びしょびしょに濡れた靴が、歩きながらキュッキュッと音を立てる。妙にシュールな状況だった。……あんなに人が死んだのに。
あのあと、俺たちは大島までボートを運転してやってきた。もちろん、船舶免許なんて持っていない。藪内が「じいさんの運転見てたからなんとなくだけど、これがアクセルっぽくないですか」と舵輪の脇にあるレバーを押したら船が動き出してしまい、そのまま港の桟橋ギリギリまで近づけた。
海上から間近に見た大島は、静かで、人の気配がしなかった。本当にただの廃漁村といった雰囲気だった。鉄条網で覆われていたり、ゾンビがうじゃうじゃいるのを想像していたから、拍子抜けした気分だった。
「これ以上近づけたら、たぶんぶつかる!!」と藪内が言うので、まだ距離はあったものの、桟橋へ飛び下りることにした。
最初に俺が試した。案の定、海に落ちた。俺を助けようとしたのか、藪内も海に飛び込んでしまい、ふたりしてずぶ濡れになった。
しかし、なんとか俺たちは桟橋にあがった。あらかじめ船尾に結び付けてあったロープの端を美咲に投げてもらい、それを引っ張って、見よう見まねで船を桟橋に係留した。
そこで毒ガスの噂を思い出し、俺たちは桟橋でしばらく濡れた服を絞って待った。なにかが起きるのを……なにも起きないことを。
三十分ぐらい経って、くしゃみを連発する意外に特になにも起きないので、俺たちは美咲にも上陸してもらった。荷物は美咲に運んでもらったので、水に濡れずにすんだ。
陽那島へ戻る選択肢はなかった。それはなにかに導かれていたのかもしれないし……単にあまりに遠くへ来てしまって、戻ることができるという考えが浮かばなかったのかもしれない。
「とりあえず、どっかで着替えねえと……風邪引くわ」
藪内の発言を受けて、俺たちは歩き出した。港から見える、古びた街のほうへ。
キュッキュッと間抜けな音を立てながら、藪内が俺の隣でささやく。
「じいさん、オレたちには言いませんでしたね。『絶対に島へ上がるな』って……」
美咲は、どこかぼんやりとした様子で、俺たちの少し後ろをついてきている。
「この島が『女人禁制』っていうのも、みさきちを島へ上がらせたくない一心でついた嘘だったのかもしれませんね」
「……」
そうだとしたら、と思い至った結論に、身体を震わす寒気がますますひどく感じられる。
じいさんは、俺たちのことも、「死んでもいい本土の人間」だと思っていたってことだ。
島は荒れ果てていた。道路は舗装されておらず、かつて存在したのだろう道の真ん中にまで雑草が生い茂っている。
街へ入っても、荒廃ぶりは変わらない。ずらりと立ち並ぶ木造の二階家は、手を入れられないまま何十年も経ち、すっかり黒く腐食してしまっている。屋根が落ちたり、床が抜けたりしているのが、外からも見えた。
二階家の一階は、前面が格子になっている。その向こうには畳が見えた。そこはまるで、昔のショーウィンドウのような……。
「……え……」
と、俺の隣で藪内が声をあげた。やつの視線を追って、俺ものぼってきた坂の終着点を見る。そこには、大きな宿屋があった。
「……」
しかし、一見して異様だ。
ほかの家々と違って、古くなっていない。まだすがすがしい木の香りが漂ってきそうなほど真新しく、風待ち港・潮待ち港として栄えたという島の、往時の栄華を思わせる大きな建物だった。
こんな廃漁村に? 例の製薬会社というのが、保養施設でも作ったのだろうか。しかしそれにしては建築様式が古めかしいし……周囲が荒れすぎている……。
俺たちに追いついた美咲が「わあ」と歓声をあげた。
「あれが比丘尼様のお屋敷? 素敵!」
そうして美咲は駆け出してしまう。
「諒ちゃん、あかりん! はやくー」
びしょ濡れの靴は歩くたびに不快な感触がして、手招きする美咲を追いかけるだけで精一杯だ。
近くで見ても、その宿はやはり美しかった――まるでこの世のものではないみたいだ。
美咲は、ためらいなく表玄関の引き戸を開けた。内部は薄暗く、しんとしている。
「すみませーん、誰かいませんかぁ」
美咲の呼び声に――応答があった!
