黄泉の歌姫は月と海の狭間に揺れる

 大地が揺れたのを、覚えている。
 世界の終わりのような黒煙が立ち昇っていた。
 悲鳴と、何かが崩れる音と、炎と、風と…。

 自分を突き飛ばした誰かの手を小さな手で必死に握る。
 まだ僅かに温かいその身体に向かって、唄子は歌っていた。

 そうすれば、その誰かを助けられるはず。
 そう、本能だけが分かっていた…。

 ◇

 海の香りに包まれる街、横浜。
 大桟橋には外国からの(ふね)が停まり、山下公園は見物人で賑わっている。
 その賑わいは、真夜中になっても潮がひかない。

「お客さん、もう閉店だから」
「んなこと言うなよぉ。夜はこれからだろぉ?」

 女給の腰に抱きつく軍服の男。カフェーの中には、そんな景色がまだ複数見られる。

 1人、また1人と店の外や2階へと消えていく。

「じゃあ唄子、今日も閉店作業よろしくねぇ」

 そんな言葉を残して、華やかな着物に身を包んだ女給は階段を登っていった。
 隣を歩く恰幅のいいハゲ頭の腕を抱き、可愛らしくしなだれかかりながら。

 ガランとした店内。モップを持つ唄子の手は、連日の水仕事で裂けたあかぎれだらけだ。
 1人売れ残った女給、小野唄子は、消え入るような声で歌いながら床に溢れた麦酒を拭き取っていった。



 真っ暗な夜空を映す海。山下公園の波打ち際で、唄子はすう…と息を吸う。

 そして、水面に映る月に向かって歌い始めた。
 囁くように。波音に掻き消されるように。
 その日を生き抜いたご褒美に、こうしてこっそりと口ずさむのだ。

 観客のいない舞台。スポットライトのように集まる淡い光は、ゆらゆらと宙を踊る。その光に応えるように輝き増す歌声。
 唄子にとっての観客は、周囲の人間には視認すらできない。それでも、彼女は構わなかった。

「……唄子」

 聞こえてきた声に、彼女は振り向く。心待ちにしていた人物を見つけると、唄子は頬に紅を乗せ駆け寄った。

夜見之宮(よみのみや)さん…!」

 彼女の呼びかけに、微笑む夜見之宮。光る君という言葉が相応しい顔立ちは月に照らされ、神々しさすら感じられる。
 幼い頃から唯一、歌を聞いてくれる相手。ずっと変わらない美しさは、唄子の憧れだった。

「……今日は、まだ歌うのか?」

 女性にしては低く、男性というには高い音色。この人の声を聞くだけで、心の臓は駆け足を始めてしまう。

「はい……!夜見之宮さんがいるのなら、いくらでも。」

 そうしてもう一度、胸いっぱいに冬の冷たさを吸う。その冷気は唄子によって、暖かい旋律へと姿を変えていった。

 不幸の源であり、彼女の幸福でもある、歌。
 それは夜闇に溶け、波と共に揺れる。

 その(しらべ)はこの日、とある海の男の耳に届いていた。
 これは、唄子の運命を大きく動かす前奏曲。

 死の舞踏の演奏の、始まりだった。