6 謝罪
「――おはよー。羽佐間くん」
「おはよ」
クラスの女子と言葉を交わしている羽佐間の姿に、僕は目を疑った。
信じられない。
ありえない、そんなの。
幻覚でも見ているのかと思った。僕だけが。だけど、そうじゃなかった。隣のアサヒに視線を移すと、彼も目を大きく見開いていた。驚きを隠せない表情をだった。動揺の滲む声色で「どうなってんだよ」と呟き、視線を彷徨わせている。
羽佐間は死んだ。
あの日、僕が殺した。胸をナイフで刺して。
奴の息が止まるところを見た。死体を確認した。
それなのに、なぜ。
どうして、羽佐間が生きているんだ。
「あ、アサヒ……」
思わず声をかけると、
「なんだよ、これ……ありえねえだろ」
アサヒが舌打ちをした。
それから、僕に告げる。僕にしか聞こえないよう、小声で。
「……じゃあ、俺がバラバラにしたのは、何だったんだよ」
金曜日の夜、僕が羽佐間を殺して、アサヒはその死体を処分した。風呂場で解体して、山に埋めた。
それなのに、今、目の前に羽佐間がいる。何事もなかったかのような、五体満足の姿で。
「ほら、早く席に着けー」
担任が来てHRが始まったけど、内容がまったく頭に入ってこなかった。たしか、学校がスクールカウンセラーを雇ったから、なにかあったら相談すること、というようなことを、先生は言っていたような気がする。でも、僕はそれどころじゃなかった。僕から見て斜め前の方向、教室の前方に座っている羽佐間の背中を、青ざめた顔で凝視することしかできなかった。
HRが終わったところで、羽佐間が席を立った。突然こちらを振り返ったので、僕は慌てて顔を伏せた。
教科書を開き、次の授業の予習をしているフリをしていたところ、
「――宙野くん」
名前を呼ばれた。
――羽佐間に。
びっくりして顔を上げると、相手は微笑んだ。
「ごめんね、勉強の邪魔して」
普段の態度からは想像できないほどの、爽やかな笑顔を、僕に向けている。まるで、僕との間に何事もなかったかのように。金曜の夜も、これまでも。
「……な、なに」
嫌な汗が背中に滲んだ。
普通のクラスメイト同士のように振舞う羽佐間に戸惑つつ、僕は彼の体を盗み見た。半袖のシャツから覗く左腕には、当然ながら、バラバラにされたような傷跡は見当たらなかった。
「昼休み、話したいことがあるんだけど、いいかな?」
嫌な予感がして、鼓動が早くなる。
わからなかった。いったい何を企んでいるんだろうか。話たいことって、こいつは何を話すつもりなのだろうか。
……まさか、あの夜に、僕との間に起こったことを?
いや、それよりも、どうして羽佐間は生きてるんだ。なんで死んでないんだ。どうしてこんな態度で僕に近付いてきたんだ。
考えれば考えるほどわからなくて、頭がおかしくなってしまいそうだった。
昼休みになり、僕は教室を出た。羽佐間に呼び出されたから。心配そうな顔をするアサヒに「すぐ戻るから」と告げて、約束の場所へと向かう。
羽佐間は渡り廊下で待っていた。
「な、なに、話って……」
僕は恐る恐る尋ねた。
いったい何を言われるのだろうか。恐怖と緊張で心臓が激しく脈を打ちはじめた。
次の瞬間――
「ごめん!」
突然、羽佐間が声を張りあげた。
「え――」
……いま、なんて?