「はぁい」
はんなりとした女性の声が遠くから聞こえてきた。そして、シュシュシュシュシュシュと衣擦れの音をさせながら、素早く、しかし秘めやかに歩く足音がする。
「……」
俺と藪内は顔を見合わせた。藪内は拳銃を、俺は警棒をぐっと握る。
シュシュシュシュシュシュシュ……。
音はだんだんと近づいてくる。
「ようこそ、おいでなすったなあ」
日本髪を結い、顔をおしろいで白く塗った、着物の女が――六人。現れた。
それぞれが違う顔立ちであるのはわかるが、そろって美貌で、さらにおしろいのせいか、まるで同じ人間が六人いるかのように見える。
彼女たちは立ち居振る舞いも似ていて、「うわあ、きれい」という美咲の称賛に、揃って小首を傾げて袖を手にやった姿は、なにか得体のしれない感じがしてゾッとした。
「七人じゃないすね」
藪内が俺に耳打ちをする。そう……得体は知れないが、彼女たちは少なくとも怪談に語られている化け物ではない。はずだ。
恐れを知らない美咲が、一歩前に進み出て訴えかける。
「あのう、あたしたち、島に上がるときに失敗しちゃって……。このふたりは海に落ちてずぶ濡れになってしまったんです。着替えさせてもらえませんか?」
「あらまあ」
彼女たちがそろってクスクスと笑い、一斉にこちらを見た。
「おあがりなさいな」
……俺たちは、かつてはそこで華やかな宴が催されていたのだろう、広間へ通された。畳のい草の匂いも新しく、それがかえって恐ろしい。
女たちは、俺たちを置いてどこかへ消えた。
俺たちは、大急ぎで着替えをすませた。昨日洗濯した学ランは、幸いなことに乾いていた。びしょ濡れの下着と靴下も交換すると、気分がすっきりとして、ようやく冷静な判断ができそうだ。
「早く出ていこう。嫌な感じがする」
俺の言葉に、美咲は唇を尖らせた。
「えー、なんで? 絶対、ここが比丘尼様のお屋敷だよ! もしかしたら、あのきれいな人たちが……」
「みさきち。比丘尼様は、あくまで空想上の……」
「違うよ! 年雄おじいちゃんも言ってたじゃない! おじいちゃんが陽那島からこの島へ送った人たちを、比丘尼様が陽那島へ届けてくれたのかもしれないって!」
「……」
だとしたら、それは――親切な神様じゃない。新垣のじいさんの言ったとおり、祟り神だ。ゾンビを生む病を広めた、悪意の塊だ。
「オレは、この屋敷を見て回りますよ」
「藪内」
まさか、こいつまでそんなことを言い出すなんて。俺は信じられないような思いで、藪内に顔を向けた。やつは、「当然でしょう」と言い放った。
「もう忘れたんですか? オレたちは、オカンの居場所の手がかりを探してるんですよ。もう、こうなったら何があったって不思議じゃない。オカンはゾンビたちに連れ去られて、この島のどこかにいるかもしれない。ひょっとしたら、あの女たちに捕まってるかも。この島を隈なく探すまで、オレは帰りません」
シュシュシュシュシュシュシュ……。
遠くからまた、あの足並み揃った裾捌きが聞こえてきた。人間とは思えないほど速い。俺たちはいったん話をやめて、その場に腰を下ろした。逃げようにも逃げる暇がなかった。
女たちは、からりと襖を開けて、部屋に入ってきた。その手には盆があり、白磁の湯呑茶碗が湯気を立てている。かすかに水面を揺らしているのは、金色に光る液体だ。
緑茶、だろうか。黒塗りの茶托を下にした茶碗が、俺たちの目の前にひとつずつ置かれていく。
「おあがりなさいな」
女たちは、さっき俺たちを招き入れたのとまったく同じトーンで促した。俺たちは、顔を見合わせた。
得体の知れない「人間」に出された茶を飲むわけにはいかない。ましてや、この島には毒ガスだの生物兵器だのの噂があるのだ。しかし、女たちはそろって微笑を浮かべたまま、俺たちを見守っている――。
「いただきまあす」
すっかり比丘尼様を信じ切っている美咲が、湯呑茶碗を手に取った。ハッとする。俺は咄嗟に、美咲の手からその茶碗を奪うと、自らの口に運んだ。
こく、こく……鼻腔に立ちのぼるのは、やはり茶の香りだった。
なんだ、よかった――安堵をして身体の力が抜けた。そのまま力は抜け続けて、俺はその場にくずおれた。
