孤島・オブ・ザ・デッド

 船の定員は五名。新垣のじいさんと、二人の動画配信者。それから俺と藪内。以上、合計五名だ。新垣のじいさんは、それを理由に美咲を乗せ渋った。
 しかし、美咲は頑なだった。「人魚様にお願いをしなくちゃいけない!」と言うのだ。美咲は年齢の割にしっかりしている子どもだったが、あまりに衝撃的なことが多すぎて、常識的な判断ができなくなってしまっているようだ。
「あたし、知ってるよ! 12歳未満の子どもは0.5人扱いになるの! それに、おじいちゃんの船は今からっぽでしょ! あたし、大漁のときのお魚よりも軽いと思うけど!」
 じいさんは渋々と美咲を船に乗せた。いずれにせよ、こんな小さな子どもをゾンビだらけの島にひとりで残していくわけにはいかない。
 小型の漁船が出港する。次第に遠くなっていく岸を見ながら、俺はぼんやりと考えていた。
 母さんは、あの島のどこかにいるんだろうか。ゾンビになって、さまよっているのかもしれない。それとも、なんとか人間のままで生き延びているのか。……母さんを残して、この岸を離れてしまっていいんだろうか。
 美咲が隣に立つ。「諒ちゃんも、人魚様にお願いしよう。きっとだいじょうぶだから」と力強く言う。俺は、かえって胸がざわざわする。
 動画配信者たちは陽那島でなく、大島のほうを向いて、ぎゃあぎゃあと騒いでいる。
 このまま、本当に上陸する気なのだろうか。私有地だなんだというのは、もうこうなってしまったら些細なことのように思えるけれど……「毒ガス」や「生物兵器」が残るかもしれない島へ。ただ、己の下卑た好奇心を満たすために?
 じいさんが「島は女人禁制だ」と、こちらへ向かって言う。
「美咲は入るな」
「……」
 それは、初めて聞いた話だった。そもそも、遊郭のある島ではなかっただろうか。「素人の」女性は入ってはならぬということなのか。
 じいさんの言葉を聞きつけた動画配信者たちは、深く考えずに「そりゃそうっすよね」と爆笑している。
「売春島ですもん!」
「……」
 じいさんは黙ったまま、前方――大島を睨みつけている。いや、動画配信者たちを、か?
「人魚様が守ってくれるからだいじょうぶだよ」
 一方、美咲はやはりふわふわと夢見心地だ。じいさんは、苦く笑った。動画配信者たちがこちらを見ていないことを確かめて、先ほどよりも小さな声で言う。
「おまえの言う『人魚様』ってのはな、『比丘尼様』のことだ。あの島の遊女のことを、昔はそう呼んでいたんだ。人魚でも食ったみたいに、いつまでも若く見えて、きれいだからな……」
 藪内が「ああ」とつぶやいた。俺がそちらを見ると、耳打ちをされる。「明治期以降の人魚も同じ『若くて綺麗な女性』だから、名前の混同が起きたんですね」と。
「俺の義姉さん……よしのさんも、比丘尼様だった」
 じいさんは、淡々と語り始めた。
 よしのさんは、じいさんの年の離れた兄嫁だったが、大陸での戦争で夫に死なれ寡婦となった。
 戦前は夫と死別しても、嫁いだ家に残るのが普通だった。しかし義母(じいさんの母親)との折り合いが悪く、亡夫の喪が明けると家から追い出され、かといって実家に戻ることも許されなかったそうだ。
 彼女は生計を立てるために、大島へ渡って比丘尼様になった。そうして働いているうちに、大島には軍需工場が作られて、島民以外の出入りが厳しく制限されるようになった。
 しかし、じいさんの記憶に残っているのは、戦後の彼女のことだという。戦後、陽那島へ強制的に帰された彼女は、三十を過ぎてもなお若々しく美しかった。
「だが、苦界での生活はよしのさんの心を蝕んでいた。もう故郷の島へ帰ってきたというのに、毎日、大島を眺めては『帰しておくれ、帰しておくれ』と泣くばかりだった。俺は子どもながらに、ねえさんのことを気にかけていた。ねえさんが苦界に堕ちたのは、おふくろのせいでもあったからな。毎日のようにねえさんの元へ通い詰めて、『ここがおうちだよ』と伝えたんだが、通じなかった。遠くに見える大島を陽那島と勘違いしてたんじゃねえかな。最後には、大島の見える岬から身を投げて死んじまった……」
 じいさんは、美咲をじっと見据えて言った。
「ねえさんも、おまえと同じように比丘尼様を信仰していた。つまり、あの島の遊女の始祖である歩き巫女を――遊女の守り神として。だが、ねえさんは救われなかった……そりゃあそうだ。苦界の神様を信じたからって、極楽に行けるわけがねえ。だから俺は、おまえが嬉しそうに比丘尼様の話をするのを聞くのがつらくてならなかったんだ。すまねえ」
