孤島・オブ・ザ・デッド

 頭がガンガンする。吐きそうだ。けれど歩む足は止めない。俺の指は脅迫的にスマホの通話ボタンをタップし続ける。
 繋がれ。繋がれ。繋がれ。
 けれど、何度かけても通じない――俺の母親の安否は、未だにわからない。
 いったい、なにがどうなっている?
 藪内の母親を襲った暴漢たちと、警官がグルだったのか? でも、あの腹の傷。藪内が胸を撃つ前から警官は怪我をしていたようだった。あいつらに襲われた? 仲間じゃないのか? だが、そうだとしたら、なぜ俺たちを襲う?
 ――「生き返った」警官は、藪内に頭を警棒でめちゃくちゃに殴られ、ふたたび動きを止めた。
 早く逃げようと促す俺を無視して、藪内はしばらくそこに留まった。「確実に死んでいるか確認しなくちゃいけない」と言って。
「もし生きてたら、オレたちの行為が過剰防衛だって証言されちゃいますからね」
「……クソ……」
 完全に、俺が藪内と口裏を合わせる前提だった。
 嘘をつかなければ、罪に問われる。嘘をついたら、自分の信念を裏切ることになる。
「最悪だ……俺の将来、台無しだ……」
 頭を抱える俺に、藪内は皮肉な口調で「惜しむ将来があるなんて、羨ましいなぁ」と言った。
「オレには将来の夢も、なんもねえもん。……でもオレたち、これで共犯者」
 睨みつけると、やつは心底楽しそうに喉の奥で笑った。
「一蓮托生、ですね?」
 俺は藪内が満足すると、すぐに駐在所を飛び出した。
 俺の自宅は島の東側にある。この島でなにが起きているのかはわからない。けれど、もし危険な目に遭っていなければ、母は予定どおり自宅に帰っているはずだ。
 繋がれ。
 スマホにかじりつく俺の後ろを、ふわふわとした足取りで藪内が追う。さっきから、なにやらずっと一人で話している。ヘラヘラと笑いながら。
「正直、いい気分ですよ。ざまあみろっていうか」
 オレ、昔、女みたいな名前でキモいとか言われて、いじめられてて。交番に駆け込んだことがあるんですよね。
 公園のトイレに閉じ込められて、上から色んなもんぶっかけられて。最初は公園に設置されてるゴミ箱から取ってきた残飯とかだったかな。そんで、放置されてた手持ち花火の燃えカスとそれ突っ込んだ水をかけられて。次に外から「マジかよ」「くせえ」って爆笑する声がしたから、やべえ犬かなんかのウンコぶっこまれると思って、いじめっ子が全身で押さえつけてる個室の扉に死ぬ気で体当たりして、なんとか逃げ出した。でもあいつら怒鳴りながら全員で追っかけてきて。そのうちの一人がエアガン持ってて、バンバン背中に撃ち込んでくるんすよ。このままじゃ殺されるかもって思ったから、公園の近くにある交番へ逃げ込んだんす。
 でも入口入ってすぐのところで、おまわりに止められて。たぶん、俺がびしょ濡れのうえに臭くて汚かったから、汚されるのがやだったんかな。「助けてください」って言ったんだけど、なんか「ただの子どものケンカでしょ」みたいな。俺のランドセルに靴の跡ついてるし、「死ね」とか「オカマ」とか落書きされてんのが見ればわかるだろうに、「きみも本気でやり返さないからエスカレートするんだよ」って。結局、本気で怒ってくれたのはオカンだけだった。
「だから、警官が犯人だったのはやっぱりねっていうか。マジで、ざまあみろって感じです」
 俺は、何度も、何度も、通話ボタンをタップしている。
 お掛けになった電話は、電波の届かない場所にある、または電源が入っていないため――。お掛けになった電話は、電波の届かない場所にある――。お掛けになった電話は、電波の――。お掛けになった電話は――。お掛け――。
「藪内。ちょっと静かにしてくれ」
「ええ?」
 藪内がへらへらと笑いながら訊き返す。
「……黙ってくれ」
「すんません、興奮しちゃって」
 藪内は、眼鏡のガラスについたままの血しぶきに気づき、乱暴に学ランの袖で拭った……。
 これは罰なのだろうか。藪内の母が消えたと聞いて、一瞬でも喜んだことへの。
 あるいは、あの日、父が今まさに殺されているとも知らずに呑気に日常を送っていたことへの。
 ――また、守れないのか?
