目を覚ますと、俺は広間の真ん中に寝転がっていた。布団もなく、明かりもなく、飲んだ茶もない。幸いなことに、床に置いたままのバックパックと警棒は残されていた。
どうやらすでに夜で、辺りは真っ暗だった。畳からは、かび臭い匂いがした。
ゆっくりと起き上がる。頭がズキズキする。手のひらに、ささくれだった畳の表面が触れる。
部屋の造りは先ほどまでいた広間と変わらなかったが、あきらかに何十年もの歳月が経っているように見えた。
ゾッとする。まるで浦島太郎になった気分だ。このまま外へ出たら、何十年も経っていて、もう誰も俺を知る人間は残っていないんじゃないか。藪内も、美咲も、とっくに死んでしまって……。
そうだ。ふたりはどこへ行ったんだ?
俺は空想に浸るのをやめて、よろよろと立ち上がった。広間から出ると、ギシギシと床を鳴らしながら歩く。目が慣れると、淡い月明かりに宿の内装がぼんやりと浮かび上がる。
宿のなかは、ある一瞬で時を止めてしまったようだった。
床の間の花瓶に活けられていた枝ものが、枯れ枝のみを虚しく残している。座敷には宗和膳が並んだままで、そのうえで酒器が埃をかぶっっている。布団を敷いたままの部屋も、三味線を畳に放り出したままの部屋もある。
まるで、いつだか話を聞いたことのある、いっせいに乗客が姿を消した幽霊船みたいだ。
「……」
俺は歩き続けて、宿の裏手へたどりついた。そろり、と裏口から顔を覗かせる。そこは裏庭で、小さく粗末な墓がいくつも並んでいた。人間の、墓だろうか……。そのとき、ぐい、と後ろからなにかに口を塞がれた!
「っ……!!」
「静かにしてください」
耳元でささやいたのは、藪内の声だった。俺は、安堵の息を吐く。
俺の身体から力が抜けたのを感じとって、藪内は手を離した。
「おまえ、どこに行ってたんだよ! ずいぶん探したんだぞ!」
「だから、静かにしてくださいって……!」
藪内は声をひそめて、早口に言った。
「どこに行ってたは、こっちのセリフですよ! 着替えたあと、あんたは急にふらふらと部屋を抜け出して、姿が見えなくなって……」
「……美咲は?」
「なに言ってんですか? みさきちは、漁船で待ってるじゃないすか」
「……」
話が噛み合わない。なにかがおかしい。とにかく、ここを逃げ出さなくては。
しかし、藪内は俺の手を強く引いた。
「……こっちです」
「ちょっと……」
大声を出すなと言われ、強引に振り払うこともできない。どこかにあの六人の女たちがいるのかもしれないと考えると……俺は唇を噛み締めた。
藪内は、とある部屋の襖を開いた。そこは一見、布団部屋に見えた。ボロボロになった積まれた布団と、むわりと立ちこめるかび臭い匂い。
藪内は、部屋の隅まで行くと、板間の上を示した。よく見ると、点検口の蓋のような四角い戸がある。地下室の入り口、だろうか。
その戸を引き上げ、現れた階段を、藪内は降りていく。地下はますます暗い。しかし突然、パッと辺りが明るくなった。藪内がスマホの懐中電灯機能を使ったのだ。
「うわっ……!」
俺は思わず声をあげた。
まぶしい光に浮かび上がったのは、天井から床まで嵌め込まれた格子。
そして、そのなかにぎゅうぎゅうになった骸。すっかり白骨化して、真っ暗な眼窩をこちらへ向けている。
いわゆる、座敷牢のように見えた。
「ここ、もともとは逃げ出そうとした遊女の折檻部屋だったんでしょうね。でも、ほら、見てください。この人たちの服……」
助けを求めるようにこちらへ手を伸ばす骸もあり、身体が竦む。藪内はためらわずに懐中電灯の光を骸骨へ近づけた。
「腹のあたりが破れて、汚れてるっしょ」
色褪せた茶褐色の、単純な構造の服は、かつての国民服を思わせた。
「……たぶん、この人たちが最初のゾンビですよ」
藪内が白い頭蓋骨に光を当てる。こめかみに弾痕らしきものが残っている。
「ここから先は完全にオレの想像ですけど」と藪内が語りだす。
「生物兵器を開発する工程で、なんか事故があったんでしょうね。工員に感染者が出た。最初の感染者たちを座敷牢のあったこの宿に隔離したけど、想定よりも感染力は強かった。どんどん感染が広がって、宿じゅう、島じゅうまで広がった。島の人間はほとんど全滅。わずかに生き残った人間もかたく口封じされ、故郷へ帰された。さらに誰も島へ入れないように、事情に通じた人間によって、この島は私有地にされ……みたいな?」
「じゃあ、あの女たちは……」
幽霊?
