3 消滅


「――小路を、殺してしまったかもしれない」
 僕の告白に、アサヒはただ黙って眉を顰めた。いったいどういうことなのか、状況を図りかねている表情だ。彼はただ、「詳しく話せ」と、優しい声で促すだけだった。
 その日はもう何も手につかなくて、授業どころじゃなかったから、僕は朝から学校をサボることにした。アサヒも一緒に。僕たちは港に向かい、防波堤に腰を下ろした。ちょっと待ってろ、とアサヒが飲み物を買いに行く。
 ひとり残された僕は、ただ茫然と、アサヒの背中を見つめることしかできなかった。
 そのとき、ふと、視界の端に人影がちらついた。
 おばあさんがいる。
 白髪頭で、腰の曲がった小柄なおばあさんが。バス停の横に立っていて、こちらをじっと見ている。
見覚えのある顔だった。あれはたぶん、『神尾のばあさん』だろう。前にアサヒが言っていた、認知症の。今日も徘徊しているのかもしれない。
 おばあさんは無表情のまま、ずっと僕の方を見つめている。微動だにせずに。まるで僕を監視するかのような目つきで。
 少し怖くなってしまって、僕は顔を背けた。そこにちょうどアサヒが戻ってきた。炭酸のジュースを二本買ってきたようで、ひとつを僕に差し出した。これ飲んで落ち着け、と。
 受け取り、僕は缶に口をつけた。一口飲んだけど、味はしなかった。
「――で? なにがあった?」
 と、アサヒが本題に入る。
 悪夢の内容を思い返しながら、僕はアサヒに説明した。
「……昨日、夢を見たんだ」
 小路からメッセージが届いて、呼び出されたところから、最後の――彼が夜の海に消えるところまで。すべてを打ち明けた。口論になって、小路が僕に掴みかかって、僕が彼を崖下に突き落としてしまったことを。
 僕の話を聞いたアサヒは軽く笑って、「なんだ、そんなことか」と、安心したような顔で肩をすくめた。
「ただの夢だろ。俺だって、夢で人殺したことくらいあるよ」
「最初は僕も、そう思ってたんだけど……」
 僕はスマホを取り出し、アサヒに例のメッセージを見せた。『今から一人で二又岬に来い』の部分だけ。『この動画をクラス中にばらまかれたくなければ』の部分は隠しておいた。
「夢と全く同じメッセージが、小路から届いてたんだ。もしかしたら、あいつに最後に会ったのは僕なのかも……」
 昨日のことを、なぜか僕はよく覚えていなかった。なんだかひどく疲れていて、具合が悪くて、帰宅してから、すぐにベッドで寝てしまった――はずなんだけど。記憶が曖昧だった。
「夢の中の感触が、やけにリアルで……まるで、本当に起こったことみたいだった」
 僕に掴みかかる小路の力も、それを突き飛ばしたときの両手の感触も、鮮明に思い出せる。本当にこの手で触れていたかのような感覚があった。
「もしかしてあれは、夢じゃなくて、現実だったんじゃないか、って……」
 夢の中と、今と、まったく同じように感じる。視覚も、聴覚も、嗅覚も。触覚も。だから、あれがただの夢だったとは、思えなかった。
 不安に苛まれて俯くと、アサヒは笑って否定した。
「そういうもんだろ、夢ってのは。突拍子もないこととか、絶対ありえないようなことが起こってんのに、なんでかそのときは現実みたいに感じるじゃん」
「そうだけど……」
「俺、小学生の頃、遠足で動物園に行ったんだけど。その夜に見た悪夢がさ、動物園の猿山に落ちて、そこから出られなくなっちまって、一生猿として暮らすことになる夢だった」
 ……それは酷い悪夢だ。想像するだけでぞっとする。
「夢っつーのはそういう感じでさ、現実で実際に経験したことが、継ぎはぎのパッチワークみたいな映像に編集されて、さも現実かのように見せてくるから」
「継ぎはぎの、パッチワーク……」
「そう。まあ、科学的な言い方をすれば、脳幹からランダムな信号が出て、それを大脳が意味づけしようとして物語に仕立てるらしい」
 アサヒは意外と物知りなところがある。たまにびっくりするような豆知識を披露してくることがあった。
「お前は殺したいほど小路を憎んでた。それと、昔見たドラマとかなんかの、崖から人を突き落とすシーンとかが結び付いて、編集されて、そういう内容の夢を見た、ってだけのことだよ」
 アサヒの言うことには説得力があるし、僕としても彼の説を信じたい。だけど、疑問はまだ拭い切れなかった。