ガラン、と茶碗が落ち、畳に熱い液体が広がってゆく。それを、暗くなっていく視界で見る。
「っおい!」
「諒ちゃん!」
藪内と美咲の呼ぶ声がする。俺は、なにか応えようとして――そのまま意識を失った。
あのあと、俺たちは大島までボートを運転してやってきた。もちろん、船舶免許なんて持っていない。藪内が「じいさんの運転見てたからなんとなくだけど、これがアクセルっぽくないですか」と舵輪の脇にあるレバーを押したら船が動き出してしまい、そのまま港の桟橋ギリギリまで近づけた。
海上から間近に見た大島は、静かで、人の気配がしなかった。本当にただの廃漁村といった雰囲気だった。鉄条網で覆われていたり、ゾンビがうじゃうじゃいるのを想像していたから、拍子抜けした気分だった。
「これ以上近づけたら、たぶんぶつかる!!」と藪内が言うので、まだ距離はあったものの、桟橋へ飛び下りることにした。
最初に俺が試した。案の定、海に落ちた。俺を助けようとしたのか、藪内も海に飛び込んでしまい、ふたりしてずぶ濡れになった。
しかし、なんとか俺たちは桟橋にあがった。あらかじめ船尾に結び付けてあったロープの端を美咲に投げてもらい、それを引っ張って、見よう見まねで船を桟橋に係留した。
そこで毒ガスの噂を思い出し、俺たちは桟橋でしばらく濡れた服を絞って待った。なにかが起きるのを……なにも起きないことを。
三十分ぐらい経って、くしゃみを連発する意外に特になにも起きないので、俺たちは美咲にも上陸してもらった。荷物は美咲に運んでもらったので、水に濡れずにすんだ。
陽那島へ戻る選択肢はなかった。それはなにかに導かれていたのかもしれないし……単にあまりに遠くへ来てしまって、戻ることができるという考えが浮かばなかったのかもしれない。
「とりあえず、どっかで着替えねえと……風邪引くわ」
藪内の発言を受けて、俺たちは歩き出した。港から見える、古びた街のほうへ。
キュッキュッと間抜けな音を立てながら、藪内が俺の隣でささやく。
「じいさん、オレたちには言いませんでしたね。『絶対に島へ上がるな』って……」
美咲は、どこかぼんやりとした様子で、俺たちの少し後ろをついてきている。
「この島が『女人禁制』っていうのも、みさきちを島へ上がらせたくない一心でついた嘘だったのかもしれませんね」
「……」
そうだとしたら、と思い至った結論に、身体を震わす寒気がますますひどく感じられる。
じいさんは、俺たちのことも、「死んでもいい本土の人間」だと思っていたってことだ。
島は荒れ果てていた。道路は舗装されておらず、かつて存在したのだろう道の真ん中にまで雑草が生い茂っている。
街へ入っても、荒廃ぶりは変わらない。ずらりと立ち並ぶ木造の二階家は、手を入れられないまま何十年も経ち、すっかり黒く腐食してしまっている。屋根が落ちたり、床が抜けたりしているのが、外からも見えた。
二階家の一階は、前面が格子になっている。その向こうには畳が見えた。そこはまるで、昔のショーウィンドウのような……。
「……え……」
と、俺の隣で藪内が声をあげた。やつの視線を追って、俺ものぼってきた坂の終着点を見る。そこには、大きな宿屋があった。
「……」
しかし、一見して異様だ。
ほかの家々と違って、古くなっていない。まだすがすがしい木の香りが漂ってきそうなほど真新しく、風待ち港・潮待ち港として栄えたという島の、往時の栄華を思わせる大きな建物だった。
こんな廃漁村に? 例の製薬会社というのが、保養施設でも作ったのだろうか。しかしそれにしては建築様式が古めかしいし……周囲が荒れすぎている……。
俺たちに追いついた美咲が「わあ」と歓声をあげた。
「あれが比丘尼様のお屋敷? 素敵!」
そうして美咲は駆け出してしまう。
「諒ちゃん、あかりん! はやくー」
びしょ濡れの靴は歩くたびに不快な感触がして、手招きする美咲を追いかけるだけで精一杯だ。
近くで見ても、その宿はやはり美しかった――まるでこの世のものではないみたいだ。
美咲は、ためらいなく表玄関の引き戸を開けた。内部は薄暗く、しんとしている。
「すみませーん、誰かいませんかぁ」
美咲の呼び声に――応答があった!
