友介の様子が変わり始めたのは、それから十分ほど経ったころだった。
うつむいた口から、ツー……と細く長く唾液が垂れ落ちる。グルルルルル……と獣が喉を鳴らすような音が響いてくる。
「ア゙ー……ア゙ー……」
うつろに声を発しながら、よろよろと。丸めていた背を伸ばした友介と、目が合った。
その瞬間、友介が大きく目を見開いた。真っ赤に血走った白目。開いた瞳孔。
ああ――あの警官と同じだ!
俺は反射的に腰を浮かせる。衝動的に逃げ出しそうになる。
「ヴー!! ヴー!!」
ガチ、ガチ、ガチン。唸り声を発しながら、拘束に邪魔されて到底届かない俺に喰らいつこうと、友介は何度も口を開けては閉じる。そのたびに歯と歯のぶつかる音が鳴った。
「……十三分、経ちましたね」
藪内が冷静に告げる。それは、まるで俺にとっては死刑宣告のようだった。目の前が暗くなる。
「お、おい、まさか……」
まさか、友介は殺さないよな。
口に出せなかった言葉を、藪内は理解していて「あはは」と笑った。
「え? どうするつもりだったんですか?」
友介が俺たちに飛びかかろうと身体を揺らすたびに、ダイニングチェアがギシギシと軋む。そのたびに、椅子が壊れてしまうのではないかと気が気でない。拘束がほどけてしまうんじゃないかと……。
「こうなった以上、やるしかないじゃないですか」
「……」
「それか、あんたが結束バンドを切って逃がしてやったらいいんじゃないですか? オレが避難したあとだったら、止めないですよ」
そんなことはできないとわかっているくせに。俺は藪内を睨みつけた。藪内は肩を竦めてみせた。
「……もともと選択肢はそんなにないと思うけど。ここで楽にしてやるか。縛ったまま放っておいて寿命が尽きるのを待つか。でもさ。本当にゾンビだったら、たぶん頭を撃たないと死なないよ。それに、あんたの母親が家に帰ってくるかもしんないでしょ? そしたら……」
万が一、拘束が解けてしまって母が襲われないためにも、今ここで決着をつけるしかない――のか? でも……。
「友だちを殺したくない……」
それが本音だった。藪内は、やっぱり呆れたように笑った。
「友だち、ね。……リボルバー。貸してください」
差し出された右手を、じっと見つめる。渡したくない。
「診療所……診療所に連れて行かないか? もしかしたら友介を治せる薬があるかもしれない」
「え、それマジで言ってます? こんなヤバい病気を治せる薬が存在するなら、ここまで壊滅的な状況になってないって。警察にも救急にも電話が通じないんすよ?」
ギッギッギッと椅子の軋む音がする。友介がものすごい力でダイニングチェアを前後に揺さぶっている。そんな力が身体のどこに隠されていたのか。それとも、これも「ゾンビ」に変わったことによるものなのか。このままでは、そのうち椅子はバラバラに壊れてしまうだろう。
残り時間がない。焦りが募る。
「言ってるじゃないですか。あんたがひとりで正義の警官ごっこをするんなら止めませんけど……もうこの島は、普通の状態じゃないんです。みんなで仲良しこよしは無理。守りたいものが何なのか、優先順位を決めたほうがいいですよ」
――耳を塞いでいても、銃声は聞こえてきた。
一人掛けのソファに三角座りをして、膝に顔をうずめている俺の肩を、藪内が叩いた。
「……終わりましたよ」
俺は、さっきまで友介だったものが座っているほうを見ないようにして、リビングルームを出た。廊下へ出ると力が抜けて、壁を背にずるずると座り込む。
たいして親しくもない警官だったら、まだよかった。けれど友介は、一年ちかく一緒に過ごして、つい昨日は一緒に寝泊まりまでした、後輩で友だちだ。頭がぐちゃぐちゃで、おかしくなりそうだった。
藪内は、俺のあとを追って廊下へ出てきた。
「苦しまずに済みました。あの警官みたいに警棒で殴る手もありましたけど、あんたにとってはまだ『友だち』らしいので。残り四発のうちの貴重な一発を使ったんだから、感謝してほしいですね」
「なんでそんなに平然としてんだよ……」
頭を抱える。
ここには誰も、助けてくれる大人がいない。
警察も、救急も、頼りにならない。集落の人間は、いつ誰が襲ってくるのかわからない。そんななかで、唯一の肉親を探さなければならないのに――俺のそばにいるのは、こいつなのか。
平気で、友人を「敵」として殺せる人間。
「俺は、おまえのことが一番怖いよ……なんで、そんなに簡単に殺せるんだよ」
胸の澱を吐き出すようにつぶやいたけれど、なにも楽にならない。
藪内は舌打ちすると、大きな声を出した。
「それはなあ! オレのことは誰も守ってくんねえからだよ! そしたら、オレのことはオレが守るしかねえだろうが!」
胸ぐらを掴まれた。見上げた視線が、藪内の視線と交わる。
やつは吐息がかかるくらいに顔を近づけると、唇を憎々しげに歪めて吐き捨てた。
「偽善者。だからオレはあんたが嫌いなんだ。ずっとずっと、嫌いだった!」
思わず、笑いだしたくなった。
「両想いだよ、やったな」
はは、と面白くもなんともないはずなのに、口から笑いがこぼれる。横隔膜が震えて、その痙攣が伝わって、笑いになる。つられるようにして、口角が引き攣る。
あはははは、と腹を抱えて笑いだした俺を突き放し、藪内は脱力したように向かいの壁に背中を預けた。そうして薄暗い天井を見上げながら、浅く笑った。
「……調子でてきたじゃん」
うつむいた口から、ツー……と細く長く唾液が垂れ落ちる。グルルルルル……と獣が喉を鳴らすような音が響いてくる。
「ア゙ー……ア゙ー……」
うつろに声を発しながら、よろよろと。丸めていた背を伸ばした友介と、目が合った。
その瞬間、友介が大きく目を見開いた。真っ赤に血走った白目。開いた瞳孔。
ああ――あの警官と同じだ!