 道には相変わらずひと気がない。穏やかな天気で、すべてが悪い夢のようだ。俺は自宅の屋根が見えると同時に走り出した。
 母が島外の高校に進学するため出ていくまで、祖父母と住んでいた家。そこに、今は母と俺が二人で住んでいる。
 父が殺されてしばらくして、精神的に不安定になった母は、祖母を頼って島へ帰ることにした。しかし祖母も、俺たちが帰ってきてすぐに病気で亡くなってしまった。祖父は俺が生まれる前に亡くなっている。
 俺は、昨日出かけたときからなにも変わらないように見える、のどかな風景のなかを走っていった。自宅の庭に入り、お世辞にも手入れが行き届いているとはいえない植栽の前を横切ったとき――なにか黒いものが飛び出してきた。
「うわっ!」
 叫んで、咄嗟に尻ポケットに入れていた拳銃に手を伸ばす。
「諒ちゃん! えっ、ちょっ、なに!?」
 そこにいたのは、友介だった。
「ホンモノ!? 撃たないで!?」
 友介は俺が片手で取り出した拳銃にギョッとして、大声で喚く。
「なんだ……友介か……」
 俺は脱力した。
 とにかく、無事でよかった。そう感じながら改めて友介を見ると、右腕にハンカチを巻き、その上を左手で押さえている。紺色のハンカチで、よく見えないが……血を吸っているように見える。
「どしたん、それ?」
 俺に追いついた藪内が、軽い調子で訊いた。
「……」
 友介はなにも答えず顔を曇らせた。しかし、覚悟を決めるようにひとつ唾を飲み込むと、「いってえ……」と苦し気にうめきながら、ハンカチをめくって見せる。
 思わず声が出た。
「うわ……」
 友介の腕は、肉が抉れていた。ハンカチによる圧迫がなくなると、またじわじわと鮮血が滲んでくる。
 俺は長いこと見ていられずに、目を逸らした。藪内は生々しい傷口をじっと見つめたまま、尋ねた。「……これ、歯形?」と。
 たしかに、友介の傷は楕円形をしていた。そして、もっともひどく抉れている部分の周囲には、波型の赤い傷が残っていた。
 友介は、藪内の問いに「うわあああ」と泣き出した。
「家に帰ったら、父ちゃんが、父ちゃんが急におかしくなって……」
 俺は藪内と顔を見合わせた。心臓がバクバクする。藪内は、奇妙に落ち着いた顔をしていた。
「それって……おまえの父ちゃんが、おまえを襲ったってこと……?」
 俺が尋ねると、友介はこくこくと頷く。しゃくりあげながら、血にじっとりと濡れたハンカチを傷口に戻した。
「家に帰って顔合わせたら、なんか急に暴れだして……俺に噛みつこうとするから、抵抗したんだけど、ここ、噛まれて……肉をもがせて、必死で逃げてきた」
 友介の家は、俺の近所だ。
 藪内が、俺にしか聞こえない囁き声で言う。
「もしかして、友介の父親も、あの警官みたいになったってこと……?」
「……」
 友介は「あんなの父ちゃんじゃない」と泣きじゃくっている。
 背筋が寒くなった。もし友介の父が、あの警官のようにおかしくなっていたんだとしたら。この近所を、逃がした友介を探して徘徊しているんだとしたら。
「とりあえず……なかに入ろう」
 ふたりを促して俺の家に入る。
 玄関の鍵は閉まっていた。三和土に母がいつも履いている靴はない。それだけで絶望が深くなる。今すぐ家じゅうを探し回りたくなる。けれど、俺は友介の手当を優先した。
 リビングルームに案内し、ソファに座らせる。救急箱を探してきて、傷口に消毒液をかけると、包帯をきつく巻いてやる。痛い痛いとべそをかいているので、鎮痛剤も飲ませてやる。
 俺の家に入るのは初めてのはずの藪内は、妙にくつろいだ様子で俺たちの向かいのソファに座ると、勝手にテレビの電源を入れた。
「おい」
「ニュースになってるかもしんないでしょ」
