黄泉の歌姫は月と海の狭間に揺れる

 お昼時を少し過ぎた、ドブ板通り。主婦や女中に混ざって水兵と思わしき男性らも行き来する。
 雨上がり特有の匂いの商店街の一角に、天珠はいた。

「……ふう……」

 深呼吸を1つ。そしてゆっくりと、被っていた帽子を外し、勢いよくカバンの中へ突っ込んだ。
 目立つ白髪を晒すのは、やはり勇気がいる。けれと今日は、いつものように帽子を目深に被る訳にはいかなかった。

「すみませーん……1人、入れますか……?」
「はあい!お好きな席へどうぞぉ。」

 まばらに埋まっている席。味噌の香りと魚の焼ける香ばしい香りがお店を包んでいる。懐かしい空気感に反して、記憶よりも綺麗な店内。
 笑いジワの目立つお婆ちゃんに促されるまま、天珠はカウンター席へ腰掛けた。

「あら……?」

 お冷を渡しながら、こちらの顔を覗き込むお婆ちゃん。天珠は思わず身を硬くしたが、どうにか会釈をした。

「もしかして……お兄さん、木村さんのとこのお魚、納品してくれてました……?」
「……!」

 当たりを引いた。まず最初の関門を抜けたことに安堵しつつ、彼女へ向き直る。

「はい、そうです……!震災の前の話ですが……。お久しぶりです。」
「まあ、まあ、やっぱり……!細くてちっちゃかったのに、こんなに逞しくなっちゃって……!!」
「お……恐れ、入ります……。」

 むず痒さについ視線が泳いでしまう。その先で、厨房に立つ料理人と目が合った。あれが店主だったはず。顔立ちの印象を見るに、長澤の義兄にあたるのだろうか。

 お婆ちゃんに注文を伝え、息をつく。改めてぐるりと店内を見渡した時、入口のすぐ横にある仏壇に気がついた。

 そっと席を立つ天珠。正面まで来ると、彼は息を呑んで見入ってしまった。

 ピカピカに磨かれた仏壇に、沢山の線香。美しく咲く菜の花と艷やかな羊羹の隣に、少し冷めたお茶が供えられている。中央に飾られた写真の中で、エプロン姿の女性が、満開の笑顔を咲かせていた。

 (京華さん……)

 覚えている通りの姿に、天珠は胸が苦しくなった。

「よかったら……お線香、あげていって下さいな。お嬢様もきっと喜びます。」

 先程のお婆ちゃんから、そう声をかけられる。
 天珠はその言葉に甘えて、線香と共に手を合わせた。

 (どうか…隊長を、慰めてやってください。お二人を引き合わせたいので……ご協力、お願いします。)

 そう祈りを捧げる。目を開けた時、天珠は深く眉間にシワを寄せてしまった。
 
 長澤の家で、彼女の仏壇を見たことがないのだ。

「お待たせしましたぁ。」
「あ、はい……!ありがとうございます。」

 思考の海に沈みそうだったところを、お婆ちゃんの声に引き上げられる。返事をして席へ戻れば、こんがりと色付いたサワラの塩焼きが湯気を立てている。
 一口齧れば、少年時代の味がした。思わず頬がほころぶ。奉公先の漁師たちが、よく作ってくれていた。

「お兄さん、今はどちらで働いてるの?やっぱり漁師さん?」

 お冷を注いでくれるお婆ちゃん。何気ない世間話だが、天珠にとっては千載一遇のチャンスだ。
 ごくんと、緊張と共に塩焼きを飲み込む。そして彼は、何気ないように答えた。

「海軍です。長澤弘道中佐のお世話になっています。」
「まあ……!!」

 その、瞬間。お店の中の空気が変わった。

 涙ぐむお婆ちゃん。
 厨房から突き刺さるような視線を向けてきたのは店主だ。さらに店の奥では、常連らしい老人たちが何事か囁き合っている。

 (え……隊長の名前出しただけでこれ……?)

