8 幸せ
VR――バーチャルリアリティ。
偽物の空間。作られた世界。
その単語を目にした瞬間、酷い頭痛が僕を襲ってきた。それはまるで、答えに辿り着いたのだと知らせているみたいで。
「……仮想、現実?」
アサヒが目を丸くしている。
「いや、そんな、ありえねえだろ」
自分の体を触ったり周りの物を触ったりして、アサヒは半ば怒鳴るような口調で「現実じゃないって言うのかよ、これが」と言い放った。
「わかんない、けど……」
雷が鳴り響き、か細い僕の声をかき消す。
僕だって、そう思う。まさか、ありえないって。信じられるはずがなかった。こんなにもリアルな世界が、感覚が、ただのバーチャルだなんて。
だけど仮に、この世界が仮想空間なのだとしたら、あらゆる出来事の辻褄が合ってしまう。今まで自分の身に起こったことのすべてが、説明できてしまう。
小路が死んだことも、富谷が飛び降り自殺を図ったことも。羽佐間が一度死んで、生き返ったことも。母さんがいきなり喉を刺したことも。この島がおかしくなっていることも。あの認知症のお婆さんの、思わせぶりな警告も。
それから――突然、僕の人生に現れた、あまりにも理想的な、親友の存在も。
「まさか、そんな……」
一瞬、嫌な考えが浮かんでしまった。僕にとって、最も都合の悪い、最低で最悪の仮説が。
心臓が、まるで動悸のような、不快な鼓動を鳴らしはじめた。どくどくと激しく弾み、胸が苦しくなる。
僕は思わず首を振った。
考えたくなかった。今、目の前にいる彼が、仮想現実の住人だなんて。現実の世界には存在しない人物だなんて。
「アサヒ、は……」
確かめるのが怖かった。僕は恐る恐るアサヒに手を伸ばした。濡れたままの彼の上半身に。彼の肌の湿った感触や、皮膚の温かさ、筋肉の厚みが、掌から伝わってくる。これが偽物だなんて、思えなかった。
訊きたかった。確認したかった。「アサヒは、どっちなの?」と。
本物なのか、偽物なのか。
僕たち二人が、揃って仮想空間に来てるのか。それとも、ここへ来たのは僕だけで、アサヒもただのバーチャルに過ぎないのか。
答えを知りたかった。
だけど――。
「どうした」と、アサヒが首を傾げて僕を窺う。
僕は手を引っ込めて、「なんでもない」と返した。
彼に確認したところで、きっと、どうにもならないはずだ。今、ここでは、その答えは得られない。彼がどう答えたとしても、それが真実だと証明することはできないんだから。心の底から彼の言葉を信じることは、不可能だから。
だから僕は、行かなきゃいけなかった。真実がある場所へと。答えを知る人物の元へと。
「……行ってくる」
窓の外を見つめ、呟くように告げる。
「行くって、どこに」
訊かれ、僕はスマホの画面に視線を落とした。
「ここに行って、確かめてくる」
イカロスメディカル株式会社のホームページには、会社の所在地が載っている。住所は星凪島になっていた。
変な話だ。おかしい。こんな会社、この島にはなかったはず。だからおそらく、これは、僕へのメッセージなのだろう。この世界に僕を閉じ込めた人物からの、ヒントなんだと思う。
きっとここに、答えがある。真実がある。
僕はそう確信していた。
「アサヒはここで待ってて」
僕はそう言い残し、ひとりで待合室を出た。
星凪郡北里町66番。
雨に打たれ、風に煽られながら、目的地へと向かう。視界の悪い中、壊れた島の、壊れた道を進んでいく。
ホームページに書いてある会社の所在地。そこは、学校だった。僕たちが通っている高校と、イカロスメディカルのオフィスは、同じ住所だった。
グラウンドの真ん中に建物がある。4階建てのビルがぽつんと立っている。見慣れているはずの景色が、今日は異様なものに変わっていた。
恐る恐る、近付いてみる。雑居ビルのようだった。入り口に案内板がある。テナントが埋まっていないのか、1階から3階までは空白で、イカロスメディカルの社名は4階の欄にあった。
僕はエレベーターに乗って4階に上がった。そこはまるで普通のオフィスのようで、机とパソコンが並んでいた。だけど、社員らしき人は誰一人いなかった。