「でも、あんな夢をみた直後に小路が失踪するなんて、偶然とは思えないよ」
 偶然にしてはタイミングが悪すぎる。
「そんなに不安なら、行って確かめるか」
「どこに?」
「二又岬」


 それから僕たちは二又岬へと移動した。
 この崖から小路は海へと消えた。あんな夢を見たせいで、いつもの場所が、今日は少しだけ殺伐として見えてしまった。せっかくのアサヒとのお気に入りの場所が穢されたみたいで、嫌な気分になってしまう。
 アサヒが崖を指差す。
「小路が落ちたのは、そこか?」
「うん」
 僕は崖下を覗き込んだ。「気をつけろよ」とアサヒから注意が飛んでくる。下は岩礁だ。ここから落ちたら即死だろう。
「死体はあったか?」
「……なにもない」
 崖下には何もなかった。もし本当にここから落ちたなら、岩の上に小路の死体が残っているはずだけど。
「でも、昨日の夜は満潮だったから、死体は流されちゃったのかも」
 あのとき、水の中に人が落ちた音が、たしかに聞こえた。だとすると、小路は今頃どこかの海を漂っている可能性もある。
 僕は海を見渡した。死体らしきものが浮かんでいないかと。そんな物騒な事件が起こったとは思えないほど、海は綺麗に澄んでいる。
 そのときだった。辺りの草むらを調べていたアサヒが、
「……ん? なんか落ちてる」
 と、声をあげた。
 彼が見つけたのは、スマホだった。
 アサヒはその画面をじっと見つめている。僕は彼に駆け寄り、その手元を覗き込んだ。
 そこには、「今から一人で二又岬に来い」というメッセージがあった。僕に送られてきたものと、まったく同じ文章が、この端末から送信されていた。
 まさか、と息を呑む。
「それ、小路のスマホ……?」
 そんなものが、なんでここに落ちているんだ。僕は驚きのあまり目を見開いた。やっぱり昨夜、小路はここに来ていたというのか。
「なんだこの動画」
 と、アサヒが呟いた。
 指で画面に触れる。待って、と声をあげたときには、もう遅かった。動画が再生される。泣き叫ぶ僕の声が、映像の中から聞こえてきた。
 ――やめて、お願い、たすけて、ゆるしてください。
 それは、あの映像だった。僕が彼らから受けてきたいじめの中で、最も卑劣な行為が行われたときの。記憶の奥底に封じ込めていた、あの日の動画。
「見ないで……っ!」
 叫んだけど、そのときにはもう、動画の再生は終わっていた。アサヒは言葉を失い、ただ茫然と画面を見つめていた。
 見られたくなかった。知られたくなかった。あの日、僕があいつらに何をされたのか。
 僕は言葉を発することができなかった。それはアサヒも同じだった。ただ波の音が響き渡るだけの、重苦しい空気が流れた。
 しばらくして、アサヒが沈黙を破った。
「よく頑張ったな」
 はっと顔を上げると、あたたかい感触が僕の体を包み込んだ。
「辛かったよな」
 抱きしめられていた。アサヒに。
「……よく、生きててくれた、今まで」
 声が震えていた。肩も。小刻みな振動が触れた体から伝わってくる。
 アサヒは泣いていた。
 僕のために、泣いてくれた。
「アサヒ……」
 嬉しかった。嬉しくてたまらなかった。感じたことのないほどの喜びと幸福感に、身が震えるほどだった。
「アサヒが、トモダチになってくれたから」
 だから、今、こうして生きていられる。
 そんな僕の言葉に、抱きしめる腕の力が強くなった。
 しばらく経ってから、アサヒは体を離し、
「もう、大丈夫だからな」
 と、僕の頭を撫でた。
 それから彼は、再びスマホに目を向けた。端末からSIMカードを取り出すと、指で二つに折ってしまった。さらには、その辺にあった石でスマホを叩き、画面を粉々にしてから、海に向かって放り投げた。
「いいの……? そんなことして」
 大事な証拠品だから、警察に届けないといけないのに。アサヒはそれを隠滅してしまった。
「誰にも見せたくねえよ、あんな動画」
 と、アサヒは吐き捨てるように言った。
「でも、もし警察がスマホを見つけて、中のデータが復元されてしまったら……」
 僕が小路の失踪に関わっているんじゃないかって、警察は真っ先に疑うはずだ。
 不安に苛まれる僕に、
「ここの潮の流れなら、島に流れ着くことはない。絶対誰にも見つからない」
 と、アサヒは力強い口調で告げた。僕を安心させるために。
