冬の中の温かさ。太陽の光がよく通る青空の下で、照昌と唄子はのんびり午前中を過ごしていた。
今のところ、照昌の式神は順調に警戒を続けている。不穏な気配はない。
「お昼、どこかで買ってきますね。」
「おん。よろしゅう〜!」
そう言って唄子は教本を閉じて立ち上がる。巡回に出ている天珠も、もうすぐ昼食のために合流するはずだ。
「……!小野ちゃん待って。」
「……え?」
だが、突如照昌が勢いよく起き上がった。指に絡めた数珠と共に中指と人差し指を合わせて立てる。そして彼は、とある式神と視界を接続するのに集中した。
細い糸目をカッと大きく開く。その瞬間、彼は広場のとある方を見据えた。
「……アカン。こっちや!」
「……!!」
勢いよく駆け出す照昌。唄子もまた、彼を追って駆け出した。
ドンドン距離が離れていく。普段どれだけ飄々としていても、照昌だって軍人なのだ。嫌でもそれを見せつけられる。
そんな中、風に乗って飛んできた1枚のビラ。膝をついた唄子がそれを手に取る。そこに書かれていた、たった3文字。
死なう
それだけで、唄子はゾッとしてしまった。
「あー!!おっちゃんちょお待ってぇ!!」
照昌の声が聞こえてくる。苦しい呼吸をなんとか整えて、唄子も再び走り出した。
「臨める兵闘う者、皆、陣破れて前に在れェ!!」
照昌が九字を切る声を皮切りに、やっと唄子の視界にビラを大量に持った男性が目に入って来た。
彼の手が懐から何か取り出そうとしている。それを、照昌の霊力が縄となって押し止めていた。
「よっしゃあ!止めたで、割腹…自…殺…っ、」
追いついた唄子の横で、照昌の身体が芝生に沈む。その途端、男性を引き止めていた陰陽術がパキンと霧散した。
「あ…アカン…目眩…!待って、嘘やろ…??」
肩で息をする照昌。そのか細い声に答える余裕もないまま、唄子は男性へ向けて足を速めた。
彼女は、叫ぶ。
「やめてえーー!!」
だが男性がビラを全て撒き終えた。「死のう!」と叫ぶ彼が取り出したのは、短刀。
それが腹に当たった瞬間、どうにか唄子はその腕に飛びついた。
「な、なんだお前!!」
驚いた男性が大声をあげる。反射的な恐怖に身体がすくんだが、唄子は必死に声をあげた。
「お願い、自殺なんてやめてください!貴方たちのリーダーのお兄さんから、止めてほしいって頼まれたんです!!」
「江川様の兄上から…!?彼は昨年亡くなっている、ふざけたことを言うな!!」
「ふざけてないです!昨夜、彼が冥府から私の歌を聴きに来てくれたんです!そこでお願いされたんです!!」
「は、はあ!?」
もつれ合いの攻防。唄子は短刀を取り上げようと手を伸ばす。しかし、指先が辛うじて触れるのみ。
「こんの…邪魔だ…!!」
「きゃっ…!」
男性に強く肩を押される。ついに彼女の腕は男性から離れ、尻もちをついてしまった。
男性の足が唄子の視界から消える。慌てて彼女は顔を上げた。その瞬間。
「我が祖国の為めに、死のう!!!
我が主義の為めに、死のう!!!
我が宗教の為めに、死のう!!!
我が盟主の為めに、死のう!!!
我が同志の為めに、死のう!!! 」
そう唱えた男性の腹に、短刀の刃が突き刺さっていた。
「い、イヤぁぁぁぁ!!」
あまりの衝撃に、唄子は悲鳴を上げることしかできなかった。男性の足元に赤い色が広がっていく。それは、血だ。
「お、小野ちゃん…!」
「安倍さん…!!」
顔を真っ青にした照昌がよたよたと歩いてきた。彼は唄子の肩に手をおき、ひと呼吸。
「日比谷病院から…男手、呼んできてや…。俺は、応急処置をしとくさかい…。」
絞り出すように照昌が告げる。そのまま、彼はフラつきながら男性へと駆け寄った。
「は、はい……!」
そう返事をして、震える足を叱咤して唄子も立ち上がる。
日比谷病院の場所は、前日のうちに天珠から教えてもらい覚えていた。
◇
一方、天珠は国会議事堂の前で不穏な現場に遭遇していた。
タクシーが1台停車し、扉が開いたのだ。
「やべっ」
とっさに身を隠し、様子を伺う。ここでタクシーから降りるということは、議会の議員や陸・海軍省のお偉いだろう。
しかし中から出てきたのは、くたびれたシャツとズボンを着た若い男性2人だったのだ。
「……ん?」
明らかな違和感。とても国の政治に関わる人間とは思えない。
男たちは何か確認をすると、二手に別れてしまった。
その上をくるりと回る照昌の式神。つまり、彼らが死のう団の構成員の可能性が高い。
(くそ…どっちに…)
どちらを追うか迷う天珠。手筈どおり鬼化しようとした瞬間、照昌の式神がただの紙飛行機となり落下してくるではないか。
「お…っと!」
その墜落機を慌てて受け止める。議事堂の方はこの式神に任せようかと思ったが、そうも言ってられなくなった。
「……向こうでも何か起こったのか……。」
肩から下げている手提げに、紙飛行機を丁寧に仕舞う。そして天珠は、国会議事堂の方へ向かった男を追った。
(昨日の死霊の話じゃ、奴らがやろうとしてるのは抗争を掲げた死。自死が目的なら勝手にやれって話だが、万が一国家の要人を巻き込むようなことがあれば…!)