予想もしない出来事に呆気に取られていると、羽佐間は勢いよくしゃがみ込み、床に両膝をついた。
「本当にごめん。宙野くんに酷いことをした。申し訳ない」
土下座していた。
頭を床に擦りつけて。あの羽佐間が。
目の前の光景が信じられなかった。だってこいつは、こんなことをするような奴じゃなかったから。他人に謝るなんて、それも、この僕に謝罪するなんて、ありえないから。
だけど、羽佐間は真剣だった。表情も声も。僕を騙そうとしたり、からかったりしているわけでは、ないように見えた。
「今までのこと、許してもらえるとは思えない。許さなくていい。それだけ酷いことをしたんだから。だけど、ちゃんと謝りたかったんだ」
ごめん、ごめん、と繰り返し、頭を床に叩きつける。
何度も、何度も。
動きが次第に激しさを増し、羽佐間の額が赤く滲みはじめた。
「ちょ、ちょっと――」
あまりにも異常なその行動に、僕はぞっとした。僕への態度の変わり様も、気味が悪い。
「や、やめてよ、ねえ」
僕は慌てて彼を止めた。
羽佐間が顔を上げた。額から血が垂れている。その鮮やかな赤色を見た途端に、金曜の出来事が僕の頭を過り、何とも言えない罪悪感のようなものを覚えてしまった。
「謝って済む問題じゃないし、自分の罪悪感を軽くしたいわけじゃないんだ。俺ができる唯一の償いは、一生、宙野くんの視界に入らないことだって、わかってる」
羽佐間はそう言って、今までで一度も見たことがないような、優しい表情を浮かべた。
「だから、転校するよ。宙野くんの前からいなくなる」
「う、うん……わかった……」
僕は返事に困った。ありがとう、と言うのもなんか変だし。
だから代わりに、
「転校先の学校で、もう、誰かをいじめるようなことはしないで」
とだけ言った。
僕の忠告に、羽佐間は「絶対しない」と力強く頷いた。やっぱり嘘を言っているようには見えなかった。
そのときだった。
僕はふと気付いた。羽佐間の右手の甲に、タトゥのようなものがあることに。
見覚えのある形――あの、二本の線だった。
「……それって、タトゥ?」
小路と富谷の死体にも、同じようなものがあった。
僕の質問に、
「ああ、これ?」
と、羽佐間が笑顔のまま首を傾げ、僕の方に手の甲を向ける。
よく見ると、それは二本線じゃなかった。線の上に、Vの字のようなマークが付いている。
「その印、どういう意味なの?」
僕は尋ねた。
すると、羽佐間の顔から笑顔が消えた。
「君は知らなくていい」
〓
僕とアサヒは午後の授業をサボることにして、その後は屋上で過ごした。二人だけで話がしたかった。今の状況を整理するために。話し合ったところで何にもならないだろうけど、もう頭がどうにかなりそうで、ひとりでは抱えておけなかった。このままだと、おかしくなってしまいそうだった。……いや、もうとっくにおかしくなっているのかもしれない。
屋上に着き、辺りに人がいないことを確認してから、
「いやいやいやいやいや」
と、アサヒが口を開いた。首を何度も振りながら。
「ぜったい、ありえねえ」
と、断言する。自分に言い聞かせるような口調で。
当然ながら、アサヒも僕と同様、混乱しているようだった。
「死人が生き返るなんて、ぜっっったい、ありえねえ」
僕だってそう思う。
だけど、だとしたら今の状況を、どう説明すればいいんだろうか。
「じゃあ、羽佐間はそもそも死んでなかった、ってこと?」
でも、僕は確実に羽佐間を刺したし、アサヒは確実に羽佐間の体を解体した。
それなのに、目の前に現れた羽佐間はぴんぴんしている。バラバラにされたような形跡は一切なかった。科学的に説明がつかない。
「たぶん、俺らが二人そろって同じ夢を見たか。もしくは――」
「もしくは?」
「あいつが不死身の人間か」
それこそありえない。体をバラバラにされても死なないゾンビ人間なんて、この世に存在するはずがない。
