春とは名ばかりの冷えが残る横須賀から、電車に揺られる。品川に着く頃には、夜気がいっそう冷たくなっていた。
「こちらですよ。」
瑞樹の案内に従い、唄子、天珠、照昌の3人は夜道を進む。彼らの手には、それぞれ重い荷物が。
「それにしたかて、神宮寺はんの奥さんってしたたかどすなぁー。まさかこないに買い物頼まれるとは思てへんかった。」
風呂用の薪を背負った照昌がぼやく。それに笑って返す瑞樹の手にも、牛乳瓶たちが揺れている。
「働かざる者食うべからずですよ、照昌。基礎体力演習に丁度いいので、私から家内に勧めました。」
「うへぇ……そうどすかぁ……」
長澤や天珠とは違う厳しさをにっこりと告げられ、照昌はガックリと肩を落とした。疲れた身体にこれはキツい。
「……小野さん、重くないか?」
一方、15キロの米袋を平然と担ぐ天珠。彼は隣を歩く唄子を気遣い声をかけた。
「大丈夫ですよ。」
そう答える彼女の手に抱えられた風呂敷の中身は、自身を含む3人分の着替えたちだった。
空に浮かぶ月が目に入る。金色に輝くそれは、夜見之宮の瞳と同じ色。
たったそれだけで、唄子はつい先日の冥府のことを鮮明に思い出してしまった。
険のある顔の夜見之宮。握られた手の感覚と、近づいてくる彼の顔。
(あ、あのままだったら、私……!!)
そう思う度に頬が熱い。月を見るだけでこれなのだから、本人になんて会えそうもない。緊張と羞恥で死んでしまう。
だが、長澤のことを気にしていた彼の言葉に、何も返事をできていないのは気がかりだ。
(……夜見之宮さん……いま、どうしてるだろう……)
ほう…と、ため息が漏れる。結局、夜見之宮のことが頭から離れないのだ。
「……?」
そんな唄子を心配げに見つめる天珠。その視線にさえ、彼女は一切気づかなかった。
そこからすぐのこと。緩やかな坂を登った先に見えてきたとある戸建て。自転車の停められた小さな庭に並ぶ花壇が綺麗だ。
明かりの漏れる引き戸を、瑞樹はゆっくりと開いた。
「只今戻りました。」
軍靴を脱ぎ、唄子たちを迎え入れる。同時に室内から聞こえてきたのは、トントンと軽いテンポで階段を駆け下りてくる音だった。
「お父さん!おかえりなさい!!」
「なさいー!!」
ワンピースをはためかせ、瑞樹に飛びつく2人の少女。彼女たちの柔らかい髪を瑞樹が撫でれば、子供たちはそれは嬉しそうに笑っている。
「じ…神宮寺はんの娘はん!?」
思わず声をあげたのは照昌だった。くりくりの目たちが彼を見上げる。きょとんとする大小2つのもちもち顔の、なんと可愛らしいこと。
照昌の衝撃に短く是を返すと、瑞樹は娘たちと視線を合わせるように膝をつく。そして小さな肩を抱き寄せながら話し始めた。
「さあ、二人とも。このお兄さんたちとお姉さんは今日、うちにお泊りするんだ。父さんの大事な人達だから、ご挨拶できるかい?」
「うん!」
執務室の姿からは想像し難いほど、柔らかい声音。初めて見る家庭での瑞樹に戸惑う3人に、少女たちはペコリと勢いよくお辞儀をしてきた。
「神宮寺涼子です!よろしくお願いします!」
「じんぐーじ、れーこ、です!」
可愛い。本当にそのひと言につきる。
使用人時代に子守の経験のある唄子や、親戚付き合いで年下に慣れている照昌は、久しぶりに触れ合う子供たちにもうメロメロだ。
「皆さん、いらっしゃいませ。」
そこへ、奥の居間からエプロン姿の女性が声をかけてきた。
「妻の静恵と申します。お疲れでしょうに、重たいお買い物をありがとうございました。」
丁寧に頭を下げた彼女は、優しい笑みを浮かべて続ける。
「さあ、奥へいらしてくださいな。お夕飯の支度はできてますよ。」
くうう、と腹の音で返事をしたのは、果たして誰だったか。横須賀帰りの軍人たちは、小さな淑女たちに手を引かれていく。迎えてくれたのは、お味噌の温かい香りだった。
