孤島・オブ・ザ・デッド

 しばらく俺たちは廊下に座り込んでいたが、やがて俺の腹が鳴った。そういえば、朝からなにも食べていない。ちょうど今は昼どきだ。
 電気は止まっていないようだから、冷蔵庫の中身は無事だろう。けれど、キッチンへ行くにはリビングルームを通らなければならない。……友介だったものを、直視しなければならない。
 立ち上がった俺に、藪内が視線を寄越した。やつが半ば諦めたように口を開こうとするのを、俺は制した。
「いい。俺がやる。友介をそのままにするのもかわいそうだし……母さんが帰ってきたとき、びっくりさせないようにしないと」
「……そうですね」
 藪内は、くたびれたように言った。
 俺は、ゆっくりとリビングルームに足を踏み入れた。テレビはまだ砂嵐を映している。ザザザザザ……という無機質な音が、どこか物悲しく感じられるのは、たぶん俺の感傷だろう。
 息をゆっくり吸い込んで、吐いた。目を逸らしていたほうへ、視線を向ける。
 友介は、目と口をぱっくり開いたまま、こと切れていた。額に、まるく昏い穴が空いている。
 俺は気持ちを落ち着かせるために、ふうふうと鼻で息をしながら、友介の瞼を閉じ、顎を閉じた。
 顎を閉じるのは難しくて、力を入れすぎて遺体を(こわ)してしまうのではないかと恐ろしくなり、中途半端になってしまった。このまま縛られているのは可哀そうだから、ハサミを取ってきて、ビニールロープと結束バンドを切る。冷たく重い身体を、ゆっくりとフローリングの床に横たわらせる。
 それから、こんなのは気休めだと思いながら、両手を合わせて、しばらく祈った。
 ――藪内の言ったとおり、友介は「ゾンビ」になってしまったんだろうか。たしかに、自分の記憶にあるものでは、その名前が一番近い。でも、遺体を見る限りは、つい今朝まで一緒にいた友介となにも変わらないように見えた。
 俺はソファにかかっていたひざ掛けのブランケットを友介のうえに被せて、見えないようにした。
「……ごめんな。落ち着いたら、ちゃんとするから」
 落ち着いたら? ちゃんとするから? どういう意味だよ?
 「偽善者」という藪内の罵倒が耳の奥でこだました。
 たしかに、そうかもしれない。
 藪内のしたことは、許せない。納得ができない。けれど、俺は藪内に自分がしたくないことを押し付けているだけなのかもしれない。困難な決断を避けているだけなのかもしれない。そうして自分だけが正しくて、自分だけが綺麗なつもりでいる。ほかのやり方もわからないくせに。
 藪内は「オレのことは誰も守ってくれない」と言った。
 ……俺は、どうやら藪内に守られている。
 母へ置き手紙を書いた。俺と藪内が無事であること。この家の周辺は危険であること。ブランケットの下は覗かないでほしいこと。スマホを肌身離さないでおくから、どうか連絡をしてほしいということ。
 それから、冷蔵庫から適当に食べられそうなものを両手に抱えて持ち出した。ハムとか、魚肉ソーセージとかだ。この部屋にはもう戻りたくなかったから、カップラーメンのような保存食も持てるだけ持ち出した。
 人を――人だったものを殺したのに、腹はしっかり減るだなんて、現実は皮肉だ。
 廊下へ出ると、藪内の姿はなかった。しかし、玄関には靴がそのままだ。……友介の靴もまだある。
 俺は二階にいるんだろうと検討をつけて、階段をあがっていった。
 果たして、藪内は母の部屋にいた。仕事机に座り、ノートパソコンのロック画面を眺めている。
「おま……勝手になにやってんだよ!」
「え、すんません。引き出しのなかとかは見てないすよ」
 そういう問題ではない。やっぱり、こいつは最悪だ。同情しかけて損をした。
 藪内は机の上に広げられたままの書類を示しながら、尋ねた。
