藪内は背負っていた大きなバックパックをようやく肩から下ろすことができた。汚れ物を出して、バックパックの中身を空にしてから、つぶやく。
「このあと、どうしましょうかね。電気もガスも水道も、まだ通ってるみたいですけど……」
今にもどうなるかわからない。それでも。
「下手に動くよりは、ここを拠点に母さんたちを探したほうがいいかもしれないな」
藪内は俺の言葉に応えず、カーテンの引かれたキッチンの小窓へ近づく。カーテンを薄く開くと、外の様子を窺った。
「今んとこ、近くにゾンビたちの姿は見えないですね……」
「この家にいるのが、バレてないのかもしれないな」
藪内は、すぐにカーテンを閉めた。
……もしゾンビたちに家のなかにいることが嗅ぎつけられたら、まるで映画みたいに、大挙して押し寄せてきたりするんだろうか。
俺は、目の前のことに集中しようと首を振った。
「とりあえず、今のうちに手に入れられる情報は手に入れよう。母さんたちの居場所の手がかりが見つかるかもしれない」
見つからなければ、手当たり次第に歩き回るしかない。島のまだ見ていない場所を探して、それから見た場所をもう一度探す。どこからか助けが来るまで……その繰り返しになるだろう。
まだ探していないのは、岬から神社とその境内の集会所にかけてのエリア。町から港までのエリア。それから、島の大半を覆う山のなか。
一番目は、母たちのいる可能性が高い。その一方で、今もっとも危険な場所だ。藪内の母親は岬で襲われ、警官は集会所へパトロールに向かう途中で襲われた。むやみに近づきたくはない。
二番目は、母たちのいる可能性が低い。俺たちを置いて島の外へ逃げることは、まずないはずだ。
三番目は……あまりに広すぎる。
「やみくもに探すよりは、見当をつけたほうがいいですね」
藪内もうなずいた。
それから俺たちは、電気が通っているうちに手当たり次第にモバイルバッテリーを充電し、水道が通っているうちに汚れた制服を洗い、ガスが通っているうちにシャワーで汗を流すことにした。そうしている合間を縫って、大島に関するめぼしい資料を読むことにする。
藪内家のリビングルームは、天井まで届く本棚に壁を囲まれていた。圧倒されて上から下へ、また下から上へ視線を巡らせる俺を見て、藪内は誇らしげに笑った。
「この島は家賃が安いから戸建てに住めそうだってわかった途端、オカンが張り切って。ずっと夢だったらしいんすよ、天井まで届く本棚のある家」
本棚を埋める大半は民俗学の書物だったが、それ以外の人文系の書物もさまざまに並んでいた。俺は、母が一冊だけ著した――といっても、著者名となっている「編集局」の一員として関わっただけだが――ルポルタージュが棚にあるのを見つけた。とある薬害事件についての調査報道だ。
「……なあ。おまえの母親がうちの母親に送ってた資料って、どんなやつ?」
「聞き取り調査の一部でしたね。戦前の大島について詳しい人に聞いた話の、文字起こし」
藪内がリビングルームを横切って、そこから続く小部屋を示した。ここに原本があるかもしれないということか。
そこは書斎らしく、部屋の大部分を占める大きな机の上には、俺の母の仕事机と同様にノートパソコンやプリントアウトした資料が乱雑に置かれている。
「いつも以上に汚ねえな……祭の夜だから、復習してったのかも」
積み上げられた資料を手のひらで撫でながら、藪内は苦笑した。それはハッとするほどやさしい表情だった。
俺は、なんだか落ち着かない気持ちをごまかすように尋ねた。
「復習?」
「ああ、言ってなかったっけ。うちのオカンは、この島に伝わる土着の信仰について研究してたんです。比丘尼様の祭も、その一部」
藪内の指先が、分厚い郷土史の本にぶつかる。俺の母の手元にあったコピーは、この本から取られたものかもしれない。
藪内は、陽那島を含むこの列島の地図が記されたページを開いた。
「どうしてこの島が陽那島って名前なのか知ってます?」
「……日当たりがいいから?」
「はは」
藪内は笑った。それは、これまでのような嘲笑ではなかった。ページの上の大島を指差して言う。