 美咲はじいさんの話を、不思議そうに聞いていた。小さく首をかしげて、遠く大島を望む。
「大島へ向かって『帰して』って言ってたって……それは本当に大島へ帰りたかったんじゃないかな」
 じいさんは、美咲をギョッとした顔で見た。自分の信念を土台から覆してしまう――そんな恐ろしいものを見る顔だった。
「生まれた土地だけが故郷じゃないもん。それに、他人(ひと)から見たら地獄でも、その人にとっては、ほかの地獄よりマシかもしれないでしょ。……そうじゃなかったら、どうして『故郷』にいるのに自殺なんてするの?」
 よしのさんの真意は今となってはわからない。じいさんは、一瞬、目を伏せた。そのあと、すぐに瞼を開いたが、もう美咲と目を合わせることはなかった。
 動画配信者たちは、撮影に飽きたらしい。船首に座り込み、スマホの画面をひたすら眺めている。……まだ基地局は動いているようだ。
 訊くなら、今かもしれない。
「よしのさんは、なにか……島で恐ろしいものを見た話をしていましたか?」
 じいさんは、こちらへじろりと視線を向けた。
「その……さっきも話したんですけど、俺たち、一昨日から行方不明の母親を探しているんです。藪内のお母さんは、ご存じのとおり、陽那島に伝わる祭祀を研究していました。俺の母は、もともとジャーナリストで……薬害事件の取材とかをしてました。それで、藪内のお母さんから情報提供を受けて、あの島で極秘に作られていた生物兵器について調べていたみたいなんです。俺は、母と仕事の話をあまりしたことがなくて……詳しいことはわからないんですけど……」
 新垣のじいさんは、どこかが痛むように顔を顰めた。俺の正体が、今初めてわかったというように。
 藪内が、俺の隣で口を開いた。加勢をするようだった。
「人喰いの怪談が生まれたのは、戦後っすよね? その前は、『若い女は比丘尼様に連れていかれ、男は取って食われてしまう』って内容だったって、オレのオカンに話してましたよね?」
 これって、たぶん女衒に買われるっていうのと、女色に溺れてしまうってことの暗喩だと思うけど……と藪内は呟いて、続けた。
「人喰いの要素だけ、唐突すぎるんですよね。戦後、唐突にでてきた。島にまつわる怪しい噂――人体実験だのなんだの。あれって本当なんじゃないですか? あれが怪談のベースになってるんじゃないですか? なにより、オレのオカンを襲った『人間』の存在が、昔あの島でなんかヤバいもんがマジで作られてた証拠ですよ!」
 じいさんは、海の先を――大島の島影を睨みながら、唾を飲んだ。もう一押しだ。
「今回の事件は悲劇ですが、この島の人たちが――よしのさんのような人たちが、背負わなければならなかったものを、白日のもとに晒すチャンスかもしれません。俺に、俺の母に、本当のことを話してさえくれれば……」
「ねえさんは」
 じいさんは、掠れた声で言った。今度は、俺のほうがごくりと唾を飲む。
「あの島で、具体的になにが起きたかを語ってくれたことはなかった。ただ、俺が泊まりにいくと、夜中に飛び起きることがよくあった。そのときには……『噛まないで』『食べないで』とうなされていた」
「……」
 それだけでは、根拠として弱い。しかし、実際に今、陽那島で起きている惨状を世間が知れば、あるいは――。
 動画配信者たちが、船首でなにやら騒ぎ出している。俺の視線に気がつくと、船の揺れにふらつきながら、大股で近づいてくる。
 十五分ぐらい航行したところだろうか。大島は、もう目と鼻の先だ。
「なあ! あの人喰ってるやつ、マジだったわけ!?」
 彼らは、手にしたスマホの画面をこちらに突き付けた。
 そこには――陽那島神社の境内にある集会所のなかを、逃げまどう人々が映っている。誰かが撮影して、ネットにアップしたらしい。
 急に心臓がバクバクして、指先が冷たくなる。母さんが……母さんがいたはずの場所。
 集会所の座卓はひっくり返され、辺りに酒瓶やらグラスやらが散乱している。逃げまどう人々は玄関ではなく、奥へ奥へと向かっているようだ。ひしめき合いながら、電灯のついていない部屋へなだれていく。
 「ぎゃああ!」と声がして、撮影者のすぐ隣の人物が足を掴んで引き倒され――目をぎらつかせ、口を血に汚した『人間』たちの集団に、引きずり込まれた。ズルズル……ペチャペチャ……という水音。断末魔。