◇
足音を立てないようにそーっと、階段を降りる唄子。噛み殺せなかった欠伸は、一足先に眠った涼子とレイ子姉妹から移った眠気のせいだ。
「小野ちゃん!寝かしつけおーきに!」
「安倍さん…!」
最後の1段を下ると、ちょうど鉢合わせたのは手ぬぐいを首にかけた照昌だった。順番に入ったお風呂も、彼が最後。ならば、後は自分たちも寝るだけだ。
「涼子ちゃんたち、ちゃんと寝た?」
「はい。ご本の読み聞かせをしていたら、いつの間にか。」
「おーきに!俺やったら延々遊んでまう!」
「ふふふ。安倍さんがレイ子ちゃんと遊んでてくれたから、静恵さんのオルガンで、沢山お歌を教えてもらえました。」
「そらよかったわー!」
何気ない会話が続く照昌と唄子。そうして彼らは居間の灯りへ向かう。
「え……!?京華さんの旦那様が隊長だったんですか…!?」
そこへ聞こえてきたのは、天珠の驚いた声だった。どうやら長澤の奥さんの話らしい。察した2人は、顔を見合わせた。
京華。初めて明かされたその名に食いつくように、唄子は居間へと駆け込んだ。
「あの…京華さん…長澤さんの奥様って、どんな方だったんですか…!?」
目に飛び込んできたのは、ダイニングテーブルで晩酌中の神宮寺夫婦と、隣に座る天珠。
瑞樹に促され、唄子と照昌も空いた席へ。
静恵は照昌へお酌をすると、静かに話始めた。
「気立てのいい、町娘さんよ…。通夜の時も、町中の人が来たんじゃないか、っていうくらいで…。」
唄子の脳裏に、横須賀の商店街が浮かぶ。あの活気溢れる街全体がその死を悼むほどの女性。それだけで、人柄の良さが見えるようだ。
「ほんで、なんで堂児はんまで知っとるん?その京華はんのこと。隊長の奥さんは知らんのやろ?」
日本酒に舌鼓をうつ照昌が尋ねる。天珠は湯飲みを握りしめ、寂しげに声を零した。
「海軍に入る前…奉公先の仕事で、京華さんが看板娘の店に配達に行ってたから…。」
きゅ…と、天珠の手に力が籠る。そして確かめるように、天珠は照昌の方を向いた。
「安倍も行ったことあるだろう?亀屋、って食堂。」
「あー!ドブ板通りの角っこのとこ?えらい美味いよなぁ!水兵はんに横須賀のオススメ聞いて回った時、殆どが亀屋言うとったわ!」
「だろうな…。通夜のことも、俺は兵舎の噂で知ったんだ。」
言葉をきり、茶をすする天珠。深夜に駆け込んで線香を上げた家は、いま自分が住んでいる長澤邸。2年も経っているのに、全く気づけなかった。
白髪を気味悪がらず接してくれた年上のお姉さん。そんな印象の京華に、天珠は申し訳が立たない心地だ。
コポポ…と、急須から茶が注がれる。その湯飲みを唄子に渡しながら、静恵は彼女に尋ねた。
「でもまさか、こんな可愛らしい子をあの弘道さんが下宿させているなんて。彼は元気?」
温かい湯飲みを受け取る。けれど唄子は曖昧な笑みを浮かべるしかできない。
「元気……です、けど……。」
視線が泳ぐ。彼女は助けを求めて、瑞樹を見てしまった。それを受け、瑞樹はコトンとお猪口をおく。
「お前の言う"元気"からは……ほど遠いですよ、静恵。」
「……そう……」
旦那から差し出された杯を、お酒で満たしていく。自分にもそうしたのち、彼女は眉を下げてポツンと言った。
「今日、弘道さんとも……5年ぶりにお会いできるかと思ってましたが……」
一口、静恵はお酒を舐める。同じようにお猪口を傾けていた瑞樹は、妻とよく似た調子で囁いた。
「アイツが……仕事に逃げているうちは、まず無理でしょうね……。」
長澤をよく知る神宮寺夫婦。大人の憂いを帯びた夫妻の様子に、若い3人は何も言えずそれぞれの飲み物をすする。
