2 理由


 心臓がうるさい。バクバクと激しく脈打っている。
 いったいこれは何だ。どういうことなんだ。考えてもわからない。頭がうまく働かない。
これらの動画や画像が、本当にアサヒの手によって撮影されたものだとしたら。彼は僕がいじめられているとき、常に傍にいたということになる。ただいつも近くで見ているだけで、助けることもなく、僕が苦しんでいる姿を撮り続けていたのだ、と。
 だけど、どうして。
 どうしてアサヒは、こんなことをしていたのか。
 どんなに理由を探しても、何も見つからなかった。というより、見つけることを拒んでいる自分がいる。考えれば考えるほど、心がどんよりと曇っていくような感覚に襲われる。
 ただ、ひとつだけ、はっきりしたことがあった。
 やっぱり、アサヒには、僕に近付く理由があったんだ。友達になろうというのは建前で、何らかの目的のために、僕と仲良くなったふりをしていたんだろう。
 僕たちは、偽りのトモダチだった。
 そうじゃないかという疑いと、そうでないといいという期待。後者がどんどん薄らいでいく。今にも消え去ってしまいそうだ。殴られた頬の痛みをすっかり忘れてしまうくらい、この事実は僕にとってショックで、心に大きな傷をつけた。
 愕然としながら、アサヒのスマホを元の場所に戻していると、
「――悪い、待たせた」
 と、声がした。僕は弾かれたように顔を上げた。教室に戻ってきたアサヒが、「帰ろう」と僕に微笑みかける。いつも通りのようすで。
 だけど、僕はいつも通りに振舞うことができなかった。
「あ……う、うん」
 視線を逸らし、立ち上がる。
 笑顔を返すこともできなかった。友達だと思っていた相手が、途端に得体のしれない存在になってしまっかのような、そんな気がして。目の前のアサヒに対する恐怖心が、じわじわとせり上がってくる。
「どした、ツキ。顔色悪いぞ」
「い、いや、なんでもない」
 内心焦りながら、適当に誤魔化す。
「ただ、さっき殴られたところが、ちょっと痛くて……」
「見してみ」
 アサヒが僕の顔に手を伸ばした。顎を指で掴み、じっと見つめる。
 至近距離で見つめられ、僕は思わずたじろいだ。アサヒの顔がすごく近い。妙な気恥ずかしさに加えて、スマホを盗み見てしまった罪悪感やら、彼に対する疑念から生まれる緊張感やら。複雑な感情を持て余し、視線を泳がせる。
 不意に、口元にぴりっとした痛みが走った。アサヒの親指が僕の口角に触れたせいだった。
「あー、唇切れてんな。帰りに薬局寄って、薬買おう」


 その後のことはよく覚えていない。僕はいつものようにアサヒと一緒に下校した。途中、薬局に寄って塗り薬を買った。道中にいろいろ話をしたはずなんだけど、僕はずっと上の空で、彼の言葉に適当な相槌を打つことしかできなかった。アサヒの言葉も笑顔も、存在自体も、まるですべてが造り物のように見えてきてしまって。一緒にいても、いつものようには楽しめなかった。
 この場ではっきりさせたい気持ちはあった。どうして僕の姿を撮ってるの、と。問い詰めれば、きっと答えが得られるだろう。たしかに僕は勝手にスマホを盗み見てしまったけど、相手だって僕を盗撮しているんだ。そこまで罪悪感に苛まれる必要はないかもしれない。お互い様なんだから、臆せず訊けばいい。
 だけど、僕にはそれができなかった。訊いてしまえば、僕たちの関係が終わってしまうような気がしたから。だから、何も言えなかった。このまま関係を継続できるような、僕の前からアサヒがいなくならないような、納得のいく理由があるならいい。だけど、そうでないのなら、このまま曖昧にしておく方がいいような気さえした。
 家に帰宅したとき、母親はキッチンにいた。いつものように「おかえり」と声をかけてくる。今日の学校はどうだったかとか、いいことはあったかとか、毎日同じようなことを聞いてくる。今日は相手にする気分じゃなかったから、僕は適当に答えて自分の部屋に逃げ込んだ。
 ベッドに寝転がり、ぼんやりと天井を見つめる。
 何も考えたくない気分だったけど、やっぱりどうしても考えてしまう。
 アサヒは何故、あんなことをしていたんだろうか。
 頭の中で答えを探していたところ、さっきの小路の言葉が、ふと頭を過った。
 ――たとえばさぁ、俺らがお前から取った金が、全部あいつの元に行ってた――って言ったら、どうする?
