孤島・オブ・ザ・デッド

 俺は自宅のベッドで横になってSNSを眺めていた。おすすめのタブを無限にスクロールする。
 ぽっ。また新しい動画のサムネイルが表示された。それは意識の表層に浮かび上がってくる泡として、際限なく現れ、けれど瞬くうちに消えてしまう……はずだった。
 「閲覧注意」と記されたタイトルを気に留めず、俺は自動再生される動画を見るともなく見た。
 スマホで撮影された動画だった。
 きゃあきゃあと叫び声をあげながら、こちらへ走って逃げてくる人たちがいる。撮影者は、その人波を避けながらも決して近づかず、けれどなにが起きているのかを探るように、カメラを巡らす。
 二人、倒れている人たちがいる。そのすぐそばで二人、うごめいている人たちがいる。どこにでもある駅前の広場で、気持ちのいい晴れの日で、なんだか一見のどかな光景だ。音は届かず、撮影者のハァハァという怯えた吐息だけが耳につく。
 撮影者がズームをする。解像度が低く、写されている人々の顔まではわからない。
 しかし、倒れている人々の周りにできた血だまりが映った。揉みあうふたりの男が映った。
 太陽の光をギラリと反射したものがある。それは包丁の刃で、揉みあっているうちのひとり――警官の頬を貫いた。それから瞼を。それから喉を。防弾チョッキに護られていない部分を執拗に刺す。
 血しぶきが散る。映画やなんかで見るよりも、ずっと少ない量の血しぶきだ。
 警官は必死にもがいていたが、やがて動かなくなった。警官にのしかかっていた男が、ゆらりと立ち上がる。辺りを見回し――カメラのほうを向いた。陽射しで影になった、真っ暗な眼窩がこちらを見る。
 目が、合った。
 そう感じた瞬間、血まみれの男はこちらを見たまま、全速力で駆け出す。
 ――動画はあっけなく、そこで終わる。
「っ……はぁ、はぁ、は……」
 目を開くと夜で、教室の天井が見えた。
 ゆっくりと息を吐く。ばくばくとうるさい心臓を落ち着けようと、繰り返し深呼吸をする。
 やがて落ち着くと、冷や汗をかいているのが気になりはじめる。寝返りを打つと、隣に布団を並べている藪内と目が合った。
 ――藪内は起きていた。
 眼鏡をしていないので、ぼんやりとした目つきだったが、あちらもこちらが目を覚ましていたことに驚いたようで、小さく目を見開いた。
 藪内の顔色は青ざめていて、俺よりもよほど悪夢を見た直後のような、怯えた表情をしていた。
「……ひでえ顔だな、おい」
 藪内は下唇を噛んでから、ごまかすように笑ってみせた。
 今、何時だ? 枕元に置いたスマホを手に取る。午前二時ごろだった。
 母から数時間前にメッセージが届いている。
(あかり)くんのお母さんが集会所にいないの。燈くんなら、どこにいるか知ってるかな?」
 あのあと岬から二人で集会所に向かったとばかり思っていたが、違ったらしい。
 俺は藪内をちらりと見た。藪内は、またぼんやりとした瞳でまばたきして、俺と目を合わせた。
 ほとんど吐息の小声で尋ねる。
「なあ。おまえの母親、集会所にいないらしいんだけど」
 藪内は、小さく瞳を揺らした。ぎゅっと不安げに眉を寄せ、けれど、また曖昧に笑った。
「……急に体調が悪くなって、集会所へ行かずに家で寝てることにしたって」
「……そう」
 あれだけ仲のいい二人だ。直接それを伝えなかったのは妙な気がしたけれど、よほど体調が悪かったのかもしれない。俺は深く考えずにうなずいて返信を打ちかけ、けれど時間を考えて、母にメッセージを送るのは朝になってからにすることにした。
 どちらにしろ、大人たちは朝まで飲み明かすのだろうが。
「諒ちゃん、起きてる……?」
 少し離れた場所から、美咲の遠慮がちな声がした。
 俺は半身を起こして、「起きてるよ」と答えた。
「ねえ、あのさ……トイレ、付いてきてくれない……? おねえちゃん、寝ちゃってて……」
 美咲は、ますます小さな声で言った。小学四年生にもなって、怖い話を聞いてひとりでトイレに行けなくなるなんて。そう考えて、恥ずかしいのだろう。
「いいよ」
 俺は微笑むと立ち上がり、美咲の枕元に歩み寄った。
「俺も友介の語りが怖すぎて、一人でトイレ行きたくねえなって思ってたとこ」
「えー、諒ちゃんも?」
 美咲がほっとした顔で笑う。俺たちは小声で話しながら、教室の外へ出た。
 引き戸を閉めるとき、布団のうえに座り込んだ藪内が、不安げにこちらを見ているのがわかった。俺はその視線を断ち切るように、戸をゆっくりと閉めた。
 トイレから教室に戻ったときには、藪内は布団のなかに潜って、眠っているようだった。
 俺は漠然とした違和感を覚えながらも、それを押し殺し、あたたかな布団のなかへ戻った。
 次に目覚めたとき、教室はまだ暗かった。しかし薄青い光がカーテンの縁から漏れこんでいる――夜明けが近いようだ。
 俺を覚醒に導いたのは、衣擦れの音だった。身体を動かさずに視線だけをそちらへ向けると、隣の藪内が寝間着から学ランに着替えている。
 起床時間は七時半のはずだ。少し早い。けれど、あくまで少しだけだ。