「はぁい」
はんなりとした女性の声が遠くから聞こえてきた。そして、シュシュシュシュシュシュと衣擦れの音をさせながら、素早く、しかし秘めやかに歩く足音がする。
「……」
俺と藪内は顔を見合わせた。藪内は拳銃を、俺は警棒をぐっと握る。
シュシュシュシュシュシュシュ……。
音はだんだんと近づいてくる。
「ようこそ、おいでなすったなあ」
日本髪を結い、顔をおしろいで白く塗った、着物の女が――六人。現れた。
それぞれが違う顔立ちであるのはわかるが、そろって美貌で、さらにおしろいのせいか、まるで同じ人間が六人いるかのように見える。
彼女たちは立ち居振る舞いも似ていて、「うわあ、きれい」という美咲の称賛に、揃って小首を傾げて袖を手にやった姿は、なにか得体のしれない感じがしてゾッとした。
「七人じゃないすね」
藪内が俺に耳打ちをする。そう……得体は知れないが、彼女たちは少なくとも怪談に語られている化け物ではない。はずだ。
恐れを知らない美咲が、一歩前に進み出て訴えかける。
「あのう、あたしたち、島に上がるときに失敗しちゃって……。このふたりは海に落ちてずぶ濡れになってしまったんです。着替えさせてもらえませんか?」
「あらまあ」
彼女たちがそろってクスクスと笑い、一斉にこちらを見た。
「おあがりなさいな」
……俺たちは、かつてはそこで華やかな宴が催されていたのだろう、広間へ通された。畳のい草の匂いも新しく、それがかえって恐ろしい。
女たちは、俺たちを置いてどこかへ消えた。
俺たちは、大急ぎで着替えをすませた。昨日洗濯した学ランは、幸いなことに乾いていた。びしょ濡れの下着と靴下も交換すると、気分がすっきりとして、ようやく冷静な判断ができそうだ。
「早く出ていこう。嫌な感じがする」
俺の言葉に、美咲は唇を尖らせた。
「えー、なんで? 絶対、ここが比丘尼様のお屋敷だよ! もしかしたら、あのきれいな人たちが……」
「みさきち。比丘尼様は、あくまで空想上の……」
「違うよ! 年雄おじいちゃんも言ってたじゃない! おじいちゃんが陽那島からこの島へ送った人たちを、比丘尼様が陽那島へ届けてくれたのかもしれないって!」
「……」
だとしたら、それは――親切な神様じゃない。新垣のじいさんの言ったとおり、祟り神だ。ゾンビを生む病を広めた、悪意の塊だ。
「オレは、この屋敷を見て回りますよ」
「藪内」
まさか、こいつまでそんなことを言い出すなんて。俺は信じられないような思いで、藪内に顔を向けた。やつは、「当然でしょう」と言い放った。
「もう忘れたんですか? オレたちは、オカンの居場所の手がかりを探してるんですよ。もう、こうなったら何があったって不思議じゃない。オカンはゾンビたちに連れ去られて、この島のどこかにいるかもしれない。ひょっとしたら、あの女たちに捕まってるかも。この島を隈なく探すまで、オレは帰りません」
シュシュシュシュシュシュシュ……。
遠くからまた、あの足並み揃った裾捌きが聞こえてきた。人間とは思えないほど速い。俺たちはいったん話をやめて、その場に腰を下ろした。逃げようにも逃げる暇がなかった。
女たちは、からりと襖を開けて、部屋に入ってきた。その手には盆があり、白磁の湯呑茶碗が湯気を立てている。かすかに水面を揺らしているのは、金色に光る液体だ。
緑茶、だろうか。黒塗りの茶托を下にした茶碗が、俺たちの目の前にひとつずつ置かれていく。
「おあがりなさいな」
女たちは、さっき俺たちを招き入れたのとまったく同じトーンで促した。俺たちは、顔を見合わせた。
得体の知れない「人間」に出された茶を飲むわけにはいかない。ましてや、この島には毒ガスだの生物兵器だのの噂があるのだ。しかし、女たちはそろって微笑を浮かべたまま、俺たちを見守っている――。
「いただきまあす」
すっかり比丘尼様を信じ切っている美咲が、湯呑茶碗を手に取った。ハッとする。俺は咄嗟に、美咲の手からその茶碗を奪うと、自らの口に運んだ。
こく、こく……鼻腔に立ちのぼるのは、やはり茶の香りだった。
なんだ、よかった――安堵をして身体の力が抜けた。そのまま力は抜け続けて、俺はその場にくずおれた。
ガラン、と茶碗が落ち、畳に熱い液体が広がってゆく。それを、暗くなっていく視界で見る。
「っおい!」
「諒ちゃん!」
藪内と美咲の呼ぶ声がする。俺は、なにか応えようとして――そのまま意識を失った。