 嘘だと思ってた。僕を傷つけるための作り話だと、そう思っていたけど。
 あいつのあの言葉は、もしかして、事実なのだろうか。実はアサヒがあいつらとグルで、僕をからかって遊んでたんだろうか。
 いやでも、と反論が浮かぶ。そうだとしたら、僕がいじめられている姿を、アサヒが盗撮する理由がわからない。必要性がない。
 それに、奴らとアサヒの間には、たしかに険悪な空気が流れていた。仲間というよりも、敵同士という雰囲気があった。とてもじゃないが、グルだとは思えない。
 考えれば考えるほど、わからなくなる。
 錨田朝陽という男は、いったい何者なのだろうか。
 ――お前、あいつのこと何も知らねえだろ。
 悔しいけど、小路の言う通りだった。よくよく考えてみれば、僕はアサヒのことをあまり知らない。両親が事故で死んで、おばあちゃんに育てられて、そのおばあちゃんの具合が悪くてこっちに引っ越してきて、介護をしていて、おばあちゃんが死んでからは一人暮らし――彼のプライベートについての情報は、それくらいしかない。前は本土の学校に通っていたことは知ってるけど、どこのなんていう名前の高校かはわからない。
 調べてみたら、何かわかるだろうか。
 そう思い立ち、僕はスマホを手にとった。『錨田朝陽』と入力し、検索する。珍しい名字だから、もしかしたら何か情報が出てくるかもしれない。
 そんな期待を抱きながら調べてみたけど、本人のアカウントっぽいものは何も出てこなかった。どうやらSNSとかはやってないらしい。
 僕はさらに検索した。今度は名字だけで調べてみた。そしたら、知らない人のアカウントが出てきた。本土の学校に通っている、高校生らしき人物の。
 その人が載せている写真の中に、見覚えのある顔があった。三年ほど前の投稿。三人組の男子学生の写真とともに、『テスト終わった 錨田と佐藤と飯』という一文が添えられている。
 指で写真を拡大し、凝視する。
 そこに写っていたのは、たしかにアサヒだった。今のような金髪ではなく黒髪だけど、間違いなく錨田朝陽だ。まだ高校に入る前の、本土の中学校に通っていた頃の写真なのだろう。同じ制服を着ているから、両隣にいるのはどちらも同級生なのだろう。何の変哲もない、普通の中学生同士で撮った写真だった。
 ただ、ひとつだけ、気になることがあった。
 アサヒの右隣にいる人物。「佐藤」という名前の男子にも、僕はなぜか見覚えがあった。
 彼のアカウントの投稿をさらに辿っていったところ、その理由に気付いた。
 一年ほど後の投稿。そこには、その佐藤という人物の写真と、「ずっと親友」という一言が記されていた。その人物との、これまでの思い出の写真が、何枚も何枚も載せてあった。
 まるで、追悼のように。
「もしかして……佐藤、翔太?」
 道理で見覚えがあるはずだ。
 佐藤翔太。名前も顔も知っている。僕と同じ高校の生徒だから。
 だけど、彼はもうこの学校にはいない。それどころか、この世にも。
 佐藤翔太は去年、自殺した。
 原因はいじめだ。羽佐間たちに目をつけられて、酷い仕打ちを受けていた。いじめを苦に首を吊って死んだと、噂で聞いた。
 アサヒは、佐藤翔太と同じ中学出身で、友達だったのか。
 でも、だったらどうして、あのとき――。

『あいつらにとってはこんなの、ただの遊びで……前のターゲットがいなくなったから、僕がその代わりとして、たまたま目をつけられただけで』
『……前のターゲット?』
『うん。羽佐間たちにいじめられている人を、助けようとした人がいたんだ。そしたら、次はその人が標的になってしまって――』
『それで、どうなった? そいつは』
『……死んじゃったんだ。去年』

 どうしてあのとき、アサヒは佐藤翔太のこと、知らないふりをしたんだろうか。
「まさか――」
 そうか、とはっとした。
 佐藤と知り合いであることを隠していたのは、きっとそれが、アサヒが僕に近付いた『理由』だったからだ。