部屋の奥に扉がある。『社長室』と書いてあった。まるで僕を呼んでいるかのように、そのドアは少しだけ開いていた。
ノックもせずに扉を開ける。
中に人の気配があった。
立派なデスクが見える。背もたれの大きな、革張りの椅子がぐるりと回転し、その社長が僕に顔を見せた。
「あ……あなたは――」
予想もしなかった人が、そこにいた。
あの、おばあさんだった。
何度か会ったことがある。認知症で徘徊しているという、神尾のおばあさん。
まさかの人物に、僕は驚き、目を剥いた。頭が回らず、ただ「どうして」と小声で呟くことしかできなかった。
すると、
「だから言ったじゃん、近付くなって」
おばあさんは微笑を浮かべた。
まるで僕をからかっているかのような顔で、僕を見ている。
「忠告を無視するから、こんなことになるんだよ」
声はそのままなのに、喋り方も、態度も、表情も、まるで別人のようだった。
得体のしれない相手を前に、僕は呆気に取られていた。言葉が出てこなかった。
そんな僕に、神尾のおばあさんがくすくすと笑う。
「あー、この姿だと話がしにくいかな? じゃあ、元に戻そうか」
次の瞬間、お婆さんの姿が変わった。
ホログラムのようだった。白髪の老婆だった相手が、一瞬にして、姿を変えた。
「え――」
現れたのは――僕、だった。
おばあさんの姿が、突如、僕と同じになった。鏡を見ているかのようだった。顔も服も、まったく同じ。
「僕……?」
自分と瓜二つのその姿に、思わず目を見張る。
「そう。俺は、お前」
まったく同じ顔、まったく同じ声。
だけど、口調は違う。雰囲気も。僕とは別人のようだった。気弱で、冴えない僕とは違って、目の前の僕は堂々としていて、表情も自信に満ち溢れているような、そんな感じがした。
「お前なんだよ、俺は」
と繰り返し、彼はにやりと笑う。
ありえない、と思った。
「ち、ちがう……僕じゃない」
だって、僕が僕なんだから。本当の僕はここにいるんだから。目の前の僕は、僕じゃない。こいつは偽者に決まっている。僕はそんな喋り方をしないし、そんな顔で嗤わない。
「まあ、最初は受け入れられないだろうけど」
彼は机に両肘をつけた。それから、両手を組み、絡んだ指の上に顎を載せる。
「知ってるだろ? 人間の中には、二つの意識があるって。俺とお前も同じ。つまり俺は、お前の中にある潜在意識ってやつ」
「潜在、意識……?」
「潜在意識ってのは、いわば『自分で気付いていない、自分の本音』だ。要するに、俺はもうひとりのお前。それも、ものすごく正直者の」
意味がわからない。何を言っているのか、まったく理解できない。
「俺にはな、お前が本当に望んでいるものがわかるんだ。だから、今までそれを叶えてやってきたんだよ、この島で」
右手で頬杖をつき、彼は告げた。
この島の、この世界の真相を。
「もう気付いているんだろ? この世界が全部、偽物だって」
残酷な真実を。
「この世界は、お前の深層心理が作り出した、楽園。出てくる登場人物は皆、現実世界の人間をモデルにして、お前の頭が作ってる。ここで起こる出来事はすべて、お前が考えたシナリオ。良いことも悪いことも、どれも、お前が望んだ展開なんだ」
登場人物。シナリオ。展開。
眩暈がした。さっきからずっと、頭痛が続いている。
「お前の望む通りに、俺は叶えてきてやったんだよ。イカロス社の製品を利用して」
電流のような痛みが、どんどん酷くなる。
僕は顔を顰め、頭を押さえながら、問いかけた。
「……僕が望んだって? こんな世界を?」
こんな、壊れた世界を。
「そうだ。全部お前の望みだよ。お前が本当のことを知りたがったから、俺がその都度ヒントを与えてやった。あの印を、あちこちに残して。面白かっただろ?」
全部、お前が望んだことだ。
椅子の背もたれに体を預け、大きく両手を広げて、彼はそう言った。
「じゃあ、小路を殺したのも――」
「消えて清々したろ? 憎んでたよな、あいつのこと。いつも殴られて、酷いことされて。仕返ししてやりたいって、ボコボコにしてやりたいって、思ってただろ? だから、拷問して、殺してやったんだ。俺が」
四肢の骨が折れ曲がった、あの死体の姿が目に浮かび、僕は思わず顔をしかめた。