俺は反射的に腰を浮かせる。衝動的に逃げ出しそうになる。
「ヴー!! ヴー!!」
ガチ、ガチ、ガチン。唸り声を発しながら、拘束に邪魔されて到底届かない俺に喰らいつこうと、友介は何度も口を開けては閉じる。そのたびに歯と歯のぶつかる音が鳴った。
「……十三分、経ちましたね」
藪内が冷静に告げる。それは、まるで俺にとっては死刑宣告のようだった。目の前が暗くなる。
「お、おい、まさか……」
まさか、友介は殺さないよな。
口に出せなかった言葉を、藪内は理解していて「あはは」と笑った。
「え? どうするつもりだったんですか?」
友介が俺たちに飛びかかろうと身体を揺らすたびに、ダイニングチェアがギシギシと軋む。そのたびに、椅子が壊れてしまうのではないかと気が気でない。拘束がほどけてしまうんじゃないかと……。
「こうなった以上、やるしかないじゃないですか」
「……」
「それか、あんたが結束バンドを切って逃がしてやったらいいんじゃないですか? オレが避難したあとだったら、止めないですよ」
そんなことはできないとわかっているくせに。俺は藪内を睨みつけた。藪内は肩を竦めてみせた。
「……もともと選択肢はそんなにないと思うけど。ここで楽にしてやるか。縛ったまま放っておいて寿命が尽きるのを待つか。でもさ。本当にゾンビだったら、たぶん頭を撃たないと死なないよ。それに、あんたの母親が家に帰ってくるかもしんないでしょ? そしたら……」
万が一、拘束が解けてしまって母が襲われないためにも、今ここで決着をつけるしかない――のか? でも……。
「友だちを殺したくない……」
それが本音だった。藪内は、やっぱり呆れたように笑った。
「友だち、ね。……リボルバー。貸してください」
差し出された右手を、じっと見つめる。渡したくない。
「診療所……診療所に連れて行かないか? もしかしたら友介を治せる薬があるかもしれない」
「え、それマジで言ってます? こんなヤバい病気を治せる薬が存在するなら、ここまで壊滅的な状況になってないって。警察にも救急にも電話が通じないんすよ?」
ギッギッギッと椅子の軋む音がする。友介がものすごい力でダイニングチェアを前後に揺さぶっている。そんな力が身体のどこに隠されていたのか。それとも、これも「ゾンビ」に変わったことによるものなのか。このままでは、そのうち椅子はバラバラに壊れてしまうだろう。
残り時間がない。焦りが募る。
「言ってるじゃないですか。あんたがひとりで正義の警官ごっこをするんなら止めませんけど……もうこの島は、普通の状態じゃないんです。みんなで仲良しこよしは無理。守りたいものが何なのか、優先順位を決めたほうがいいですよ」
――耳を塞いでいても、銃声は聞こえてきた。
一人掛けのソファに三角座りをして、膝に顔をうずめている俺の肩を、藪内が叩いた。
「……終わりましたよ」
俺は、さっきまで友介だったものが座っているほうを見ないようにして、リビングルームを出た。廊下へ出ると力が抜けて、壁を背にずるずると座り込む。
たいして親しくもない警官だったら、まだよかった。けれど友介は、一年ちかく一緒に過ごして、つい昨日は一緒に寝泊まりまでした、後輩で友だちだ。頭がぐちゃぐちゃで、おかしくなりそうだった。
藪内は、俺のあとを追って廊下へ出てきた。
「苦しまずに済みました。あの警官みたいに警棒で殴る手もありましたけど、あんたにとってはまだ『友だち』らしいので。残り四発のうちの貴重な一発を使ったんだから、感謝してほしいですね」
「なんでそんなに平然としてんだよ……」
頭を抱える。
ここには誰も、助けてくれる大人がいない。
警察も、救急も、頼りにならない。集落の人間は、いつ誰が襲ってくるのかわからない。そんななかで、唯一の肉親を探さなければならないのに――俺のそばにいるのは、こいつなのか。
平気で、友人を「敵」として殺せる人間。
「俺は、おまえのことが一番怖いよ……なんで、そんなに簡単に殺せるんだよ」
胸の澱を吐き出すようにつぶやいたけれど、なにも楽にならない。
藪内は舌打ちすると、大きな声を出した。
「それはなあ! オレのことは誰も守ってくんねえからだよ! そしたら、オレのことはオレが守るしかねえだろうが!」
胸ぐらを掴まれた。見上げた視線が、藪内の視線と交わる。
やつは吐息がかかるくらいに顔を近づけると、唇を憎々しげに歪めて吐き捨てた。
「偽善者。だからオレはあんたが嫌いなんだ。ずっとずっと、嫌いだった!」
思わず、笑いだしたくなった。
「両想いだよ、やったな」
はは、と面白くもなんともないはずなのに、口から笑いがこぼれる。横隔膜が震えて、その痙攣が伝わって、笑いになる。つられるようにして、口角が引き攣る。
あはははは、と腹を抱えて笑いだした俺を突き放し、藪内は脱力したように向かいの壁に背中を預けた。そうして薄暗い天井を見上げながら、浅く笑った。
「……調子でてきたじゃん」