「じゃあ、僕らが何らかの原因で、まったく同じ夢か幻覚を見てた、ってことなのかな」
「ま、それがいちばん現実的だ。あの日、もしかしたら俺ら、変なモンでも食ったのかも」
たしかにそうだ。説明がつくとしたら、その説しかない。
「でもまあ、これで良かったのかもな。俺たちは誰も殺してない」
アサヒの言葉に、僕はなぜか少し、もやもやした。
たしかに喜ばしいことではある。僕は殺人者にならずに済んだし、大事な友達を犯罪に巻き込まずに済んだわけだから。
だけど、手放しでは喜べない。まだ引っ掛かることがある。
「でも、変なんだよ。羽佐間の様子が」
先刻のあいつとのやり取りを、僕はアサヒに報告した。
「まるで、別人みたいだった。急に心を入れ替えたみたいに、僕に謝ってきて……」
僕を呼び出した羽佐間の態度について伝えると、アサヒは「なんかキモいな」と顔をしかめた。
「おかしいよね? 僕に謝罪してくるなんて」
「やっぱ、小路と富谷の二人が死んで、ビビったんじゃね? お前に呪い殺されるんじゃないかって、心配してんのかも」
小路と富谷といえば。
そうだ、と思い出す。
「もうひとつ、気になることがあって。羽佐間の手の甲に、タトゥがあったんだ。あの二人と同じ場所に」
「二本線?」
「それが、線の上に、Vみたいなマークもくっついてて……」
その形を、僕は空に向かって指で描いてみせた。
うーん、とアサヒが考え込む。
しばらくして、
「……別人、なのかもな」
と、意味深に言った。
「羽佐間は実は死んでいて、羽佐間のクローンみたいなのが、代わりに羽佐間本人として現れたっていう」
「映画の見過ぎじゃない?」
真剣な顔で何を言い出すかと思いきや。僕は呆れて肩をすくめた。
結局、何もわからず仕舞いだ。僕はため息をついた。
そのときだった。
「んじゃ、ちょっと行ってくるかな」
と、アサヒが声をあげた。
「どこに?」
「山」
「え、何しに?」
首を捻ると、アサヒは真顔で答えた。
「掘り返してみたら、なにかわかるかも。あいつを埋めた場所」
〓
アサヒだけにやらせるわけにはいかなかったので、僕も同行した。村の裏山に入り、獣道を歩いた。木々が生い茂り、辺りは何だかじめじめとしている。寄ってくる虫を手で追い払いながら、足場の悪い道を進んでいく。
しばらくして、大きな木の前でアサヒが足を止めた。
「ここに頭を埋めた」
と言った直後に、彼は「はず」と付け加えた。
足元に視線を落とす。地面には、特に変わった様子は見られなかった。ここに人の死体が埋まっているなんて、誰も思いはしないだろう。
僕たちは持ってきたシャベルで土を掘り返した。
ところが、
「……ない」
何も出てこなかった。
「おかしいな……」
アサヒの表情が険しくなる。
「本当にこの場所なの?」
「ああ、間違いねえよ」
少し深めに掘ってみたけど、やっぱり何も出てこなかった。
僕らは別の場所に移動した。同じように確認していく。右手を埋めた場所も、左足を埋めた場所も、すべてを掘り返してみたけど、どういうわけか、何も出てこなかった。
「いよいよ幻覚説が濃厚になってきたな」
「そうだね」
「羽佐間ゾンビ説もまだ否定できないけど」
「それはないかな」
金曜の夜、羽佐間を僕が殺して、アサヒがバラバラにした。それが現実だったとしたら、死体の一部が埋まっているはず。
それなのに、どこを掘っても何も出てこないということは、あの日の夜は何もなかったということになる。獣が土を掘り返して死体を持ち去った、というなら、話は別だけど。
「死体が見つからない限り、事件として立証はできない。ま、俺たちは犯罪者にならずに済んだってことだな」
「うん……よかった、ほんとうに」
僕は胸を撫で下ろした。
それにしても、かなり山奥まで来てしまった。死体を埋めるためにこんな場所まで来ていたのかと思うと、友達の献身に感謝せざるを得ない。