 彼がそう言うならと、僕の心は少し落ち着きを取り戻した。
 辺りを見渡し、
「ここに来れば、何か思い出せるかと思ったんだけど……」
 と、眉を顰める。
「どうして、昨夜のこと、よく覚えてないのかな」
 疲れて、朦朧としていて、ベッドに入ってからの記憶がない。体調が悪かった。まるで乗り物酔いでもしたかのように、吐き気がして、頭がふらふらして、ぐったりと眠ってしまった。
「人間は、心身に強い負担やストレスがかかったり、ショックな出来事が起こったときに、一時的に記憶をなくすことがあるらしい。たぶん、一過性の健忘症っていうやつだよ」
 記憶をなくすほどにショックな出来事。思い当たるのはひとつしかない。
「……やっぱり、僕が小路を殺した?」
 結局、結論がそこに行き着いてしまう。
 だけど、アサヒは強い口調で否定する。
「違う。さっきも言っただろ。脳ってのはランダムな情報に意味づけして、物語に仕立てようとするって。お前は点と点を勝手に繋ぎ合わせて、強引に真実を作り出そうとしてる」
「でも――」
「お前はただあいつを殺す夢を見た。あいつはここでスマホを落として、行方不明になった。それぞれ単体で起こった出来事で、関連性はない」
 アサヒは僕の肩を掴み、
「お前は殺してない 大丈夫」
 と、励ますように揺さぶった。
「だけど、偶然にしては出来過ぎてるよね? 小路を殺す夢を見て、同じ場所に小路のスマホが落ちてて、次の日に失踪するなんて」
 偶然の一言で片付けるには、無理がある。
 すると、アサヒは少し考え込んでから、「そうか、わかったぞ!」と声を張りあげた。
「これって、アレだ」
「アレ?」
「予知夢だよ」
 アサヒの唐突な一言に、僕は首を捻った。
「よ、予知夢……?」
「そう。未来が見えるとか、そういう能力が、お前に芽生えたんじゃね?」
「そんなわけないでしょ。漫画の読みすぎだよ」
 と笑い飛ばした、そのときだった。
 突然、悲鳴が聞こえてきた。
 男性の、うわああ、という叫び声が。
 灯台の方からだ。僕たちは顔を見合わせ、互いに眉を顰めた。いったい何事だ、と。
 アサヒが走り出した。僕も彼の後に続いた。来た道を戻り、反対側の崖へと向かう。
 灯台が見えてきた。その手前に、腰を抜かした男性がいた。「だ、誰か、来てくれ!」と、大声で助けを求めている。
「大丈夫ですか!」
「どうしたんですか!」
 僕たちが駆け寄ると、男性は目の前の灯台を指差した。
 灯台の白い壁が、赤く染まっている。
「あ、……、あれ……っ!」
 そこにあったのは――死体、だった。


  〓


 駆け付けた警察によって規制線が敷かれ、岬の入り口には野次馬も集まってきた。警官が忙しなく行き交い、辺りは物々しい雰囲気になっている。僕とアサヒも事情聴取を受けた。だけど、特に詳しいことは訊かれなかった。
 事件現場となった岬を離れてから、僕たちは近くの公園で少し休むことにした。
 ベンチに腰を下ろし、
「……あの死体」
 僕は独り言のように呟いた。
 脳裏に強烈に焼き付いている。惨たらしい光景だった。まるで磔にされているかのような、灯台に体を括り付けられた死体。手足の骨が折れていて、あらぬ方向に曲がっていた。顔は鳥に食べられていて、誰だか判別がつかない。だけど、制服を着ていた。僕らと同じ制服を。
「あれってやっぱり、小路なのかな……?」
 事情聴取のとき、僕らは警官に訊かれた。「小路智輝くんって知ってる?」と。死体の所持品を確認したところ、小路の生徒手帳が出てきたらしい。
「どうだろうなぁ。DNAとか調べてみないと、何とも言えないんじゃね?」
 アサヒは曖昧な答え方をした。たぶん、僕のためにあえて明言を避けたんだろう。
 彼の気遣いは嬉しいけど、僕はわかっていた。あの死体はきっと小路なんだ。アサヒだって、本心ではそう思っているはず。
 だけど、ひとつ気になることがあった。僕はふと口にした。
「……小路って、タトゥしてたっけ?」
「タトゥ?」
 アサヒが首を捻る。
「さあ、知らね。なんで?」
「あの死体の手に、タトゥみたいなのがあったんだ」
 死体を発見したあのとき、シャツの袖から覗く手の甲に、模様のようなものが見えた。
「どんなタトゥ?」
 僕はその辺の小枝を拾い、
「こういう……二本の、線みたいな」
 と、手とその模様を、地面に描いてみせた。
