7 楽園


 拾い上げたその硬貨を、じっと凝視する。
 たしかにそこには、あのマークが刻まれていた。
 Vの字と、二本線。
 あの地下教会で見たものと、羽佐間の手の甲に刻まれていたものと、全く同じ印が。
「……母さん」
 視線を上げ、僕は母さんの顔を見た。
「これ、どうしたの……?」
「え?」
「ねえ、教えて!」
 僕が詰め寄ると、母さんは不思議そうな顔をした。
「どうしたの、ツキ」
「これ、どこで手に入れたの!」
 声を張りあげ、コインを目の前に突き付ける。
 すると、
「こないだの、島の集会でもらったのよ」
 と、母さんは何てことないような口調で答えた。
「……集会? それって、どんな」
「癒しの会っていう、小さな集まりで」
 悪い予感が過った。
 硬貨を握りしめている掌に、じわりと汗が滲む。
「母さん、もしかして、また変な宗教に入ったの……?」
 嫌な記憶が蘇る。僕が中学生のときの。いじめられて、不登校になって、社会のレールから外れた頃、母さんは少しおかしくなった。まるで、僕と、目の前の現実から目を背けるかのように、怪しい宗教みたいなものに、のめり込むようになってしまった。
「宗教じゃないのよ、ヒーリングサロンって言ってね」
 母さんは笑顔でそう答えた。
 一切の悪気がない、無垢な笑顔で。
「この島の移住を勧めてくれたのも、その会の人なの。息子さんの心が癒えるだろうから、って」
 不意に、大きな雷が鳴り響いた。さっきまで天気がよかったのに、いつの間にか辺りが暗くなっていた。雨が降りはじめたようで、屋根を激しく叩く雨粒の音が聞こえてきた。強風のあまり、窓がガタガタと揺れている。まるでスコールのようだった。
 突然の天候の変化を、母さんは少しも気に留めることなく、穏やかな口調で話を続ける。
「ねえ、よかったでしょ? ツキ」
 雷が鳴り響く中、呑気ににっこりと微笑む。
「この島に来て、よかったでしょ?」
「……か、母さん」
「だってここは、あなたの理想の世界なんだから」
「え……?」
「だって、あなたが、神なんだから」
 なにを言ってるんだ、この人は。
 ズキ、と頭に痛みが走った。電流のような、いつもの痛みが。
「か、母さん、なに言ってんの……」
「あなたはこの楽園を作る神様で、世界はすべて、あなたの思った通りになるんだから」
「どうしたの、おかしくなっちゃったの……?」
 さっきから意味のわからないことばかり言うこの人が、不気味で、怖くて。
「楽園なのよ、ここは」
 神様。楽園。理想の世界。
 怪しげな言葉の数々に、僕の頭の中に一瞬、あの地下教会のカルト教団のことが浮かんだ。
 理想の世界の実現に向けて――魔術書の裏表紙にあった、あの殴り書きの言葉。
 まさか、母さんもあいつらの一員なのだろうか。以前みたいに、また変なカルトに入信してしまったんだろうか。僕の知らないところで、あの地下教会に通っているのだろうか。
 だから、こんなおかしなことを言うようになってしまったのだろうか。
「大丈夫よ、何もおかしくなんてない。いいことだけを考えて、ツキ。楽しいこと、嬉しいこと、好きなこと」
 ……いや、違う。
 母さんは、前からこうだった。
 すでに、どこか壊れていたんだ。
「この世界はね、あなたの思った通りになるの」
 またその話か、と嫌気がさす。落胆すら覚えた。
 希望に満ちた表情で母さんがそう言う度に、僕の心は黒く染まっていく。いつも。
「あなたは、あなたのなりたい自分になれる。理想の人生を送れる。あなたが望めば、願いはなんでも叶う。欲しい物も、なんだって手に入るの」
 いつも、この人は、そんなことを言う。
 いい加減、うんざりしていた。
「前から思ってたけど、母さんは、いつも……」
 母さんは、都合のいいことしか言わない。まるで僕を洗脳するかのように、何度も繰り返す。何の薬にもならない言葉を。
