1 トモダチ
母さんの声が聞こえる。
「よく聞いて、月斗。この世界はね、あなたの思った通りになるの」
寝ている僕の髪を、そっと撫でながら、
「あなたは、あなたのなりたい自分になれる。理想の人生を送れる。あなたが望めば、願いはなんでも叶う。欲しい物も、なんだって手に入るの」
母さんはいつも、そんなことを言う。
都合がよくて、ひどく馬鹿げたことを、大真面目な声色で言う。優しく微笑みながら。
「だから、絶対に、悪いことは考えちゃだめ。悪いことを考えると、悪いものを引き寄せてしまうから。よくない世界が現実化してしまうの。嫌な出来事が起こるし、悪い人が寄ってきて、またあなたを苦しめる。だからね、絶対に、いいことだけを考えなさい」
笑顔のはずなのに、なぜか哀しげで、今にも泣き出しそうな顔で。
「あなたの好きなこと、綺麗なもの、善い人たちで、あなたの世界を埋め尽くしなさい」
まるで、小さな罪を背負っているかのような。どこか申し訳なさそうな表情で、いつもそう言っていた。
「大丈夫よ、ツキ。なにも心配しなくていい。あなたはいつでも、幸せでいられるんだから」
〓
母さんは嘘つきだ。
その言葉が本当なら、僕は今、幸せになっているはずだから。
なにが、思った通りになる、だ。
なにが、幸せでいられる、だ。
いくら耳障りのいい言葉を並べて、気休めの綺麗事で誤魔化したって、僕の不幸が薄まることはない。
「――なあ、宙野」
校門を出たところで、嫌な顔ぶれが僕を待ち構えていた。同じクラスの小路と富谷がこちら歩み寄ってくる。その背後では、いつものように羽佐間が澄ました顔で立っていた。
「ちょっと金貸してよ」
と、長身の富谷が僕を見下ろしながら言った。このお願いも、今月でもう5度目だ。だけど、これまでに貸したお金が返ってきたことは、一度もない。
「ガチャで爆死しちゃってさ、昼飯食う金ないんだよ」
へらへらと嗤うその顔が、僕は大嫌いだった。
僕が黙り込んでいると、小柄な方の男子がこちらに詰め寄ってきた。小路は僕の足を軽く蹴りながら、「無視すんな、早くしろよ」と急かした。
これが、僕の日常。
母さんの言葉を信じて、もう何度も願った。こんな日々は嫌だと。こいつらに、いじめをやめてほしい、と。僕の目の前に現れないでほしい、と。強く願い続けた。
だけど、無駄だった。何も起こらなかった。僕の願いは一切叶っていないし、彼らの仕打ちはむしろ、日に日にエスカレートしていくばかりだ。
「宙野、頼むよ。トモダチだろ?」
「トモダチが困ってんだから、貸してくれるよなぁ?」
友達がほしいと願ったこともあった。弱い僕を、こいつらから助てくれる、不幸な人生から救い出してくれる、ヒーローのような友達がほしい、って。
だけど、そんな存在なんて、都合よく現れるはずがない。クラスメイトは皆、いじめを見て見ぬふりするだけで、誰も助けてはくれなかった。みんな、面倒事に巻き込まれるのが嫌だから。自分がターゲットになりたくないから。誰もが安全圏にいることを優先する。僕という生贄に目を瞑って。
僕はいつも、孤独だった。
「……わ、わかった、から」
頷くしかなかった。誰も助けてくれないから。言うことを聞かなければ、もっと酷い目に遭わされるから。
僕は仕方なく鞄から財布を取り出した。富谷はそれを分捕り、中身のお札を抜き取って、空になった財布を地面に放り捨てた。
「毎度どーも」
と、手をひらひらさせながら富谷が踵を返す。立ち去る三人組の背中を見つめながら、僕は虚無感に苛まれた。