修理待ちの柱時計の秒針。静かに時を刻む長針と短針と違い、居間の中でその針だけが足踏みを続けていた。
「こちらですよ。」
瑞樹の案内に従い、唄子、天珠、照昌の3人は夜道を進む。彼らの手には、それぞれ重い荷物が。
「それにしたかて、神宮寺はんの奥さんってしたたかどすなぁー。まさかこないに買い物頼まれるとは思てへんかった。」
風呂用の薪を背負った照昌がぼやく。それに笑って返す瑞樹の手にも、牛乳瓶たちが揺れている。
「働かざる者食うべからずですよ、照昌。基礎体力演習に丁度いいので、私から家内に勧めました。」
「うへぇ……そうどすかぁ……」
長澤や天珠とは違う厳しさをにっこりと告げられ、照昌はガックリと肩を落とした。疲れた身体にこれはキツい。
「……小野さん、重くないか?」
一方、15キロの米袋を平然と担ぐ天珠。彼は隣を歩く唄子を気遣い声をかけた。
「大丈夫ですよ。」
そう答える彼女の手に抱えられた風呂敷の中身は、自身を含む3人分の着替えたちだった。
空に浮かぶ月が目に入る。金色に輝くそれは、夜見之宮の瞳と同じ色。
たったそれだけで、唄子はつい先日の冥府のことを鮮明に思い出してしまった。
険のある顔の夜見之宮。握られた手の感覚と、近づいてくる彼の顔。
(あ、あのままだったら、私……!!)
そう思う度に頬が熱い。月を見るだけでこれなのだから、本人になんて会えそうもない。緊張と羞恥で死んでしまう。
だが、長澤のことを気にしていた彼の言葉に、何も返事をできていないのは気がかりだ。
(……夜見之宮さん……いま、どうしてるだろう……)
ほう…と、ため息が漏れる。結局、夜見之宮のことが頭から離れないのだ。
「……?」
そんな唄子を心配げに見つめる天珠。その視線にさえ、彼女は一切気づかなかった。
そこからすぐのこと。緩やかな坂を登った先に見えてきたとある戸建て。自転車の停められた小さな庭に並ぶ花壇が綺麗だ。
明かりの漏れる引き戸を、瑞樹はゆっくりと開いた。
「只今戻りました。」
軍靴を脱ぎ、唄子たちを迎え入れる。同時に室内から聞こえてきたのは、トントンと軽いテンポで階段を駆け下りてくる音だった。
「お父さん!おかえりなさい!!」
「なさいー!!」
ワンピースをはためかせ、瑞樹に飛びつく2人の少女。彼女たちの柔らかい髪を瑞樹が撫でれば、子供たちはそれは嬉しそうに笑っている。
「じ…神宮寺はんの娘はん!?」
思わず声をあげたのは照昌だった。くりくりの目たちが彼を見上げる。きょとんとする大小2つのもちもち顔の、なんと可愛らしいこと。
照昌の衝撃に短く是を返すと、瑞樹は娘たちと視線を合わせるように膝をつく。そして小さな肩を抱き寄せながら話し始めた。
「さあ、二人とも。このお兄さんたちとお姉さんは今日、うちにお泊りするんだ。父さんの大事な人達だから、ご挨拶できるかい?」
「うん!」
執務室の姿からは想像し難いほど、柔らかい声音。初めて見る家庭での瑞樹に戸惑う3人に、少女たちはペコリと勢いよくお辞儀をしてきた。
「神宮寺涼子です!よろしくお願いします!」
「じんぐーじ、れーこ、です!」
可愛い。本当にそのひと言につきる。
使用人時代に子守の経験のある唄子や、親戚付き合いで年下に慣れている照昌は、久しぶりに触れ合う子供たちにもうメロメロだ。
「皆さん、いらっしゃいませ。」
そこへ、奥の居間からエプロン姿の女性が声をかけてきた。
「妻の静恵と申します。お疲れでしょうに、重たいお買い物をありがとうございました。」
丁寧に頭を下げた彼女は、優しい笑みを浮かべて続ける。
「さあ、奥へいらしてくださいな。お夕飯の支度はできてますよ。」
くうう、と腹の音で返事をしたのは、果たして誰だったか。横須賀帰りの軍人たちは、小さな淑女たちに手を引かれていく。迎えてくれたのは、お味噌の温かい香りだった。
