長澤には、亡くなった奥さんがいる。
その衝撃に声を上げたのは、天珠と照昌だった。
「き…聞いたことないですよご本人から!?」
「神宮寺はん!?それホンマの話なん!?」
そんな彼らに、瑞樹はため息をつきながら答えた。
「こんなことで嘘ついてどうするんですか。」
「そ……それはそうですけど……。でも、俺が隊長の家に下宿させてもらう様になった時から、奥様がいらっしゃったような様子はどこにも……。」
信じられなくて、天珠はなおも食い下がる。唄子だけが、その「面影」に心当たりがあった。
「あの…私の使っているお部屋って……奥様のお部屋でしたか……?」
彼女の発言に、兄貴分2人はハッとする。ホコリの被った鏡台や、床の間の花瓶。そして小梅柄の布団。
確かに唄子の部屋は、以前から女性が使っていたと思われるものだ。
「……そうですよ。」
「……!」
瑞樹からの簡潔な肯定。それを受け、唄子も、天珠も、照昌も、言葉がでなかった。
立ちっぱなしだった天珠が、ゆっくりと腰掛ける。そして彼は、斜め向かいにいる瑞樹へ問いかけた。
「……どんな方だったんですか、隊長の奥様って。」
「……。」
瑞樹は視線を落とす。そんな彼の軍府の裾を、照昌は焦れたように引っ張った。
「なあ神宮寺はん!教えてぇや!長澤はんが家庭が怖いって何?奥さんと何があったん?」
「……。」
どこからか、船の汽笛が聞こえてくる。窓からの風はまだ冷たく、部屋の空気も重い。
けれど3人は、一歩たりとも引こうとしない。それが伝わったのか、瑞樹は何度目かのため息をついた。
「……何も、ありませんでしたよ。」
「……??何も?どういうこと?」
「言葉のままです。」
静かに奏でられるテノール。瑞樹は照昌の腕をそっと外させ、ゆっくりと口を開いた。
「見合いの末に婚姻を結んでも、弘道が見ているのは国防の未来だけでした。故に夫婦の間には、まともな睦言も、子供も、何もなかったんです。彼女の病に、彼が気づけないほど。」
「……」
「家庭の様子を見ていると、亡くした彼女への罪悪感が募るのでしょうね。……そう思うということは、彼女への情は確かに、弘道の中にはあったのでしょうが。」
遠くなった汽笛の音が、静かな執務室に入り込む。何も、唄子たちは言うことができなかった。
「さあ、お喋りは終わりにしましょう。」
空気を切り替えるひとこと。指示を告げながら、瑞樹は椅子から立ち上がる。
「あの……!」
そんな彼へ、唄子は思い切って声をあげる。出口の前で瑞樹が動きを止めたのを見て、彼女はそっと、尋ねた。
「奥さんの最期を……長澤さんは、ちゃんと看取れたんですか……?」
「……。」
室内に影が差す。カチャリとドアノブを捻る音が、嫌に大きく響いた。
「間に合わなかった、とだけ……あの日、弘道からは聞きましたよ。」
それだけを残して、瑞樹は静かに執務室を後にした。
◇
その日の夜。唄子は冥府の彼岸花の海で、いつものように夜見之宮へ彼女の日常を話していた。今日の話の中心はもちろん、長澤だ。
「前から、気になってはいたんです。凄くしっかり揃ってるお台所の道具とか、私の使わせて貰ってるお部屋の箪笥の中の着物とか……。」
「……。」
「奥様がいたと聞いて、むしろ納得というか…」
「……。」
唄子の話を、ただ黙って聞く夜見之宮。それはいつもと同じなのだが、彼の表情だけはいつもと違っていた。
「ねえ、夜見之宮さん。前に、冥府から特定の人の魂を呼ぶのは、大海原で貝殻を探すもの、って、仰ってたでしょう?」
「……あぁ……」
「でも、それがもし本当に出来たら……長澤さん、奥さんともう一度お話が……」
「……唄子、」
「?」
名前を呼ばれ、唄子は夜見之宮を見上げる。満月のごとき瞳が暗い。釣り上がった眉と、固く結ばれた口元。
「……夜見之宮、さん……?」
不安げに彼を呼んでしまった。それに答えるように身を乗り出した彼と、少し身を引く唄子。
「なぜ……あの戦人に尽くそうとする……」
「……えっ?」
低く静かな声に滲む怒気。そんな声を聞いたのは、横浜で長澤と夜見之宮が喧嘩しそうになっていた時以来だ。
「彼はお前を戦に連れ出すと言った……。そんな男に、なぜ尽くす。」
「あの、」
夜見之宮の冷たい手が、唄子の手に重なった。逃さない、とでも言うように。
「まさか……先に川を渡ったその男の妻の……代わりに、なろうとしてるのか……?」
「っ、」
「……唄子」
真っ直ぐ、満月に射抜かれる。唄子の心臓は跳ね上がり、身体から飛び出そうだ。
昔から変わらぬ美貌に影が差し、見たことのない雄々しい表情を彼女へ向けている。
「よ…み、の…宮…さ…」
「……私、は……」
長いまつ毛が揺れる。そしてゆっくりと、彼がより唄子へ近づいてくる。
(口吸いされる…!?)
