう言いながら、わざわざ回り道をして霊が彼の目の前へ戻ってくる。
おどけたように肩を丸めた彼女。つり目の瞳に、茶目っ気のある表情。上背があり、すぐに重なる視線。
「っ……」
疑う余地もなく、京華だった。
「なんで……お前……俺、なんかに……、飛びつこうと……」
再会の第一声がなぜこれなんだろう。そんな妙に冷静な声がどこからか聞こえてくる。けれど、何を言うべきかなんてまとまらない。
脳と口が直結した味気ない問いかけに、目の前の霊は満面の笑みで答えた。
『だって、お会いできて嬉しいんですもの!!』
「……!?」
なぜ。
混乱が脳を駆ける。見合い以来、最低限の責務さえ放棄した自分に対して、なぜそんなことが言えるのだろう。
『旦那様……』
硬直しているこちらへ触れるように、そっと霊の手があがる。彼女は悲しげに俯くと、衝撃の言葉を口にしだした。
『……突然死んでしまって、ごめんなさい。』
「っ……!?」
跳ねる心臓が痛い。早く喋らなければいけないと思うのに、口が動かない。
違うのだ。彼女にそんなことを言わせたいのではない。謝らなきゃならないのは、長澤自身だ。
「結……核…は…、いつ、から…」
肺が苦しい。どうにか絞り出した声が掠れている。
一方、カラリとした声で笑う霊。
『それが、私もわからなくて!』
「……!?」
『本当ですよ?お恥ずかしながら、いつもの風邪が治り遅いなー、ちょっと重いなーって思ってただけでえ…』
なぜ笑う。なぜ責めない。
「っ、だから…!その風邪ってのはいつから…っ!!」
苛立ちが声に乗る。たったそれだけで長澤は自分をぶん殴りたくなった。
彼女を責めたいのではない。罵られるべきは自分なのだ。だというのに、いつまで経ってもそれがこない。
『それが…覚えてないの……ごめんなさい』
「っ……」
相変わらず霊は笑っている。それを見て、長澤はやっと理解した。
この軽さこそが糾弾だと。
「す、まん……覚えてない、ほど……前、から…なのに、俺は……」
やはり、気づけるだけの期間はあったのだ。それを全て棒に振った。
その事実を改めて突きつけられ、長澤は呼吸が止まる思いで視線を落とす。
『えっ!?違いますよ!!そうじゃなくて…!!』
続いて聞こえてきた慌てたような声。
こちらの視界にヒョイと入り込むと、霊は長澤を抱きしめるように腕を回してきた。
「っ、京…」
こちらの心音を聞くように、胸元に寄り添う霊。優しい表情で、彼女は囁いた。
『自分だって分かってないし、旦那様に風邪を隠しちゃった。…だからどうか、そんなにご自身を責めないでくださいな。』
「っ……!!」
『兄上が、心ないことを言って……ごめんなさい。私はね、旦那様。』
目を開け、霊がこちらを見上げる。細いのに力強い手が、両手で長澤の髭面を包んだ。
『あなたの妻で、ほんとに幸せでしたよ。』
「ぁ……!!」
頬を滑り、眉間のシワをほぐそうとし、かかる前髪をはらおうとする彼女の指先。
まるで、夫の身支度を整えようとするように。
京華の瞳が、泣いているように揺れた。
『ホントはもっと……夫婦でいたかったな。』
「ッ………!!!!」
その本音が、長澤の罪への答えだ。
「……す、まん……」
やっと、彼の心が言葉の形になっていく。
「すまな、かった……!すまなかった、京華ァ……!!」
握り返そうとした手が触れるのは、ザラザラとした自分の頬。痛みがぶり返す。殴られたことよりも、ずっと言えなかった後悔が痛い。
『……私こそ。』
長澤の手に重なる京華の手。彼女もまた、唇が震えている。
『苦しめてしまって……、ごめんなさい。弘道さん。』
「ッ……!!」
それはきっと、彼女もやっと口にできた未練。
あの冬の日の、答え合わせ。
『最期に……貴方のお顔が見れたの、とっても、嬉しかった。』
「っ、は……ぁ……!!」
間に合っていたと言う。彼女が最期に抱えた想いは、苦痛でも、後悔でも、恨みでもないと言う。