 どうにか箸を運ぶ天珠。だが、一口目とは違って味がしない。

「……お兄さん」
「……?」

 そこへそっと、内緒話をするようにお婆ちゃんが声をかけてきた。

「お食事の後……少し、お外でお話できますか……?」
「……はい。」

 当然、承諾の返事を返す。すると彼女はホッと胸をなで下ろしだ。ペコリと頭を下げ、仕事に戻って行ってしまった。

 忌引き明けの長澤は。右の頬が酷く腫れていたらしい。瑞樹が教えてくれた。その訳を探りにここへ来たのだが、これは思っていた以上に溝が深そうだ。

 天珠は大急ぎで、定食をかきこんでいった。

 ◇

 お店の裏手、雨上がりの日差しを避けた木陰にて。小さな丸椅子を持ってきてくれた先程のお婆ちゃんは、なんと長澤の家で女中をしていたという。

「旦那様……弘道様は、お元気ですか?お食事はちゃんととられてるでしょうか……?」
 
 その問いかけに、天珠は曖昧に笑うしかできない。以前瑞樹が奥さんに言っていた言葉をそのまま引用してしまった。
 それを聞き、お婆ちゃんは震える笑顔で言葉を紡ぐ。

「どうか……旦那様に、ご自分を責めないよう、お伝えいただけませんか……?京華様は、旦那様の元でちゃあんと、お幸せでしたよと…!」
「……!」
 
 天珠は目を見開いた。今まで聞いた話だけでは、奥方の身近な人がこうして長澤を気遣っているとは思えなかったから。
 奥方が幸せだったという言葉も、同様に。

 胸が締め付けられる。だが踏み込まない訳にはいかなかった。
 きっと長澤は、彼女の言葉を受け取ってはくれないだろう。

「……あの、教えていただけませんか?隊長と奥方……京華さんの間に、何があったのか……。」

 手探りのままそう尋ねる。お婆ちゃんはきゅうと目を潤ませ、ゆっくりと手元を見つめた。

「……旦那様は……なにも、悪うございませんよ……。」
「……」
「ただ、不器用なだけなんです。……お嬢様は頑張り屋さんだから、ついご不調を知らせ損ねて……。その掛け違いが、起こってしまっただけなんです……。」
「……ご病気、と……伺ってます……」

 天珠の言葉に、元女中は頷いた。

「風邪を拗らせるのは、冬によくあること……。私も、お嬢様も、寝てれば治ると思って……。本当に……」
「……」

 つう……と、静かに雫が年輪を刻んだ肌を伝う。こちらまで涙ぐんでしまわないよう、天珠は強く拳を握りしめた。
 黙って隣に座ったまま、聞こえてくる船の鐘の音に耳を傾ける。警備から戻った駆逐艦の音だ。

(……あの隊長がこれほど引きずるのは……)

 頭の片隅にチラつく違和感。軍港の音色がそれを擽る。

(何か、決定打があるはず……)

 長澤の頑なさ
 彼の名を出した時の店主の表情

 これらの暗号を解読する鍵は、やはり元女中の証言しかない。

「あの……店主はなぜ、隊長……えっと……弘道、さんのお名前に、あれ程目くじらを立てたんですか……?」

 果たして言葉はあっているだろうか。そんなことさえ不安になる。
 鼻を啜るお婆ちゃんは、どうにか伝えようと唇を震わせた。

「ご主人は……大層可愛がられてた妹君を亡くしたのを……すべて、旦那様のせいだとお怒りに……」
「そんな……!?」
「ご主人も、お辛かったのでしょう……。でも、あの仕打ちは……。」
「……」

 絡まっていた解読が進む心地がする。しかし続く彼女の言葉は、殴られたような衝撃だった。

「土下座をされた旦那様のお姿は……本当に……!」
「は……!?土下座……!?」

 あり得ない。ズキズキ痛む心臓が、そう叫びだしてしまった。
 
 天珠の脳裏に浮かぶのは、大きすぎる長澤の背中。天珠にとって鬼のようだった先輩たちを、ひと声で黙らせた姿。
 理不尽に正面から斬りかかり、上官だろうと臆さず意見を言う豪傑な男だ。

 いま聞いた話が絵空事。そう信じてしまいたくなるほど、脳が理解を拒否している。

 深々と、頭を下げる元女中のお婆ちゃん。彼女から再度、長澤を気遣う言伝を天珠は受け取ったのだった。