黄泉の歌姫は月と海の狭間に揺れる

 翌朝、6時半。ようやく厚い雲の向こうに太陽が昇り始めた頃。

「おう。よく眠れたか?」

 そう言って、長澤は真っ黒でいかつい愛用車から降りて来た。

「おはようございます、弘道。早朝からの運転は大変だったのでは?」
「なんてことねぇよ!」

 家から出てきた瑞樹の言葉に、カラリと答える長澤。彼らが今日の行程を話している間に、唄子たちは荷物を荷台へ放っていく。

「お久しぶりです、弘道さん。」

 そこへ現れたのは瑞樹の妻だ。眠い目を擦るレイ子を抱えている。そのそばで、涼子も父の親友を見上げていた。

「お…おぉ。お久しぶりです…。」
「そんなに怯えないでくださいな。この子たちが、どうしてもお父さんのお見送りをするって、聞かなくって。」

 あの長澤が敬語。しかも、下手くそな愛想笑いを浮かべているではないか。
 父に甘える子供たちを見ようともせず、静恵さんの声かけには生返事。

「アイタタター。家庭が怖いって、そーゆー?」

 車の影から様子を伺う照昌の囁き声。

「お忙しいのだろうと思ってたが……まさか、隊長が滅多に家に帰られないのって……。」

 天珠の考えに、彼の下方から「アレやろなー」と照昌が同意する。2人の隣で、唄子も眉をひそめる。

「長澤さん……」

 そそくさと運転席に逃げる長澤。唄子は、その背をただ見つめていた。

「ほら、行きますよ。」

 助手席の扉を開けながら、瑞樹が声をかけてくる。
 返事をして、慌てて彼らは車へ乗り込んだ。

 曇天の道に大きなエンジン音を響かせて発車する車。向かう先は、陸軍の所有する立川飛行場だった。

 ◇

 長い長い滑走路。広い敷地の中央を走る空への道を走る銀色の機体。プロペラの起こす風はこちらにまで吹きつけてくる。
 そうやって飛び立った神風号。あっという間に、その姿は雲の中へ消えていった。

「か……」

 弾けそうになる声を無理やり抑える天珠。しかしその手はバシバシと、隣の照昌を叩き続けている。

「かっっこいい……!!」
「痛い!痛いってば堂児はん!」

 涙目で訴える照昌だが、その声は届いていない。彼の胸の高鳴りはダダ漏れだ。

「少々天候が悪いですが……無事につけるといいですね。」

 曇り空を見上げて呟く瑞樹。向かい風を受け、長い黒髪がはためく。
 皆同じ方角を見上げて、この国の技術が世界に届くのを祈っていた。

「……さ。帰るか。」

 くるりと、長澤は滑走路から背を向ける。それに伴って瑞樹、唄子の順にその背を追った。

「瑞樹、お前は品川に戻るだろ?堂児達は横須賀に俺が連れて帰るから、ゆっくりして来い。」
「……昨日充分ゆっくりしましたが。」
「馬鹿野郎。3人も客人……しかも部下を泊めて、ゆっくりも何もあるか。」

 前方から聞こえる上官達の会話に、唄子は耳をじっと傾ける。苦々しい表情で親友を見つめる瑞樹の横顔を、長澤は見ようともしない。

「……俺の二の舞になるな。」

 彼らしくない、掠れて小さな声。瑞樹はため息と共に、了承を返すのだった。

 濃紺の背中が酷く小さく見える。唄子は、胸が締め付けられる思いがした。

 ◇

 山肌にかかるオレンジ色の夕焼け。それを背に浴びながら、長澤の運転する車は彼らの家へ到着した。

「じゃ、俺は鎮守府に戻るから。また明日な。」

 運転席から顔を覗かせ、唄子達にそう声をかける。エンジンすら切っていない。
 
「えぇ!?ちょ、長澤はん!?」
「隊長……!?ずっと運転しっぱなしだったんですから、今日くらい隊長も家で休まれては……。」

 抗議の声をあげる照昌と天珠。だが、その言葉は全く響かない。

「仕事残して来てんだよ。休んでなんかいられっか。」
「いや、しかし……!」

 珍しく天珠が食い下がる。押し問答が始まりそうだった師弟の間に、唄子は思い切って割って入った。
 
「あの……お墓参り…!!」
「……!?」
「一緒に行きませんか?……京華、さん……の。」
 
 しん……と、重く静まり返る車内。つい踏み込んだ唄子の行動に、天珠と照昌は慄いて声もだせない。
 チラリと、上司を盗み見る照昌。長澤の顔からは、表情が抜け落ちていた。

「……瑞樹から聞いたのか?」

 静かすぎる声。重厚なそれに俯きそうになるのをグッと堪え、唄子は真っ直ぐに長澤を見つめ返す。
 
「す…すみません…。でも、長澤さん……神宮寺さんのご家族を見てる時、泣いてるみたいだったから…!!奥さんのこと、ちゃんと弔えてな……」
「小野」
「ッ、」

 名を呼ばれ、言葉を遮られる。たったそれだけなのに、車内の温度は一気に氷点下へ落ちた。
 
「余計なことに首を突っ込むな。」
「っ……!!」

 温度のない声と、目。
 
 殺される。

 唄子だけではなく天珠と照昌さえ、全身がそう警鐘を鳴らしていた。
 
「命令だ。さっさと降りろ。」

 高圧的な言葉と裏腹に、彼は視線をふいと逸らす。ステアリングを強く握りしめる手は、白くなるほど力が込められている。
 
 それに気づいたところで、何をすればいいかもわからない。
 天珠が車の扉を開き、照昌は唄子の背をそっと押す。そうやって、3人はどうにか外へ。
 扉を閉めた途端、車は黒い煙を吐き出しながら鎮守府へ向けて坂を下っていってしまった。

 へた、と座り込む唄子。頬を伝うものを拭おうとして、そこで初めて自分が泣いていることに気づく。照昌はさっと、そんな彼女の背をさすった。

「私……余計、傷つけて……」
「いやぁ……よう踏み込んだで、小野ちゃん。」

 ポツリ、ポツリと落ちる雨粒。
 神風号は、悪天候で立川へ引き返したそうだった。