黄泉の歌姫は月と海の狭間に揺れる

 夕食後の、長澤邸にて。唄子は口元を手で覆い、照昌はあんぐりと開いた口がふさがらない。

「頬を殴られて……土下座……って……!?あの長澤はんが……!?」
「……あぁ。」

 声が上ずる照昌に、重たく頷く天珠。唄子は、何も言うことができなかった。

 あの日の車で、自分に向けられた冷たい目。京華の名を口にした瞬間に凍りついた表情。
 頬の傷のせいだけではない。
 あれほど恐ろしい顔をした理由が、今なら少しだけ分かる気がする。
 
 自室で見つけた京華さんの遺品たちは、どれも当時のまま埃を被っていた。

「小野さん。奥様の料理の再現のことだけど…。」
「神宮寺さん……なんて言ってましたか?」

 天珠からの声かけに、唄子はノートをぎゅっと胸に抱き寄せた。それは遺品の中に見つけた、料理の手順書。しかも、手書きだ。
 最初に書かれていたのは、海軍さんのライスカレーだった。

「まだ控えてくれとのご判断だ。今は、奥様の話題に触れるのは少佐だけにしておきたい。」
「……わかりました……。」

 胸に抱く本に視線を落とす。

(もう少しだけ……待っててください。京華さん。)

 丁寧に表紙を撫で、唄子はそう心の内で囁いた。

 続いて天珠は照昌へ声をかける。

「少佐の予想では、隊長は今日は家に帰られる可能性が高い。安倍、変なこと口走って、隊長を刺激するなよ?」

 だがその言葉を、部隊の陰陽師は受け取っていない。目を見開いた彼は、そおっと天珠の後ろを指差した。

「俺がなんだって?堂児」
「……!?!」

 天珠がバッと振り返る。台所の入口にいたのは、なんと長澤だ。
 腕を組んで壁に寄りかかり、探るような笑みを浮かべている隊長。

「……なぁに企んでんだ?お前ら。」

 声音だけは柔らかい。だが、物理的にも心理的にも逃げられない。そんな圧を感じ、若手3人は顔を見合わせた。
 天珠の視線がゆっくり下を向き、戻ってくる。それを見た唄子と照昌も、小さく頷いた。それは、とある作戦の合図。
 
「……バレて、しまいましたか……」
「……あ?」

 真っ直ぐ、天珠は長澤の前へ立つ。その背後に照昌、唄子の順で整列。
 長澤は眉を潜めている。それに臆することなく、天珠はキリリと真剣な顔を作り宣言した。
 
「実は!!俺達、能力強化訓練実習を秘密裏に実行しておりました!!」

 それに合わせ、式神を広げる照昌と、軍歌の教本を両手で胸の前へ突き出す唄子。天珠の背後から左右に突き出る奇天烈なポーズは、まるで観音様だ。

「………は?」

 うんうんと、謎に満足気に頷きながら天珠は話し続ける。

「本当は、隊長には成果だけ見ていただいて驚かせたかったのですが……!」

 そこへ乗っかる、照昌と唄子の跳ねるような声。

「ちゅーことで!!楽しみにしててつかーさいね!!」
「長澤さん、私、もっとお役に立てるように頑張ります!」

 笑い合い、祭囃子のような様子に、長澤は呆気にとられていた。
 
「……瑞樹の監修は得てんのか?」

 辛うじてそれだけ口にする。すると当然のように、天珠は敬礼とともに答えた。
 
「はい!!神宮寺少佐の許可と監修を頂いてるうえで、俺の責任の元、行ってます!!」
「……」

 もうそうなると、文句のつけようがない。長澤はため息を漏らしてしまう。
 家で会うのは八つ当たりしてしまった日以来だ。それ故に勘繰っていたのだが、杞憂と思ってもいいのだろう。

 鉛のようだった心が、ほんの少し軽くなった心地がした。

「なら、成果を楽しみにしてるぞ!安倍!小野!……責任者なら、結果はお前の監督次第だぞ?堂児。」

 若手が奏でるお囃子に合の手を入れる。聞き心地のいい返事が、三方向から返ってきた。

「ほな、俺は星読みしてくるわ〜!」
「私も、冥府にお邪魔してきます。」
「……おう!」

 長澤のいつもの調子に、唄子と照昌はホッと息をつく。そして2人揃って、庭へと駆けていくのだった。

 ◇
 
「唄子や。黄泉比良坂の神話は知ってるな?」

 冥府にて、篁から突然振られた話題。唄子は歌をとめ、首を傾げて答えた。

「よみひらさか…?」
「まさか……知らないのか!?」
「はい……」 

 よろ…と、つい一歩よろけるほど目を丸くしている篁。なにかマズイことをしてしまったのだろうか。
 顔を曇らせる唄子に対し、咳払いを1つ。そして、篁は気を取り直して解説を始めた。

「黄泉比良坂とは、この冥府と地上を繋ぐ坂道のことだ。こちらから戻る時、いつも駆け上がっているだろう?」
「……あ!」

 そう言われると、わかる。彼岸花畑を抜けた先にある、光を吸収するような暗い坂道だ。
 ではそこに纏わる神話とは何なのだろう。唄子は篁に話の続きを急かすように彼を見上げた。

「亡くなった伊弉冉尊(いざなみのみこと)を現世に取り戻したい伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、黄泉の国(こちら)へ彼女をお迎えに来られた。そんな旦那へ、黄泉の神と交渉をする間は自分の姿を見ないで欲しい、と伊弉冉尊(いざなみのみこと)は仰った。」
「……見ないで、って言われると見たくなっちゃいますよね……」
「ふふ……我が娘は察しがいいな」