◇
足音を立てないようにそーっと、階段を降りる唄子。噛み殺せなかった欠伸は、一足先に眠った涼子とレイ子姉妹から移った眠気のせいだ。
「小野ちゃん!寝かしつけおーきに!」
「安倍さん…!」
最後の1段を下ると、ちょうど鉢合わせたのは手ぬぐいを首にかけた照昌だった。順番に入ったお風呂も、彼が最後。ならば、後は自分たちも寝るだけだ。
「涼子ちゃんたち、ちゃんと寝た?」
「はい。ご本の読み聞かせをしていたら、いつの間にか。」
「おーきに!俺やったら延々遊んでまう!」
「ふふふ。安倍さんがレイ子ちゃんと遊んでてくれたから、静恵さんのオルガンで、沢山お歌を教えてもらえました。」
「そらよかったわー!」
何気ない会話が続く照昌と唄子。そうして彼らは居間の灯りへ向かう。
「え……!?京華さんの旦那様が隊長だったんですか…!?」
そこへ聞こえてきたのは、天珠の驚いた声だった。どうやら長澤の奥さんの話らしい。察した2人は、顔を見合わせた。
京華。初めて明かされたその名に食いつくように、唄子は居間へと駆け込んだ。
「あの…京華さん…長澤さんの奥様って、どんな方だったんですか…!?」
目に飛び込んできたのは、ダイニングテーブルで晩酌中の神宮寺夫婦と、隣に座る天珠。
瑞樹に促され、唄子と照昌も空いた席へ。
静恵は照昌へお酌をすると、静かに話始めた。
「気立てのいい、町娘さんよ…。通夜の時も、町中の人が来たんじゃないか、っていうくらいで…。」
唄子の脳裏に、横須賀の商店街が浮かぶ。あの活気溢れる街全体がその死を悼むほどの女性。それだけで、人柄の良さが見えるようだ。
「ほんで、なんで堂児はんまで知っとるん?その京華はんのこと。隊長の奥さんは知らんのやろ?」
日本酒に舌鼓をうつ照昌が尋ねる。天珠は湯飲みを握りしめ、寂しげに声を零した。
「海軍に入る前…奉公先の仕事で、京華さんが看板娘の店に配達に行ってたから…。」
きゅ…と、天珠の手に力が籠る。そして確かめるように、天珠は照昌の方を向いた。
「安倍も行ったことあるだろう?亀屋、って食堂。」
「あー!ドブ板通りの角っこのとこ?えらい美味いよなぁ!水兵はんに横須賀のオススメ聞いて回った時、殆どが亀屋言うとったわ!」
「だろうな…。通夜のことも、俺は兵舎の噂で知ったんだ。」
言葉をきり、茶をすする天珠。深夜に駆け込んで線香を上げた家は、いま自分が住んでいる長澤邸。2年も経っているのに、全く気づけなかった。
白髪を気味悪がらず接してくれた年上のお姉さん。そんな印象の京華に、天珠は申し訳が立たない心地だ。
コポポ…と、急須から茶が注がれる。その湯飲みを唄子に渡しながら、静恵は彼女に尋ねた。
「でもまさか、こんな可愛らしい子をあの弘道さんが下宿させているなんて。彼は元気?」
温かい湯飲みを受け取る。けれど唄子は曖昧な笑みを浮かべるしかできない。
「元気……です、けど……。」
視線が泳ぐ。彼女は助けを求めて、瑞樹を見てしまった。それを受け、瑞樹はコトンとお猪口をおく。
「お前の言う"元気"からは……ほど遠いですよ、静恵。」
「……そう……」
旦那から差し出された杯を、お酒で満たしていく。自分にもそうしたのち、彼女は眉を下げてポツンと言った。
「今日、弘道さんとも……5年ぶりにお会いできるかと思ってましたが……」
一口、静恵はお酒を舐める。同じようにお猪口を傾けていた瑞樹は、妻とよく似た調子で囁いた。
「アイツが……仕事に逃げているうちは、まず無理でしょうね……。」
長澤をよく知る神宮寺夫婦。大人の憂いを帯びた夫妻の様子に、若い3人は何も言えずそれぞれの飲み物をすする。
修理待ちの柱時計の秒針。静かに時を刻む長針と短針と違い、居間の中でその針だけが足踏みを続けていた。