藪内は、そんなことはたいした問題ではないというように「さあ?」と肩を竦めた。
「別の種類の化け物とか? 今のオレにわかるのは、この死体の写真を撮って……」
藪内はそう言いながら、フラッシュを焚いて、スマホで写真を撮った。
「世間に流せば! オレたちの母親の遺志を果たせるかもしれないってことです!」
「……いし?」
意思と言ったか? いや、それでは意味が通らない……。
呆然と繰り返す俺に、藪内は微笑みを浮かべた。
「すんません。オレ、早い段階から、オレたちの母親が生きてるなんて信じてませんでした。あんたの共犯者になるために、黙ってたんだけど……」
「……」
なんだって? 藪内は、まだ微笑んでいる。
嫌な予感がした。俺は、地下室の階段を駆け上がった。――美咲は、どこにいる?
「ねーえ。今のうちに早く逃げて帰りましょうよ。そんでこの悲劇を生き延びた島でたったふたりの人間になって、大島の実態を伝えて、みんなにチヤホヤされましょ? それって正義の行いじゃないですか? あんたの大好きな……」
俺は布団部屋から出て、やみくもにあたりの襖を開けて回った。いない、いない、いない。
藪内が、ゆっくりと後ろから追いかけてくる。
「美咲!」
もう、あの女たちに遭遇したって構わない。大声で呼ぶと、藪内があからさまな溜息をついた。
「はあーあ……また美咲、美咲って……。あのね。あの子は今、幸せなはずですよ。大好きな比丘尼様に会えたんだから……」
「ッ、藪内!」
俺は藪内の胸ぐらを掴んで、押し倒した。ドン、と後頭部をしたたかに打ち付け、「いってえ!」と藪内が叫ぶ。それを無視して、馬乗りになった。
「美咲は、どこにいる!? なにか知ってるんだろ!?」
「アハ……」
「藪内!」
「全部、あの子のせいじゃないですか!」
藪内は突然、怒鳴った。
「あの子が飲みかけた茶を、あんたが代わりに飲んだから、あんたは意識を失って……あの子は女たちに連れて行かれました。オレはなんとか逃げて、身を潜めてたけど……ずいぶん時間が経ちましたからね」
「クソ」
俺は吐き捨てて、立ち上がった。
「出てこいよ! 美咲を返せ!」
天井に向かって叫ぶ。しかし、肝心なときに女たちは姿を見せない。
「……七人目になっちゃってるんじゃないですか?」
藪内が、どんよりとした目でこちらを見た。
「え?」
「あいつら、六人でしたよね。怪談に出てくる『人魚』は七人。そんで、古いほうの怪談にあったじゃないですか。『若い娘は連れて行かれてしまう。男は取って食われてしまう』。ほら、他愛のない怪談に思えても、そこには一抹の真実が含まれるって……オレたち、思い知らされたばかりじゃないですか」
俺は走り出した。もう「七人目」になってしまっているんだとしても、俺は美咲を助けなければならない。また守れないだなんて、そんなのは絶対に嫌だった。
――呼んでも出てこないのなら。出てくる気にさせるだけだ。
俺は先ほど顔を出した裏口まで駆けていった。藪内があとを追ってくる。俺が外へ逃げることに決めたと思ったのか、上機嫌だ。
「そうそう、男は見つかったら殺されちゃうんですから」
しかし俺は裏庭へ出ると、心の中で「許してください」と祈りながら、並ぶ古びた墓石へ向かって――警棒を振るった。
粗末な小さな墓は、きっと女たちの同胞のものだろうと思ったのだ。
ガキン! と。金属と石のぶつかる音が響くかと思ったが、なんの音もしなかった。
俺は、衝撃に備えてつむった目を開いた。
チリチリチリチリチントンシャン。華やかな三味線の音色が聞こえてくる。人々の談笑する声がする。
並ぶ部屋から橙色の明かりが漏れ出る廊下に、俺は立っていた。
「……ここは……?」
背後で藪内がごくりと唾を飲んだ。俺は足音を立てないように、一歩、一歩、前へ進んでいく。もっとも奥の広間にたどりつき、襖を薄く開いた。
六人の、うつくしい女たちが舞い踊っている。――六人? 七人ではないのか?