そろそろ戻ろうかと、辺りに視線を彷徨わせた、そのときだった。
「……なに、あれ」
木々が生い茂るその先に、岩壁がある。
そこに、大きな穴が空いていた。
「洞窟かな?」
「ん? あんな洞窟、あったっけ?」
アサヒが首を傾げながら近づいていく。死体をここに捨てにきたときには、こんなものはなかったと、不思議そうに言う。
「まあ、あの日は夜だったからなぁ。懐中電灯は持ってたけど、暗くて何も見えなかったし。それどころじゃなかったしな」
僕たちは洞窟に近付いた。大きく口を開けた入り口に、慎重に足を踏み入れる。中は暗かった。スマホのライトで周囲を照らしながら、ゆっくりと前に進む。
アサヒが僕に腕を差し出した。
「足元気をつけろよ。滑るから」
彼の腕を掴み、頷く。
「うん」
さらに進むと、石の階段があった。地下に部屋があるようだ。
階段を降りてみたところ、開けた場所に辿り着いた。少しだけ明るかった。壁にいくつかの蝋燭が灯り、辺りを照らしている。木製の古い長椅子が左右に並んでいて、正面には祭壇のようなものがある。
「ここは……教会、なのかな?」
「みたいだな」
アサヒが頷いた。
「この島には昔、隠れキリシタンが暮らしてたらしい。見つからないように地下に教会を作ったのが、今でも残ってるんだって」
「詳しいね」
「ばあちゃんが言ってた」
見た感じ、たしかに簡易的に作られた質素な教会、という雰囲気だ。だけど、そこにはキリストも十字架もマリア像もなかった。
あるのは、壁一面に大きく描かれた印だけ。
「おい、これって……」
スマホのライトを正面の壁に向けて、アサヒが指を差す。
光に照らされたそこには、あのマークがあった。
――大きなVの字と、二本の線。
羽佐間のタトゥと同じ模様が、ペンキのようなもので、そこに描かれていた。
「なんでこのマークが、こんな教会に……?」
わからない。どういうことなんだろう、これは。
このマークには、何か隠された意味があるのだろうか。
考えようとした瞬間、突如、頭に痛みが走った。また、あの頭痛だ。こめかみを押さえながら堪えていると、不意に羽佐間の顔が脳裏をよぎった。
――君は知らなくていい。
頭の中で声が響く。まるで、あいつが直接語りかけているかのように。
――君は知らなくていい。
「――おい、ツキ」
アサヒに名前を呼ばれ、僕ははっと我に返った。
「こっち来て、見てみろ、これ」
アサヒが手招きする。
彼は祭壇の前にいた。
祭壇の上には、まだ物が残っていた。古い杯や、枯草のようなもの。数珠に、手鏡。
それから、一冊の分厚い本があった。
表紙には何も書かれていなかった。だけど、裏側には、文字があった。ペンで殴り書きしたような、手書きの文字が。『理想の世界の実現に向けて』と書いてある。
「……理想の、世界……?」
胸がざわざわする。なんだか、聞き覚えのあるような。この言葉を、以前どこかで聞いたことがあるような。
「まあ、宗教ってのはだいたい、そういうの目指すもんだけど」
と、アサヒは鼻で嗤った。
それから本を開き、ページを捲る。
古く、黄ばんだ紙に記されている言葉は、日本語ではなかった。
「何語だろう、これ」
首を傾げた僕に、
「これは、ラテン語だな」
と、アサヒが答えた。
文章の他に、挿絵がたくさん描いてあった。どれも物々しい雰囲気だ。火あぶりにされる人間や、悪魔のような生き物の姿。
「なんていうか……魔術書っぽいね」
「だな」
アサヒが同意する。
「この本には、黒魔術のやり方が書いてある」
アサヒがスマホを紙に向け、翻訳機能を使って内容を確認した。彼によると、ここには『生贄』『罰を与える』『死者が蘇る』といった、いかにも怪しげな話が並んでいるらしい。
どうやらこの場所は、ただの教会というわけではなさそうだ。
「なんつーか、ちょっとヤバい集団っぽいな。カルト教団のアジトなのかも、ここ」