こんな夫の顔を見て、嬉しかったなどと。
「ば……か……か……!!」
大粒の涙が、青白い光の彼女をすり抜けていく。
「すま゙ん゙…!!京……華……!!」
次から次へと、雨足は強くなる。
「俺が……!!もっと、ちゃんと……!!」
激しく震える肩。痙攣しているような背中。
「夫のっ……、責務、を……!!」
息が詰まり、喉が焼けるように熱い。
「そうすれ、ば、お前は……!!!」
まだ生きていたんじゃないか。
瑞樹の家のように、今頃子供に囲まれていたんじゃないか。
天珠に自慢の飯を振る舞っていたんじゃないか。
照昌に京都の味を聞いていたんじゃないか。
唄子を妹のように可愛がっていたんじゃないか。
そんなもしもが、現実だったんじゃなかろうか。
『……充分……』
しかし彼女は、そんな旦那の叫びを受け止め微笑んでいる。寂しげだが、満足げで、優しい笑顔。
『充分ですよ、弘道さん…!』
「ッ……ァァァ…!!」
長澤の腕が彼女の背に回る。力加減を誤って、すり抜けていく腕。散ってしまった花びらをかき集めるように、何度も、何度も。
もう二度と重ならない唇が触れ合う。初めて交わした口づけだ。
『私も……ごめんね…』
「お、れの……方……!!」
『うん……。でも、さ。』
嗚咽同士が混ざり合う。満開の花のように、彼女は笑った。
『料理も、軍も……仕事が好き同士……いい、夫婦、だった、よ……ね。……私達!!』
「ッ……!!!」
崩れ落ちそうなほどの慟哭。
それは、長澤から返せる唯一の同意だった。
◇
長澤の慟哭が夜風に溶けていく。 その声が届かぬ庭先で、唄子はずっと見守ってくれていた夜見之宮の元へ足音を抑えて近寄った。
「……夜見之宮さん。」
声をかければ、彼の優しい瞳がこちらを向いてくれた。いつだって、唄子のことを見守ってくれた満月。今もなお、唄子の心を掴んで離さない光。
「私、ちゃんと舞えてましたか?」
京華と長澤の再会は成功した。だからこそ、唄子の気がかりはこちらだった。
月讀命が冥府で舞うという神楽。術の精度に関係がなくとも、これを舞うことで愛しい神の力を借りられる気がしたのだ。その結果は、見ての通り。
「……あぁ……」
夜見之宮の冷たい手が頬を撫でる。その手を離さないために、唄子は自分の手を重ねた。
認めて貰えた。そう確信できる程の熱を持つ瞳に、唄子はうっとりと目を細める。
引き寄せ合うように、互いの唇が重なった。
腰を抱く夜見之宮の腕は細いが、力強い。
唄子もまた、彼の胸元にしがみつく。
分け合っていた呼吸がやっと己の元に戻ってくる。そのまま、神と歌姫は別れ難いというように抱きしめ合った。
「……私ね、夜見之宮さん……」
「……あぁ……」
海のような体温に包まれながら、唄子は胸に芽生えた思いを形にしていく。
「京華さんみたいに……自分の好きなことや、大事な人に……真っ直ぐに、生きたいなって思ったの……。」
「……そうか……」
「うん……。でも、その為には……異能部隊は、欠かせないから……」
「……」
包容を解き、向かい合う。揺れる満月へ、彼女は告白した。
「長澤さんの隣で、生きてきてもいいですか?そこで生ききった私を……冥府で迎えてくれませんか?……月讀命、様……!」
高鳴る胸が甘い。そしてこちらが溶けそうなほどの声音で、夜見之宮は告げた。
「あぁ……。生き抜いて来るといい……唄子。」
「……!」
「そなたの生は……私への花嫁修業と……受け取ろう。」
「……!!……えへへ」
それは、最大級の愛だ。
もう一度重なる2人の影。月夜に照らされたその姿は、冥婚の契りが結ばれた瞬間だった。
◇
翌朝の長澤邸。とうに朝日が空高く昇った頃のこと。
「……」
ようやく目を覚ました家主は、ただ呆然と部屋の天井を見上げていた。
瞬きする度に、乾いて張り付いた涙が痛い。重い頭はズキズキと思考を拒否している。
(家でこんなに寝こけてたなんて……いつぶりだ……?)