 正直、迷惑だった。
「都合のいい、綺麗事ばっか言って、いつも僕を苦しめるよね……」
 それが、僕の心を追い詰めているとも知らずに。
 母さんが理想の世界を語る度に、幸せな僕の姿を語る度に、僕は現実とのギャップに苦しめられてきた。まるで、今の自分では駄目なんだと言われているみたいで。到達できそうもないゴールを無理やり見せられているようで。拷問のように感じていた。
 だから、邪魔だった。
 この人の言葉も。存在も。
 僕を苦しめるだけだから。
 ――母さんなんか、いなくなればいいのに。
 そんな考えが一瞬、頭を過った。今まで心の底に押し込んでいた本音が、思わず零れ出てしまった。
 そのときだった。
 母さんが満面の笑みを浮かべた。
「うん! わかった!」
 突然、母さんはどこからともなく、包丁を取り出した。
 そしてそれを、自分の喉に突き刺した。勢いよく。
 笑顔のまま。
「え――」
 僕は悲鳴をあげることすらできなかった。
 母さんの喉から血が噴き出し、僕の視界は真っ赤に染まった。生温かい返り血がべっとりと顔にこびりつく。
「あ、……ああぁ……」
 僕は目を剥いた。
 あまりの衝撃に、何も考えられなかった。血を流して頽れる母親を、ただ唖然と見つめることしかできなかった。
「か、かあ、さん……」
 母さんは死んでいた。笑顔を浮かべたまま。
 自分の母親のはずなのに、それが、得体の知れないもののように見えてしまって。恐怖がせり上がってきて、体が震えはじめる。
 怖くて堪らなくなって、僕は走り出し、真っ暗な家の外へと飛び出した。この場にいたくなかった。地獄のような状況のこの自宅よりも、嵐が巻き起こっている屋外の方が、まだマシに思えたから。
 とにかく、どこかに逃げたかった。ここから少しでも離れたかった。
 雷が鳴り響く中、激しい雨に打たれながら、僕は進んだ。行先は決まっていなかった。どこに行くべきなのかわからなかったし、何も考えられなかったけど、僕の足は自然と、無意識のうちに、集会所の方向へと向かっていた。親友のいるであろう場所へと。
 そのときだった。
「――ツキ!」
 集会所の前に、アサヒがいた。
 駆け寄ってくる彼の姿に、僕はほっとした。
「アサヒ……」
 話さなきゃ、と思った。あのことを。母親が死んだことを。今もまだ、家の中に死体があることを。彼に相談すれば、何とかしてくれるだろうから。
 打ち明けようとしたところ、アサヒが先に口を開いた。
「島が変なんだ」
 彼の表情は焦りに満ちていた。いつもどっしりと構えている彼にしては、らしくなかった。
「ほら」
 と、アサヒが頭上を指差す。
 雷雨の中、僕は空を見上げた。
「な、なに、これ……」
 信じられない光景が広がっていた。
 まず、目に入ってきたのは、大きな丸い光。満月だ。ちょうど真上にある。だけど、信じられないような大きさだった。空全体を覆いつくしそうなほどの。
 それだけじゃなかった。
「スコールが来てから、なんか、おかしくなって」
 と、アサヒが困惑した声色で告げた。
 辺りを見渡すと、たしかに奇妙なところがいくつもあった。スコールの強風に煽られ、自動車が空を飛んでいる。まるで風で飛ばされるビニール袋のように。道端の電柱は、どれもぐにゃぐにゃに曲がっていて、街灯はチカチカと激しく点滅していた。
 島が、おかしくなっている。
 あるべき場所にあるべきものがない。あるべきでない場所に、あるべきでないものがある。
 夢でも見ているのだろうか、と思った。だって、こんなの、ありえない。現実とは思えない光景に、僕は目を疑った。
 頭がおかしくなりそうだった。いや、もうすでにおかしくなってしまったのだろうか。僕は壊れてしまったのだろうか。
 ――世界が壊れる。
 神尾のおばあさんの言葉が頭を過った。
 はっと息を呑む。
 まさか――世界が、壊れている――?