「うーん……見覚えねえなあ」
「一瞬見えただけだから、間違ってるかも」
 自信はなかった。見間違いかもしれない。もしかしたらタトゥじゃなくて、血痕や、打撲の痣だったのかも。いずれにせよ、今となっては確かめる方法はない。
「……あ」
 ――いや、あるかも。
 僕ははっと思いついた。
「動画に映ってるんじゃないかな」
「動画って、俺らが集めた証拠? どれも遠くから撮ったやつばっかだし、手まではっきりと映ってねえよ」
「いや、それじゃなくて」
 僕の元に届いた、小路からのメッセージ。そこには、あの動画が添付されていた。最悪のいじめの瞬間が。あの動画なら、小路の手の甲が映っているはず。
 小路のスマホはアサヒが処分してしまったけど、僕の端末にはまだデータが残っている。
 確認しようとスマホを取り出したところ、アサヒに腕を掴まれた。
「やめろ」
 低く、唸るような声で、僕に言う。
「見るな」
「でも」
「あんなの、見なくていい。消してくれ、頼む」
「……そうだよね」
 ごめん、と思わず謝罪の言葉が口から飛び出した。アサヒがあまりにも、傷ついたような顔で言うから、申し訳なくなってしまった。彼の心を痛めたかったわけじゃない。
 スマホを取り出し、僕は小路との会話の履歴を消去した。
 隣に座るアサヒの横顔を盗み見る。アサヒは空を見上げていた。遠くを見つめるような瞳で。たぶん、事件のことを考えているんだと思う。僕もそうだった。考えないようにしようと思っても、どうしてもあの光景が頭から離れなかった。あの、惨殺された死体が。
 あれば、まるで――。
「……処刑、みたいだった」
 僕は呟いた。
 そうだな、とアサヒが同意する。
「もしかしたら、あいつに恨みがあるヤツの犯行かもな。相当憎んでないと、あんな殺し方はしないだろ」
「だったら、僕には動機があるね」
「んなこと言うなら、俺にもあるぞ」
 僕は小さく笑い、
「小路を殺した?」
 と、小首を傾げてアサヒを見た。
 そうじゃないことはわかっている。
 すると、アサヒは挑発的に口角を上げた。
「もしそうだったら、どうする?」
 どうもしない。
 別に、どうでもいいことだ。
 アサヒが人殺しだろうと、どうでもいい。
「もし、そうだったら――」
 仮にもし、アサヒが、小路を殺していたとしたら。
 復讐のために、親友をいじめた連中を、全員殺すつもりでいるとしたら。
「言ったよね? 僕も手伝うって」
 その覚悟はある。トモダチのために、僕はそれくらいできる。
 冗談じゃない。本気だった。それを伝えたくて、僕は真剣な顔でアサヒを見据えた。
 アサヒは何度か瞬きをしてから、ふっと笑った。
「安心しろ、俺じゃない」
 と、僕の背中を軽く叩く。
「たしかに、殺してやりたいとは思ってるけど。あいつを殺したら、集めた証拠が無駄になるだろ。せっかくお前が頑張ってくれたのに」


   〓


 その日の夜、僕はまた夢を見た。酷い悪夢だった。殺人の現場に居合わせ、惨殺死体を目撃してしまったせいだろう。こんな嫌な夢を見てしまったのは。
 夢の中で、僕は教室にいて、帰り支度をしていた。他の生徒はもう帰宅してしまったようで、教室には僕しかいなかった。アサヒの姿も見えない。
 僕はふと、顔を上げて、窓の外を見た。
 そのときだった。
 人が落ちていった。窓の外で。僕の目の前を。
 はっとして立ち上がると同時に、なにかが地面に叩きつけられるような、大きな音が聞こえた。
 一瞬しか見えなかったけど、落ちた人は学生服を着ていた。たぶん、この学校の生徒だと思う。男子だった。屋上から飛び降りたのだろうか。
 僕は慌てて教室を飛び出し、廊下を駆け下りて、外に出た。
 人が死んでいた。
 男子生徒の息はすでになかった。地面に倒れたまま微動だにしない。ぱっくりと割れた後頭部から血が流れ出し、辺りに血だまりが広がっている。首は変な方向に折れ曲がっていた。首だけじゃない、手足も。
 ――いったい、誰が。
 誰が、死んだのだろうか。
 僕は恐る恐る、死体の反対側に回り込み、その生徒の顔を確認した。
 そして、息を呑んだ。
「――……っ!」
 ――僕だった。
 死体の顔が、僕だった。
「な、なんで――」
 うそだ、そんな――。
 僕は言葉を失った。目の前の光景が信じられなかった。