  〓


 その翌日、僕は学校で、あえて単独行動をとった。昼休みになると、適当な理由をつけてアサヒから離れて、誰もいない中庭のベンチに座り、ひとりで弁当を食べた。
「――お、いたいた」
 そこに、あいつらが現れた。富谷と小路の二人が。
 案の定、狙い通りだ。そろそろお金をせびりに来る頃だと思っていた。彼らの前で、僕はいつも通りに振舞った。怯えた顔をして、弱々しい抵抗を見せて。相手に小突かれて、痛がって。
 小路が僕から財布を強引に奪い、富谷が中にある札を抜き取る。空になった財布を地面に放り投げると、
「毎度どーも」
 と、二人は去っていった。
 誰もいなくなったところで、
「――そこにいるんだよね?」
 僕は声をかけた。
「アサヒ」
 しばらくして、足音が近付いてきた。
 どこからともなく現れたその人は、僕と目が合うと、複雑な表情を見せた。少し驚いているような、それでいて、どこか怖がっているような。僕が何を考えているのか、疑い、探るような目つきだった。
 そして、警戒心の滲む声色で、
「気付いてたのか?」
 と、アサヒは僕に尋ねた。
 考えてみれば、最初からおかしかった。
 どうしてアサヒはいつも、タイミングよく助けにきてくれるのか。どうして僕なんかと友達になってくれたのか。
 気付きたくなかった。知らないままでいたかった。だけど、少しでも疑いを持つと、そうはいられなくなった。何もしらないままでは、本当の友達にはなれないから。
 どうしてアサヒは僕らを撮っていたのか。彼の本当の目的は何なのか。予想はついている。たぶん、こういうことなんだろうなと、もうわかっている。だけど、そうであってほしくないと、僕はまだ心のどこかで願ってしまっていた。
 彼の口から直接聞くのが、怖かった。決心したとはいえ。真実を知ってしまえば、この関係が崩れてしまいそうだから。
「ずっと撮ってたんだよね、僕のこと」
「……ごめん」
 と、アサヒは小さく呟き、俯いた。「説明させてくれ」と、弱々しい声で弁解する。
 僕は何も答えず、ただ無言のままベンチに座った。アサヒは僕の隣に腰を下ろして、重い口を開いた。
「俺は、目的があって、この学校に来たんだ」
 やっぱりそうか、と思う。
 僕はスマホを取り出し、
「この人のため?」
 と、あの写真をアサヒに見せた。中学時代の彼が友人と一緒に写っている、SNSの投稿。
「佐藤翔太……去年、自殺した人だよね?」
アサヒは驚き、目を大きく見開いた。小さくため息をつき、ゆっくりと頷く。
「……知ってたんだな」
それから、深く息を吐き、
「親友だった」
 と、掠れた声で告げた。
 どれだけ仲が良かったのか、彼らのことを知らなくても、これらの投稿を見れば伝わってくる。写真の中のアサヒは、どれも無邪気に笑っていて、本当に楽しそうで。今のような、険しさや厳しさが滲む顔つきとは違っていた。もしかしたら、親友の自殺が、彼をそう変えてしまったのかもしれない。
「あいつが、高校でいじめに遭ってたって……気付くのが、遅かったんだ」
 それからアサヒは、彼について話してくれた。三人は小学校からの仲で、親友だったと。毎日のように一緒に遊んでいたと。
中学まで同じだったけど、佐藤翔太だけが本土ではなく、星凪島の高校に進学した。それからは、以前のように頻繁に会えるわけではなかった。でも、ずっと仲良くしていた。
 たまに会って、一緒に遊ぶこともあったけど、彼の様子は普通だったという。
 だから、親友の死は、アサヒにとってみれば、何の予兆もない突然の出来事だった。
「翔太が死んだ後も、あいつらが、また人をいじめて遊んでるって聞いて……許せなかった」
 羽佐間たちはいじめをやめなかった。しばらくは大人しくしてたけど、2年生になると、また始めた。僕を標的に。
「反省することなく、同じことを愉しんでるあいつらが、許せなくて」