「富谷は――」
「金、返してほしかったよな? 謝罪の言葉も欲しかっただろ? だから、叶えてやった。お前の望み通りに。あいつらに制裁を加えてやったんだ」
僕が唖然としていると、彼は「ちなみに、あの札に書かれた言葉は全部富谷に書かせた。あいつの血で」と嗤った。
「羽佐間のことは……」
「あいつのこと、殺したいほど憎んでただろ? だから、その機会を作ってやったんだよ。それなのに、お前ときたら」
彼は呆れたような顔で肩をすくめた。
「せっかく自分の手で殺れたっていうのに。羽佐間のいない平穏な日常を手に入れたってのに。お前、嬉しくなさそうだったから。だから、なかったことにしてやった。全部幻、ってことで」
目の前の彼が嗤う。
「あいつが生き返って、ほっとしたろ?」
ようやくわかった。羽佐間が死んでなかった理由が。
あの夜、僕と羽佐間の間には何もなかったんだと、そう信じていた。ただ夢や幻覚を見ただけなんだ、と。
ある意味、それは当たっていた。僕はずっと見ていたんだ。幻覚のようなものを。この島に来てから、ずっと。
「あいつら三人は、ずっとお前のことをいじめてた。中学のとき、酷い目に遭ったよなぁ」
彼のその一言に、強い違和感を覚える。
「中学……?」
頭が痛い。これまででいちばん強い激痛が、こめかみの辺りに走った。
それと同時に、
「うっ……」
目の前に、一瞬、光景が浮かんだ。
断片的な映像が、次々と頭を過る。――中学の制服。教室。今より少し幼い顔をした、羽佐間たち。
「ま、忘れてるか」
もう少しで、何か思い出せそうな気がする。なのに、思い出せない。まるで、頭が思い出すことを拒んでいるかのように。
心を落ち着けようと、僕は深呼吸を繰り返した。頭の痛みが少し治まってきたところで、言葉を返す。
「……君は、間違ってる」
とにかく、彼の話を否定したかった。なんでもいいから。この世界が僕の理想通りだなんて、ありえないんだと。
「母さんが死んでほしいなんて、思ってなかった」
なんとか絞り出したその一言を、彼は軽く笑い飛ばした。
「本当にそうか? 前々から、うっとうしいと思ってたろ? お前がずっと、母親がいなくなってほしいって思ってたことを、俺は知ってたよ。隠しても嘘をついても無駄だ。俺はお前の潜在意識なんだから、お前の本心なんて、全部お見通しなんだよ。お前が母親のことを、この世界に必要ないって思ったから、俺が消してやったんだ」
それでも、否定する。違う。こんなのは、僕の理想の世界じゃない。こんな場所にいてはいけない。とにかく、現実に戻らないと。早く、ここから出なければ。
「どうすれば、元の世界に帰れるの?」
僕の質問に、相手は驚いたような顔をした。
「帰っていいのか? 本当に? せっかく、自分の理想の楽園を手に入れたのに?」
彼が椅子から立ち上がった。
「望み通りの生活。望み通りの人間関係」
そう言いながら、僕の方に近付いてくる。
一歩ずつ、ゆっくりと。
すぐ目の前まで来て、彼は囁いた。
「望み通りの――トモダチ」
思わず息を呑む。
僕の最も弱い部分を、彼は突いてきた。
「ずっと欲しかっただろ? いじめから救ってくれる、ヒーローみたいな親友が」
「まさか、アサヒは――」
「そう、俺が作った。お前のために」
「うそだ――」
僕は叫んだ。
「錨田朝陽がトモダチになってくれた理由を、お前は欲しがった。だから俺が、それっぽい動機を作ってやったんだ。親友の復讐っていう設定を。お前が納得できるようにな」
彼は嗤っている。僕の反応を愉しんでいる。
「信じたくないなら、別に信じなくていいよ。ただ、忠告はしておく。お前がここから出たら、錨田朝陽はいなくなるかもしれない」
彼はさらに言葉を続ける。僕を試すかのように。
「それが嫌なら、望めばいい。ここにいたいって。そうすれば、トモダチは消えない。一生」
彼は僕の顔を指差した。「お前だけだ」と、語気を強める。
「この世界の破壊を防げるのは、お前だけなんだ。お前の感情がこの島を造る。ここから出なければ、幸せでいられるんだよ。ずっとここにいればいい。今の幸せを捨てて、クソみたいな現実に戻る必要はないだろ?」