 ふと思ったことをそのまま口にしてしまった。だが篁は満足気に笑い、唄子の頭をワシワシと撫でてきた。

「その通り、我慢できなかった伊弉諾尊(いざなぎのみこと)は、黄泉での彼女のお姿を見てしまう。それを酷く伊弉冉尊(いざなみのみこと)はお怒りになられた。夫婦であったはずの二柱は、あの出来事を境に決別されたのだ。」
「そんな……!?」

 神様でさえ、夫婦仲は決別してしまうのか。唄子は急に不安になってしまった。もしも自分たちが長澤夫妻を引き合わせたせいで、彼らがそんな風になってしまったらどうしよう。

 唄子はそうっと、篁へ尋ねた。

「あの…どうして、伊弉冉尊(いざなみのみこと)様は……そんなに怒ってしまわれたのですか……?」
「それはなぁ、唄子。蛆が湧き、雷神たちが宿った腐乱した姿だったからだ。」
「えぇ……!?」

 悲鳴と共に鳥肌が立ってしまった。そんな唄子を見て、篁は声を上げて笑い出す。

「ハッハッハ、そんなにか!いやぁ、女性の見目への拘りはいつの世も凄まじい。伊弉冉尊(いざなみのみこと)も、私に恥をかかせたな!と、それはそれはお怒りになられたってよ。約束も破られたわけだしなぁ!」
「そりゃあ……見られたく、ないですよ……!!」
「ハッハッハッハ、そうかそうか!」

 神様のことなのに、そんなに笑っていいのだろうか。唖然とする唄子をおいて、篁は暫く腹を抱えていた。

 だがそれが落ち着くと、打って変わって真剣な眼差しで彼は一番弟子へ告げる。

「なぜこの話をしたかと言うと。今回引き合わせるのは夫婦なのだろう?それも嫁の霊を呼ぶ。」
「はい……。」
「なら念の為、黄泉の穢れを浄化する結界を張ったうえで行うといい。国生みの二柱のような事故が、起こらないとは言い切れない。」
「……!!」

 つまり、伊弉冉尊(いざなみのみこと)のような思いを、京華にさせてしまうかもしれないのだ。
 唄子はサッと血の気が引く。そんなことになったら意味がない。

「安倍の子がいるだろう?だから大丈夫だ。」
「は、はい……!!」

 確実に、篁の助言を照昌に伝えなければ。唄子はそう、心に刻み込んだのだった。

 なお、話を聞いた照昌は「そんなん大旦那様案件!!」と頭を抱えることになる。

 ◇

 サラサラと、2人分のペンを走らせる音。パラリと紙をめくる音。開けた窓からは風が囁き、船の汽笛がハモってくる。

 佐官の2人しかいない執務室。キリのいいところで、瑞樹は仕事の手を止めて顔を上げた。

「……弘道。」
「ん?」
 
 年下の上官を呼ぶ。お互いすっかりおじさんになったものだが、その相貌は昔から大きくは変わらない。
 こちらを向いた隊長。だが目が合った瞬間、怒られる前の子どものように彼の瞳が泳ぐ。
 
 何を考えているか分かるほどの相棒というのは、こういう時には厄介だ。
 
「……彼らに、貴方の奥方の話をしたのはすみませんでした。話していいか、聞くべきでしたね。」
「いや、まあ……。いずれ言わなきゃならねぇことだったし……。」

 目をそらし、そそくさと手元の書類をまとめ始める長澤。それに瑞樹が気づくのは当然だ。

「弘道」
「っ、」

 ビクッと、わずかに肩が震える。瑞樹の声に含まれる、謎の抗えなさ。
 長澤はもう子供の頃から、こう呼ばれて逃れた試しがない。
 
「……心配だそうですよ、貴方のことが。」
「……だから?」
「彼らは、貴方から京華さんの話が聞けるのなら、何でも聞くでしょう。……もちろん、私も。」
「……」

 それは、長澤だってわかっている。
 俯く彼の脳裏に浮かぶのは、この執務室に集う隊員達だ。 
 
「……一体お義兄さんと何があって、貴方が土下座なんてしたのかは知りませんが……」
「っ…!?瑞樹、」

 殴るような言葉に思わず顔を上げてしまった。だがそれは、長澤にとって悪手であり、瑞樹にとっては好都合。

「それは決して、京華さん自身の言葉じゃないですよ?」
「ッ……!!」

 眼鏡の奥の優しい瞳に、射抜かれる。
 瑞樹の目に映るのは、眉根を寄せ、ぐしゃぐしゃな顔の一人の男。戦場で見た地獄よりも、一人の女性を引きずり藻掻く姿。

「弘道。……まずは墓参りから、共に行きませんか?」
「…………」
「…………」

 外から聞こえてくる訓練の声、演習の音。長澤が、妻よりも優先し続けたもの。
 
「……今更……どんな、面下げて……」

 呼吸がうまく出来ないまま、喘ぐような小さな声を漏らす。
 だがそれを包むように、瑞樹は優しく微笑んだ。

「……ありのままの貴方の顔で、いいと思いますよ。」
「…………チッ」

 舌打ちでは、返事にならない。けれどそう返すのが手一杯で、長澤は席を立つ。

「……考えとく。」
「……ぜひ。」

 辛うじて絞り出された言葉。それを受け取って、瑞樹はヤンチャなはずの弟分の小さな背中を見送った。