その様子を杯を口に運びながら眺めているのは、口ひげを生やし、高価そうな背広を着た男。軍服を着た男。国民服を着た男。
これは、この広間が何度も見た光景なのだろう。まるで場所がその記憶を再現しているように、淡く光を帯びて美しい情景だった。
しかし、音もないまま、情景が変わる。
まずは国民服を着た男が、急に苦しみ始める。うずくまり、悶え、歯を剥き……軍服を着た男に飛びかかった!
背広を着た男は腰を抜かしながらもなんとか逃げ出そうと、畳の上を芋虫のように這っている。しかし無情にも、ふたりの男に足を引っ張られ、食いつかれてしまう。
その様子を、女たちはじいっと冷ややかな眼差しで見守っている。
やがて、三人の男がゾンビになったところで――六人の女は、俺たちのほうを見た。
「……っ!」
どれだ。どれが美咲だ? 本当にこのなかにいるのか?
女たちは一様に若く、美しく、その顔は白塗りで、一見には個性が判然としない。
女たちは白い指で俺たちを示して、ゾンビをけしかける。グルルルル……と聞き覚えのあるうなり声を放って、三匹の怪物が俺たちに襲いかかる。
俺は、ひたすらに警棒を振るった。工員の噛みつこうとする口に警棒を噛ませ、藪内がその頭を撃ち抜く。その隙に背後から襲いかかる資本家の、でっぷりとした腹を蹴とばすと、藪内が手渡してくれた警棒でめちゃくちゃに殴る。それを見つけてこちらに向かってくる軍人の額を、藪内が撃ち抜く。
今の俺は藪内のことを憎くて憎くて仕方がないのに、俺たちは最高のコンビネーションを見せていた。それが皮肉すぎて、笑えてくる。
藪内も、くずおれた軍人ゾンビの前でこちらを振り返り、ニッと笑った。
その様子をじいっと眺めていた女たちが、けしかけた男たちが全滅したのを見て、一斉にゆうるりと小首をかしげた。それは、情もなにもなく、飼っていた金魚が死んでしまい「あらまあ」といった調子だった。
そうして、俺たちの――俺のほうへ向かってきた。自ら手を下そうと決めたように、高速で、動きを揃えて、あのシュシュシュシュ……という衣擦れの音を立てながら……。
「諒ちゃん!」
藪内が俺の名を叫んだ。残った最後の銃弾を、先頭を歩く女に撃ち込もうと、銃口を向ける。しかし、すぐには撃たない。なにかをためらっている。ガチガチと銃の震える音がする。
女たちは俺に向かって腕を伸ばした。俺は動かずに、じっと立っていた。攻撃をせず、ただ女たちの差異を見極めようと……。
――そうして、やっと、わかった。
「美咲!」
俺は、名前を呼んで先頭の女の手を取った。ふっと、白い顔に美咲の面影が戻る。美咲は、今初めて俺の存在に気づいたという顔をして――笑った。
「あたしね! 比丘尼様にお願いできたよ! 諒ちゃんのお母さんを助けてくださいって!」
俺は彼女の手を引くと、走り出した。
「……クソッ!」
藪内は女が美咲であることに気がつくと、銃口を逸らし、天井に向かって最後の一発を撃ちこんだ。それは、単に衝動を逃がすためにしては、合理的な藪内らしからぬ行動だった。完全降伏の――あるいは攻撃を放棄した、宣言のような。
女たちはその響きを聞いて、どうしたことか、魔物を祓う銀の銃弾に貫かれでもしたように、煙となって消えてしまった。
どうやらすでに夜で、辺りは真っ暗だった。畳からは、かび臭い匂いがした。
ゆっくりと起き上がる。頭がズキズキする。手のひらに、ささくれだった畳の表面が触れる。
部屋の造りは先ほどまでいた広間と変わらなかったが、あきらかに何十年もの歳月が経っているように見えた。
ゾッとする。まるで浦島太郎になった気分だ。このまま外へ出たら、何十年も経っていて、もう誰も俺を知る人間は残っていないんじゃないか。藪内も、美咲も、とっくに死んでしまって……。
そうだ。ふたりはどこへ行ったんだ?