「……幸せ?」
僕は相手を睨み返した。
「こんなの、幸せとは言えない。現実じゃないんだから」
すると、相手は声をあげて笑った。
「幸せっていうのは、事実じゃない。感情なんだよ」
僕の目を真っ直ぐに見据えて、言う。
「現実がどうとか、真実がどうとか、そんなのはどうでもいいことだ。感情こそが、幸せをもたらしてくれるんだから」
「どういう意味……?」
「幸せな感情さえ感じていれば、幸せでいられるってこと。それが本物だろうと偽物だろうと、事実だろうとそうでなかろうと、関係ない。感情は、自分自身が決めるものだから」
彼は「そのうちわかる」と意味深なことを言った。
僕は彼の誘いを突っぱねた。
「それでも、僕は逃げたくない。現実から」
真実を知りたい。
自分が何者で、どうしてこの仮想世界に来たのか。
「それがお前の本当の望みか」
訊かれ、僕は迷わず頷いた。
すると、彼はため息をついた。
「だったら止めないよ。行けばいい。出口の場所は前に見たから、覚えてるだろ」
〓
いつの間にか嵐は止んでいて、夜空には大きな月だけが残っていた。僕の濡れた体も服も髪も、知らないうちに全て乾ききっている。
僕はイカロス社を出てから、星凪高校の体育館へと向かった。自然と足がその方向に進んでいた。
体育館の扉の前に、人がいた。
「ツキ」
アサヒだ。
親友は扉の前に座り、僕を待っていた。
どうして彼がここにいるんだろう、と思った。だけど、すぐにその理由に気付いた。僕が望んだからだ。アサヒに会いたいと思った。彼と話をしたかった。最後に。
だから、彼は来てくれた。
「アサヒ」
僕は彼の隣に腰を下ろした。
「会ってきたよ、この島を作った奴に」
アサヒが「どうだった?」と僕の顔を覗き込む。どこか不安げな表情で。
僕は彼にすべてを打ち明けた。
「この世界は、偽物だった」
僕の深層心理が作り出した、理想の世界。
ここで起こる出来事はすべて、僕の頭が考えたシナリオ。良いことも悪いことも、どれも、僕の心が想像し、潜在意識が望んだ展開。
「嘘だろ、そんな――」
アサヒは言葉を失っていた。
「星凪島なんて場所は、存在しない。これは全部、僕の頭が作り出した、理想の世界なんだ。だからいつも、僕にとって、都合の良いことが起こってた。僕をいじめてた小路と富谷は死んだし、僕が殺してしまった羽佐間は生き返った。それから――」
隣の彼を一瞥する。
「僕と友達になってくれる人が、現れた」
アサヒが目を大きく見開いた。僕の言葉が信じられない様子だった。
「俺は……現実にはいない人間なのか?」
震える声で僕に尋ねる。
「お前の世界に、俺はいないのか」
今にも泣き出しそうな顔で、彼は言う。
「違う」
僕は首を振った。
「僕は、アサヒを信じるよ」
信じたかった。彼の存在を。
きっと、必ず、どこかにいる、って。
「あいつが言ってたんだ。出てくる登場人物は皆、現実世界の人間をモデルにして、僕の頭が作ったものだって」
つまり、アサヒのモデルになった人物が、現実に存在している可能性が高い。
でも、根拠はそれだけじゃない。確信もあった。
「それに、僕は――」
隣に座る彼に、そっと手を伸ばす。彼の掌を握り、告げる。
「この手を覚えてる」
彼に触れられたとき、なんだか懐かしい感覚がしたから。前にもこんなことがあったような。彼の掌の感触を、覚えているような気がしたから。
だから、きっと、アサヒは現実にいる。実在している。僕が彼を、現実世界から、この星凪島へ連れてきたんだ。そして、トモダチという役を与えた。
「今までありがとう、アサヒ」
微笑み、僕は告げた。
その瞬間、アサヒの目から涙がこぼれ落ちた。
「この島にいる間、僕は幸せだった。アサヒがいたから」
僕も泣いていた。
涙が止まらなかった。
――幸せっていうのは、事実じゃない。感情なんだよ。
あいつの言葉の意味が、少しだけ理解できたような気がした。
たしかに、この島はすべて作り物だった。だけど、アサヒが僕にもたらしてくれた感情は、嘘ではなかった。彼といると楽しくて、彼の言動が嬉しくて、僕は幸せを感じていた。
この感情だけは、偽物ではないと言い切れるから。本物だったから。