そう警戒し、天珠は駆ける。
すると目に入ったのは、まさに鉄柵を乗り越えんとする男の姿。
「おい!!貴様何をしてる!!」
「ッ……!!」
長い軍隊生活で身に付いた大声。もちろん男は天珠に気づいたが、そのまま鉄柵を乗り越えてしまった。
「こんの…!」
サッと、周囲に人がいないことを確認。そして天珠は身体に力を込める。
その途端、彼は一度地を蹴っただけで鉄柵のはるか上まで飛び上がった。
額から伸びる二本の鋭い角。爪は鋭利に伸び、色の反転した目。その姿は、まさに鬼。
眼下に広がる議事堂の敷地。例の男は「死のう!」と叫びビラを撒きながら、正面玄関に向かって駆ける。
もちろん、警官や憲兵も駆け寄っている。先程の天珠の大声は、彼らにも届いていただろう。
男の手で、日差しを反射し光るのは短刀だ。
(あの様子なら、もう警察の管轄下だよな…)
そこまで分かっていて手が出せないのは歯がゆい。だがトラブルは避けたい。だから天珠はそう考えると、鉄柵を足場に方向転換をする。
(俺はもう1人を止める…!)
そう決めて、気づかれないうちに彼は力のままに駆けた。
向かう先は、首脳官邸。そこが何事もなければ、警視庁。
昨夜、唄子が引き寄せた霊。そこからもたらされた情報は、天珠にとって最も確かな警戒先だった。
◇
午後5時。宿に集合した3人は、徒労感に沈んでいた。
結局、駆け回った天珠は誰一人として割腹を止められなかった。警視庁の正面玄関に入っていく党員は見つけたが、もちろんそこは警察の本拠地。たたらを踏み、彼らに託したのだ。
照昌と唄子は、宮城広場の彼を病院へ搬送。そのまま、事情聴取などに協力した結果この時間だったのだ。
なお、照昌の飛ばした式神たちは全て天珠が回収してくれていた。
「なーんか…」
畳に大の字になり、濡れ手ぬぐいを額に乗せた照昌はぼやく。
「頑張った割に、暴動でも何でもなく、ただ人騒がせなだけやったなあ…。」
言葉が部屋の中に溶ける。病院で聞いた男の主張は、照昌にとっては理解不能のものだった。
国に対して何か主張を通そうとしたものとは思えない。比べるものではないが、「昭和維新」などと掲げていた2.26事件の方が何倍も理に適っている気がしてしまった。
「でも…誰も致命傷じゃなくて…、よかった、です。」
お茶を入れた唄子が呟く。彼らの使用した短刀は、致命傷にならないよう細工されたものだった。
唄子はぼんやりとお茶の緑を眺める。
昨夜の霊との会話で、自分が天珠と照昌を必要以上に焚きつけてしまったのではないか。死ねない短刀だと分かっていれば、こんなに疲労を感じなかったのではないか。
そんな不安が、彼女の胸の内で渦巻く。
「…ともかく。俺は隊長に、報告の電話を入れてくる。」
そう言って立ち上がる天珠。畳を通過し、靴を履いて部屋の外へ。階段を下っていく足音が、嫌にハッキリと唄子と照昌の耳を打った。
「……私……」
お茶を飲み干した唄子。じっとしては、いられない。
「冥府…行ってくる。昨日の方に…報告できるかも…。」
そして彼女も、天珠の後を追うように階段を下っていく。
遠ざかる足音を聞きながら、照昌は紙飛行機を握り潰した。
「……くっそぉ……」
湿っぽいその声を聞いたのは、誰一人いなかった。
今のところ、照昌の式神は順調に警戒を続けている。不穏な気配はない。
「お昼、どこかで買ってきますね。」
「おん。よろしゅう〜!」
そう言って唄子は教本を閉じて立ち上がる。巡回に出ている天珠も、もうすぐ昼食のために合流するはずだ。
「……!小野ちゃん待って。」
「……え?」
だが、突如照昌が勢いよく起き上がった。指に絡めた数珠と共に中指と人差し指を合わせて立てる。そして彼は、とある式神と視界を接続するのに集中した。
細い糸目をカッと大きく開く。その瞬間、彼は広場のとある方を見据えた。
「……アカン。こっちや!」
「……!!」
勢いよく駆け出す照昌。唄子もまた、彼を追って駆け出した。
ドンドン距離が離れていく。普段どれだけ飄々としていても、照昌だって軍人なのだ。嫌でもそれを見せつけられる。
