孤島・オブ・ザ・デッド

 一階の窓の鍵を確認して回り、二階へ上がった。
 念のためというつもりで、同じように二階も回る。おそらくは藪内の部屋だろう、ゲーミングPCとゲーミングチェアのある部屋に入り、窓のカーテンが引かれていないことに気がついた。昨日の夕方――もう一昨日か――家を出るときに、閉め忘れたのかもしれない。
 そこへ歩み寄ると、ゾンビたちのうめき声がかすかに聞こえる――この窓はリビングの掃き出し窓の真上にある。
「ウアア〜〜……アア〜〜ゥ……」
 やつらのうめき声は単調なようでいて、実は少しずつ変化している。まるで、やつらのなかにかろうじて残った元々の人格が、なにかを訴えかけているようだ……。
 なにを、と想像しそうになって、ぞわりと背が粟立った。
 助けて。痛いよ。苦しいよ。水が飲みたい。お腹が空いた。待って! お願い、逃げないで。なにがどうなってるの? 教えてよ! ああ、お腹が空いてたまらない……。おいしい、おいしいよぉ……。本当は、こんなことしたくないのに……。
 ――そんなことを、訴えかけているのか?
 けれど、やつらに少しでも人間らしい部分があるだなんて考えてしまったら、これまでの自分たちの判断を悔いることになる。もう怪物になったのだから、そして俺たちを容赦なく襲ってくるのだから、殺してもいいのだという判断を。
 俺は、やめたほうがいいという己の直感を無視して、窓から下を覗いた。
 角度から掃き出し窓は見えないものの、藪内家の庭が見える。掃き出し窓に取り付いているやつらだけでなく、庭にも数人のゾンビがうろついている……。
「うっ……!」
 思わず声が出た。
 知っている顔を、見つけた。
 平良凪咲(たいらなぎさ)。美咲の……姉だ。
 彼女は、寝間着の前、胸から腹にかけてをビリビリに破られていた。しかし、その下に隠れていたはずの白い肌は見えず――そこはただただ、赤黒い洞があるばかり。顔は青白く、ゆらゆらと、なにかを探すように歩き回っている。
 そのすぐそばには、でっぷりと太った全裸の中年男性がいる。口から顎、首すじ、剛毛に覆われた胸まで……身体の前面をべったり血で濡らして……。
 これが、美咲の姉を襲ったという「隣の家のおじさん」だろう。
 加害者と被害者のはずのふたりは、仲睦まじく歩調を合わせて、なにかを探していた。恐らく、逃がしてしまった美咲を。
 その光景は、ひどく冒涜的に思えた。襲われ、食われてもなお、恨んだり憎んだりすることさえ許されずに、同じものにされてしまう。
 憤りと、光景のあまりのグロテスクさに、吐き気がした。俺は、せっかく食べた夕飯を戻してしまう。
「ッ……ハァ……ハァ……」
 まずい。美咲に悟られてはならない。絶対に、悟られてはならない。こんな光景を、あの子に見せるわけにはいかない。
 俺はほとんど茫然と、アリバイを作るように残りの窓の鍵を確認すると、下に降りた。そのまま黙って、ペットボトルから自分のゲロの匂いがする水を飲んだ。
「……だいじょうぶ?」
 本棚のなくなった壁際で、膝を抱えて丸くなっていた美咲が尋ねた。今夜はろくに寝ていないと言っていたから、眠いのだろう。
「なにが?」
 声が震える。美咲の対面、まだ残る本棚にもたれかかっていた藪内も、怪訝な顔でこちらを見ている。
「すごい顔色だよ」
「……っ、だいじょうぶ。鍵は問題なかった。あとは俺たちが見張るから、寝ておけよ。夜明けが来たら出よう」
「うん……」
 美咲は、すでに半分眠りの世界にいるような声でうなずいて、ふたたび自身の膝に頭を預けた。
「ウア〜〜〜〜ン……」
 外からはまだゾンビの声が聞こえてくる。俺は藪内から少し離れたところに腰を下ろし、リビングルームの壁際の時計を睨み続けていた。早く。早く。早く朝になってくれ。
 冬の夜明けは、どうしてこんなに遅いんだろう。
 どれぐらい時間が経ったころだろうか。藪内が、そろり、そろりと俺のそばまで身を寄せてきた。
「ねえ……なにを見たんですか?」
「……」
 尋ねられる。俺は目を閉じて眠ったふりをするが、起きていることはとっくにバレているようだ。
「あんた、さっき二階でなにか見たんでしょ? なんか、すっごいヤバいやつをさ……だからゲロ吐いちゃったんでしょ?」
 囁き声は、どこか甘ったるくて媚びるようだった。苛立って目を開く。
 自身の膝を抱えた腕に頬を寄せて、眼鏡の奥の大きな瞳が、俺を上目遣いに見る。
「ねーえ。オレたち共犯者でしょう? 教えてくださいよ」
「……嫌だ」
 俺は本当のことを言いたくなかった。美咲が完全に眠ったのかわからない。寝ていたとしても、あとで藪内が美咲に伝えてしまわないとも限らない。
 藪内が、「へーえ」と片頬だけで笑った。
「そっか。秘密にするんですね。じゃあ、オレは隠しごとなしでいきたいんで……みさきちに言っちゃおうかな」
「……なにを」
「オレたちが友介を殺したこと」
 ほとんど吐息だけの囁きに、ヒュッと喉が鳴った。藪内は面白そうに笑う。
「オレは別に嫌われものなんで、バレても構わないんですけど。あんたのことを諒ちゃん諒ちゃんって慕ってるみさきちは、どんな顔すんのかなぁ」
「……藪内」