たとえ、この世界を離れたとしても、現実に戻ったとしても。僕はきっと、この感情を忘れることはないだろう。彼がくれたこの幸せは、ずっと心に残っていることだろう。
掌で涙を拭いてから、
「じゃあ、そろそろ行くね」
僕は腰を上げた。
「……ああ」
アサヒも立ち上がる。
体育館の扉を開け、中に入る。薄暗い室内に、ぼんやりと緑色の光が見える。
――非常口。
ここが、現実への扉なのだろう。ドアの取っ手の近くには、数字のパネルが付いていた。ここに四桁のパスワードを入力しなければならない。
なんとなくだけど、暗証番号はわかっていた。たぶんこれなんだろうな、と。僕は数字のボタンを押した。
0,8,3,1。
音が鳴り、ロックが解除された。
非常口の扉を開ける。その先は真っ暗で、何もなかった。
一歩踏み出そうとしたところで、少し躊躇ってしまう。怖かった。この先に進めば、どうなってしまうのか。不安で、怖くて。
それから、彼と別れるのが、悲しくて、寂しくて。足が止まってしまった。
「大丈夫」
背後で声がした。
「大丈夫だ、ツキ。すぐに会える、絶対」
アサヒが笑顔で言った。
僕に手を差し出す。
「うん。また会おうね、アサヒ」
握手を交わしながら、僕は頷いた。
「現実に着いたら、君を探すから」
「うん」
「向こうの世界でも、友達になれるよね?」
「ああ」
アサヒも頷いた。
「なれるよ。次に会ったときはきっと、今よりもっと、仲良くなれる」
ここでお別れだ。
僕は未練を振り切り、アサヒに背を向けた。非常口の中の暗闇へと、一歩、足を踏み入れる。その瞬間、突如、体が無重力状態になった。
振り返ると、もうアサヒの姿はなかった。
ただ、何もない闇の空間を、僕の体はふわふわと漂っていた。それから、ひたすら下へ、下へと沈んでいった。
〓
まるで、長い夢を見ていたような気分だった。
ゆっくりと目を開けると、眩しい光が視界に飛び込んできた。天井の真ん中で、丸い蛍光灯が煌々と輝いている。
僕はどうやら布団の中にいるようだ。仰向けで寝ている。起き上がろうとしたけど、どういうわけか、できなかった。体に力が入らない。まったく動けない。
寝返りも、首を動かすこともできなかった。今の僕にできることは、ただ視線を彷徨わせて、見える範囲の物や景色を確認することだけ。そこから得られる情報で、限られた手がかりで、なんとか現状を把握しようと試みた。
家、だと思う。たぶん。僕の家。仕切りの扉が開いていて、隣の部屋が見えた。ダイニングテーブルの向こうに、キッチンがある。水を流す音が聞こえる。
そこに、誰かが立っていた。
母さんじゃなかった。男の人だ。
金髪の髪の。
水の音が止まった。その人が、こっちに向かって歩いてきた。そして、僕の顔を覗き込んだ。
――アサヒだった。
アサヒがいた。あの世界で別れたばかりの相手が、まったく同じ顔が、目の前にいた。
名前を呼ぼうと、僕は口を開いた。だけど、呼べなかった。どういうわけか、声が出なかった。
アサヒは僕に向かって優しく微笑んだ。
「おはようございます、月斗さん」
他人行儀な言葉。愛想笑いのような表情。
星凪島にいたときとは別人のような、彼のその態度に、僕は驚き、目を見開いた。
「体、拭きますね」
彼の手には、濡れたタオルを持っていた。
僕の服を脱がし、体をタオルで拭いていく。僕は何も動けず、ただ横になっていることしかできなかった。
……どういうことだ、これは。
胸がざわつく。目の前の男は、アサヒじゃないのかと、じゃあいったい誰なんだ、と。
そのときだった。
別の音が聞こえてきた。ドアが開き、誰かが家に入ってくる音が。
「――ああ、錨田さん」
聞き覚えのある声。
母さんだった。
「すみません、今日もありがとうございました」
「早かったですね」
「ええ、仕事が早く終わって」
「それじゃ、僕はこれで失礼しますね」
立ち上がろうとしたアサヒを、母さんが呼び止める。
「よかったら、お茶でも」
「あ、じゃあ、お言葉に甘えて。すみません、ありがとうございます」
促され、アサヒがダイニングチェアに腰を下ろした。