 藪内の母が襲われたことが……あるいは駐在所の警官が死んだことが、だ。俺は黙った。
 なにも知らない友介は、ようやく人心地がついたのか、二人掛けのソファにぐったりと沈み込んでいる。
 ザザザザザザ……。
「あれ?」
 映ったのは砂嵐だ。藪内が不審の声をあげる。俺も内心ドキリとする。
 俺はほとんどテレビを見ないが、母は出かける支度をしているあいだ、天気と時間の確認のためにテレビをつけっぱなしにする習慣がある。昨日のままなら、なにか映し出されるはずだ。
 藪内がチャンネルボタンを端から押していく。なにも映らない。砂嵐。
 今度は、入力を切り替える。画面の右上に「HDMI1」と表示される。つまり、さっきは外部入力の状態になっていたわけではない。
 地上波テレビが、映らない。
「……壊れてる?」
 藪内が、こちらを見て半笑いで尋ねた。
「いや……」
 壊れていない。はずだ。
「おかしいなー」と藪内はぼやく。しかし、俺には先にやるべきことがあった。
 ソファに寝そべった友介が、目を閉じておとなしくしているのを確認すると、リビングルームを出た。
 二階への階段をあがって、母の部屋、自分の部屋を確認する。誰もいない。
 下へ戻ると、以前に祖母が使っていた部屋を見、物置替わりにしている空き部屋を見、風呂場とトイレを見て――リビングルームへ戻ってきた。
 いない。この家に、母の姿はない。
 俺は泣きそうな気持ちだった。迷子になって、誰に助けを求めればいいのかわからない。そんな気持ち。力なく、藪内の隣の一人掛けのソファに身体を投げ出す。
 藪内は、まだテレビのリモコンを弄り回している。ぎゅっと眉根を寄せ、眼鏡の奥の目を細め、先ほどより焦った様子ではある。
 友介は目を閉じて横になっているうちに、眠ってしまったようだ。静かに胸を上下させている。
 スマホを取り出して、先ほどはかけられなかった110番にかけてみる。こんなことをしたら駐在の警官が死んでいることが――俺たちが殺したことがバレてしまうかもしれない。その考えが一瞬頭をよぎったけれど――もう、母の無事がわかるならなんだっていい。
 しかし、話し中だった。
「……え?」
 思わず漏らした声に、藪内がこっちを見る。その視線を無視して、もう一度かけてみた。話し中。
 ……110番が話し中なんてこと、あるか? 焦って、119番にもかけてみる。
 ツー、ツー、ツー。
 事態の深刻さを理解したらしい藪内が、つぶやいた。
「嘘だろ……」
 もしかして。事態は思っているよりも、深刻なのではないか。
「ゔ……ゔゔぅう……」
 そのとき、眠っていたはずの友介が突然苦しみだした。
 顔をしかめ、ぱた、ぱた、と首を大きく横に振り、ソファの座面をガリガリと掻く。
「友介!? どうした、苦しいのか!?」
「うっ、あ゙、あ゙ー、あ゙ー……!」
 俺がそばに寄ると、友介はパッと目を見開いた。しかし、視線は交わらない。
 目玉が飛び出そうなほど目をかっぴらき、胸の奥からなにかを吐き出そうとするように口を開け、友介は意味をなさない声をあげる。
「ひぃっ、ぐ、あああああ……!」
「友介! 友介!」
 俺は必死に名前を呼ぶ。友介は絞り出すような叫びとともに、腹を抱えて丸まった。
 しかし痛みが治まらないのか、友介は背を丸めたまま、ばたん! ばたん! と左右に身体を揺らした。その勢いで、ソファからフローリングの床に転がり落ちる。
「友介!」
 両肩を掴んで呼びかける俺に、背後から藪内が言った。
「どいてください」
 振り向くと、藪内は、あの忌々しい警棒を手にしていた。すっかり伸ばして、今にも「敵」を打ち据えることができるようにして。
「俺、思うんですけど……これってゾンビじゃないすか?」
