5 平穏


 それからアサヒは、僕の手を引き、古い平屋の一軒家へと連れていった。ここはアサヒの祖母の家で、今は彼がひとりで暮らしている。
 アサヒは僕を家に招いた後、羽佐間の死体を肩に担ぎ、風呂場へと消えていった。僕は呆然自失の状態で、アサヒが何かをしている間、ただぼんやりと座り込んでいることしかできなかった。
 それからどれくらいの時間が経ったのだろうか。玄関の片隅で丸くなって蹲っている僕に、作業を終えたアサヒが声をかけてきた。
「ツキ」
 上半身は裸で、シャワーを浴びたのか、髪が濡れていた。
「こっち来い」
 腕を引っ張られた。
「体、洗わねえと」
 と言われてようやく、僕は自分が血まみれであることに気付いた。顔も手も服も、雨で洗い流しきれなかった返り血で汚れている。
 半ば引きずられるようにアサヒに導かれ、風呂場に着いた。ふと視線を落とすと、風呂場の壁のタイルに、小さな血痕が飛び散っていた。
 僕ははっとした。
「……なにを、したの……? ここで……」
 掠れた声でアサヒに問う。
 すると、彼は表情を変えずに答えた。
「あいつの死体をバラした」
 裏の山に埋めてきたと、なんてことないような淡々とした声色で言う。
 その瞬間、涙が溢れてきた。
 大事な友人にそんなことをさせてしまったという、申し訳なさで、心が圧し潰されてしまいそうだった。
「……ごめん、僕のせいで……ごめん……」
 ごめん、と何度も繰り返す。他に言葉が見つからなかった。
「気にすんな」
 あたたかいシャワーのお湯が僕の体を包み込んでいく。頬に着いた血を、アサヒが指で優しく洗い流してくれた。