 あのおばあさんが言っていたのは、このことなのだろうか。
「ここにいちゃ、いけない気がする」
 と、アサヒが言った。
 僕もそう感じていた。このままここにいたら、僕たちまで変になってしまいそうで。
「ツキ、逃げよう」
 彼の言葉に、僕は迷わず頷いた。


 どこに行っても、島は狂っていた。建物や物だけではない。島民もおかしくなっていた。こんなスコールの中、呑気に犬の散歩をさせている人もいた。登校している学生の集団ともすれ違った。皆、大雨に打たれていることなど、雷が鳴り響いていることなど、微塵も気にする様子もなく。
 さらに進むと、広い道路に出た。並んでいる街灯の光は、なぜか色が赤くて、点滅していた。まるで危険を知らせているかのように見えて、嫌な胸騒ぎがさらに強くなる。
 バス停の前を過ぎた瞬間、路線バスが通りかかった。停まることなく、そのまま走り去る。バスはなぜか反対向きで走っていた。
 何もかもが、あるべき姿をしていない。すべてがおかしくなっている。
 雨がさらに強くなってきた。「急ぐぞ」と、アサヒが急かした。
 激しい雷雨の中、僕たちは走った。
 しばらくして、目的地に到着した。島のフェリー乗り場だ。一刻も早くここから出たかった。島から逃げ出したかった。だけど、叶わなかった。『嵐のため本日全便欠航』という張り紙に、僕たちは肩を落とした。
 とりあえず雨風を凌ごうと、待合室に入る。まるで服を着たまま海に入ったかのように、僕たちは全身びしょ濡れだった。アサヒはTシャツを脱ぐと、それを固く絞った。
 倒れ込むように椅子に腰を下ろした僕を見て、
「……それ、血か?」
 と、アサヒが尋ねた。
 見れば、僕のTシャツは赤く染まっていた。母さんのことを思い出してしまい、僕の心は一気に重くなった。
「怪我したのか?」
「……僕じゃない」
 僕は俯いた。
「母さんが……母さんが、死んだ」
「え――」
「急に、包丁で、自分の喉を刺して……」
 僕はそれ以上、なにも言えなかった。
 目に焼き付いて離れない。あの光景が。母が、自身の喉にナイフを突き立てる瞬間が。そのときの、恐ろしいほどの満面の笑みが。
 もしかして、あれは僕のせいだったのだろうか。そんな考えが頭を過った。
 僕は母さんを邪魔だと思ってしまった。いなくなればいいと、一瞬でもそう思ってしまった。そしたら、母さんは「わかった」と言った。まるで僕の心を読んだかのように。自分で自分を刺して死んだ。
 僕がいなくなってほしいと願ったから、母さんはいなくなってしまったのだろうか。
 馬鹿な考えだと思うけど、そう思わずにはいられなかった。僕のせいで死んでしまったのではないかと。そんな風に結び付けてしまう。僕の今の精神は、冷静に物事を考えられる状態じゃなかった。
 アサヒは黙っていた。
 しばらくして、彼は「これ着とけ」と言い、固く絞ったTシャツを僕に差し出した。
「……ありがとう」
 自分の服を脱ぎ、僕はそれを着た。まだ湿ってるし、サイズはぶかぶかだけど、彼の気遣いが心に染みて、泣きそうになってしまった。
 脱いだ僕の服を、アサヒは待合室のゴミ箱に捨てた。
 強風で揺れているドアに近付き、外を眺めながら、
「いったい何が起こってんだろうな、ここで」
 と、アサヒが呟くように言った。
 建物の外は異常な状態だ。
 一方で、待合室の中は正常だった。僕は辺りを見回し、確認した。椅子も自販機も、乗船券の券売機も、どれもいつも通りだった。
そのとき、壁の掲示板が、ふと目に入った。
 そこに貼られている、一枚のポスター。島でよく見かけるもの。
『心と体を癒す あなただけの楽園』
 そんなキャッチコピーに、綺麗な海の写真。島のリゾート開発を手掛けている、イカロスホールディングスのポスターだ。あの、羽佐間の父親の会社の。
「あ……」
 それを見て、僕ははっと気付いた。
「どうした、ツキ」
「これ……」
 イカロスホールディングスの企業ロゴをじっと見つめる。会社名のIKAROSから、最初の二文字を使用したもの。オシャレにデザインされたIとKのマーク。
「このマーク、もしかして――」
 似ていた。
 あの印に。