この場にあるものは、どれも埃をかぶっておらず、綺麗なままだった。蝋燭の炎だって、まだ消えずに残っているものもある。きっと今も使われているのだろう。大昔に教会だった場所を利用して、怪しげなカルト集団が集会を開いている。そうとしか思えなかった。
「島には迷信深い人も多いし、古い云い伝えとか何かの儀式とか、そういうのが残ってても、まぁおかしくないよな」
「たしかに、そうだね」
たとえば仮に、この場で、黒魔術的な何かが行われていたとしたら。
死者を蘇らせる魔術などというものが、本当に存在するとしたら。
馬鹿みたいな考えが、僕の頭に浮かんでしまう。――もしかしたら、羽佐間は本当に死んでいて、黒魔術によって蘇ったのではないか、と。
この上なく非現実的なその考えを、僕は口にはしなかった。でも、アサヒもなんとなく、僕と同じことを考えているような、そんな気がした。「このカルトについて調べてみよう」と彼が提案したのも、たぶんそのせいだと思う。
だって、金曜の夜に僕たちが体験したことが、ただの夢や幻覚だとは思えなかったから。羽佐間を刺したときの感覚も、生温かい血の感触も、本当に現実に起こったことのように感じた。あのとき、震える僕の体を抱きしめてくれたアサヒのぬくもりが、背中越しに伝わってくる鼓動が、彼がくれた言葉が、どれも偽物だったなんて思えなかった。
……いや、もしかしたら、ただそう思いたくないだけなのかもしれない。たとえ犯罪者になったとしても、友達が僕のためにしてくれたことが、すべてなかったことになるのを、心のどこかで嫌だと思ってしまっている自分がいた。
洞窟を離れ、村に戻ってきたところで、
「アサヒは、どう思う?」
と、僕は彼の内心を窺った。
「なにが?」
「金曜の夜こと。夢とか幻覚だったと思う? それとも、現実だと思う?」
アサヒは遠くを見つめるような顔をした。あの日の出来事を思い返しているのだろう。
しばらく経ってから、ため息交じりに告げた。
「すげえリアルだったんだよな……あいつをバラした感触」
アサヒは自分の手の平に視線を向けた。表情を曇らせて。
「ツキの気持ちがよくわかったよ。お前が小路を夢の中で殺したときも、たぶん、こんな感じだったんだな」
あのときを思い出す。夢か現実か区別がつかず、自分が犯したかもしれない罪に怯えてた。小路の失踪が、僕のせいじゃないといい、と願った。
アサヒだって同じだろう。彼にとってみれば、こんな出来事、夢であってほしいだろうに。友達に死体を処分させた罪悪感が再び沸き上がり、僕は思わず俯いた。
そんな僕を見て、
「大丈夫、心配すんな」
と、アサヒが励ますような声色で笑った。
「仮に現実だったとしても、俺が守ってやるから」
彼はあの日と同じ言葉をくれた。
絶対警察には捕まらない、大丈夫だ、と。まるで自分に言い聞かせるように、僕に言う。
「とりあえず、図書館に行ってみるか」
と、アサヒが提案した。とにかく今は調べを進めなければ。僕らはまず、あのカルトのシンボルマークについて情報を集めることにした。Vの字と二本線の、例の印について。
それから、図書館で古い文献を読み漁ったり、ネットで検索したり、いろいろ調べてみた。けれども、結局なにも得られなかった。
昔から島に住んでいる人なら、なにか知っているかもしれない。そう考え、僕たちは手分けして島民に聞き込みすることにした。アサヒは漁港周辺を。僕は集落を。
「このマーク、知りませんか?」
商店のおじさんに紙を見せ、尋ねる。
「さあ、わかんねえ。ごめんなあ」
「あ、いえ。ありがとうございました」
頭を下げ、店を出る。
一時間ほど、通りすがりの人や店の人に聞いて回ってみたけど、有益な情報は得られなかった。
アサヒに連絡して状況を尋ねたけど、向こうも同じような感じらしい。漁師からも役場の人からも、手がかりは得られず仕舞いだった、と返ってきた。僕は道端で肩を落とした。