 まるで、佐藤翔太の自殺なんてたいしたことじゃないと、そう言われているみたいで。自分の親友の命は取るに足らないものだと、馬鹿にされているみたいで。
「人ひとり殺しといて、のうのうと生きてるあいつらが、どうしても許せなくて……殺してやろうと思ったんだ」
 アサヒは怒りを堪えるかのように、膝の上の拳を握りしめた。
「あいつらを殺す。社会的に抹殺する。あいつらに復讐するために、俺はこの学校に来た」
だから、アサヒは連中のいじめの証拠を集めていたのか。僕がいじめられている動画や写真を撮影することで。
 盗撮の理由はわかった。僕の予想通りだった。
 だけど、ひとつだけ、わからないことがある。
「……あの日、どうして僕に声をかけたの?」
 僕が屋上から飛び降りようとした、あのとき。彼が僕に告げた言葉。
 ――じゃあさ、トモダチになろうよ。
「どうして、あんなことを言ったの?」
 ただ、いじめの証拠を集めたいだけなら、別に僕とトモダチになる必要はなかったはずだ。
僕のことなんか、放っておけばよかったのに。最悪な言い方をすれば、僕が自殺した方が、あいつらの罪の決定的な証拠が手に入るんだから。
 あの日のことを思い返しながら、
「屋上に行くお前を見かけて、嫌な予感がした。だから、追いかけた」
 と、アサヒは答えた。
 俺が助けなかったせいで、お前が死ぬかもしれないと思ったから、と。
 肩を落とし、続ける。
「俺は羽佐間たちを恨んだ。それと同じくらい、翔太が苦しんでるのに見て見ぬふりをし続けた周りの奴らを恨んだ。同級生も、教師も、どうして誰も助けてやらなかったんだって。そう思ってたのに、ずっと憎んでたのに……それなのに、俺も同じことをしてたんだ。お前がいじめられていても、証拠を集めるために、見て見ぬふりをしてきた」
 助けられるチャンスはいつでもあった。だけど、復讐に囚われ過ぎていて、いつの間にか、被害者の苦しみが目に入らなくなっていたと、アサヒは打ち明けた。
「あの日、屋上の柵に足をかけたお前を見た瞬間、目が覚めたよ。そこでやっと気付いたんだ。周囲の人間が翔太を見殺しにしたように、俺もお前を見殺しにしようとしてた、って」
 それから、アサヒは少し震える声で、ぽつりと呟いた。
「死んでほしくなかった」
 ――トモダチになろう、俺と。
 だから、僕とトモダチになってくれたのか。
 そのまま見て見ぬふりを続ければよかったのに。証拠集めを優先させればよかったのに。
 それでも、彼は助けにきてくれた。僕に手を差し伸べてくれた。
 僕にとっては、それだけで、十分だった。
「手伝うよ」
 僕の言葉に、アサヒがはっと顔を上げた。
 驚いた顔で僕を見て、眉を顰めている。
「……なんだって?」
「アサヒの復讐、僕も手伝う」
「え――」
「僕が、餌になる」
 騙されていたことも、見て見ぬふりをされていたことも、そんなのもうどうでもいい。そんなことより、彼が離れてしまうことの方が、嫌だった。
「君の隠し撮りだけじゃ不十分だよね。僕なら、あいつらの会話も録音できる」
 そうすれば、もっと証拠が集まる。
「お前、わざとやられるってのか」
 アサヒが顔をしかめた。
 僕は頷いた。
「うん。その代わり、ひとつだけ条件がある」
「なんだ?」
 僕はアサヒの目を見つめ、告げた。
「ずっと、僕のトモダチでいてほしい」
 その言葉に、アサヒは驚いたような表情を見せた。
 卑怯なことをしている自覚はある。彼の罪悪感を利用して、彼の目的を利用して、僕の傍に繋ぎ止めようとしている。アサヒに僕を利用させることで、僕もアサヒを利用している。
「……わかった」
 アサヒは真剣な眼差しで頷いた。
「俺からも条件がある」
「なに?」
「絶対に、死なないでくれ」
 アサヒは一瞬、泣きそうな顔になった。
「生きていてくれれば、それだけでいいから」
 僕は何度も頷いた。


   〓


 それからというもの、僕らの計画通り、証拠集めは順調に進んだ。わざと僕が独りでいる時間を増やすと、面白いほど簡単に小路たちが寄ってきた。殴られてるときも、金を盗られるときも、常に僕は会話を録音して、そのデータを逐一アサヒに送った。
