黄泉の歌姫は月と海の狭間に揺れる

 大寒を過ぎた頃には、唄子が横須賀に来て1ヶ月になろうとしていた。
 まだ日も昇らない真っ暗な中、今朝も長澤家に生活の音が鳴る。

 スタンと、照昌の部屋の襖が舞台の幕のように開いた。同時に鳴るのは、開演のベルこと目覚まし時計。
 
「おわぁ!!」
「起きろ安倍!起床時間だ!!」

 照昌の悲鳴と天珠の号令。それは唄子にとっても起床の合図だ。
 温かい布団をぎゅーっと抱きしめて10秒。そうして、刺すような寒さの早朝へ。

 着慣れつつある新しい着物に袖を通し、貰った髪紐で髪をまとめる。長澤の大きな羽織を半纏代わりに羽織って襷がけをすれば、準備完了だ。
 
 台所で顔と手を洗う。そしておひつに入れてあるお米をおむすびに。手の中で踊らせて1個、2個、3個…。
 唄子の小さな手では軍人たちには足りないので、沢山舞台に整列させていった。

 そして漬物をお皿に盛っていれば、フェードインしてくるのは2人の足音と軽口のセッションだ。
  
「おはようございます、小野さん」
「おはよ〜小野ちゃん〜。もう聞いてぇなぁ、堂児はんってば今日も布団剥いだんやでー?この寒い中!鬼!」
「いつまでも寝汚いからだろ!」

 キッチリ軍服を着た天珠と、首元のボタンが開いた照昌。くすくすと笑う唄子の声は、彼らの歌へのアクセントになった。

「おはようございます、堂児さん、安倍さん。」

 台所のすぐ裏にあるダイニングテーブルに腰掛ける彼らへ、唄子はおむすびと漬物を運ぶ。そして3人での朝食だ。
 お喋りの止まらない照昌。そんな彼へツッコむのは、もう随分前に天珠は諦めたらしい。彼は黙々と、大きな口で頬張っていく。照昌の話に相槌と笑みを零しながら、唄子も温かい冷やご飯に舌鼓を打った。

 朝食が終われば、天珠は食器を洗ってくれる。そんな彼とポツポツと言葉を交わしながら、唄子は残りのおむすびをお弁当として包んだ。天珠と照昌、そして長澤の分だ。

「それでは、行ってきます。小野さん。」
「行ってきます〜!小野ちゃん、またあとでなぁ〜!」

 朝4:30、長澤宅の玄関にて。
 
「はい。いってらっしゃいませ、堂児さん、安倍さん。また庁舎で。」

 唄子はいつものように、出勤する2人を見送った。
 彼らの話し声がフェードアウトしていくのを特等席で味わう。握りしめる長澤の羽織からは、この家の香りがした。
 この時間が、空間が。歌っているのと同じくらい、唄子の胸を温かくするのだ。もうここに来る前を思い出せないほど、大事な時間。

「……よし。」
 
 演奏の余韻を味わった唄子は、そう呟いた。
 15時から、異能部隊の執務室で能力の訓練だ。彼女の任務は、それまでに昼間の家事を終わらせること。
 唄子は鼻歌と共に、行動を開始するのだった。



 すっかり日が沈んだ頃。訓練後の買い物も終え、唄子は長澤宅に向けて坂を登っていた。

「ランラララ…」

 ついメロディを口ずさんでしまい、ハッと手で塞ぐ。そしてキョロキョロと彼女は辺りを見渡した。
 周囲に霊の気配はない。それを確認して、手をゆっくりと下ろしていった。

 ほ…と、白い息が溶けていく。今わかっているのは、日が暮れて以降に感情込めて歌うと霊を引き寄せるということだけ。まだ、霊を操るのはおろか、会話すらできていない。以前よりハッキリと、霊の姿が分かるようになっただけ。
 だからこそ、念のため家の外で歌うのは控えるようにしているのだ。どんな霊を引き寄せ、どんな影響を受けるか分からないから。

(早く帰ろうっと。)

 そう思い、彼女は歩を速めた。長澤の家の中なら、照昌の張った結界が効いている。安心して、いつでも歌っていい場所だった。
 
 古い井戸の横を通り過ぎる。そんな彼女の前に現れたのは、漆黒の狩衣に身を包んだ長身の男性。
 
「やあ、唄子。さらに歌が上手くなったようだ」
「あなたは…!」

 男性に話しかけられ、唄子は目を丸くした。一度会ったら忘れらない巨体。もう、正体の目処はたっている。
 
「小野篁……さん……?」
「あぁそうだ。先祖の名を覚えているとは、親孝行な娘だな。」

 恐る恐る名前を呼ぶ。にんまりと満足げな笑みで肯定されてしまい、唄子は開いた口がふさがらなかった。
 
(ほ…ほんとに、小野篁が先祖なんだ…!?)