「隣にある『大きな島』に対しての、『雛』あるいは『鄙』ってことです。今じゃ、あの島には人が住んでいなくて、こっちが本島みたいになってますけどね」
大島は、古来、風待ち港・潮待ち港として栄えたそうです。船乗りたちが長く滞在するから、歴史の古い遊郭があって、その起源は漂着したのちに定住した歩き巫女だったとされています。
歩き巫女っていうのは、全国を回って祈祷とか託宣をした巫女さんのことです。宗派は色々で、旅芸人や遊女を兼ねている者もいました。友介の話に出てきた「人喰い人魚」がモチーフにしてるっぽい「熊野比丘尼」も、歩き巫女の代表的な例です。
名前を聞けばわかるとおり、陽那島の比丘尼様の祭は、大島に定住した歩き巫女となんらかの関係があるんじゃないかと考えられています。人魚石も、ちょうど大島の港が見える岬にありますしね。
「でも、今の比丘尼様の祭には、豊漁を祈願する祭である本土のえびす講の強い影響が見られる。オカンは、この島固有の祭祀がどのようなものだったか、それがどのように本土の文化と混ざりあって変遷したのかを調査しているんだと言ってました」
「ふうん……」
ぼんやりと相づちを打ちながら、机上に視線を巡らせた。ふと、見覚えのある名前が目に留まる。
新垣年男。
この辺りでは珍しくない苗字だし、名前までは記憶していないから確証は持てないが、これは……新垣のじいさんじゃないか? 70代の男性、職業は漁師というプロフィールも合致している。
その資料は、聞き取り調査の文字起こしをプリントアウトしたもののようだった――先ほど藪内の母が俺の母に送ったと聞いた、戦前の大島についての聞き取り調査。
おやと思ったのは、新垣のじいさんの名前と、大島の名前を、最近どこかで並んで聞いた気がしたからだ。
「あ……!」
思わず声が出て、藪内が怪訝そうにこちらを見る。俺は気持ちを落ち着けるために、ひとつ唾を飲んだ。
「……あれ、新垣のじいさんかもしれない」
「え?」
「動画配信者を大島に渡した人」
「あー……でも、じいさんも断ったんじゃなかったでした?」
そうだ。「大島に渡りたいとしつこい動画配信者がいたが、新垣のじいさんが話をつけたはず」と、岬で漁師のおっちゃんたちが噂をしていた。
しかし、実際にどうなったのかはわからない。もし藪内の想像するとおり、動画配信者たちが「旧軍の生物兵器」にやられてゾンビになったんだとしたら……誰か、船を出したやつがいる。
パラパラと、くだんの資料をめくる。新垣のじいさんが昔話をしている。話したものを話したまま文字にしているから、寄り道や回り道が多くてすぐには概要が掴めない。
「えーっと、ちょっとこれまでの話を整理しましょうか」
藪内が言って、机上からルーズリーフとボールペンを取った。さらさらとキーワードをメモしながら、事実を整理していく。
「うちのオカンは、島に伝わる比丘尼様の祭祀について研究をしていた。そのフィールドワークの過程で、新垣のじいさんから話を聞いた――あんたの母親に、詳しく調べて報道してもらいたいと思うようなヤバい話を」
「そう。それはおまえが言っていたように、ひょっとしたら……旧軍が開発していたとされる生物兵器に関する話かもしれない。さっき、リビングルームの本棚にうちの母さんが取材した薬害事件の本があるのを見つけた。記者としての得意分野を知ってたんだ」
藪内は、思案げにボールペンの頭を唇に押し当てた。
「でも、本当に新垣のじいさんが動画配信者を大島に渡したんだとしたら……どうしてそんなことをしたんですかね?」
「たしかに……」
新垣のじいさんは、大島に上陸したら危険だと知っていたはずだ。それなのに、島に渡そうとしたということは――。
「動画配信者に死んで欲しかった、とか?」
藪内が冗談めかして言った。けれど、冗談にしては辻褄が合いすぎていて、ゾーッと背筋が寒くなった。
島の人たち――特に年配者が、よそ者を疎ましく感じているのは知っている。直接に危害を加えられたことはないけれど、陰口はさんざん叩かれてきた。
それでも、まさか、殺すほど憎んでいるとは思わないが……危険な場所に人を送りこむ理由が、ほかにあるか?