 痛い思いをすることもあったけど、アサヒのためだと思えば我慢できた。あいつらといるとき僕はいつも暴力への恐怖心でいっぱいで、ただただずっと受け身だった。だけど、今は使命感に満ち溢れている。恐怖心を乗り越え、あいつらに踏み込んだ言葉を投げかけることだって、できるようになっていた。
 その日はアサヒと下校した。途中で寄り道をした。島の西側に、二又岬と呼ばれる場所がある。その名前の通りY字のような形をしていて、右側の先には、今はもう使われていない白い灯台がある。左側の先は断崖絶壁になっていて、その辺りの草むらに腰を下ろし、海を眺めながら他愛ない話をすることが、トモダチとしての最近の僕たちの日課だった。
 今日の岬は静かだった。波の音も穏やかで、風も優しい。いつものように腰を下ろし、空を見上げる。雲一つない青空が広がっていた。夜にここで星を眺めたら綺麗だろうなと、そんな考えが浮かんだ。
この日の僕らの話題は例の計画のことで、僕は昼休みに録音したばかりの音声データを、隣に座るアサヒに聞かせた。
 僕と小路、富谷の会話が再生される。
『……佐藤くんにも、こういうことをしたの?』
 という僕の質問に、
『佐藤?』
『誰だっけ?』
 小路と富谷が訊き返す。
『佐藤翔太だよ、去年自殺した』
『……あー、思い出した』
『懐かし、その名前』
『そういやいたな、そんな奴』
 二人の笑い声と、
『……なにそれ』
 という僕の声。
『佐藤くんは、君たちのせいで死んだのに、なんとも思わないの……?』
『別に、関係なくね?』
『あいつ、勝手に死んだだけだし』
 そこでアサヒが再生を止めた。これ以上は聞いていられなかったのだろう。
 怒りを押し殺すような声色で、
「もう十分だ。十分、集まった」
 と、彼が頷く。
 目的はいじめを立証することじゃない。社会的な制裁を奴らに受けさせることだ。あいつらがどんなにクズで、非道で、最低の人間であるかということが、人にわかればいい。世間がそれを判断できるだけの証拠があればいい。
 アサヒと協力関係を結んでから、一か月ほどが経っていた。僕たちがこれまでに集めた音声データはすでに数十件はあるだろう。これを、推薦入試とか就職とか、あいつらの人生のいちばん重要な時期を狙って、ネット上に晒す。そうすれば、あとは勝手に社会が裁いてくれる。
「ありがとな、ツキ。協力してくれて」
 アサヒの言葉に、
「うん。役に立ててよかった」
 僕は笑顔で頷いた。
「もう、お前へのいじめはやめさせる。これからずっと、俺が守ってやるからな」
 彼のその一言に、僕は何とも言えない幸福を感じていた。


 その言葉通り、アサヒは僕のことを守ってくれた。
 翌日、僕はまた三人に呼び出された。いつもの、あのゲームをするためだ。場所は体育館。僕は上の服を脱がされ、マジックペンで背中に丸印を書かれた。
 そのときだった。
「――やめろ」
 アサヒが現れた。
 庇うように僕の前に立つと、小路の胸倉を掴み、思いきり殴りつけた。
 小柄の奴の体が、勢いよく床に転がる。
 なにすんだよ、と小路が怒鳴った。血相を変えて起き上がり、腕を振り上げる。アサヒを殴り返そうとしたけど、敵うはずがない。攻撃は当たらず、代わりに腹にもう一発食らう。
 この日のアサヒはいつも以上に鬼気迫るものがあった。殺意すら感じる目つきをしていた。まるで親友の無念を晴らすかのように。彼の拳に、小路は一方的にボコボコにされるばかりだった。あまりに凄みのあるアサヒの表情に、それを見ていた富谷と羽佐間も、さすがに青ざめた顔をしていた。
 小路の顔は腫れあがっていた。アサヒに殴られる小路の情けない姿に、僕は喜びや興奮の入り混じった感情を覚えてしまった。胸がすく思いだった。
 倒れたまま動かない小路を足蹴にしてから、アサヒは羽佐間を睨みつけた。