そんな言葉がぼんやりと浮かぶ。結局昨夜は、京華の霊を見送った後、瑞樹に支えられてなんとかここまで戻ったのだ。
のそ…と起き上がる。身体の節々が痛まないうえに、どうやら疲労はとれているらしい。
「ん゛ん……あー……」
未だ思考がまわらないのは、寝過ぎたせいか、再会の余韻か。
「……起きるかぁ……」
まるで冬眠から覚めた熊のように、のっそりと長澤は立ち上がった。
ペタペタと、床板の冷たさを足の裏で踏みしめていく。
味噌の香りに釣られてたどり着いたのは、台所だった。
鼻歌を歌いながら何か作っている唄子の後ろ姿があった。今日はどうやら1つ結びらしい髪が、楽しげに踊っている。
「……」
ボリボリと腹を掻きつつ、その背を眺める。彼女に重なる、京華の姿。
『旦那様、おはようございます!』と、お玉を持ったまま、嬉しそうに声を弾ませて振り返っていた。太陽よりも早起きな陽だまりだった。
(……毎朝、飽きもせずなあ……)
ふ……と、自然と口元が綻んだ。チクリと胸は痛むが、息苦しさはない、
「……小野ぉ」
「ふぇや!?」
声をかけると、よく分からない音を鳴らして勢いよく肩が跳ねてしまった。そうして振り向いた彼女の目は、まん丸だ。
「な、な、長澤さん!?おはようございます、いつのまに…!?」
「くく……」
思わず漏れた笑い。残念ながら止まらなくなってしまった。お腹が痛い。だが、オロオロしている小動物の様子に、さらに笑いが込み上げてくる。
「はーったく……くく……」
「えええ……??そんなに笑います……??」
「ククク」
キョトン?とした顔が見上げてくる。こんな男のために尽力してくれた、愛しい女性。
海賊なりに、大事にしたい。
「……世話ぁかけたな。」
「…!!」
こんな一言で、彼女の顔はパッと明るくなった。
「……飯、楽しみにしてる。」
「はい……!」
この光を、今度こそ取りこぼさないように目に焼き付ける。
そして長澤はまたペタペタと、いま来た廊下を戻っていく。
今日は、仕舞い込んでしまった仏壇を出そう。唄子や、若い部下2人に手伝って貰って。
窓から覗く横須賀の山を眺めながら、長澤はそんな予定を組み立てる。
この日、神風号は無事にロンドンへ到着したのだった。
月讀命と小野篁は、井戸の側から唄子達の様子を伺っていた。
「結界は上々。昨夜確認したが、唄子も仕上がっていた。何も問題はないだろう。」
「……」
腕を組み、成功を確信している顔の篁。だがその隣で、月讀命の顔は暗い。
唄子が舞台へ上がる。彼女が身につけている大きめの着物は、再会を望む女性の遺品。手に持つ楽譜は、料理の手順書。髪をまとめた簪までもがそうだ。
まるで、戦人の妻の成り代わり。面白くない、物凄く。
ふと、こちらを向いた唄子と目が合った。はにかみ、小さく手を振る彼女。その可憐さに、月讀命は手を振り返さずにはいられない。
そして死霊使いの巫女は正面を向く。そちらに居るであろう戦人を真っ直ぐに見つめ、歌い始めた。
それは、この街のお祭りで歌われるもの。鈴とあたり鉦が室内から聞こえ、まるで霊へ捧ぐ神楽だ。
歌う唄子が舞い始める。その振りに、月讀命は目を見開いた。
自身が黄泉の国で行う舞いと同じ振付なのだ。月と夜を司り、死者を慰める神として奉納する舞い。
それを、愛しい女性が舞っている。この地に縁のある霊達が喜び、共に踊り、彼女の姿に癒されている。
目を奪われるほどの美しさだ。
「ぶっちゃけ、死霊使いに舞いは不要なんですがね。」
隣の篁がつぶやく。そして彼は、こちらの背をトントンと叩いた。
「貴方が喜ぶかと思いまして。唄子に提案したら、喜んで覚えてましたよ。」