 だけど、たしかに、そこにあったのは、僕の死体だった。
 足が震えた。僕はその場から動けなくなった。ただ茫然と佇み、死体を見つめることしかできなかった。
 そのときだった。
 突然、死体の目が開いた。
「ひ、っ……」
 思わず悲鳴をあげ、後退る。
 かっと見開いた目が、僕を捉えた。光の宿っていない、真っ暗な瞳が、怯える僕の顔をじっと見つめている。
 次の瞬間、
「――今日は」
 死体の口が動いた。
 僕と同じ声で、言葉を呟く。
「8、3、1」
 跳び上がるように驚いたその瞬間、僕は夢から覚めた。


「――ツキ、おはよ」
 村の集会所の前でアサヒに会った。僕を見つけると笑顔で駆け寄ってきてくれる。僕はそれが嬉しくて、いつも彼と同じくらいの時間に家を出る。
 学校までの道を歩きながら、僕たちは言葉を交わした。
「酷い顔だな。寝不足か?」
 と、アサヒが僕の顔を覗き込んでくる。
「うん……また嫌な夢を見ちゃって」
 今朝は最悪の寝覚めだった。未だに気が晴れない。まるで通学路で野良猫の死体を見かけたときのような、何とも言えない嫌な気分が、心に張り付いてしまっていた。
「どんな夢?」
 訊かれ、僕は返事に困った。自分が屋上から飛び降りて死ぬ夢。なんて、朝っぱらから言いづらかった。
 夢の内容を改めて思い返してみる。全身が折れ曲がった死体。飛び降り自殺。831という謎の番号――すべて身に覚えがある。昨日、僕たちは全身の骨が折れ曲がった、小路らしき死体を目撃した。僕は以前、屋上で飛び降り自殺を試みて、アサヒに止められた。小路が告げたアサヒのスマホのパスワードが0831だった。
 つまり、僕がこれまでに現実で見た光景が、断片的に夢に出てきている。アサヒの言うように、大脳がそれらを意味づけして、勝手に繋ぎ合わせて物語に仕立て上げた結果、僕はこのような悪夢を見てしまったわけだ。
 そういえば、と不意に思い出す。――小路はどうして、アサヒのスマホのパスワードを知っていたのだろうか。
 疑問を抱いたその瞬間、不意に痛みが走った。頭に。まるで、こめかみの辺りに電流を流されたかのような、鋭い痛みが。
「なあ、どんな夢だよ」
 と、アサヒが再び尋ねる。
 痛みが治まった。
「アサヒが転校して、いなくなっちゃう夢」
 僕は嘘を吐いた。なんとなくだけど、これ以上、あの夢のことを考えてはいけないような気がした。
「それはない」
 と、アサヒが笑い飛ばした。すぐに否定してくれたことに、僕はすごく安心していた。
「俺はどこにもいかないから、それは予知夢じゃないな。なんだ、お前に未来を見る力はなかったかぁ」
 残念がるアサヒに、僕は思わず笑ってしまった。
 そうこうしているうちに、学校に到着した。校門を通り、下駄箱へと向かう途中で、隣のアサヒがふと足を止めた。
「……なんだ、これ」
 屈み、地面に落ちている何かを拾い上げる。
 それは、お札だった。
「お金?」
「千円札だな」
 アサヒが札を引っ繰り返す。
 裏側に文字が書いてあった。
『ごめんなさい』
 書きなぐりのような赤い文字で、そう書かれていた。
 気味が悪い。
「なに、これ……」
 一枚だけではなかった。他にも落ちている。さらに視線を上げると、大量の紙が落ちてくるのが見えた。まるで紙吹雪のように、千円札がひらひらと空を舞っている。
 そのすべてに、あの赤い文字が書いてあった。
 ――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
「え」
 次に空から降ってきたのは――人間だった。
 誰かが屋上から飛び降り、千円札が散らばっている地面に落下した。
 僕たちは驚き、目を見開いた。
 近くにいた女子生徒が悲鳴をあげ、腰を抜かしてその場に頽れた。騒ぎを聞きつけた生徒が集まってくる。
 僕たちもすぐに駆け寄った。飛び降りたのは男子生徒だった。頭から大量の血が流れ出し、周囲のお札を赤く染めていく。
 目の前の光景に、
「あ――」
 僕ははっとした。
 今朝の悪夢が頭に蘇る。夢の中で見た僕の死体と、目の前の男子が、まったく同じ姿勢で倒れていたから。
 信じられなかった。こんな偶然、ありえない。
 僕たちは反対側に回り込み、その生徒の顔を確認した。
「……マジかよ」
 と、アサヒが呟いた。
 死んでいたのは、富谷だった。