黄泉の歌姫は月と海の狭間に揺れる

 パタン、と扉を閉じる。誰もいない執務室の中。
 背を預けると、長澤はそのままズルズルと床へ座り込んだ。

「何やってんだぁ……俺は……」

 はー…と、長いため息が漏れる。鎮守府に戻ってやるべき仕事なんて、何一つ残っていない。

 おもむろにたばこを取り出し、火をつける。吹き出した煙を、ただ呆然と彼は眺めた。

(部下でもねぇ女に八つ当たりして……)

 縮み上がった唄子の姿が脳裏に浮かぶ。ジジ、とタバコの火を燻らせ、煙でそれをかき消した。
 右頬が痛い。どの戦場の傷よりも強烈な、義兄からの一発。

「俺は……」

 タバコの灰が音もなく落ちる。

「女を不幸にする"海賊"だ……」

 よどんだ表情の長澤。立ち上がることもできず、彼はその場に蹲っていた。

 ◇ 

 カチ、カチ…、という時計の振り子の音だけが長澤邸の居間に響く。肩を落とす唄子に、天珠はそっとお茶を差し出した。

「なあー…あれ、放っといたらアカン気ぃすんねんけど……。」

 机に突っ伏した照昌がぼやく。そちらにもお茶を渡す天珠の顔つきは、渋い。
 
「……って言っても……あんなにハッキリ、踏み込むなと言われた以上は……。」
「せやかて!あんな長澤はん、見てられへんわ!」
「それは……そう、だが……」

 お盆を置き、自分のお茶を手に天珠も席へ着く。照昌の主張に、天珠は眉根を寄せた。
 
(あの隊長が、あれ程強く拒絶するのには何か訳があるはず……。だが……)

 乾いた喉にお茶を流し込む。出口のない迷路に放り込まれた気分だ。

「はーあー、長澤はんって霊感あんねんかなあ」

 ずぞぞぞ、と音を立ててお茶を啜る照昌。脈絡のない発言は、思考の沼から天珠を引き上げた。
 
「…?なんだ、突然。」

 チラ、とこちらを見上げてくる照昌。彼は唇を尖らせ、呟いた。

「……京華はんの幽霊と長澤はん、お喋りでけへんかなー……って。」

 突拍子もない発言。と同時にそれは、陰陽師ならではの着眼点だ。

「お前なぁ…。いくらなんでも…」

 その提案に、天珠は口ごもる。しかしその隣で、俯いていた唄子がゆっくりと顔を上げた。
 
「私も…、私もそう思ったんです…!!」

 唄子と照昌の視線が交差する。その瞬間、照昌も勢いよく上体を起こし声を上げた。
 
「せや!小野ちゃんおるやん!!死霊使い!!」
「はい…!父上……篁様から、ご助言はいただいてて。」
「ホンマかいな!!」

 一気に勢いと熱量の増した言葉の応酬。ポカンと口を開ける天珠を置き去りにし、彼らの作戦が練り上がっていく。

「彼女に縁のある歌で、京華さんの霊をお招きできれば…!」
「それや、それ!!蒲田で、死のう団のリーダーの兄やんと話せたみたいに!!」
「はい……!!だから、まずは京華さんのこと、もっと知りたくて…!」
「よっしゃあ!!ほな早速…」

 立ち上がろうとする照昌。そこでハッとして、天珠は慌てて声を荒げた。
 
「ちょっと待てお前ら!!」
「……なに?堂児はん……」
「……?」

 しかめっ面の2人の視線が天珠に突き刺さる。まるで邪魔者を見るような目だ。それに負けじと、眉間に深く皺を寄せ、彼は努めて冷静に言葉を選ぶ。

「仮に、ホントにそれができたとして。……隊長ご自身に、奥様とお話される意思がなければ……意味は、ない。隊長の深い心の傷に、また勝手に土足で踏み込むつもりか……?」

 後輩たちからの反論はない。それを確認し、天珠は強く拳を握りしめながら、口を開いた。

「俺達だけで、独断するわけにはいかないだろ……。」

 苦渋の滲む声。天珠の葛藤なんて、隠せていると思っているのは本人だけだ。
 唄子と照昌は顔を見合わせる。まずは照昌が、軍人としての切り口を突く。

「ほな神宮寺はんの許可と協力得て来てやー、兄やん!」
「誰が兄だ!!」

 軽薄にそう告げる糸目。笑い混じりの無茶振りに、当然天珠は牙を向く。
 そんな彼の軍服を握り締め、唄子は真摯に訴えた。
 
「お願いします、堂児さん…!」
「小野さん……!?」
「私は長澤さんに助けて貰いました。だから今度は長澤さんのことを、私が助けてあげたいです……!」
「ッ……!」

 彼女の言葉が突き刺さる。なぜなら天珠だって、唄子と同じなのだから。
 暗闇しかなかった海軍生活の中に差した、眩しいほどの肯定を、それをくれた長澤の姿を、忘れたことはない。

「はあ……」

 視線を落とし、息を吐く天珠。ぐっと丹田に力を込め、彼は顔を上げた。

「……小野。隊長に試す前に、確実にその技ができる、というくらい完成させること。」 
「…!!」
「それから安倍。……そういう、死者の霊に触れても平気な日取りを正確に占え。それを元に決行日を決める。これを機に、占いや星読みの苦手を克服すること。」
「堂児はん…!!」
「……それぞれの能力強化訓練、として……神宮寺少佐に協力と承認を依頼する。だから今日中に一度、計画書をそれぞれ俺にだしてくれ。」

 キラキラと輝く視線が2人分。耐えきれず、天珠は顔を背けてしまった。
 
「責任は、俺が取る……から……」

 小さな声で、だがハッキリと、そう告げる。照れ屋な兄貴分に、唄子と照昌は頬が緩んで仕方がない。

「兄や〜ん!!おおきに!!」
「堂児さん、ありがとうございます!!」
「だーーうるさい!!あの神宮寺少佐を黙らせるんだぞ!?生半可なものじゃ俺は通さないからな!!」

 居間に響く騒がしいほどの温かさ。長澤に導かれた3人は、もうとっくに擬似兄弟だ。そんな彼らにとって、長澤とその妻とは両親も同然だった。