 それから、アサヒは僕の濡れた体をタオルで拭いた。
 なんだか懐かしいような、慣れ親しんだ感触がした。そういえば、前にもこんなことがあった気がする。僕の背中の水滴を彼が拭っている間、僕はあの日の出来事を思い出した。体育館でアサヒが助けにきてくれた、僕の落書きを綺麗にしてくれた、あの日のことを。
 思えば、アサヒはいつも僕を助けてくれた。いつでも僕の味方だった。彼の存在は、僕の心の支えだった。
 その後、アサヒは僕に着替えを着せた。彼のTシャツはサイズが大きくて、僕の体には合っていなかった。さらに彼は、僕の濡れた髪をタオルで乾かしてくれた。僕はただ、されるがままだった。まだショック状態から抜け出せず、茫然としていて、何も考えられなかった。
 そんな僕を、アサヒは自分の部屋に連れていき、畳の上に座らせた。それから、湯飲みに注いだあたたかいお茶をくれた。
 暗がりの中、震える手でそれを受け取る。お茶を飲んでも寒気は治まらなかった。
 恐怖のせいか、それとも寒さのせいか、さっきからずっと体の震えが止まらない。アサヒは僕の体に、彼のお婆さんが使っていたひざ掛けを掛けてくれた。それでも震えが止まらない僕を見て、後ろから僕の体を抱きしめてくれた。
芯の冷えた体が、ようやく熱を持ちはじめる。
 僕の二の腕を優しく摩りながら、
「羽佐間は無断外泊しがちで、土日はほぼ家にいないらしい。あいつがいなくなったって、親もしばらくは気付かないだろう」
 と、アサヒは呟くように言った。
 今日は金曜日。しばらくは猶予がある。
「問題は月曜だ」
 学校に来ていないと教師から連絡があるだろう。放任主義の親でも、さすがに訝しむはず。
「警察にバレたら、どうしよう……」
「バレたっていい。大丈夫だ。お前は正当防衛で罪にはならない」
 アサヒが笑い飛ばした。
「俺が死体損壊と死体遺棄の罪をかぶるだけ」
「やだよ、そんなの……っ」
 僕は声を張りあげた。
 身をよじって振り返り、アサヒの方を向く。彼の顔がすぐ目の前にあって、息遣いが伝わってくる。どきりとして、とっさに目を逸らしそうになったけど、できなかった。アサヒの顔が、その瞳が、あまりにも真剣だったから。
 覚悟を決めている顔だったから。
「もしバレたときは、全部僕のせいにして。お願いだから」
 彼を犯罪者にはしたくない。何よりも大事なトモダチだから。
不可抗力とはいえ、羽佐間を刺したのは僕だ。死体をバラバラにしたのも、山に埋めたのも、全部僕がやったことにしてほしい。そうすべきだ。
 お願い、と繰り返すと、アサヒは困ったような顔で肩をすくめた。
「わかったわかった。わかったから」
 震えが少しずつ治まってきた。それでもアサヒは僕をあやすかのように、ずっと抱きしめてくれていた。
「今日はうちに泊まれ」
「……うん、……ありがとう」
 母さんに連絡しないとな、と頭の片隅で思いながらも、僕は別のことを考えていた。あいつらのことを。
 空になった湯飲みを握りしめ、
「……あいつらがいなくなればいいって、ずっと思ってた」
 と、今まで抱えていた感情を吐露する。
 ずっと、あいつらを憎んできた。あの三人を。全員いなくなればいいって思っていた。視界から消えてくれればいい。転校してほしい。退学になってほしい。僕の日常から消えてほしい、って。
 死ねばいいのにって、思うこともあった。
「だけど……こんなのは、望んでなかった……」
 たとえ彼らに土下座で謝られたとしても、許せない。一生許すつもりはない。だけど、ちゃんと謝罪してほしかった。真摯な態度でちゃんと僕に謝って、それなりの制裁を受けて、二度と僕の人生に関わらないでいてほしい。他人を不幸にしたんだから、幸せな人生を一生歩めないような運命になってほしい。そう思ってた。
 ……それが、いけなかったんだろうか。
 他人の不幸を願ってしまったから、僕が汚い感情を抱いてしまったから、こんな結果になってしまったんだろうか。
 もしかしたらこれは、僕への罰なのかもしれない。
「お前のせいじゃない」
 僕の心を読んだかのように、アサヒが耳元で囁いた。抱きしめる腕の力が強くなる。
「お前は何も悪くない」
 いろいろあって、泣き疲れて、僕は限界だった。心身ともに疲弊していた。アサヒから伝わるぬくもりが心地よくて、次第に眠気を感じはじめた。
「お前は、俺が守ってやるから」
 アサヒの言葉は、まるで精神安定剤みたいだ。囁かれる度に心が落ち着く。心臓の鼓動が穏やかになっていく。
 月曜日が来なければいいのに、と思った。明日も来なければいい。ずっと、今の時間だけが続けばいいのに、と。
 彼に身を預けたまま、僕は意識を手放した。


 それからというもの、生きた心地のしない二日間を過ごした。ネットで検索しては、羽佐間のことがニュースになっていないことを確認し、胸を撫で下ろす。その繰り返しだった。
 月曜の朝も、まだそれらしい事件の記事は出ていなかった。
 僕はこの上なく憂鬱な気分で学校へと向かった。重い足取りで階段を上り、教室に入る。もうすぐHRが始まる時間で、すでにほとんどの席が埋まっていた。そんな中、ぽっかりと空いた小路と富谷の席が、いやに目についた。羽佐間の席も。
 自分の席に座って、ただぼんやりとしていたところ、
「おはよ」
 と、アサヒが声をかけてきた。
 彼はいつもの調子だった。いつも通りの明るい声色。いつも通りの明るい笑顔。もしかしたら、単にいつも通りを演じているだけかもしれない。ただ気丈に振舞っているだけかもしれない。僕を不安にさせないために。アサヒはそういう人だから。
「お前、英語の予習やった? 俺、今日当たりそうなんだけど」
「ごめん、やってない。さすがに勉強する気分じゃなくて……」
「あー、まあ、そうだよな」
 アサヒが苦笑しながら髪の毛を掻いた。
 そのときだった。
 教室のドアが開き、誰かが入ってきた。
 担任の先生かと思ったけど、違った。
「あっ、おはよー」
 クラスの女子が、声を弾ませて挨拶をしている。

「羽佐間くん」

 え、と僕は目を剥いた。
 ――……今、なんて……?
 弾かれたように顔を上げ、教室の入り口に視線を向ける。
 そして、さらに目を見開く。
 ――いた。
 そこにはたしかに、羽佐間がいた。
 あの日、殺したはずの、羽佐間が。