孤島・オブ・ザ・デッド

 北から南へ長い坂をくだり、藪内の家まであと五十メートルぐらいまで来たところだった。
「しっ」
 藪内が鋭く息を発して、近くの民家の塀に姿を隠した。俺もそれに倣って隣に身を潜める。
 藪内は、ハァハァと息を荒くしていた。緊迫感に、俺の心臓の鼓動も速度を増していく。黙ったまま、眼鏡の奥の大きな瞳がこちらを見た。
 ゆっくりと、指がその方角を指し示す。
 いた。
 ゆらゆら、よたよたと、道を歩いている老人がいた。こちらから見えるのは後ろ姿だが、右のふくらはぎが血まみれだ――衣服は破れ、骨が覗くほど肉をもがれている。しかし、痛がることはなく、ただ「なんか歩きにくいなあ」という調子で歩いている。
 そのとき、民家の庭に植えられた梅の枝に、チチチ、とスズメが遊びに来て――老人は犬のような鳴き声をあげ、スズメに飛びかかった!
「ヴワウッ!」
 とても老人とは思えない力強い跳躍も、木の枝までは届かなかった。しかし、得体の知れない生き物の鳴き声に、スズメは怯えて逃げ出してしまった。
 その光景はなんだか遠くから見ているぶんには滑稽でもあったけれど――ゆっくりと、次の獲物を探すように、老人が辺りを見回す。顔がこちらを向いて……それでわかった。
 あれは、町にある米穀店のじいちゃんだ。お供え用のもち米を買いに行かされたとき会った。不愛想な人だったが、今はニコニコと笑っている。いや、ニマニマというのが正しいか。しかし、口の周りは血と羽毛で汚れている……。
 見つかりませんように、と心の中で祈った。
 見つかりませんように、見つかりませんように、見つかりませんように……。
 じいちゃんが、首の動きを止めて、じいっとこちらを見ている。斜め前にいる藪内の背中が震えている。手のうちの拳銃が、カチャカチャと小さく鳴っている。
 こいつにも、怖いものがあるのか。
 藪内が、声だけは平然として言う。
「……道を戻って、裏から回っていきましょう」
「わかった」
 俺は汗で滑りそうな警棒をぎゅっと握りしめると、そろり、そろりと後ずさりをする。
 じいちゃんは、新たに聞こえた鳥の鳴き声に反応して、視線を逸らした。
 それを見てホッと胸を撫でおろしたとき、藪内の足がもつれた。でかいバックパックが胸にぶつかって、俺はよろめく。ふたりして、地面に尻もちをつく。
「おわっ」
 思わず声を漏らした瞬間、藪内が血相を変えて叫んだ。
「クソッ、走れ!」
「……えっ、うおっ!」
 こちらを見ているじいちゃんと目が合った。じいちゃんはニマニマ笑いを収めて、犬のように四つん這いになった。グルルルルと喉を鳴らすと、ぴょんぴょんと馬か鹿のように手足で跳ねながら追ってくる。それは、やはりとても老人とは思えない機敏さだった。……人間とも思えない。
 俺は藪内の手を掴んで立たせると、そのまま手を引いて駆け出した。藪内が、まだ怯えているように見えたからだ。
 ――二人もゾンビを殺しておいて、今さらなにが恐ろしいというのか。
 先ほど身を隠した民家の敷地に入り、裏をぐるりと回って、反対側の道に出た。
 誰もいない!
 そのまま、一気に藪内の家の裏まで駆け降りる。
 家の敷地に入ったあたりで、藪内が俺の手を振り払った。見ると、走る速度を緩めながらポケットを探っている。裏口の扉に取り付くなり、鍵で開けた。
 ふたりして、なだれこむように家に入って、鍵を閉める。キッチンへの上り(かまち)につまずいて、つんのめって倒れた。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
「あー……ヤバ、ヤバすぎ……」
 息を整えながら、顔を見合わせる。
 藪内は俺と目が合うと、くしゃりと、なぜだか泣き出しそうに顔を歪めた。
「……あの、さっきまで必死すぎて気がつかなかったんですけど……オレ、ヤバいことに気づいちゃって……」
「なんだよ」
「オレのオカンも、ゾンビになってんのかな?」
「……!」
 ハッとした。なぜか今まで、その可能性に思い至らなかった。
 知っている島民が次々にゾンビに変わってしまっているということは、俺たちの母親がそうなっている可能性も高いということだ。
 藪内が震える声で続ける。
「あのじいちゃんみたいに鳥を食ったり、あの警官みたいに人を襲おうとしたり、友介みたいに殺され……」
 藪内は、言葉の途中で口を噤んだ。それは、あまりに恐ろしい想像だった。
 たぶん俺たちは、想像したくなかったのだ。だから無意識にその可能性に蓋をして、見ないようにしていた。
 俺の一番の目的も、藪内の一番の目的も、母親を助けることだったから。
 その目的を失ってしまったら、今、このめちゃくちゃになった世界に立ち続けることができなくなってしまう。
「……無事かもしれないだろ」
「下手な慰め、やめてください。あの警官が配信者から感染したんだとしたら、配信者に襲われたっぽいオレのオカンも感染してるでしょ。常識的に考えて、そうじゃないすか」
「っ、おまえなあ!」
 俺は苛立った。いや、そんな生やさしいもんじゃない、もっと激しい憤りに襲われた。
 俺たちは自分の母親を助けるために、あの警官を殺すことを――友介を殺すことを、正当化したんじゃないか!
 今さら、正気に戻るな。
 今さら、俺を裏切るな。
 今さら、ひとりで置いていかないでくれ。
 俺は叫んだ。
「おまえ、俺の共犯者だってんなら、最後までそれを貫きとおせよ!!」
「……」
 しばらくの沈黙があった。
 藪内は、俺の言葉を咀嚼するように、ぱちりとまばたきをした。
 それからゆっくりと、今まで見たこともないぐらい素直な笑顔を浮かべ、「うん」とうなずいた。
「……そうでした。オレたちの母親は生きてる。だから、見つけるための手がかりを探さなくちゃいけない。……ですよね?」