太陽が容赦なく照りつけ、僕の制服は汗でびっしょりと濡れていた。今日の気温は三十度をゆうに超えている。暑さに負けて、どこかで休憩しようと思い立ち、辺りを見渡した。
そのときだった。
人と目が合った。
道路の反対側に、おばあさんがいた。
僕の方をじっと見ている。何もすることなく、ただ佇み、見ている。
顔を見て、すぐにわかった。あれは神尾のおばあさんだ。また徘徊しているのだろうか。こんな暑い日に。
大丈夫かな、と少し心配になった。さすがに。この炎天下は老体にも堪えるだろうし。
僕は道路を渡り、おばあさんに近付くと、
「あ、あの」
と、思い切って声をかけてみた。
「どうしました? おうち、どこですか――」
すると、おばあさんの目が動いた。まるで値踏みするかのように、僕の体をじろじろ見ている。頭から、足の爪先まで。
ぎょろぎょろと動くその瞳が、しばらくして、僕の右手の方へと向いた。視線が、手に持っていた紙に留まった瞬間、おばあさんの様子が一変した。
「いかん!」
急に声を張りあげた。
「えっ」
僕は驚いて、おばあさんと紙を交互に見比べた。
おばあさんは震える手で紙を指差した。そこに描かれている、印を。
「まさか、知ってるんですか、このマーク」
僕はおばあさんに詰め寄った。もしかしたら、なにか手がかりが得られるかもしれない。思いもしなかったところから。
「教えてください、これはどういう意味なんですか」
すると、神尾のおばあさんは激しく首を振りはじめた。
「いかんいかん」
いかんいかんいかんいかん。
その言葉をひたすら繰り返す。
まるで、壊れたレコーダーみたいに。
「いかんいかん、いかん」
紙に描かれたVの字と、二本の線を、じっと凝視したまま。
「いか、いかんいかん、いかん、い、いかん、いか、いかかかかか」
狂ったように言葉を発するおばあさんの姿に、僕は怖くなって、思わず後退った。
突如、
「それに近付いたら、いかん」
おばあさんの首が素早く動き、こっちを見た。
「ど、どうして……」
僕は掠れた声で訊き返した。
おばあさんが目を剥き出して答えた。
「世界が壊れる」
神尾のおばあさんはそれっきり、なにも喋らなくなってしまった。まるで急に電源が切れたかのように、口を閉じ、無表情になった。俯き、そしてまた徘徊をはじめた。
怖くなって、僕は走り出した。今すぐ安全な場所に逃げ込みたい気分だった。僕は自宅の方向へと、全速力で走った。
――それに近付いたら、いかん。
走っている間も、頭を過った。あのおばあさんの顔が、言葉が。脳裏から離れない。耳にこびりついて離れない。
――世界が壊れる。
どういう意味なんだろうか。世界が壊れる、って。このマークはいったい何なんだろう。どうして神尾のおばあさんは、コレをあんなにも恐れているのだろう。
わからない。どんどんわからなくなる。調べれば調べるほど、意味不明なことが増えていく。まるで、すべてがよくない方向に進んでいるかのような気がして、胸騒ぎが強くなる。
情報がほしい、と思った。答えに繋がる決定的な情報が。この暗闇に光が差すような、真実を導き出す手がかりが、ほしかった。
駆け込むように家に帰宅し、ただいまも言わずに玄関に上がる。廊下を走っていると、ちょうど向こうから来た母さんにぶつかってしまった。
「いたっ」
と、母さんが声をあげた。
「ご、ごめん」
「ちょっと、どうしたの、月斗。そんなに慌てて」
と、訝しげな顔で僕を見る。
「別に、なんでもな――」
ぶつかった拍子に、母さんは何かを落としていた。
僕は視線を床に落とした。薄く、丸い形のものが、ころころと廊下を転がっている。小銭のようだった。
しゃがみ込み、それを拾い上げる。
「え――」
それは、古い硬貨だった。銀色で、五百円玉くらいの大きさの。
「こ、これって……」
よく見れば、硬貨の中心には、模様が書いてあった。
Vのような文字と、二本線が。