鼻先が触れた瞬間、唄子は緊張で思わずぎゅっと目を閉じた。
「うちの可愛い娘になーにしてんだ、我が主」
その瞬間、聞こえてきた篁の声にパッと唄子は目を開けた。
見上げれば、巻物を沢山持った篁が佇んでいる。いつの間に来たのだろう。
一方、夜見之宮は頭を片手でさすりながら俯いていた。
「父上…!」
「唄子や。間もなく明けの明星だ。」
「えっ、もうそんな時間ですか!?」
慌てて唄子は立ち上がる。夜見之宮に握られていた手は、するりと彼の指から離れていく。
「それと、もしも本気で特定の1人を喚びたいのなら、教えたことを応用しなさい。」
「……応用……?」
「そうだ。」
冥府の役人は不敵に笑い、筋のいい愛娘へ告げた。
「情報を持ちうる死霊と相まみえたい場合、どうするのが基本だと私は伝えた?」
「……!」
彼の問いに、唄子は目が覚める思いがした。それは、冥府での修行を始めた最初に教えてもらったこと。
彼女は確かめるように口を開く。
「出会いたい方と縁ある歌、場所、思いで奏でる…!」
「その通り。」
簡潔な篁の返事。それによって確信を得た唄子は、晴れやかな顔で礼をする。
そして、駆け足で現世へと戻っていった。
そんな彼女を見送る、月讀命の寂しげな背中。
「……嫉妬してたって、唄子に迫っても仕方ないでしょう?我が主。」
そこへ声をかける篁。だが、神の反応は彼の予想に反するものだった。
「……嫉妬……?」
「……!?」
なんと、いま理解しましたという声音で繰り返すでらないか。苛立ちのままに接吻までしようとしていたにも関わらずだ。
それが、篁には面白くて仕方がない。
「そーですよー?我が主は、生者として唄子と共に生きられるあの長澤という戦人に嫉妬してるんですよ!」
「これが、嫉妬……」
「そーそ。まあ実際?唄子の生きる環境を変えて、唄子にいい変化を与えたのは彼ですからねー」
煽るように、理解を促すように言葉を重ねる篁。狐につままれたような顔をする月讀命を覗き込み、彼は続けた。
「他の男の気配を纏うようになった愛し子を見るのは、面白くないものでしょう?毎夜垣間見ていたのですから。」
「……」
己の生きた時代になぞらえて語りかける。すると月讀命は、ゆっくりと口を開いた。
「篁よ……」
「はい?」
「つまり私は……我が父イザナギが、我が母イザナミを愛したように……」
座り込んだままの神が、篁を見上げた。
「唄子のことを……愛していると……?」
「……なあにを今更」
「……」
そう、篁にとっては明々白々な恋模様。けれどそれは、月讀命にとってはまさに青天の霹靂。
「そう、か……」
己の胸に手を当てる。唄子から感じる鼓動はない。しかしじわりと暖かくて、苦くて、苦しくて、甘い心地。
「今更、か……」
ずっと昔から知っているその心地についた名前。恋、愛情。それをじっくりと味わうように目を閉じる。
月讀命の脳裏に浮かぶのは、「夜見之宮さん」と呼んで微笑む唄子の姿だった。
その衝撃に声を上げたのは、天珠と照昌だった。
「き…聞いたことないですよご本人から!?」
「神宮寺はん!?それホンマの話なん!?」
そんな彼らに、瑞樹はため息をつきながら答えた。
「こんなことで嘘ついてどうするんですか。」
「そ……それはそうですけど……。でも、俺が隊長の家に下宿させてもらう様になった時から、奥様がいらっしゃったような様子はどこにも……。」
信じられなくて、天珠はなおも食い下がる。唄子だけが、その「面影」に心当たりがあった。
「あの…私の使っているお部屋って……奥様のお部屋でしたか……?」
彼女の発言に、兄貴分2人はハッとする。ホコリの被った鏡台や、床の間の花瓶。そして小梅柄の布団。
確かに唄子の部屋は、以前から女性が使っていたと思われるものだ。
「……そうですよ。」
「……!」