 1000年以上前の人物。自分の血を遡ればたどり着くその本人が、目の前にいる。
 瑞樹がこの場にいれば、また卒倒しそうだ。簡単に想像できる姿に、唄子はつい笑いそうになってしまった。

「…あの…ご先祖様、」
「父と呼べ」
「えぇー…」

 何のようですか。そう尋ねたかっただけなのに、まさかの呼び名指定。何代上なのかも分からない方を父とは、さすがに無理があるのではなかろうか。

「子孫は皆、子も同然だ!だから私はお前の父!」

 長澤に並ぶ暴論。しかも篁の表情は、何もおかしなことなど言ってないと言いたげだ。

「ええっと…じゃあ、父上…」
「うん。なんだ?唄子」

 目を細め、篁が唄子に手を伸ばす。つい身を固くしたが、それは唄子の髪を乱雑に揺らすように撫でただけだった。

「あ、の…なんの、ご用…ですか…?」

 ゆらゆらと撫でられながら尋ねる。すると篁はぽむぽむと手を跳ねさせた後、答えた。

「唄子。冥府に来い。」
「……えと……」

 死ねと?

 そんなストレートすぎる疑問を口にするのは、流石に憚られた。だが唄子の心の声は、篁にはお見通しらしい。

「死ねという意味じゃないぞ?今のお前の実力なら充分、井戸を通じて冥府と現世を行き来できるということだ。」
「冥府と現世を、行き来…!?」
「あぁ。それは唯一死霊使いだけが出来ること。俺が冥府の役人を生前からしている所以だな。」
「……!」

 まさかの、逸話に対する答え合わせ。呆然としている彼女を導くように、篁は近場の古い井戸へと足を進める。

「我が主…月讀命は、不器用な御方でねえ。」
「夜見之宮さん…!」

 井戸の前で振り返った彼の言葉に重ねるように、唄子は心待ちにしている相手の名を呼んだ。
 額に口づけされたあの夜以来、なんと彼とは会えていない。

「そう。会いに来るだろう、唄子?冥府まで。」
「行きます!夜見之宮さんに、会いたいです…!!」

 確信めいた問いかけ。唄子の返事は、即答だった。
 彼女は篁の隣に並ぶ。すると彼は、井戸の上に手を翳し告げた。

「一度で覚えろ。これが死霊使いの秘儀、黄泉渡りの歌だ。」
「……!」

 篁のバリトンボイスが、静かで冷たい歌を奏で始める。すると黄泉の穢れが井戸から溢れ、2人を包む。

 緊張する唄子の肩を抱く篁。歌声が地中深くの水源へ落ちていったとき、彼らの姿は忽然と消えていた。



 この日、瑞樹は貴重な休日だった。
 前日の勤務後に取り込んだ電車。そして帰った品川の家で、出迎えてくれたのは尋常小学校に入ったばかりの長女。
 優しく笑う妻が、この時間が、空間が。瑞樹の癒やしであり、海軍の軍人として戦う1番の理由だった。

 下の娘のお昼寝のつもりが、自分が寝てしまったのはいつのことだったか。
 瑞樹は深く深く、夢を見ていた。

 散らばる紙は、何かのビラだろうか。
 そこにかかる赤。鞘からわずかに刃を覗かせる短刀。
 そして、行進のような声。

 死のう…死のう…死のう…

「お父さんー?」
「ッ…!!」

 瑞樹はハッと目を開く。ぼやける背景の中に、くっきりと浮かぶ長女の顔。くりくりとした目が、心配げにこちらを覗き込んでいた。

「お父さんおはよう!もうお夕飯できるのよ?レイ子も起きたのに、お父さんったらお寝坊!」
「うん…そうだな…。」

 長女の甲高い声のおかげで、瑞樹は完全に眠りから覚めていた。起き上がり眼鏡をかけて、涼子、と名を呼びながら娘の頭を撫でる。
 彼女に手を引かれて居間に向かいながらも、瑞樹は冷や汗が止まらなかった。

 先程の不穏な夢は、彼の予知夢なのだから。