 撮影者は混乱して逃げ惑うばかりで、なにが起きているのかはっきり映しだされているわけではない。でも、だからこそ、これが作られたものでなく、現実なのだと思い知らされる。
「なんなんだよぉ……突然、こんな、一体……」
 最奥の和室に追い詰められ、座布団の詰まった押し入れに潜り込みながら、撮影者は惑乱してつぶやく。
 後から押し入れに入って来ようとする人を、蹴飛ばして外へ追いやった。襖をぴしゃりと閉める。暗闇のなかで、「ぎゃあああ!」とまた悲鳴。あちこちから、複数、聞こえてくる。
 それがやんだのち、ズル……ズル……ペタ……ペタ……と濡れた足音がまた聞こえてきて。
 押し入れの前で、止まった。
 襖が、外からガッと開かれた。止めようとした手は虚しく宙を掻く。
 にんまりと笑った『人間』が、こちらを覗き込んでいる。
「ひっ、ひぃいいいいいい!!」
 ――撮影者の叫び声を最後に、動画は終わった。
 動画配信者たちは、ぶるぶる震えながら尋ねる。
「俺らはさあ、なんかそういうお芝居なんだと思ってたわけよ。祭りの儀式で、カニバリズムの真似事をする、みたいな? でも、この動画に映ってるものは、お芝居にしてはちょーっと……」
 生々しく、荒々しい。
 しかし俺は、映されたものに衝撃を受けるよりも、母の姿が見えなかったことに安堵していた――そんな自分にもう罪悪感も覚えない。そのことが罪悪感だ。
 そのとき、突然、船のエンジンが止まった。
「ちょ、否定してよ! え、マジなの? マジなんだったら、俺ら、あの島とか行ってる場合じゃなくね?」
「今すぐ、この船で本土に戻って……」
 動画配信者たちは、喋り続けていて気づかない。
 新垣のじいさんが、足元に横たえていたヤスを手に取ったことにも。
 そのヤスで、今まさに彼らの胸を突こうとしていることにも。
「危ないっ!」
 俺の反応は遅すぎた。
「……へ?」
 先に、ヒョロリと背の高い男が心臓を突かれた。Tシャツにじわじわと血が滲んでいく。男が叫びだす前に、じいさんはヤスを強く押して、男を海に突き落とした。
「いってええ、がぼっ、うえっ、ごぼっ……」
 叫んだ男が海水を飲み、また叫ぼうとしてさらに海水を飲み、声は遠くなっていく。
 断末魔の叫びを聞き届けるつもりもなく、じいさんは残る太った男の心臓を突いた。男は逃げようとして身をよじり、ヤスの返しが肉を抉る。
「あっ、ひぃ!」
 じいさんは、口の端に小さく笑みを浮かべていた。
「俺はな。こいつらを見て、やっとねえさんの言葉の意味がわかった。『返して』だ」
 裏返った甲高い悲鳴をあげる男から、一度、切っ先を抜いて、また貫く。
 その悲鳴の下でも、じいさんのしゃがれ声はどうしてかよく響いた。
「勝手にやってきて、大島を好きに踏みにじって、また勝手に帰っていく……そんな本土の人間に……『あたしたちの大島を返して』って、ねえさんは……ぐ、っ」
 じいさんと太った男がもみ合う。じいさんはヤスの柄をより短く握って押す力を強める。
「……っ最初から、こうすればよかったな」
 男が船首の手すりのうえで、のけぞる。突き落そうとするじいさんのヤスを、みずからの肉がさらに抉れるのをものともせずに、掴んだ。そうして、ふたりはバランスを崩し――一緒に海へ落ちた。
「年雄おじいちゃん!!」
 美咲が船から身を乗り出し、海面を覗き込む。
 新垣のじいさんは、浮いていた。立ち泳ぎをしながら、こちらを見ている。
「……っ、今、助けます!」
 俺の言葉に、しかしじいさんは首を横に振った。
「俺はたしかに、島へこいつらの仲間を渡した。俺たちと同じ苦しみを味わえばいいと思って――置き去りにした。そう、俺はあいつらを連れ帰らなかったんだ。でも、陽那島は、あんなことになっちまった……。美咲の家族が死んだっていうのも、おまえたちの母親がいなくなったっていうのも、全部……俺のせいだ。比丘尼様は、確かに存在しているのかもしれないな。今はもう、祟り神だろうが……」
 じいさんは、それから美咲をじっと見つめて、はっきりと言い含めた。
「美咲。絶対に島へ上がるなよ」
「……っじいちゃん!」
 じいさんは、それから目をつむって、水中へ身体を沈め――。
 俺は、うしろから抱きしめるようにして美咲の目を塞いだ。美咲は叫んだ。離せと言い、身をよじり、俺の手を叩いた。
 そうしながら、俺は藪内を見た。藪内は、じれったそうに下唇を噛みながらも、動くことはしなかった。……それを、俺は咎めなかった。