母さんがその向かい側に座る。疲れた顔をしていた。星凪島にいた母さんよりも、老け込んでいて、白髪も増えている。
差し出されたお茶を一口啜ってから、
「……あの、訊いてもいいですか」
と、アサヒは小声で切り出した。
「ずっと気になっていて……月斗さんに、何があったのか」
気の毒そうな顔でそう言った。
母さんが頷き、僕を一瞥してから答える。
「飛び降りたんです」
え――と、僕は声にならない声をあげた。
「3年前、中学生のときに、クラスメイトにいじめられていて……学校へ行くのが苦痛だったんでしょうね。夏休みの最後の日に、マンションのベランダから飛び降りたんです」
そうだ。
思い出した。
中学の頃。あの日。8月31日。
「たまたま下に車があって、それがクッションになって、運よく命は助かりました。だけど、頚椎が損傷していて、首から下が麻痺して、今のような、どこも動かせない状況に……」
……ああ、そうか。そういうことだったんだ。
すべてを思い出した。
僕は、死に損なったんだ。
羽佐間たちにいじめられて、人生に絶望して、自殺を図った。
だけど、失敗した。
悲惨な結果だった。僕はひとりじゃ何もできない、お荷物になってしまった。母さんはそんな僕を養って、仕事と介護で忙しくて、今にも壊れてしまいそうだった。実際、壊れていたんだと思う。変な団体に頼って、よくわからない怪しげな集会に通うほどに。
だけど、それでも限界がきて、母さんは介護士を雇うことにした。
――それが、錨田朝陽だった。
「あれって、VRですか?」
と、アサヒが何かを指差している。僕の頭の上あたりにある、なにかを。
「たしか、イカロス社の製品ですよね。『Eden』っていう、医療用VRの」
「ええ、そうです」
母さんが頷く。
「錨田さん、知ってるんですか?」
「僕、今、認知症のおばあさんの家にも通ってるんですが、そこにもあれと同じものがありました。Edenを使うようになってから徘徊しなくなったって、ご家族の方が言ってましたよ」
という彼の話に、「そうなんですね」と、母さんの声が少し明るくなった。
「でも、僕が見たものとは、少し形が違うような……」
「最新バージョンのデバイスだそうです。まだ開発されたばかりのもので、試用段階だと」
母さんが答えた。
「去年、イカロス社の人がうちに来て、モニターになってくれないかって頼まれたんですよ。最初は抵抗があったんですが、月斗はゲームが好きだったし、気に入ってくれるかもしれないな、って」
母さんは言葉を続ける。やけに饒舌だった。もしかしたら、誰かに話を聞いてほしかったのかもしれない。
「トラウマの治療にも良いそうです。月斗、つらい思い出ばかりだっただろうから、仮想現実の中では、楽しい学生生活を送ってほしいなって。もっといろんな世界を見られたのに、若くしてこうなってしまったから……」
アサヒは気の毒そうな声で、「そうですね」と相槌を打った。
まるで言い訳するかのように、母さんが言う。
「家で寝てるだけじゃ、やっぱり退屈じゃないですか。天井ばかり見つめる毎日だと、気が滅入るだろうから」
「――本当にいい人よねぇ、錨田さんって」
介護士が帰ったところで、母さんが僕に声をかけてきた。
布団の傍に正座して、僕の顔を覗き込む。
「前の介護士はあまり良くなかったけど」
僕は何も答えない。答えられない。喋れないから。
「仕事も真面目だし。月斗にも、たくさん話しかけてくれるし」
そうだった。すべてを思い出した。
錨田朝陽は僕の二人目の介護士で、三か月ほど前からうちに通っている。週に数回、母さんが仕事の間、僕の面倒を見てくれる。
彼は、いい人だった。いつも笑顔で接してくれる。体を拭く手つきも丁寧で、優しかった。退屈している僕に、いろんな話をしてくれて。そんな時間が楽しくて、好きだった。
だから、僕はいつも思っていた。彼がうちに来るたびに。こんな人が、トモダチだったらいいのになって。一緒のクラスにいて、仲良くなれたら、楽しい学生生活を送れたかもしれないのに、って。
そしたら僕も、こんなことには、ならなかったのかもなって。いつも思ってしまった。
だけど、彼はただの介護士だ。親友でも何でもない。