瑞樹からの簡潔な肯定。それを受け、唄子も、天珠も、照昌も、言葉がでなかった。
立ちっぱなしだった天珠が、ゆっくりと腰掛ける。そして彼は、斜め向かいにいる瑞樹へ問いかけた。
「……どんな方だったんですか、隊長の奥様って。」
「……。」
瑞樹は視線を落とす。そんな彼の軍府の裾を、照昌は焦れたように引っ張った。
「なあ神宮寺はん!教えてぇや!長澤はんが家庭が怖いって何?奥さんと何があったん?」
「……。」
どこからか、船の汽笛が聞こえてくる。窓からの風はまだ冷たく、部屋の空気も重い。
けれど3人は、一歩たりとも引こうとしない。それが伝わったのか、瑞樹は何度目かのため息をついた。
「……何も、ありませんでしたよ。」
「……??何も?どういうこと?」
「言葉のままです。」
静かに奏でられるテノール。瑞樹は照昌の腕をそっと外させ、ゆっくりと口を開いた。
「見合いの末に婚姻を結んでも、弘道が見ているのは国防の未来だけでした。故に夫婦の間には、まともな睦言も、子供も、何もなかったんです。彼女の病に、彼が気づけないほど。」
「……」
「家庭の様子を見ていると、亡くした彼女への罪悪感が募るのでしょうね。……そう思うということは、彼女への情は確かに、弘道の中にはあったのでしょうが。」
遠くなった汽笛の音が、静かな執務室に入り込む。何も、唄子たちは言うことができなかった。
「さあ、お喋りは終わりにしましょう。」
空気を切り替えるひとこと。指示を告げながら、瑞樹は椅子から立ち上がる。
「あの……!」
そんな彼へ、唄子は思い切って声をあげる。出口の前で瑞樹が動きを止めたのを見て、彼女はそっと、尋ねた。
「奥さんの最期を……長澤さんは、ちゃんと看取れたんですか……?」
「……。」
室内に影が差す。カチャリとドアノブを捻る音が、嫌に大きく響いた。
「間に合わなかった、とだけ……あの日、弘道からは聞きましたよ。」
それだけを残して、瑞樹は静かに執務室を後にした。
◇
その日の夜。唄子は冥府の彼岸花の海で、いつものように夜見之宮へ彼女の日常を話していた。今日の話の中心はもちろん、長澤だ。
「前から、気になってはいたんです。凄くしっかり揃ってるお台所の道具とか、私の使わせて貰ってるお部屋の箪笥の中の着物とか……。」
「……。」
「奥様がいたと聞いて、むしろ納得というか…」
「……。」
唄子の話を、ただ黙って聞く夜見之宮。それはいつもと同じなのだが、彼の表情だけはいつもと違っていた。
「ねえ、夜見之宮さん。前に、冥府から特定の人の魂を呼ぶのは、大海原で貝殻を探すもの、って、仰ってたでしょう?」
「……あぁ……」
「でも、それがもし本当に出来たら……長澤さん、奥さんともう一度お話が……」
「……唄子、」
「?」
名前を呼ばれ、唄子は夜見之宮を見上げる。満月のごとき瞳が暗い。釣り上がった眉と、固く結ばれた口元。
「……夜見之宮、さん……?」
不安げに彼を呼んでしまった。それに答えるように身を乗り出した彼と、少し身を引く唄子。
「なぜ……あの戦人に尽くそうとする……」
「……えっ?」
低く静かな声に滲む怒気。そんな声を聞いたのは、横浜で長澤と夜見之宮が喧嘩しそうになっていた時以来だ。
「彼はお前を戦に連れ出すと言った……。そんな男に、なぜ尽くす。」
「あの、」
夜見之宮の冷たい手が、唄子の手に重なった。逃さない、とでも言うように。
「まさか……先に川を渡ったその男の妻の……代わりに、なろうとしてるのか……?」
「っ、」
「……唄子」
真っ直ぐ、満月に射抜かれる。唄子の心臓は跳ね上がり、身体から飛び出そうだ。
昔から変わらぬ美貌に影が差し、見たことのない雄々しい表情を彼女へ向けている。
「よ…み、の…宮…さ…」
「……私、は……」
長いまつ毛が揺れる。そしてゆっくりと、彼がより唄子へ近づいてくる。
(口吸いされる…!?)
