黄泉の歌姫は月と海の狭間に揺れる

「なんつーことをしてくれてんだお前はぁ!!」
「っ…!」

 店内に響く怒号。投げつけられた台拭きを身体で受け止めながら、唄子は身を縮めた。

 頭から血を流し、冷たくなった客が倒れていたのだ。このカフェーの、裏口に。

「警官さん!犯人はコイツに違いないから、さっさと連れてってくれ!!」
「ちょ…っと、待って…!!」

 店主は乱暴に唄子の腕を引っ張る。必死に彼女は踏ん張るが、食事の足りない細足は簡単に引きずられた。

「……そうなんですか?」

 怪訝な顔をした警官が尋ねる。

「あぁそうだ!なんせコイツの歌声は不幸を呼ぶんだ!!」

 大声でまくしたてる店主。
 
「ちがう……」

 俯く唄子の声は届かない。

「前の店でも、コイツの歌を聞いて気を狂わせた客がいるらしい!だから店では歌うなと言ったのに、この娘、毎晩のように歌ってやがったんだ!気味が悪くて仕方ねぇ!」

 聞こえるヒソヒソ声。せせら笑う同僚。警官の冷たい目。

「そのクセ稼ぎが悪いったらありゃしねえ!どうせお情けの贔屓すら無下にして、歌で呪い殺したんだ!!」

 店主の演説だけが店内に響き渡る。唄子から溢れた雫は、そのプロパガンダにかき消された。

「じゃあ、お嬢さん。ちょっと一緒に署まで…」

 ぬらりと伸びる警官の腕。唄子はギュッと、瞼をきつく閉じるしかない。

「ちょっと待て。」

 聞こえた言葉は、まるで銃声だった。たったひと言で、場の空気を塗り替えたのだ。
 カツ、カツ、と硬いブーツが階段を鳴らす。その音が止んだ時、同じ声が告げた。

「その嬢ちゃんは犯人じゃない。」

 ゆっくりと、唄子は目を開く。初めて断言された希望に、彼女は顔を上げた。

 誰よりも高い位置に陣取っている軍人。真っ白な海軍士官服が、窓から差す陽光を跳ね返していた。傲慢不遜を絵に描いたような笑みと共に、彼のショーは続く。

「外のジジイ、ありゃあどう見たって撲殺だ。いったいどうやって歌で人の頭を殴るんだ?教えてくれよ、なぁ?店主。」
「そ、それは…」
「血が黒く凝固してるし、もうとっくに死体として固まってんだから、仏さんになったのは昨夜のうちだろう。わざわざゴミ袋を使って隠していたから、発見はこんな真っ昼間になった訳だが。」

 狼狽える店主を無視し、堂々たる足取りで警察へ歩みを進めるその男。そして彼は、手に持っていた着物を高く掲げた。

「案の定、上の部屋の洗濯物の中に紛れてやがったぜ?血のベッタリついた着物がな。」

 ザワつく店内。女給たちの視線は唄子から散り始め、ある1人を盗み見る。

「こいつはあんたの着物か?嬢ちゃん」

 軍人の問いかけに唄子は慌てて首を振る。そして彼女もまた、店の女たちと同じ1人へ顔を向けた。

 華やかなその着物は、昨夜最後に男を連れて店を出た女給のもの。
 真っ青な顔をして、店の奥で震えている花形。

「……衝動的にやっちまったみてぇだな?」

 冷水のような軍人の声。それに撃ち抜かれ、店一番の美人は膝から崩れ落ちていった。

 ◇

 店を出たその白制服を、唄子は慌てて追いかけた。

「あの…!!」
「おん?」

 タバコに火をつけた男が振り返る。吐き出された煙は潮風に揺られて青空へ。

「助けてくれて、ありがとうございました!」

 そんな彼に唄子は勢いよくお辞儀をした。くくった黒髪が跳ね、着物の隙間を擽る。
 まさか、感謝を伝えながら頭を下げる日が来るなんて。なんだか、夢を見ているみたいだ。

「そう大袈裟にすんな!ちいっとばかし見捨てられなかっただけだ。」

 そっと顔を上げる唄子。声音の通り、あっけからんと笑う姿。軍隊からイメージする規律の厳しさとは、かけ離れた印象だ。

 (この人なら…私のことも贔屓にしてくれるだろうか…)

 薄汚れた淡い期待が、唄子の脳裏によぎる。そんな自分に、彼女の視線はつい、地面へ向かった。

 気の進まない接待を受けても、客の金払いは悪い。そもそも、気に入られもしない。だが男性を喜ばせなければ、今日の食事にもありつけない。
 生きるための術。それがどれ程身の毛のよだつ行為だとしても。

「あの…よかったら…っ!」

 唄子は意を決して、彼を見上げようとした。

「あ、あれ!?」

 だが、目の前にいたはずの軍人は忽然と姿を消しているではないか。
 目を凝らすと、大桟橋の方へ駆けていく少年のような背中が僅かに見えた。確かいま、あそこにはドイツ軍の船が来ているらしい。

「……不思議なひと……」

 潮風が唄子の呟きをさらう。
 もしかしたら稼ぎのチャンスを逃したのかもしれない。けれど唄子は、ホッと胸をなで下ろしていた。

 ◇

 結局、安心出来たのはあの昼下がりだけだった。

 浮かんだメロディーを口ずさみながら、あてもなく山下公園を唄子は歩く。
 歩調に合わせて揺れる手には、着替えの入った風呂敷。街灯の灯りの下から聞こえる店の喧騒が、今夜の歌の伴奏だ。

「……どうか、したのか。」

 唯一安心できる気配に、歌声を静かにフェードアウトさせる。
 唄子の前にいたのは、夜見之宮だった。

 月明かりのような金色の瞳。その穏やかさに導かれるように、彼女は口を開いた。

「また……追い出されちゃいました……。」
「……!」
「犯人は私じゃないけれど……こんな不幸を呼んだのはお前の歌だろ?って……」
「唄子……」

1度言葉にすると、もうダメだった。

「なんで…!?どうしてこうなるんだろう…!!」

  大粒の雨が彼女の瞳から降り始める。

「歌ったらダメってなに!?全部の不幸が私のせい!?そんなのおかしいじゃない…!!」

 奏でる不協和音。湿った叫びを凍てついた風が襲った。

「あーあ…いっそ……」

 思い出すのは一番古い記憶。黒煙と熱風と、立てないほどの揺れ。

「あの時……死んじゃった方が……楽だったかなぁ……」
「……」

 ポツリ、ポツリと口ずさむ。涙の交じりの歌声に、黒ずんだ光が集ってくる。
 赤ん坊が母親を求めて泣きじゃくるように、唄子は夢中になって歌い続けた。