「もう二度とツキに構うな。次やったら、そのときは――」
 狂気すら感じる眼差しで、告げる。
「お前ら全員、殺すから」


 アサヒの脅しはかなり効いた。
 それからというもの、僕がいじめられることはなくなった。小路も富谷も、僕に近付こうとすらしない。アサヒが傍にいるときはもちろん、いないときでも。
 僕とあいつらは同じクラスだから、彼らの姿は嫌でも目に入ってくる。同じ空間にいるのは苦痛だし、目が合う度にいじめのトラウマが蘇りそうになって、身構えてしまうこともある。欲を言えば、彼らが僕の視界から消えてほしいというか、来年は絶対に別のクラスになりたいと思っているけど、それでも以前に比べると十分すぎるほど、心穏やかな生活を送ることができていた。
 そんな平和な日々を送っていた、ある日のことだった。何の前触れもなしに、僕の心に波を立てるような出来事が起こった。
突然、小路からメッセージが届いたのだ。
 学校が終わった、その日の夜のことだった。届いた文面には、単刀直入に『今から一人で二又岬に来い』と書いてあった。
 もちろん、行きたくはなかった。顔も見たくないし、ひとりで会えば何をされるか、わかったものじゃない。だけど、僕は断れなかった。メッセージと一緒に、動画が添付されていて。それに続けて、『この動画をクラス中にばらまかれたくなければ』と脅された。だから、どうしても行くしかなかった。
 その夜、僕はひとりで二又岬へと向かった。
 晴れているというのに、夜空には星がひとつもなかった。ただ、異常なほど大きな月が浮かんでいた。まるで、地球に向かって堕ちてきているんじゃないかと思うくらいの大きさの。なんだか不気味さを感じて、妙な寒気がした。
 煌々と輝く月明かりに照らされた岬の崖に、小路は立っていた。どこか鬱々とした、虚ろな目をしていた。
 僕が近付くと、
「……お前のせいだ」
 と、波の音にかき消されそうなほどの小さな声で、彼は呟いた。
「お前のせいで、俺が羽佐間にパシられるようになったじゃねえか」
 今にも泣き出しそうな顔で、恨み節を零す。
 だから何だと思う。いい気味だ、とさえ思った。同情する余地もない。これまで受けてきた仕打ちの数々が頭に蘇り、僕の中にどす黒く濁った感情が渦巻きはじめた。加害者のくせに被害者ぶった発言に、怒りが沸々と沸いてくる。
 こいつは散々、僕を苦しめてきた。罰として、僕と同じ思いをすればいいんだ。地獄のような苦しみを味わえばいい。どうせ反省しないんだから。こんな生きる価値のないクズは、苦しんで苦しんで、絶望して、自殺でもすればいい。佐藤くんみたいに。――僕、みたいに。
 ――死んでしまえばいいんだ、こいつなんて。この世から、いなくなってしまえばいい。
「僕のせいじゃない」
 小路を睨み返し、僕は突き放すように告げた。
「自分のせいだよ。全部、君が招いたことだ」
 今までは、怯えていた。怖かった。こいつのことが。言いたいことも言えず、ただ黙って従うことしかできなかった。暴力を甘んじて受け入れるしかなかった。
 だけど、今は違う。
「羽佐間たちとつるんでるのも、いじめに加担し続けたのも、全部、君自身が選んだことだろ」
 もう怖くない。僕にはアサヒがいる。彼の存在が、僕の心を強くしてくれる。彼らに立ち向かう勇気をくれる。
「君は、自分の世界を、汚いものと悪い人たちで埋め尽くした」
 赤く染まった目を見開いた小路に、僕は吐き捨てた。
「だから、こうなった。全部、自分が悪いんだよ」
「黙れ!」と、小路が怒鳴った。かっとなり、僕の胸ぐらに掴みかかる。
「いいから、さっさと金出せよ! 三万必要なんだよ! 明日までにもってこないと、あいつらに――」
 もう従わない。こいつの言いなりにはならない。
 僕は拒絶した。強く、はっきりと。意思を示した。
「嫌だ!」
 小路の体を、僕は思い切り突き飛ばした。
 小路がよろめき、ふらふらと後退る。
 そのときだった。