俺は空想に浸るのをやめて、よろよろと立ち上がった。広間から出ると、ギシギシと床を鳴らしながら歩く。目が慣れると、淡い月明かりに宿の内装がぼんやりと浮かび上がる。
宿のなかは、ある一瞬で時を止めてしまったようだった。
床の間の花瓶に活けられていた枝ものが、枯れ枝のみを虚しく残している。座敷には宗和膳が並んだままで、そのうえで酒器が埃をかぶっっている。布団を敷いたままの部屋も、三味線を畳に放り出したままの部屋もある。
まるで、いつだか話を聞いたことのある、いっせいに乗客が姿を消した幽霊船みたいだ。
「……」
俺は歩き続けて、宿の裏手へたどりついた。そろり、と裏口から顔を覗かせる。そこは裏庭で、小さく粗末な墓がいくつも並んでいた。人間の、墓だろうか……。そのとき、ぐい、と後ろからなにかに口を塞がれた!
「っ……!!」
「静かにしてください」
耳元でささやいたのは、藪内の声だった。俺は、安堵の息を吐く。
俺の身体から力が抜けたのを感じとって、藪内は手を離した。
「おまえ、どこに行ってたんだよ! ずいぶん探したんだぞ!」
「だから、静かにしてくださいって……!」
藪内は声をひそめて、早口に言った。
「どこに行ってたは、こっちのセリフですよ! 着替えたあと、あんたは急にふらふらと部屋を抜け出して、姿が見えなくなって……」
「……美咲は?」
「なに言ってんですか? みさきちは、漁船で待ってるじゃないすか」
「……」
話が噛み合わない。なにかがおかしい。とにかく、ここを逃げ出さなくては。
しかし、藪内は俺の手を強く引いた。
「……こっちです」
「ちょっと……」
大声を出すなと言われ、強引に振り払うこともできない。どこかにあの六人の女たちがいるのかもしれないと考えると……俺は唇を噛み締めた。
藪内は、とある部屋の襖を開いた。そこは一見、布団部屋に見えた。ボロボロになった積まれた布団と、むわりと立ちこめるかび臭い匂い。
藪内は、部屋の隅まで行くと、板間の上を示した。よく見ると、点検口の蓋のような四角い戸がある。地下室の入り口、だろうか。
その戸を引き上げ、現れた階段を、藪内は降りていく。地下はますます暗い。しかし突然、パッと辺りが明るくなった。藪内がスマホの懐中電灯機能を使ったのだ。
「うわっ……!」
俺は思わず声をあげた。
まぶしい光に浮かび上がったのは、天井から床まで嵌め込まれた格子。
そして、そのなかにぎゅうぎゅうになった骸。すっかり白骨化して、真っ暗な眼窩をこちらへ向けている。
いわゆる、座敷牢のように見えた。
「ここ、もともとは逃げ出そうとした遊女の折檻部屋だったんでしょうね。でも、ほら、見てください。この人たちの服……」
助けを求めるようにこちらへ手を伸ばす骸もあり、身体が竦む。藪内はためらわずに懐中電灯の光を骸骨へ近づけた。
「腹のあたりが破れて、汚れてるっしょ」
色褪せた茶褐色の、単純な構造の服は、かつての国民服を思わせた。
「……たぶん、この人たちが最初のゾンビですよ」
藪内が白い頭蓋骨に光を当てる。こめかみに弾痕らしきものが残っている。
「ここから先は完全にオレの想像ですけど」と藪内が語りだす。
「生物兵器を開発する工程で、なんか事故があったんでしょうね。工員に感染者が出た。最初の感染者たちを座敷牢のあったこの宿に隔離したけど、想定よりも感染力は強かった。どんどん感染が広がって、宿じゅう、島じゅうまで広がった。島の人間はほとんど全滅。わずかに生き残った人間もかたく口封じされ、故郷へ帰された。さらに誰も島へ入れないように、事情に通じた人間によって、この島は私有地にされ……みたいな?」
「じゃあ、あの女たちは……」
幽霊?