「あんたの母親、なんの仕事してるんですっけ?」
「……ライターだけど」
 母はもともと新聞記者だった。東京の大学を出て地方支局に勤めているときに、取材で父と知り合い、結ばれたらしい。そのあとはライター兼フリージャーナリストとして仕事をしていたが、父の巻き込まれた事件で精神的に参ってしまい、しばらく報道の現場からは遠ざかっていた。
「ふうん」
 藪内は、ワニ口クリップで止められた分厚い書類の束を手に取り、目の前で軽く振ってみせた。
「ほんとにただのライター? 島の歴史についても、ずいぶん詳しく調べてたんですね。これ、うちのオカンが持ってるようなやつですよ」
 俺は近づいて、その書類に目を凝らした。
 郷土史……のコピーのようだった。年表形式で、この島を含めた周辺の諸島についての歴史が淡々と記されている。
「いや……知らなかった」
「なあ。このパソコンのパスワードわかる?」
「は? なんで?」
 唐突な問いに、眉をひそめる。藪内は「ちょっと考えてることがあって」と曖昧に答える。
 パスワード自体はわかる。パソコンが必要な作業をするときに何度か教えてもらったからだ。けれど、いくらなんでも不躾すぎる。目的もわからないのに母親のプライバシーを明け渡すことはできない。
「考えてることって、なんだよ」
 藪内は、俺が仕事机の空いている場所に広げた食料から、ハムを選んだ。フィルムを剥がして、そのままかじりながら話す。
「覚えてます? オレのオカンが襲われたときに『祭壇を撮りたいんなら正々堂々と』って言ってたの」
「……ああ」
 思い出して、胸が悪くなる。俺は、急に味のしなくなった魚肉ソーセージをなんとか飲み込んだ。
「あれさ、大島へ行くって予告編出してた動画配信者に対して言ってたんじゃないかと思うんだよね。ほら、岬へお供えに行ったとき、漁師のおっちゃんたちが話してたでしょ? 大島に渡すのを断ったら、『祭りを撮らせてくれってしつこくされた』って。オカンもその話を覚えてて、顔を調べたのかも」
「……」
 なるほど。動画は暗くて、祭壇を荒らしている人物の顔まではっきりと見えなかったが、藪内の母の肉眼には見えていたのかもしれない。
 けれど、そのことと俺の母親の集めた資料を見たい理由が結びつかない。
 俺の心のうちを読んだように、藪内はぐっと顔を寄せてきた。
「そんで、オレは思ったんす。動画配信者たちは、結局、大島に渡っていたんじゃないか? そこで『旧軍の生物兵器』にやられて、人を喰うバケモンになって帰ってきた……」
「そんな馬鹿な……」
 さすがに同意できなかった。突拍子がなさすぎる。しかし、藪内は小さく首をかしげて言った。
「土地で語り継がれる話には、一抹の真実が含まれるもんです。あの『最近作られた』七人の人喰い人魚の話だって……人喰いの部分は真実だったんじゃないですかね。戦時中に大島の軍需工場で働いていた人たちが、自分たちの目撃したものを恐怖譚として語り継いだ、とか」
「根拠がないだろ」
「だから、その根拠がこのパソコンのなかにあるかもって言ってるんですよ」
「ばかばかしい……」
「そうすかね? オレ、実はさっき、あんたの母親の名前でググったんです。結構、社会派の立派な記事が出てきましたよ。隠ぺいされた秘密を暴く系の……チョーサホードーってやつ?」
「……」
 さっき母親の仕事はなにかと聞いたのは、単に俺の反応を見るためだったわけか。
 俺はため息をつくと、パスワードを打ってパソコンのロックを解除した。
「……俺は荷造りしてくる。それが終わるまでのあいだだけな」
「荷造り?」
「母親がいないとわかった以上、ここにじっとしてるわけにはいかない。……いたくない」
 置き手紙はした。あとは島のほかの場所を探すだけだ。