そんな中、風に乗って飛んできた1枚のビラ。膝をついた唄子がそれを手に取る。そこに書かれていた、たった3文字。
死なう
それだけで、唄子はゾッとしてしまった。
「あー!!おっちゃんちょお待ってぇ!!」
照昌の声が聞こえてくる。苦しい呼吸をなんとか整えて、唄子も再び走り出した。
「臨める兵闘う者、皆、陣破れて前に在れェ!!」
照昌が九字を切る声を皮切りに、やっと唄子の視界にビラを大量に持った男性が目に入って来た。
彼の手が懐から何か取り出そうとしている。それを、照昌の霊力が縄となって押し止めていた。
「よっしゃあ!止めたで、割腹…自…殺…っ、」
追いついた唄子の横で、照昌の身体が芝生に沈む。その途端、男性を引き止めていた陰陽術がパキンと霧散した。
「あ…アカン…目眩…!待って、嘘やろ…??」
肩で息をする照昌。そのか細い声に答える余裕もないまま、唄子は男性へ向けて足を速めた。
彼女は、叫ぶ。
「やめてえーー!!」
だが男性がビラを全て撒き終えた。「死のう!」と叫ぶ彼が取り出したのは、短刀。
それが腹に当たった瞬間、どうにか唄子はその腕に飛びついた。
「な、なんだお前!!」
驚いた男性が大声をあげる。反射的な恐怖に身体がすくんだが、唄子は必死に声をあげた。
「お願い、自殺なんてやめてください!貴方たちのリーダーのお兄さんから、止めてほしいって頼まれたんです!!」
「江川様の兄上から…!?彼は昨年亡くなっている、ふざけたことを言うな!!」
「ふざけてないです!昨夜、彼が冥府から私の歌を聴きに来てくれたんです!そこでお願いされたんです!!」
「は、はあ!?」
もつれ合いの攻防。唄子は短刀を取り上げようと手を伸ばす。しかし、指先が辛うじて触れるのみ。
「こんの…邪魔だ…!!」
「きゃっ…!」
男性に強く肩を押される。ついに彼女の腕は男性から離れ、尻もちをついてしまった。
男性の足が唄子の視界から消える。慌てて彼女は顔を上げた。その瞬間。
「我が祖国の為めに、死のう!!!
我が主義の為めに、死のう!!!
我が宗教の為めに、死のう!!!
我が盟主の為めに、死のう!!!
我が同志の為めに、死のう!!! 」
そう唱えた男性の腹に、短刀の刃が突き刺さっていた。
「い、イヤぁぁぁぁ!!」
あまりの衝撃に、唄子は悲鳴を上げることしかできなかった。男性の足元に赤い色が広がっていく。それは、血だ。
「お、小野ちゃん…!」
「安倍さん…!!」
顔を真っ青にした照昌がよたよたと歩いてきた。彼は唄子の肩に手をおき、ひと呼吸。
「日比谷病院から…男手、呼んできてや…。俺は、応急処置をしとくさかい…。」
絞り出すように照昌が告げる。そのまま、彼はフラつきながら男性へと駆け寄った。
「は、はい……!」
そう返事をして、震える足を叱咤して唄子も立ち上がる。
日比谷病院の場所は、前日のうちに天珠から教えてもらい覚えていた。
◇
一方、天珠は国会議事堂の前で不穏な現場に遭遇していた。
タクシーが1台停車し、扉が開いたのだ。
「やべっ」
とっさに身を隠し、様子を伺う。ここでタクシーから降りるということは、議会の議員や陸・海軍省のお偉いだろう。
しかし中から出てきたのは、くたびれたシャツとズボンを着た若い男性2人だったのだ。
「……ん?」
明らかな違和感。とても国の政治に関わる人間とは思えない。
男たちは何か確認をすると、二手に別れてしまった。
その上をくるりと回る照昌の式神。つまり、彼らが死のう団の構成員の可能性が高い。
(くそ…どっちに…)
どちらを追うか迷う天珠。手筈どおり鬼化しようとした瞬間、照昌の式神がただの紙飛行機となり落下してくるではないか。
「お…っと!」
その墜落機を慌てて受け止める。議事堂の方はこの式神に任せようかと思ったが、そうも言ってられなくなった。
「……向こうでも何か起こったのか……。」
肩から下げている手提げに、紙飛行機を丁寧に仕舞う。そして天珠は、国会議事堂の方へ向かった男を追った。
(昨日の死霊の話じゃ、奴らがやろうとしてるのは抗争を掲げた死。自死が目的なら勝手にやれって話だが、万が一国家の要人を巻き込むようなことがあれば…!)