藪内は、そんなことはたいした問題ではないというように「さあ?」と肩を竦めた。
「別の種類の化け物とか? 今のオレにわかるのは、この死体の写真を撮って……」
藪内はそう言いながら、フラッシュを焚いて、スマホで写真を撮った。
「世間に流せば! オレたちの母親の遺志を果たせるかもしれないってことです!」
「……いし?」
意思と言ったか? いや、それでは意味が通らない……。
呆然と繰り返す俺に、藪内は微笑みを浮かべた。
「すんません。オレ、早い段階から、オレたちの母親が生きてるなんて信じてませんでした。あんたの共犯者になるために、黙ってたんだけど……」
「……」
なんだって? 藪内は、まだ微笑んでいる。
嫌な予感がした。俺は、地下室の階段を駆け上がった。――美咲は、どこにいる?
「ねーえ。今のうちに早く逃げて帰りましょうよ。そんでこの悲劇を生き延びた島でたったふたりの人間になって、大島の実態を伝えて、みんなにチヤホヤされましょ? それって正義の行いじゃないですか? あんたの大好きな……」
俺は布団部屋から出て、やみくもにあたりの襖を開けて回った。いない、いない、いない。
藪内が、ゆっくりと後ろから追いかけてくる。
「美咲!」
もう、あの女たちに遭遇したって構わない。大声で呼ぶと、藪内があからさまな溜息をついた。
「はあーあ……また美咲、美咲って……。あのね。あの子は今、幸せなはずですよ。大好きな比丘尼様に会えたんだから……」
「ッ、藪内!」
俺は藪内の胸ぐらを掴んで、押し倒した。ドン、と後頭部をしたたかに打ち付け、「いってえ!」と藪内が叫ぶ。それを無視して、馬乗りになった。
「美咲は、どこにいる!? なにか知ってるんだろ!?」
「アハ……」
「藪内!」
「全部、あの子のせいじゃないですか!」
藪内は突然、怒鳴った。
「あの子が飲みかけた茶を、あんたが代わりに飲んだから、あんたは意識を失って……あの子は女たちに連れて行かれました。オレはなんとか逃げて、身を潜めてたけど……ずいぶん時間が経ちましたからね」
「クソ」
俺は吐き捨てて、立ち上がった。
「出てこいよ! 美咲を返せ!」
天井に向かって叫ぶ。しかし、肝心なときに女たちは姿を見せない。
「……七人目になっちゃってるんじゃないですか?」
藪内が、どんよりとした目でこちらを見た。
「え?」
「あいつら、六人でしたよね。怪談に出てくる『人魚』は七人。そんで、古いほうの怪談にあったじゃないですか。『若い娘は連れて行かれてしまう。男は取って食われてしまう』。ほら、他愛のない怪談に思えても、そこには一抹の真実が含まれるって……オレたち、思い知らされたばかりじゃないですか」
俺は走り出した。もう「七人目」になってしまっているんだとしても、俺は美咲を助けなければならない。また守れないだなんて、そんなのは絶対に嫌だった。
――呼んでも出てこないのなら。出てくる気にさせるだけだ。
俺は先ほど顔を出した裏口まで駆けていった。藪内があとを追ってくる。俺が外へ逃げることに決めたと思ったのか、上機嫌だ。
「そうそう、男は見つかったら殺されちゃうんですから」
しかし俺は裏庭へ出ると、心の中で「許してください」と祈りながら、並ぶ古びた墓石へ向かって――警棒を振るった。
粗末な小さな墓は、きっと女たちの同胞のものだろうと思ったのだ。
ガキン! と。金属と石のぶつかる音が響くかと思ったが、なんの音もしなかった。
俺は、衝撃に備えてつむった目を開いた。
チリチリチリチリチントンシャン。華やかな三味線の音色が聞こえてくる。人々の談笑する声がする。
並ぶ部屋から橙色の明かりが漏れ出る廊下に、俺は立っていた。
「……ここは……?」
背後で藪内がごくりと唾を飲んだ。俺は足音を立てないように、一歩、一歩、前へ進んでいく。もっとも奥の広間にたどりつき、襖を薄く開いた。
六人の、うつくしい女たちが舞い踊っている。――六人? 七人ではないのか?