「……そう、か……」
唄子から、目が離せない。
生きる彼女のなんと愛おしく、美しいことか。その生がどれだけ戦人に向けられようと、彼女の心から己が姿を消すことはないのだろう。
そんな彼女の想いを、歌い舞う姿から受け取ることができた。
その時、唄子の歌に1人の女性の霊が応え現れる。それに気づいた彼女が、女性の手を取った。
そして、指差すのは屋敷の方。
『旦那様……!!』
そう声を震わせ、その霊は室内へと一目散に駆けていった。
◇
「京……華……?」
声が震える。思わず呼んだその名前に応えるように、青白い光がこちらへ飛び込んできた。
「……!?」
だがその姿は受け止められず、長澤の身体をすり抜けていく。
彼女がこの世の者ではないと、痛いほど突きつけられた。
『す…すみません、私ったら……!死んでもじゃじゃ馬って治りませんね……!』
そう言いながら、わざわざ回り道をして霊が彼の目の前へ戻ってくる。
おどけたように肩を丸めた彼女。つり目の瞳に、茶目っ気のある表情。上背があり、すぐに重なる視線。
「っ……」
疑う余地もなく、京華だった。
「なんで……お前……俺、なんかに……、飛びつこうと……」
再会の第一声がなぜこれなんだろう。そんな妙に冷静な声がどこからか聞こえてくる。けれど、何を言うべきかなんてまとまらない。
脳と口が直結した味気ない問いかけに、目の前の霊は満面の笑みで答えた。
『だって、お会いできて嬉しいんですもの!!』
「……!?」
なぜ。
混乱が脳を駆ける。見合い以来、最低限の責務さえ放棄した自分に対して、なぜそんなことが言えるのだろう。
『旦那様……』
硬直しているこちらへ触れるように、そっと霊の手があがる。彼女は悲しげに俯くと、衝撃の言葉を口にしだした。
『……突然死んでしまって、ごめんなさい。』
「っ……!?」
跳ねる心臓が痛い。早く喋らなければいけないと思うのに、口が動かない。
違うのだ。彼女にそんなことを言わせたいのではない。謝らなきゃならないのは、長澤自身だ。
「結……核…は…、いつ、から…」
肺が苦しい。どうにか絞り出した声が掠れている。
一方、カラリとした声で笑う霊。
『それが、私もわからなくて!』
「……!?」
『本当ですよ?お恥ずかしながら、いつもの風邪が治り遅いなー、ちょっと重いなーって思ってただけでえ…』
なぜ笑う。なぜ責めない。
「っ、だから…!その風邪ってのはいつから…っ!!」
苛立ちが声に乗る。たったそれだけで長澤は自分をぶん殴りたくなった。
彼女を責めたいのではない。罵られるべきは自分なのだ。だというのに、いつまで経ってもそれがこない。
『それが…覚えてないの……ごめんなさい』
「っ……」
相変わらず霊は笑っている。それを見て、長澤はやっと理解した。
この軽さこそが糾弾だと。
「す、まん……覚えてない、ほど……前、から…なのに、俺は……」
やはり、気づけるだけの期間はあったのだ。それを全て棒に振った。
その事実を改めて突きつけられ、長澤は呼吸が止まる思いで視線を落とす。
『えっ!?違いますよ!!そうじゃなくて…!!』
続いて聞こえてきた慌てたような声。
こちらの視界にヒョイと入り込むと、霊は長澤を抱きしめるように腕を回してきた。
「っ、京…」
こちらの心音を聞くように、胸元に寄り添う霊。優しい表情で、彼女は囁いた。
『自分だって分かってないし、旦那様に風邪を隠しちゃった。…だからどうか、そんなにご自身を責めないでくださいな。』
「っ……!!」
『兄上が、心ないことを言って……ごめんなさい。私はね、旦那様。』
目を開け、霊がこちらを見上げる。細いのに力強い手が、両手で長澤の髭面を包んだ。