「は?」
 なにを馬鹿なことを言っているんだ。ゾンビなんて想像の産物。フィクションのなかにしか存在しない。
 目の前で苦しんでいる友介は、現実だ。
「だって、そうじゃないですか? 突然、今までなんともなかった人間が、凶暴化して襲ってくる。それも、どうやらこっちの肉を食おうとしているらしい。胸を撃っても死ななくて、頭をぶっ潰したら死んだ。しかも、あいつらに噛まれたら同類になるみたいだ」
 俺は、警官の腹にあった傷のことを思い出した。それから、友介の腕の傷も。
 ……友介も、俺たちを襲うようになるのだろうか。
「緊急通報が通じないのも、テレビが映んないのも、それじゃないですか? 電話の向こうの人たちとか、番組作ってる人たちとか、みんな感染してゾンビになったんじゃない?」
「そんな、馬鹿な……」
 藪内が妙に饒舌なのが気に障る。この状況に、ショックを受けていないどころか、楽しそうにすら見える。
「ねえ、縛りませんか?」
「……おまえ……」
 藪内は、なんでもないことのように提案した。俺は、思わず庇うように友介の肩を強く抱いた。
 友介の息はどんどん荒く、浅くなっていく。
「だって、急に襲ってきたら困るじゃないですか。もし、しばらく様子を見て、ゾンビにならなかったら解けばいいし。なー。友介だって、俺らを襲いたくないだろ?」
 藪内の言葉に、友介がうなずいた――ように見えた。それは願望が見せた幻覚だったかもしれない。友介は、もう言葉も話せない、耳も聞こえているのかわからない、そんな様子で苦悶していたから。
 けれど、藪内は「決まりですね」と言って、俺にいくつかの物の場所を訊いた。
 友介は、藪内の手でダイニングチェアに座らされ、両手を結束バンドで縛られた。それから、胴を荷造り用のビニールロープで背もたれごとグルグル巻きにされる。
 友介は、拘束自体に抵抗することはなく、しかし身体の内側で起きている病変の苦しみに耐えられないという様子で、ときどき身体を大きく痙攣させた。
 俺は止めることもできずに、ただその様子を眺めていた。
 こんなことをしている場合じゃない。こんなに苦しんでいるのは、噛まれたことによって、なんらかの感染症にかかったのかもしれない。ゾンビだなんて馬鹿げた話じゃなくて……今すぐ友介を病院に運ぶべきじゃないか? だが、島唯一の診療所は町にある。そこまで危険に遭わずに辿りつけるかどうか。辿りついたとして、医師が無事かどうか。
 頭のなかで、考えがぐるぐるしてまとまらない。
 なにより、その道中で、本当に友介が俺たちを襲ってきたら……。
 藪内に植え付けられた恐怖が、もう頭から離れない。
 藪内は、友介の拘束を終えると、ふたたび一人掛けのソファに腰を下ろした。一度手放した警棒を、また握っている。俺は、その警棒を見ないようにしたまま、隣のソファに座っていた。
 藪内が自分の腕時計を見た。「あと三十分くらいかな」と言う。
 今朝、警官と別れて岬へ行き、戻ってくるまで、一時間弱ぐらいだった。そのあいだのどのタイミングで警官が負傷したのかはわからないが、友介が父親に噛まれてから経過した時間を考えても、「ゾンビ」になるのだとしたら、あと三十分もしないで……というのは、理解ができた。
 俺にできるのは、友介が怪物にならないよう祈ること。それだけだった。それ以外のことは、あとで考えるしかない。
 拘束された友介は、初め、ぐったりと頭を落としていた。
「ううう……うううう……」
 苦しそうなうめき声と、時折、身体を痙攣させるのは変わらない。
 俺は手のひらを爪が食い込むほど強く握りしめ、その様子を見守っていた。ちらり、ちらりとリビングルームの壁に掛けられた時計へ目をやりながら。