俺は身震いする一方で、けれど、同時に清々しい気持ちにもなっていた。ごちゃごちゃに混乱していた頭の片隅が、整理されていくような感覚。
――ずっと、母はどうして本土に帰らないのだろうと疑問だった。頼って身を寄せた祖母も亡くなり、この島に残る理由はなくなったはずだった。
母を苦しめたくなくて自分からは言い出せなかったけれど、もうすぐ高三になるのだから、進路に影響が出る前に早く本土へ帰りたかった。どうしてそのことに気づいてくれないのかと、うらめしく思ったことさえある。
今、ようやく理解できそうな気がした。母は、ふたたび使命を見つけていたのだ。
「このあと、どうしましょうかね。電気もガスも水道も、まだ通ってるみたいですけど……」
今にもどうなるかわからない。それでも。
「下手に動くよりは、ここを拠点に母さんたちを探したほうがいいかもしれないな」
藪内は俺の言葉に応えず、カーテンの引かれたキッチンの小窓へ近づく。カーテンを薄く開くと、外の様子を窺った。
「今んとこ、近くにゾンビたちの姿は見えないですね……」
「この家にいるのが、バレてないのかもしれないな」
藪内は、すぐにカーテンを閉めた。
……もしゾンビたちに家のなかにいることが嗅ぎつけられたら、まるで映画みたいに、大挙して押し寄せてきたりするんだろうか。
俺は、目の前のことに集中しようと首を振った。
「とりあえず、今のうちに手に入れられる情報は手に入れよう。母さんたちの居場所の手がかりが見つかるかもしれない」
見つからなければ、手当たり次第に歩き回るしかない。島のまだ見ていない場所を探して、それから見た場所をもう一度探す。どこからか助けが来るまで……その繰り返しになるだろう。
まだ探していないのは、岬から神社とその境内の集会所にかけてのエリア。町から港までのエリア。それから、島の大半を覆う山のなか。
一番目は、母たちのいる可能性が高い。その一方で、今もっとも危険な場所だ。藪内の母親は岬で襲われ、警官は集会所へパトロールに向かう途中で襲われた。むやみに近づきたくはない。
二番目は、母たちのいる可能性が低い。俺たちを置いて島の外へ逃げることは、まずないはずだ。
三番目は……あまりに広すぎる。
「やみくもに探すよりは、見当をつけたほうがいいですね」
藪内もうなずいた。
それから俺たちは、電気が通っているうちに手当たり次第にモバイルバッテリーを充電し、水道が通っているうちに汚れた制服を洗い、ガスが通っているうちにシャワーで汗を流すことにした。そうしている合間を縫って、大島に関するめぼしい資料を読むことにする。
藪内家のリビングルームは、天井まで届く本棚に壁を囲まれていた。圧倒されて上から下へ、また下から上へ視線を巡らせる俺を見て、藪内は誇らしげに笑った。
「この島は家賃が安いから戸建てに住めそうだってわかった途端、オカンが張り切って。ずっと夢だったらしいんすよ、天井まで届く本棚のある家」
本棚を埋める大半は民俗学の書物だったが、それ以外の人文系の書物もさまざまに並んでいた。俺は、母が一冊だけ著した――といっても、著者名となっている「編集局」の一員として関わっただけだが――ルポルタージュが棚にあるのを見つけた。とある薬害事件についての調査報道だ。
「……なあ。おまえの母親がうちの母親に送ってた資料って、どんなやつ?」
「聞き取り調査の一部でしたね。戦前の大島について詳しい人に聞いた話の、文字起こし」
藪内がリビングルームを横切って、そこから続く小部屋を示した。ここに原本があるかもしれないということか。
そこは書斎らしく、部屋の大部分を占める大きな机の上には、俺の母の仕事机と同様にノートパソコンやプリントアウトした資料が乱雑に置かれている。
「いつも以上に汚ねえな……祭の夜だから、復習してったのかも」
積み上げられた資料を手のひらで撫でながら、藪内は苦笑した。それはハッとするほどやさしい表情だった。
俺は、なんだか落ち着かない気持ちをごまかすように尋ねた。
「復習?」
「ああ、言ってなかったっけ。うちのオカンは、この島に伝わる土着の信仰について研究してたんです。比丘尼様の祭も、その一部」
藪内の指先が、分厚い郷土史の本にぶつかる。俺の母の手元にあったコピーは、この本から取られたものかもしれない。
藪内は、陽那島を含むこの列島の地図が記されたページを開いた。
「どうしてこの島が陽那島って名前なのか知ってます?」
「……日当たりがいいから?」
「はは」
藪内は笑った。それは、これまでのような嘲笑ではなかった。ページの上の大島を指差して言う。
「隣にある『大きな島』に対しての、『雛』あるいは『鄙』ってことです。今じゃ、あの島には人が住んでいなくて、こっちが本島みたいになってますけどね」