『あなたの妻で、ほんとに幸せでしたよ。』
「ぁ……!!」
頬を滑り、眉間のシワをほぐそうとし、かかる前髪をはらおうとする彼女の指先。
まるで、夫の身支度を整えようとするように。
京華の瞳が、泣いているように揺れた。
『ホントはもっと……夫婦でいたかったな。』
「ッ………!!!!」
その本音が、長澤の罪への答えだ。
「……す、まん……」
やっと、彼の心が言葉の形になっていく。
「すまな、かった……!すまなかった、京華ァ……!!」
握り返そうとした手が触れるのは、ザラザラとした自分の頬。痛みがぶり返す。殴られたことよりも、ずっと言えなかった後悔が痛い。
『……私こそ。』
長澤の手に重なる京華の手。彼女もまた、唇が震えている。
『苦しめてしまって……、ごめんなさい。弘道さん。』
「ッ……!!」
それはきっと、彼女もやっと口にできた未練。
あの冬の日の、答え合わせ。
『最期に……貴方のお顔が見れたの、とっても、嬉しかった。』
「っ、は……ぁ……!!」
間に合っていたと言う。彼女が最期に抱えた想いは、苦痛でも、後悔でも、恨みでもないと言う。
こんな夫の顔を見て、嬉しかったなどと。
「ば……か……か……!!」
大粒の涙が、青白い光の彼女をすり抜けていく。
「すま゙ん゙…!!京……華……!!」
次から次へと、雨足は強くなる。
「俺が……!!もっと、ちゃんと……!!」
激しく震える肩。痙攣しているような背中。
「夫のっ……、責務、を……!!」
息が詰まり、喉が焼けるように熱い。
「そうすれ、ば、お前は……!!!」
まだ生きていたんじゃないか。
瑞樹の家のように、今頃子供に囲まれていたんじゃないか。
天珠に自慢の飯を振る舞っていたんじゃないか。
照昌に京都の味を聞いていたんじゃないか。
唄子を妹のように可愛がっていたんじゃないか。
そんなもしもが、現実だったんじゃなかろうか。
『……充分……』
しかし彼女は、そんな旦那の叫びを受け止め微笑んでいる。寂しげだが、満足げで、優しい笑顔。
『充分ですよ、弘道さん…!』
「ッ……ァァァ…!!」
長澤の腕が彼女の背に回る。力加減を誤って、すり抜けていく腕。散ってしまった花びらをかき集めるように、何度も、何度も。
もう二度と重ならない唇が触れ合う。初めて交わした口づけだ。
『私も……ごめんね…』
「お、れの……方……!!」
『うん……。でも、さ。』
嗚咽同士が混ざり合う。満開の花のように、彼女は笑った。
『料理も、軍も……仕事が好き同士……いい、夫婦、だった、よ……ね。……私達!!』
「ッ……!!!」
崩れ落ちそうなほどの慟哭。
それは、長澤から返せる唯一の同意だった。
◇
長澤の慟哭が夜風に溶けていく。 その声が届かぬ庭先で、唄子はずっと見守ってくれていた夜見之宮の元へ足音を抑えて近寄った。
「……夜見之宮さん。」
声をかければ、彼の優しい瞳がこちらを向いてくれた。いつだって、唄子のことを見守ってくれた満月。今もなお、唄子の心を掴んで離さない光。
「私、ちゃんと舞えてましたか?」
京華と長澤の再会は成功した。だからこそ、唄子の気がかりはこちらだった。
月讀命が冥府で舞うという神楽。術の精度に関係がなくとも、これを舞うことで愛しい神の力を借りられる気がしたのだ。その結果は、見ての通り。
「……あぁ……」
夜見之宮の冷たい手が頬を撫でる。その手を離さないために、唄子は自分の手を重ねた。
認めて貰えた。そう確信できる程の熱を持つ瞳に、唄子はうっとりと目を細める。
引き寄せ合うように、互いの唇が重なった。
腰を抱く夜見之宮の腕は細いが、力強い。
唄子もまた、彼の胸元にしがみつく。