 それでも、あと十数分でも寝に戻らなかったのは、胸騒ぎがしたからだ。
 藪内は着替え終わるとマフラーを巻き、バックパックを背負い、教室を抜け出した。俺も慌てて着替え、スマホだけを持って後を追う。
 藪内は、昇降口で外靴に履き替えているところを捕まった。
「朝メシ、みんなと一緒に食わねえの?」
 七時半に起床、八時にみんなで朝食、それから解散。そんな流れだと聞かされていた。
「……ちょっと、急用で」
「急用?」
 俺は迷った。プライバシーを言い訳にして、深く尋ねず「そっか、じゃあまた週明けな」と別れてしまってもよかった。実際、藪内の事情にたいした興味はなかった。
 しかし、藪内のほうが先に口を開いた。
「朝になってもオカンから連絡がないんですよ」
「家で寝てるんじゃねえの?」
 藪内は目を逸らすと、唇をかすかに震わせた。
「……あれ、嘘なんです」
 ゆうべ、「気になることがあるから、岬の様子見てから行くわ」ってメッセージが来て。それから連絡がなくなって。通話も繋がんなくて……。
 その言葉を聞いた瞬間、すうっと、胸の奥に涼しい風が吹いた気がした。それは恐怖ではなく――無意識に、爽快だと感じたのだ。死んだ父親の使命感を鼻で嗤ったやつの、母親が姿を消したことを。
 そんな自分が怖かった。
 俺は湧きでた感情を振り払うように、歩き出した藪内のあとを追った。藪内は、普段のだるそうな歩き方が嘘のような早足で、ずんずん進んでいく。
「忌籠祭の夜に外へ出たから……危険な目に遭ってなければいいんですけど……」
 背負った大きなバックパックが、痩せた小さな背中を強調している。初めて、こいつを痛ましいと思った。
 埋め合わせをするように、俺は藪内を慰めた。
「心配しなくても、実際、祭りの夜に出歩いただけで呪われたり喰われたりしないって。本当は真っ暗にして静かにしてなきゃいけない掟なのに、大人は毎年どんちゃんやってるんだから」
「別に、人喰い人魚にビビってるわけじゃないです。ただ、ああいう怪談は集落の人たちが外へ出ないよう戒めるために語られる」
「ああ……」
 藪内の言いたいことが今ひとつ掴めず、ぼんやりとした応答をする。藪内は馬鹿にしたように浅く笑った。
「外に出たらなにか悪いことが起きるのは本当かもしれないってことですよ。お化けみたいな非科学的なやつじゃなくて、もっと現実的なね」
 本当に嫌なやつだ。俺だって、別に人喰い人魚の存在を信じているわけじゃない。
 けれど、母親を案じての発言だと思うと、めずらしく同情する気になる。
 学校のある高台から坂を下っていく。朝焼けに染まる空と光る海、次第に太陽に照らされていく家並みは、信じられないぐらい穏やかだった。
 陽那島は、人口百人弱、周囲9キロメートルの小さな島だ。入り江にある港が中心となり、放射状に小さな町が広がっている。町の東南側に学校があり、西北側に岬と神社がある。藪内の家も藪内の母親が向かったという岬も、島の西側に位置するから、学校から向かうなら町を通り抜けることになる。
 町なかに、人の姿はなかった。俺たち以外の子どもは学校だ。大人たちは集会所にいるか、自宅で過ごしているのだろう。藪内は、駐在所の前で足を止め、「念のため」と言って中に入った。
「すみません」
 声をかけると、俺たち以外では唯一、島の「よそ者」である警官が奥から姿を現す。
 あまり話をしたことはなかった。なんというか、仕事だから仕方なくやっていますというやる気のなさが態度に滲み出ていて……俺の警官への憧れが台無しになる気がして、できれば話したくなかった。
 藪内から「母親と連絡がつかない」と聞いた警官は、やはりめんどくさそうに「あー、はい」とうなずいた。
「毎年恒例のやつね。ゆうべ飲みすぎて、まだ起きてないだけじゃない?」
「そんなはずはないです。オカンは酒に強いし、最後に連絡が来たのは集会所に向かう前で……」
「うーん。それだけじゃあ、なんともねえ。まあ、今から集会所のほうへパトロールに向かいますから。なんか見つけたら連絡しますよ」
 ほら、ここに名前と連絡先を書いて。警官はメモを差し出す。この人口の少ない島で、さらに数少ないよそ者として知られている俺たちの名前すら憶えていないとは、やはりやる気がないとしか思えない。
 警官は、「毎年、集会所から町まであちこち酔っ払いとゲロだらけでね。ほんとくさいのなんのって」とうんざりした顔を隠しもせずに、自転車に跨って出て行った。
「……オレは岬に行きます」
 藪内はそう宣言して、こちらを見た。
 眼鏡の奥の瞳が揺れる。ついてきて欲しいんだなと感じた。たったひとりの肉親と連絡が取れないのは不安だろう。いくら怪異を信じていないとはいえ、縁起でもない怪談を聞いたばかりでもある。
 それでも、俺は一瞬迷った。こいつへの悪感情をいったん忘れることにしたのは、まだ残っていた後ろめたさのせいでもあるし、先ほど相対した不甲斐ない警官への反発もあった――俺は、あんなふうにはならない。
「行こうぜ」
 俺が岬へ向かって歩き出すと、藪内はほっと小さく息を吐いて、尻ポケットからエアガンを取り出した。