黄泉の歌姫は月と海の狭間に揺れる

 1932年、冬。
 深夜だった。火葬場へ向かう準備が始まり、啜り泣く声や彼女の名を囁く声が聞こえてくる。

「……おい」

 俯く自分の正面にかかる影。呼ばれたままに顔を上げたのと、右の頬に強い衝撃を受けて身体が吹っ飛んだのは同時だった。

「っ……」
「テメェ!!京華がどれだけテメェのこと慕ってたか分かってねぇだろ!!」

 口の中が切れている。だがそんなこと気にする暇もなく、胸ぐらを掴まれた。
 京華の兄だ。眉間に深いシワを寄せ、憎悪にギラギラとした瞳をこちらに向けてくる。泣いている。
 
「アイツがどれだけ笑ってたか知ってんのか!?!アイツの飯の味が分かんのか!!!!あ??」
「……」

 長澤は、何も答えられなかった。
 だって、知らないのだ。彼女が何で笑い、なぜ飯屋で自分なんぞの「惚気」を話していたのか。
 分からないのだ。彼女の料理の味が。何を拘り、どう作っていたのか。どれが得意料理なのかさえ。

「嫁に出したからにゃあ…!!アイツが…アイツの幸せが俺の願いだったのに……!!」

 俯く義兄。ギリギリと軍服の詰襟を締め付けられる。

「何で、こんなことになってんだ…!!京華はまだ20歳だぞ…!!20歳なんだぞ!!!」

 雫が畳へ落ちていく。義兄の黒髪が、ゆるゆると横へ揺れる。まるで、妹の死を否定するように。
 
「なんで……ッ、なんで軍人のお前より……、京華が、先に死んでんだ……!!」

 本当にその通りだ。長澤も、そう思う。
 今年の頭には戦場にいた自分が、無傷でここにいるのに。なぜ、ただ待っていただけの彼女が冷たくなっているのだろう。
 
 自分のせい以外に、何がある。
 
「披露宴も放り出して…!!生娘のまま…!!母にもなれず…!!女の幸せ何一つ知らねぇまま、京華のこと死なせやがって…!!」
「ッ、」

 ぐしゃぐしゃに歪んだ義兄の顔。真理を突く言葉が、深々と長澤の心を刺す。
 
「とんだ海賊だな、テメェは!!!」
「っ………!」

 無茶苦茶な方向に身体を揺すられ、強く畳に叩きつけられた。
 受け身もなにもない。ただ正当な怒りをぶつけられただけ。どんな訓練よりも演習よりも戦場よりも、重たいその一撃。

 自分にできることは、1つしか思い浮かばない。それをしたことで、なんの解決にもならないのだけれど。

「本当に……申し訳ない………!!」

 視界を埋め尽くすのは、涙染みのある畳だけだった。

 次の瞬間、景色が暗転する。
 混乱のまま目を開けば、見えてくるのは見慣れた執務室の天井。

「……あ?」

 固くなってる身体を起こす。椅子を3つ横に並べただけのいつもの寝床。キチンと整頓されている瑞樹、天珠の執務机。その向かいで書類や本や紙類のおかれたままの照昌と唄子の机。
 黒板を見れば、日付は昭和12年4月5日。まだ昨日のままだ。

「……あー……」

 長澤は頭を抱えた。ズキズキと頭の奥が痛む。
 あの日の夢を見たのは、一体いつ以来だろう。

(くそ……瑞樹の奴……。嫌なこと思い出させやがって……。)

 思わず右頬に触れる。そこにはもう、何の傷も残っていない。
 何もできずに窓を眺める。港の向こうから昇る朝日が、床に一筋黄金色の線を描く。そろそろ下士官たちで騒がしくなる頃だ。

 身体を伸ばせば、バキバキと音がした。
 
(考える……とは、瑞樹に言っちまったが……)

 まだ鈍い思考を巡らせながら、長澤は立ち上がる。勝手に使っていた瑞樹や天珠の椅子を机の中に戻し、水道へ。

(墓参り……なんて、行ったところで…)

 長い廊下を進んでいく。医務室の位置を知らせる掲示が目に入り、長澤は顔をしかめた。
 
 思い出してしまった病院の景色。彼がやっと駆け込んだ時、横たわる京華は何か言おうと口を動かした。
 彼が見たのは、たったそれだけ。

(あの時、なんて言おうとしてたか……。聞けるわけでも、ねぇのに)

 永遠に叶わないと分かっている願い。それこそ、本人の霊にでも会わない限り無理な話だ。
 
 ようやく共用の水道にたどり着く。蛇口を捻り、長澤は冷水で顔を洗い始めた。

 文字通り、目が覚めていく。クリアになる思考。

「……!」

 ふと、長澤の手が止まった。彼の脳裏に浮かぶのは、下宿させている3人の姿。

「……まさか、アイツら……」

 能力強化訓練だと騒いでいた。本当にそうなのだろうと思っていた自分を、ぶん殴りたくなる。

(京華の霊……を……)

 照昌は陰陽師だ。唄子は死霊使いだ。その能力を強化すれば、本来なら出来ない再会を、実現させてしまえるのだろう。

 特に、唄子ならば。
 
「っ……」

 心臓が早鐘を打つ。痛いほどの鼓動。流しっぱなしの水道の音が煩い。顔から滴る冷水は、まるであの日流し損ねた涙のようだ。

「……ハハ」

 自嘲するように笑いが漏れる。こんな情けない男に、本気で尽くしてくるなんて。
 応えない訳には、いかないだろう。隊長として。

(会えるなら、いっそさっさと会っちまうか。)

 手ぬぐいを強く顔に擦り付ける。顔をあげ、蛇口を止めた。

(そうして罵られた方が)

 手ぬぐいをポケットに押し込んで、朝イチの職務に向かう。
 
(楽になる……、かも、な)

 呼吸が苦しい。心臓は未だに警鐘を鳴らし続けて痛い。
 震える唇を、歯を強く噛んで抑え込んでいた。

 この日の早暁、神風号は再び英国を目指して飛び立っていた。