 殴ってやりたかった。けれど、殴れない。騒げば美咲が目を覚まして、ひどく怯えるだろうということもあったし……、こいつに怪我をさせることはできない。俺と目的を同じくする、協力者だから。
 ああ……と気づく。
 その理由が打算であれなんであれ、俺にとってもとっくに、こいつは優先すべき存在になっているんだ。
 たとえ腹の底では、めちゃくちゃに殴って口を利けないようにしてやりたいと焦がれていても。
 俺は、ごくりと唾を飲んでから、うなずいた。
「……わかった。でも、このことは――」
 そのときだった。さまざまに音色を変えていたゾンビのうめき声が、ある旋律に変化した。
「ァーキィ……アアー……キィ……」
「う、うぅん……」
 美咲がうめく。ゆっくりと首をもたげる。
「なあに……?」
 俺はギョッとした。たしかにゾンビたちの声は、美咲の名を呼んでいるように聞こえなくもなかった。
「ァーキィ……アーキィ……」
 美咲は、自分の名を呼ぶ声の主がゾンビであることに気づくと、パッと窓のほうを向いた。
「おねえちゃん……?」
 藪内が鼻で笑う。
「ハァ? 何言って……」
 しかし、俺の表情を見て、黙った。拳を握りしめて震える、俺の表情を見て、すべてを悟った。
「オイ、みさきち! そっちに……」
 行くな、と。藪内が声をあげる。しかし、それよりも先に美咲は掃き出し窓へ駆け寄った。正確には、そのまえに築かれたバリケードへ。積み上げられた本につまずき、美咲は転ぶ。積み上げられたソファへ倒れこみ、ソファは勢いよくガン! と窓ガラスを叩いた。
「ギィギィギィギィギィギィギィギィ」
 大きな音に、カーテンの向こうに隠れている獲物の存在を感じ取って、ゾンビたちが騒ぎたてる。それは虫の鳴き声のような、羽音のような、あるいは剥き出しにした歯列をゴリゴリと擦り合わせる歯ぎしりのような……なんとも神経に障る音だ。
 美咲は、その警告音をものともしないで、ソファへ登るとカーテンに手をかけた。
「クソ、やめろ!」
 藪内が叫ぶが、美咲はカーテンを開ける。窓にぴったりと添えられている本棚に阻まれて全開にはできなかったものの、掃き出し窓の上部が露わになる。
 五人ほどのゾンビたちが、こちらを覗き込んでいた。
「おねえちゃん……っ!」
 美咲の悲痛な叫びが、部屋に響いた。
「ギャギャギャッギャギャギャギャッ」
 ゾンビたちは獲物を発見して興奮し、ますます強く窓ガラスを叩き出す。
 ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガン……このままでは駄目だと気づいたゾンビの一人が、ふと後ろを向いた。庭に置かれていた植木鉢を取り上げ、窓へと投げる。
 ガチャン! と音がして、植木鉢が割れる。
 それを見て、仲間のゾンビたちも次々に真似を始める。
 植木鉢を片っ端から投げ、投げ終わると、そばにあったショベルを――。
「まずい、逃げるぞ!」
「やだ! やだよ! おねえちゃん、あたしの名前を呼んでた! きっと助けてほしいんだよ!」
 バリン、とガラスの割れる音がする。俺は必死に美咲の説得を試みる。藪内は、そのあいだに荷物を拾いあげている。
「っ美咲、見ただろ! もう胸んなかも腹んなかも食われちまってる! 生きてるはずがない!」
「わかんないじゃん、そんなの! おねえちゃん、おねえちゃんっ……!」
 美咲が、後ろから羽交い締めにする俺を死にもの狂いで引き剥がそうとする。身をよじり、手足をばたつかせ、噛み付こうとする。
「今すぐ逃げないと、喰われるぞ!」
 藪内が大声をあげた。目と目が合う。苛立ち、じれったさ、その奥に――祈るような、縋るような色がある。
「……ごめんな」
 俺は美咲を抱きあげた。
「うわぁっ! やだっ! 諒ちゃん、離してよ! あたしはおねえちゃんと一緒に行くのっ!!」
 美咲がじたばたと手足を動かすが、無視して走り出す。藪内の案内で、俺たちはキッチンの裏口から飛び出した。
 外はまだ暗い。夜明けまでは遠い。朝になったら、目指すはずだった目的地――港へ向かう。それまでどこかに身を隠さなければならない。
 喚いていた美咲は、やがて、俺の肩に顔をうずめ、しゃくりあげ始めた。
 俺たちは、昨日藪内の家へ来るためにくだった坂を、今度はのぼった。山のふもとへ向かう途中で、放置された畑に農具小屋を見つけ、そこに隠れることにした。俺も藪内も、重い荷物を抱えて遠くまで行くことはできそうになかった。
「ハァ……ハァ……」
 美咲をおろすと、彼女がずっとなにかを呟いていたことがわかる。
「……っ……おねえちゃん……おねえちゃん……にんぎょさま、たすけて……」
「……ハハ、だから、人魚様なんて、幻想なんだって……神も、仏も、この世にいない……」
 藪内は、美咲の言葉を嗤った。
「おまえのねえちゃんのことも助けてくれなかっただろ?」
 美咲は、じっと藪内を見つめた。睨むでもなく、なにを言っているのだろうと不思議そうな目をして。
「ううん。人魚様は、きっとあたしたちのことを助けてくれる。だって……人喰いの化け物が本当に存在したのに、どうして人魚様だけ存在しないなんてことがあるの?」