これが現実。僕の世界の、本当の姿。
求め続けていた真実の正体に、僕は打ちのめされていた。現実はあまりにも残酷で、無慈悲で、理不尽で。救いようのないほどに、最悪だった。
「ツキ、どうしたの」
僕の顔を見た母さんが、ぎょっとして声をあげた。
「どうして泣いてるの、どこか痛いの?」
自分が泣いていることにすら気が付かなかった。何かが頬を伝う感触がしても、この手で確かめることができないから。鏡を見ることもできないから。
涙は止まらなかった。悲しいからか苦しいからか、それとも悔しいからか、寂しいからか、よくわからない。この世に存在する負の感情のすべてを搔き集めて、ぐちゃぐちゃに混ぜて、無理やり喉に流し込まれたような、そんな苦痛と苦悩に襲われていた。
「どうしたの? なにかあったの?」
母さんが心配そうな顔で問いかける。
何も言えない僕は、言葉の代わりに合図で答えた。ゆっくり、二回、目を瞑る。「なんでもない」と言うように。
返事は瞬きで、「はい」なら一回、「いいえ」なら二回――それが、母さんとの間で決めたルールだった。母さんが質問して、それに僕が答える。そうすることでしか、会話ができなかった。
僕から言いたいことがあるときは、相手に気付いてもらえるまで待つしかない。だから、僕はただじっと、母さんの目を見つめた。なにかを訴えかけるように。
「どうしたの? お腹空いた?」
母さんが首を傾げた。
瞬き二回。いいえ。
「お水ほしい?」
瞬き二回。いいえ。
そうじゃない、と否定する。
それから、僕は視線を上に向けた。意図を伝えるように。
母さんが合図に気付き、僕の頭上を見た。そこにあるデバイスを手に取り、僕に見せて問う。
「もしかして、これがほしいの?」
僕はゆっくりと、瞬きをした。
一度だけ。
「……うん、わかった」
と、母さんが頷く。
僕の頭を撫でながら、
「いい? この中では、あなたは、あなたのなりたい自分になれる。理想の人生を送れる。あなたが望めば、願いはなんでも叶う。欲しい物も、なんだって手に入るの」
母さんはいつもの言葉を言う。
まるで、僕に暗示をかけるかのように。
「だから、絶対に、悪いことは考えちゃだめ。悪いことを考えると、悪いものを引き寄せてしまうから。よくない世界が現実化してしまうの。嫌な出来事が起こるし、悪い人が寄ってきて、またあなたを苦しめる。だからね、絶対に、いいことだけを考えなさい」
そう言いながら、ゴーグルを僕の頭に装着した。
視界が塞がれる。機械の重みを感じながら、僕はゆっくりと目を閉じた。
「あなたの好きなこと、綺麗なもの、善い人たちで、あなたの世界を埋め尽くしなさい」
このデバイスを使うとき、母さんは必ず、そんな風に僕に忠告する。僕が、嫌なものを見なくていいように。バーチャルな世界に、悪いものが入ってこないように。
〓
――幸せっていうのは、事実じゃない。感情なんだよ。
あいつの言葉が、頭の中を反芻する。何度も、何度も。さっきからずっと、脳内に響きわたっている。
僕の顔にゴーグルを装着したところで、母さんが電源を入れた。その瞬間、ぴりっとした電流のような、軽い痛みが僕の頭を駆け巡り、視界が真っ暗になった。
直後、はっと目を開けると、辺りの景色が変わっていた。
青い空に、白い雲。太陽に照らされて、きらきらと光る海。穏やかな波の音。風に吹かれて揺れる木々の音。鳥の鳴き声。
僕は、星凪島にいた。
真夏のあの島に、戻ってきた。
目の前には砂浜が広がっている。海で泳いでいる人や、サーフィンをしている人もいる。今は夏休みなのだろう、学生らしき集団もいた。バーチャルとは思えない、本当にリアルな世界だ。潮の匂いまで伝わってくる。
僕は体に力を入れてみた。手足が動く。首も動かせる。自由に。
「――戻ってきたんだな」
不意に声をかけられ、振り返る。
腰の曲がった老婆が、僕に歩み寄ってきた。神尾のばあさん――いや、僕だ。おばあさんの姿をした、もう一人の自分。
「どうだった? 向こうの世界は」
と、彼は尋ねた。訊かなくてもわかっている。そんな口調で、あえて僕に問いかける。
「最悪だった」