「Vと、二本線……」
 僕は首を右側に傾けるようにして、そのロゴを見た。
「おい、まさか」
 アサヒも気付いたようだ。
 僕らが調べていたあのマークを右に90度傾けたら、同じような形になることに。
「ちょっと待て。あのマークはVと二本線じゃなくて、IとKだったってことか?」
 そのときだった。頭痛が襲ってきた。今まででいちばん痛みが酷い。この企業ロゴを見ただけなのに、どういうわけか、具合が悪くなってきた。
 思わずふらついた僕の体を、アサヒが抱き寄せる。
「おい、大丈夫か、ツキ」
「……うん」
 ロゴから目を逸らす。痛みが治まってきた。
 ――それに近付いてはならない。
 神尾のおばあさんの言葉が頭を過る。
 あの人は忠告していた。このマークに近付くな、と。尋常じゃない様子で。きっと、このマークに何かあるんだ。もしかしたら、島の秘密が隠されているのかもしれない。この島がおかしくなってしまった理由が、島の人が狂ってしまった理由が。この印が、すべての答えに繋がっているのではないだろうか。
 真相に近付いているような気がした。
 知りたかった。この島で、いったい何が起こっているのか。
 このロゴを調べたら、辿り着けるのではないかと思った。真実に。
 僕はすぐにスマホを取り出して、検索した。羽佐間の父親の会社名を。
 だけど――
「イカロスホールディングスなんて会社は、存在しない……」
 何も出てこなかった。
 代わりに表示されたのは、別の名前の会社だった。
 ――イカロスメディカル株式会社。
「イカロス、メディカル……?」
 検索で出てきた会社のホームページを開いてみる。
 社長のあいさつが載っていた。だけど、羽佐間の父親ではなかった。まったく知らない人だ。
「どんな会社なんだ、それ」
 と、アサヒが画面を覗き込んできた。
「主に、医療器具を製造してる企業みたい」
 医療機器、病院設備、介護用品、それらに付随する様々な製品の開発・製造・販売――ホームページにはそう書いてあった。
 事業内容を読み進めていく。その中のひとつが、目に留まった。
「医療用VR開発事業……?」
 その単語が、なぜか妙に、僕の心に引っ掛かった。
 どこかで聞き覚えのあるような。そんな気がした。
「医療用VR? って、なんだ?」
 アサヒが眉をひそめた。
 再び頭痛が襲ってきた。今度は吐き気を伴って。
 顔を顰めて耐えながら、僕はそこに書いてある文字を目で追った。
「『VRは、ヒトの感覚器官を刺激し、コンピュータによる仮想空間を現実のように感じさせる技術として、様々な場面で利用されています』」
 サイトの文章を読み上げる。
「『医療の現場でも、幻肢痛、PTSDや不安障害の治療にも役立てられています。アメリカでは、帰還兵のPTSDの治療にも使用され、一定の効果が認められました。VRによる高度な視覚シミュレーションを体験することで、患者は感情的な記憶に向き合い、乗り越えることができるのです』」
 さらにそこには、詳しい説明が書いてあった。


    弊社が2030年に開発した医療用VR『Eden』は、『患者の心と体を癒す、理想の世界』を実現します。
   独自の特許技術が使用されており、これによって患者の脳波とデバイスを連動させることが可能となり、
   よりパーソナライズされた高度でリアリティのある仮想空間の実現と、
   従来のVRの問題点であったサイバーシックネスの軽減に成功しました。


 ――理想の世界を実現。
 どこかで聞いたフレーズ。
「エデン……?」
 痛みをこらえながら、僕は続きを読んだ。


    本製品は、PTSD治療はもちろん、寝たきりの高齢者や障がい者、
   外出の難しい患者のメンタルケア、終末医療にも十分な効果を発揮しています。
   VRによって自然風景や社会的場面を体験することで、多感覚刺激や運動イメージが得ら
   れ、孤立感・抑うつを軽減。また、神経回路が再活性化されることで、
   筋萎縮・認知低下の抑制の効果も認められています。


 もしかして、と嫌な仮説が頭に浮かぶ。
 もしかして――この世界は、この島は――。
「仮想、現実……?」