大島は、古来、風待ち港・潮待ち港として栄えたそうです。船乗りたちが長く滞在するから、歴史の古い遊郭があって、その起源は漂着したのちに定住した歩き巫女だったとされています。
歩き巫女っていうのは、全国を回って祈祷とか託宣をした巫女さんのことです。宗派は色々で、旅芸人や遊女を兼ねている者もいました。友介の話に出てきた「人喰い人魚」がモチーフにしてるっぽい「熊野比丘尼」も、歩き巫女の代表的な例です。
名前を聞けばわかるとおり、陽那島の比丘尼様の祭は、大島に定住した歩き巫女となんらかの関係があるんじゃないかと考えられています。人魚石も、ちょうど大島の港が見える岬にありますしね。
「でも、今の比丘尼様の祭には、豊漁を祈願する祭である本土のえびす講の強い影響が見られる。オカンは、この島固有の祭祀がどのようなものだったか、それがどのように本土の文化と混ざりあって変遷したのかを調査しているんだと言ってました」
「ふうん……」
ぼんやりと相づちを打ちながら、机上に視線を巡らせた。ふと、見覚えのある名前が目に留まる。
新垣年男。
この辺りでは珍しくない苗字だし、名前までは記憶していないから確証は持てないが、これは……新垣のじいさんじゃないか? 70代の男性、職業は漁師というプロフィールも合致している。
その資料は、聞き取り調査の文字起こしをプリントアウトしたもののようだった――先ほど藪内の母が俺の母に送ったと聞いた、戦前の大島についての聞き取り調査。
おやと思ったのは、新垣のじいさんの名前と、大島の名前を、最近どこかで並んで聞いた気がしたからだ。
「あ……!」
思わず声が出て、藪内が怪訝そうにこちらを見る。俺は気持ちを落ち着けるために、ひとつ唾を飲んだ。
「……あれ、新垣のじいさんかもしれない」
「え?」
「動画配信者を大島に渡した人」
「あー……でも、じいさんも断ったんじゃなかったでした?」
そうだ。「大島に渡りたいとしつこい動画配信者がいたが、新垣のじいさんが話をつけたはず」と、岬で漁師のおっちゃんたちが噂をしていた。
しかし、実際にどうなったのかはわからない。もし藪内の想像するとおり、動画配信者たちが「旧軍の生物兵器」にやられてゾンビになったんだとしたら……誰か、船を出したやつがいる。
パラパラと、くだんの資料をめくる。新垣のじいさんが昔話をしている。話したものを話したまま文字にしているから、寄り道や回り道が多くてすぐには概要が掴めない。
「えーっと、ちょっとこれまでの話を整理しましょうか」
藪内が言って、机上からルーズリーフとボールペンを取った。さらさらとキーワードをメモしながら、事実を整理していく。
「うちのオカンは、島に伝わる比丘尼様の祭祀について研究をしていた。そのフィールドワークの過程で、新垣のじいさんから話を聞いた――あんたの母親に、詳しく調べて報道してもらいたいと思うようなヤバい話を」
「そう。それはおまえが言っていたように、ひょっとしたら……旧軍が開発していたとされる生物兵器に関する話かもしれない。さっき、リビングルームの本棚にうちの母さんが取材した薬害事件の本があるのを見つけた。記者としての得意分野を知ってたんだ」
藪内は、思案げにボールペンの頭を唇に押し当てた。
「でも、本当に新垣のじいさんが動画配信者を大島に渡したんだとしたら……どうしてそんなことをしたんですかね?」
「たしかに……」
新垣のじいさんは、大島に上陸したら危険だと知っていたはずだ。それなのに、島に渡そうとしたということは――。
「動画配信者に死んで欲しかった、とか?」
藪内が冗談めかして言った。けれど、冗談にしては辻褄が合いすぎていて、ゾーッと背筋が寒くなった。
島の人たち――特に年配者が、よそ者を疎ましく感じているのは知っている。直接に危害を加えられたことはないけれど、陰口はさんざん叩かれてきた。
それでも、まさか、殺すほど憎んでいるとは思わないが……危険な場所に人を送りこむ理由が、ほかにあるか?
俺は身震いする一方で、けれど、同時に清々しい気持ちにもなっていた。ごちゃごちゃに混乱していた頭の片隅が、整理されていくような感覚。
――ずっと、母はどうして本土に帰らないのだろうと疑問だった。頼って身を寄せた祖母も亡くなり、この島に残る理由はなくなったはずだった。
母を苦しめたくなくて自分からは言い出せなかったけれど、もうすぐ高三になるのだから、進路に影響が出る前に早く本土へ帰りたかった。どうしてそのことに気づいてくれないのかと、うらめしく思ったことさえある。
今、ようやく理解できそうな気がした。母は、ふたたび使命を見つけていたのだ。