僕は答えた。声も出せる。喋れる。あの世界と違って。
「だから言ったじゃん。クソみたいな現実だって」
彼は嗤った。
たしかに、こいつの言う通りだった。現実は残酷なものだった。僕は寝たきりで、喋ることすらできず、人間らしい機能を失っていた。毎日ただひたすら、天井の光を見つめているだけ。他人に世話をしてもらわなければ、生きてもいけない。
人はこう思うかもしれない。そんな辛い毎日、生きる価値があるのだろうか。息をすることしかできないような、そんな悲惨で惨めな体なら、早く人生が終わってくれた方がいいんじゃないか――って。
たしかに他人からしてみれば、僕は不幸で、可哀そうな人間に見えるだろう。将来に夢も希望も持てなくて、絶望の中を生きているだろうって、そう思うかもしれない。
だけど、そうじゃない。違うんだ。
「でももう、どうでもいいよ」
僕は吐き捨てるように告げた。
「どうでもいい。関係ないから」
という僕の言葉に、
「へえ」
おばあさんの顔をした僕が、眉を上げて言う。
「変わったな、お前」
変わったのだろうか。ふと思う。自分というものが、自分でもよくわからなかった。まるで生まれ変わったような気分でもあるし、ずっと前からこうだったような気もする。今の自分こそが、本当の自分なんだ、と。
「お前の言葉の意味が、よくわかったよ」
あの日、こいつと話したときのことを思い返す。
よくわかった。心の底から実感した。
僕は、間違っていた。
「事実なんかどうでもいい。大事なのは、感情――だろ?」
彼の言葉を反芻する。
――現実がどうとか、真実がどうとか、そんなのはどうでもいいことだ。感情こそが、幸せをもたらしてくれるんだから。
あのとき、こいつは――いや、違う。僕の潜在意識が、そう言っていた。
本心が、本当の俺が、そう言っていたんだ。
彼はにやりと笑い、頷いた。
「そうだ。それでいい」
いつの間にか、彼――神尾のおばあさんは消えていた。一瞬にしていなくなってしまった。たぶん、もう二度と、目の前に現れることはないんだろう。そんな気がした。
振り返り、再び海に視線を向ける。綺麗な景色だった。汚い物が何ひとつとして存在しないような、そんな世界が、そこには広がっていた。
次の瞬間、不意に、眩しい金色が視界に飛び込んできた。
見覚えのある金髪の頭が。
浅瀬を漂う彼の姿を見つけた瞬間、心が躍った。
俺は靴を脱いだ。急いで靴下も脱ぎ捨てて、裸足になり、砂浜に足を踏み入れる。やわらかい地面に足跡を残しながら、波打ち際へと進んでいく。
金髪頭の青年がサーフボードを片手に、海から上がってきた。目が合った瞬間、こちらに手を振ってきた。
俺の目の前まで来てから、
「また会えたな」
と、歯を見せて笑う。心から、嬉しそうに。
「おかえり、ツキ」
彼の笑顔を見た途端に、心が満たされていくのを感じた。
――幸せな感情さえ感じていれば、幸せでいられる。
それが本物だろうと偽物だろうと、事実だろうとそうでなかろうと、関係ない。感情は、自分自身が決めるものだから。
俺が不幸かどうかなんて、周りの人間が決めることじゃない。
俺の幸せは、俺が決めていいんだ。
だから、ここへ来た。彼の元へと戻ってきた。
作り物の世界でも、実在しない相手でも、構わない。どうでもいい。
「ただいま」
――これが、俺の幸せだから。
誰にも否定はさせない。誰も否定できない。
俺は満面の笑みを浮かべ、親友の名前を呼んだ。
「アサヒ」
海から上がったばかりで、アサヒの髪は、体は、濡れていた。俺の右手には、いつの間にか一枚のタオルが握られていた。こんなもの、さっきまでは持っていなかったのに。拭いてあげたいと思ったから、俺がほしいと思ったから、そうなったんだ。
ここでは、何でも思った通りになるから。やりたかったことができるし、なりたかった自分になれるから。何だって、ほしいものが手に入るから。
「会いたかった」
タオルの端で彼の頬を拭きながら、俺は告げた。嬉しそうに目を細める彼の顔に、心が喜んでいる。これでいいんだと。これがほしかったんだと。
アサヒが俺を見つめながら、甘い声色で答えた。
「俺も、会いたかった」
END