その様子を杯を口に運びながら眺めているのは、口ひげを生やし、高価そうな背広を着た男。軍服を着た男。国民服を着た男。
これは、この広間が何度も見た光景なのだろう。まるで場所がその記憶を再現しているように、淡く光を帯びて美しい情景だった。
しかし、音もないまま、情景が変わる。
まずは国民服を着た男が、急に苦しみ始める。うずくまり、悶え、歯を剥き……軍服を着た男に飛びかかった!
背広を着た男は腰を抜かしながらもなんとか逃げ出そうと、畳の上を芋虫のように這っている。しかし無情にも、ふたりの男に足を引っ張られ、食いつかれてしまう。
その様子を、女たちはじいっと冷ややかな眼差しで見守っている。
やがて、三人の男がゾンビになったところで――六人の女は、俺たちのほうを見た。
「……っ!」
どれだ。どれが美咲だ? 本当にこのなかにいるのか?
女たちは一様に若く、美しく、その顔は白塗りで、一見には個性が判然としない。
女たちは白い指で俺たちを示して、ゾンビをけしかける。グルルルル……と聞き覚えのあるうなり声を放って、三匹の怪物が俺たちに襲いかかる。
俺は、ひたすらに警棒を振るった。工員の噛みつこうとする口に警棒を噛ませ、藪内がその頭を撃ち抜く。その隙に背後から襲いかかる資本家の、でっぷりとした腹を蹴とばすと、藪内が手渡してくれた警棒でめちゃくちゃに殴る。それを見つけてこちらに向かってくる軍人の額を、藪内が撃ち抜く。
今の俺は藪内のことを憎くて憎くて仕方がないのに、俺たちは最高のコンビネーションを見せていた。それが皮肉すぎて、笑えてくる。
藪内も、くずおれた軍人ゾンビの前でこちらを振り返り、ニッと笑った。
その様子をじいっと眺めていた女たちが、けしかけた男たちが全滅したのを見て、一斉にゆうるりと小首をかしげた。それは、情もなにもなく、飼っていた金魚が死んでしまい「あらまあ」といった調子だった。
そうして、俺たちの――俺のほうへ向かってきた。自ら手を下そうと決めたように、高速で、動きを揃えて、あのシュシュシュシュ……という衣擦れの音を立てながら……。
「諒ちゃん!」
藪内が俺の名を叫んだ。残った最後の銃弾を、先頭を歩く女に撃ち込もうと、銃口を向ける。しかし、すぐには撃たない。なにかをためらっている。ガチガチと銃の震える音がする。
女たちは俺に向かって腕を伸ばした。俺は動かずに、じっと立っていた。攻撃をせず、ただ女たちの差異を見極めようと……。
――そうして、やっと、わかった。
「美咲!」
俺は、名前を呼んで先頭の女の手を取った。ふっと、白い顔に美咲の面影が戻る。美咲は、今初めて俺の存在に気づいたという顔をして――笑った。
「あたしね! 比丘尼様にお願いできたよ! 諒ちゃんのお母さんを助けてくださいって!」
俺は彼女の手を引くと、走り出した。
「……クソッ!」
藪内は女が美咲であることに気がつくと、銃口を逸らし、天井に向かって最後の一発を撃ちこんだ。それは、単に衝動を逃がすためにしては、合理的な藪内らしからぬ行動だった。完全降伏の――あるいは攻撃を放棄した、宣言のような。
女たちはその響きを聞いて、どうしたことか、魔物を祓う銀の銃弾に貫かれでもしたように、煙となって消えてしまった。