分け合っていた呼吸がやっと己の元に戻ってくる。そのまま、神と歌姫は別れ難いというように抱きしめ合った。
「……私ね、夜見之宮さん……」
「……あぁ……」
海のような体温に包まれながら、唄子は胸に芽生えた思いを形にしていく。
「京華さんみたいに……自分の好きなことや、大事な人に……真っ直ぐに、生きたいなって思ったの……。」
「……そうか……」
「うん……。でも、その為には……異能部隊は、欠かせないから……」
「……」
包容を解き、向かい合う。揺れる満月へ、彼女は告白した。
「長澤さんの隣で、生きてきてもいいですか?そこで生ききった私を……冥府で迎えてくれませんか?……月讀命、様……!」
高鳴る胸が甘い。そしてこちらが溶けそうなほどの声音で、夜見之宮は告げた。
「あぁ……。生き抜いて来るといい……唄子。」
「……!」
「そなたの生は……私への花嫁修業と……受け取ろう。」
「……!!……えへへ」
それは、最大級の愛だ。
もう一度重なる2人の影。月夜に照らされたその姿は、冥婚の契りが結ばれた瞬間だった。
◇
翌朝の長澤邸。とうに朝日が空高く昇った頃のこと。
「……」
ようやく目を覚ました家主は、ただ呆然と部屋の天井を見上げていた。
瞬きする度に、乾いて張り付いた涙が痛い。重い頭はズキズキと思考を拒否している。
(家でこんなに寝こけてたなんて……いつぶりだ……?)
そんな言葉がぼんやりと浮かぶ。結局昨夜は、京華の霊を見送った後、瑞樹に支えられてなんとかここまで戻ったのだ。
のそ…と起き上がる。身体の節々が痛まないうえに、どうやら疲労はとれているらしい。
「ん゛ん……あー……」
未だ思考がまわらないのは、寝過ぎたせいか、再会の余韻か。
「……起きるかぁ……」
まるで冬眠から覚めた熊のように、のっそりと長澤は立ち上がった。
ペタペタと、床板の冷たさを足の裏で踏みしめていく。
味噌の香りに釣られてたどり着いたのは、台所だった。
鼻歌を歌いながら何か作っている唄子の後ろ姿があった。今日はどうやら1つ結びらしい髪が、楽しげに踊っている。
「……」
ボリボリと腹を掻きつつ、その背を眺める。彼女に重なる、京華の姿。
『旦那様、おはようございます!』と、お玉を持ったまま、嬉しそうに声を弾ませて振り返っていた。太陽よりも早起きな陽だまりだった。
(……毎朝、飽きもせずなあ……)
ふ……と、自然と口元が綻んだ。チクリと胸は痛むが、息苦しさはない、
「……小野ぉ」
「ふぇや!?」
声をかけると、よく分からない音を鳴らして勢いよく肩が跳ねてしまった。そうして振り向いた彼女の目は、まん丸だ。
「な、な、長澤さん!?おはようございます、いつのまに…!?」
「くく……」
思わず漏れた笑い。残念ながら止まらなくなってしまった。お腹が痛い。だが、オロオロしている小動物の様子に、さらに笑いが込み上げてくる。
「はーったく……くく……」
「えええ……??そんなに笑います……??」
「ククク」
キョトン?とした顔が見上げてくる。こんな男のために尽力してくれた、愛しい女性。
海賊なりに、大事にしたい。
「……世話ぁかけたな。」
「…!!」
こんな一言で、彼女の顔はパッと明るくなった。
「……飯、楽しみにしてる。」
「はい……!」
この光を、今度こそ取りこぼさないように目に焼き付ける。
そして長澤はまたペタペタと、いま来た廊下を戻っていく。
今日は、仕舞い込んでしまった仏壇を出そう。唄子や、若い部下2人に手伝って貰って。
窓から覗く横須賀の山を眺めながら、長澤はそんな予定を組み立てる。
この日、神風号は無事にロンドンへ到着したのだった。