鼻先が触れた瞬間、唄子は緊張で思わずぎゅっと目を閉じた。
「うちの可愛い娘になーにしてんだ、我が主」
その瞬間、聞こえてきた篁の声にパッと唄子は目を開けた。
見上げれば、巻物を沢山持った篁が佇んでいる。いつの間に来たのだろう。
一方、夜見之宮は頭を片手でさすりながら俯いていた。
「父上…!」
「唄子や。間もなく明けの明星だ。」
「えっ、もうそんな時間ですか!?」
慌てて唄子は立ち上がる。夜見之宮に握られていた手は、するりと彼の指から離れていく。
「それと、もしも本気で特定の1人を喚びたいのなら、教えたことを応用しなさい。」
「……応用……?」
「そうだ。」
冥府の役人は不敵に笑い、筋のいい愛娘へ告げた。
「情報を持ちうる死霊と相まみえたい場合、どうするのが基本だと私は伝えた?」
「……!」
彼の問いに、唄子は目が覚める思いがした。それは、冥府での修行を始めた最初に教えてもらったこと。
彼女は確かめるように口を開く。
「出会いたい方と縁ある歌、場所、思いで奏でる…!」
「その通り。」
簡潔な篁の返事。それによって確信を得た唄子は、晴れやかな顔で礼をする。
そして、駆け足で現世へと戻っていった。
そんな彼女を見送る、月讀命の寂しげな背中。
「……嫉妬してたって、唄子に迫っても仕方ないでしょう?我が主。」
そこへ声をかける篁。だが、神の反応は彼の予想に反するものだった。
「……嫉妬……?」
「……!?」
なんと、いま理解しましたという声音で繰り返すでらないか。苛立ちのままに接吻までしようとしていたにも関わらずだ。
それが、篁には面白くて仕方がない。
「そーですよー?我が主は、生者として唄子と共に生きられるあの長澤という戦人に嫉妬してるんですよ!」
「これが、嫉妬……」
「そーそ。まあ実際?唄子の生きる環境を変えて、唄子にいい変化を与えたのは彼ですからねー」
煽るように、理解を促すように言葉を重ねる篁。狐につままれたような顔をする月讀命を覗き込み、彼は続けた。
「他の男の気配を纏うようになった愛し子を見るのは、面白くないものでしょう?毎夜垣間見ていたのですから。」
「……」
己の生きた時代になぞらえて語りかける。すると月讀命は、ゆっくりと口を開いた。
「篁よ……」
「はい?」
「つまり私は……我が父イザナギが、我が母イザナミを愛したように……」
座り込んだままの神が、篁を見上げた。
「唄子のことを……愛していると……?」
「……なあにを今更」
「……」
そう、篁にとっては明々白々な恋模様。けれどそれは、月讀命にとってはまさに青天の霹靂。
「そう、か……」
己の胸に手を当てる。唄子から感じる鼓動はない。しかしじわりと暖かくて、苦くて、苦しくて、甘い心地。
「今更、か……」
ずっと昔から知っているその心地についた名前。恋、愛情。それをじっくりと味わうように目を閉じる。
月讀命の脳裏に浮かぶのは、「夜見之宮さん」と呼んで微笑む唄子の姿だった。