 小路の足が滑った。
 うわあ、と悲鳴があがる。
 目の前から、ぱっと小路の姿が消えた。
「え――」
 水しぶきの音が聞こえてきて、僕はようやく状況を理解した。小路が崖の下に落ちていったのだと。
「小路……っ!」
 慌てて駆け寄り、僕は恐る恐る崖下を覗き込んだ。
 小路の姿は見えない。ただ、真っ暗な夜の海が広がっているだけだ。名前を呼び続けたけど、反応はない。小路は浮かんでこなかった。
「う、うそ……そんな……」
 次の瞬間、けたたましい電子音が聞こえてきた。


   〓


 はっと目を開けると、見慣れた天井が視界に入った。さっきまで夜の岬にいたはずなのに、どういうわけか、今は部屋のベッドの中だった。
 目覚まし時計が鳴り響いている。
「……、夢……?」
 アラームを止め、ほっと安堵の息を吐く。嫌な夢だった。心臓がまだバクバクしてる。寝巻も汗でびっしょりだ。でも、よかった、ただの夢で。
 母さんが僕を呼ぶ声がする。朝ごはんができた、と。深呼吸を繰り返してから、僕は返事をした。
 その後、身支度を済ませて、僕はいつものように学校へと向かった。教室に入り、自分の席に着く。しばらくして、「ツキ」と僕の名前を呼ぶ声がした。
 アサヒだ。今日は珍しく教室にいる。
「おはよ」
「……おはよう」
 隣の席に腰を下ろし、アサヒは「どした」と首を傾げた。
「大丈夫か? なんか顔色悪いぞ」
「うん……ちょっと、怖い夢見ちゃって」
 思い出すだけで冷や汗が滲む。やけにリアルな夢だった。まるで本当に現実で起こったことみたいに、鮮明に記憶に刻まれている。だけど、冷静になって考えてみれば、夢で見た内容は違和感だらけだった。空に輝く、あの異常なほど大きな月とか。小路が僕を二又岬に呼び出すのも変だ。だってあの場所は、僕とアサヒだけのお気に入りの場所だから。
「寝不足か? 保健室で休めば?」
「いや、大丈夫」
 と答えた、そのときだった。担任の先生が教室に入ってきた。それを見て、クラスメイトが各々自分の席に着く。
騒がしかった教室が静かになったところで、先生が口を開いた。「HRの前に、みんなに知らせておきたいことがある」と、前置きして。
 どこか重苦しい口調だった。只事ではない雰囲気を感じ、生徒たちの視線が教師に集まる。
「実は、小路のことなんだが……」
 深刻そうな顔色で、先生が続きを告げた。
「昨夜から、行方がわからないらしい」
 教室がざわついた。
「親御さんから連絡があった。夜に出かけて以降、家に帰ってこないそうだ」
 一瞬、昨夜の夢の内容が、僕の頭を過った。
 まさか、と血の気が引く。
 すぐに頭を振って考えを否定した。いや、そんなはずはない。あれはただの夢なんだから。
「もし、なにか知っている人がいたら、何でもいいから教えてくれ」
 と言って話を締め、先生は教室を出て行った。
 夢で見た小路の顔が頭に浮かび、なんだか胸騒ぎがした。嫌な予感が燻ってきて、僕はスマホを取り出した。恐る恐る、メッセージを確認する。
 そして、驚き、僕は目を剥いた。
 そこには、小路とのやり取りが残っていた。送信時刻は昨夜。『一人で来い』『こなかったらクラス中にあの動画を送信する』という。夢の中のメッセージと、まったく同じ内容が、僕のスマホに残されていた。
 居ても立っても居られない気分だった。僕は席を立ち、男子トイレに駆け込んだ。心を落ち着けようと、冷静になろうと、水道で顔を洗う。
 しばらくして、アサヒが入ってきた。
 用を足すためではなく、僕を追いかけてきたようだ。
「大丈夫か、ツキ。具合悪い?」
 心配そうな表情で、アサヒが僕の顔を覗き込む。
 僕は彼の顔を見上げ、震える声で告げた。
「ど、どうしよう、アサヒ……」
「どうした、何があった」
 震えが止まらなかった。
 そんな僕の両肩に、アサヒが「落ち着け」と手を添える。
「ぼ、僕……」
「なんだ」
「小路を、殺してしまったかもしれない」