そう警戒し、天珠は駆ける。
すると目に入ったのは、まさに鉄柵を乗り越えんとする男の姿。
「おい!!貴様何をしてる!!」
「ッ……!!」
長い軍隊生活で身に付いた大声。もちろん男は天珠に気づいたが、そのまま鉄柵を乗り越えてしまった。
「こんの…!」
サッと、周囲に人がいないことを確認。そして天珠は身体に力を込める。
その途端、彼は一度地を蹴っただけで鉄柵のはるか上まで飛び上がった。
額から伸びる二本の鋭い角。爪は鋭利に伸び、色の反転した目。その姿は、まさに鬼。
眼下に広がる議事堂の敷地。例の男は「死のう!」と叫びビラを撒きながら、正面玄関に向かって駆ける。
もちろん、警官や憲兵も駆け寄っている。先程の天珠の大声は、彼らにも届いていただろう。
男の手で、日差しを反射し光るのは短刀だ。
(あの様子なら、もう警察の管轄下だよな…)
そこまで分かっていて手が出せないのは歯がゆい。だがトラブルは避けたい。だから天珠はそう考えると、鉄柵を足場に方向転換をする。
(俺はもう1人を止める…!)
そう決めて、気づかれないうちに彼は力のままに駆けた。
向かう先は、首脳官邸。そこが何事もなければ、警視庁。
昨夜、唄子が引き寄せた霊。そこからもたらされた情報は、天珠にとって最も確かな警戒先だった。
◇
午後5時。宿に集合した3人は、徒労感に沈んでいた。
結局、駆け回った天珠は誰一人として割腹を止められなかった。警視庁の正面玄関に入っていく党員は見つけたが、もちろんそこは警察の本拠地。たたらを踏み、彼らに託したのだ。
照昌と唄子は、宮城広場の彼を病院へ搬送。そのまま、事情聴取などに協力した結果この時間だったのだ。
なお、照昌の飛ばした式神たちは全て天珠が回収してくれていた。
「なーんか…」
畳に大の字になり、濡れ手ぬぐいを額に乗せた照昌はぼやく。
「頑張った割に、暴動でも何でもなく、ただ人騒がせなだけやったなあ…。」
言葉が部屋の中に溶ける。病院で聞いた男の主張は、照昌にとっては理解不能のものだった。
国に対して何か主張を通そうとしたものとは思えない。比べるものではないが、「昭和維新」などと掲げていた2.26事件の方が何倍も理に適っている気がしてしまった。
「でも…誰も致命傷じゃなくて…、よかった、です。」
お茶を入れた唄子が呟く。彼らの使用した短刀は、致命傷にならないよう細工されたものだった。
唄子はぼんやりとお茶の緑を眺める。
昨夜の霊との会話で、自分が天珠と照昌を必要以上に焚きつけてしまったのではないか。死ねない短刀だと分かっていれば、こんなに疲労を感じなかったのではないか。
そんな不安が、彼女の胸の内で渦巻く。
「…ともかく。俺は隊長に、報告の電話を入れてくる。」
そう言って立ち上がる天珠。畳を通過し、靴を履いて部屋の外へ。階段を下っていく足音が、嫌にハッキリと唄子と照昌の耳を打った。
「……私……」
お茶を飲み干した唄子。じっとしては、いられない。
「冥府…行ってくる。昨日の方に…報告できるかも…。」
そして彼女も、天珠の後を追うように階段を下っていく。
遠ざかる足音を聞きながら、照昌は紙飛行機を握り潰した。
「……くっそぉ……」
湿っぽいその声を聞いたのは、誰一人いなかった。