言えればいいのに、もう二度とこんなことするなって。僕に構うなって。だけど、言えない。黙って俯き、唇を噛むことしかできない。僕は弱いから。ひとりじゃ戦えないから。
嫌というほど思い知らされる。何を願っても、どうせ無駄なのだと。いつも、現実を無情に突き付けられる。
結局、世界は変わらない。
なりたい自分にはなれないし、理想の人生は送れない。望んでも願いは何も叶わないし、欲しい物は、なにひとつ手に入らない。奇跡みたいなことも、絶対に起こるはずがない。
母さんの言葉は、もう信じていない。
だけど、最後にひとつだけ、願いことがあった。――楽に死ねますように、って。
そのまま帰るつもりだったけど、僕は学校に戻った。もう、すべてが嫌になったから。ここで終わらせてしまおうと思った。
階段を上り、しばらくすると、屋上にたどり着いた。
うちの高校の校舎は四階建て。ここから飛び降りれば、さすがに死ねるだろう。今度は失敗しないはず。
柵を乗り越えようと、僕は片足をかけた。
そのときだった。
「――おい」
不意に声が聞こえた。
びっくりした。誰もいないと思っていたのに。
はっとして振り返ると、金髪頭が目に飛び込んできた。
太陽の光が反射し、髪の毛がきらきらと光っている。眩しくて相手の顔は見えなかったけど、同じ学生服を着ていた。先生じゃない、生徒だ。
「お前、何してんの」
低く、不愛想な声。
同じ色の上靴が近付いてくる。手を翳して日陰をつくると、相手の顔がようやく見えた。
錨田朝陽だった。
同じクラスの。
「あ――」
思わず声が出た。
ヤバい人に遭遇してしまったかもしれない。僕は身構えた。
「い、錨田、くん……」
顔を見上げ、恐る恐る名前を呼ぶと、彼の大きな口が弧を描いた。
「知ってんだ、俺のこと」
知っているのは名前と顔だけ。
それと、いくつかの悪い噂も。
「ま、まあ、うん……」
錨田くんは僕をじっと見下ろし、
「もしかして、飛び降りようとしてた?」
と、訊いた。
僕は黙ったままでいた。
すると、彼は肩をすくめ、いきなり僕の腕を掴んだ。大きな掌にぐっと力が入る。何をされるかわからなくて、怖くて、体を強張らせていたところ、彼は僕の腕を軽く引っ張った。
僕の体を柵から引き離し、
「死んだら悲しむだろ、親とか」
と、校内トップクラスの問題児らしからぬことを言う。
「友達とか」
意外な発言に、僕は面食らった。呆気に取られてしまった。そんなこと言うんだ、この人、と。
数拍置いてはっと我に返り、なにか答えなければ、と焦った。「無視すんな」って殴られるかもしれないから。あいつらみたいに。
この人に殴られたら痛いだろうな、などという考えが頭を過る。僕よりも頭一つ分以上、背が高くて、体が一回りも二回りも大きくて。いや、僕だけじゃない。クラスの誰よりも強そうで、あの三人組だって彼が相手じゃ太刀打ちできないだろう。錨田くんと小路を比べると、ヘビー級のボクサーとその辺の中学生くらいの差がありそうだ。
「……べ、別に。友達とか、いないから」
焦りと緊張のせいで変なことを言ってしまった自覚はある。よくない言い方だった。なんだその態度は、って怒られるんじゃないかという不安が過る。
だけど、予想に反して、錨田くんは笑顔を見せた。「奇遇だな」と。
「俺もいない、トモダチ」
彼は「誰も話しかけてくれないんだよなー、なんでかな」と自嘲した。悩んでいるというより、どこか面白がっているような声色だった。
「それは、たぶん……」
君が怖いからだ。
見るからに不良っぽくて、でかくて、いかつくて、人相が悪くて、悪い噂の絶えない君が、みんなは怖いから。絡まれたくないし、絡みたくないから。
――と答えるのはやめておいた。怖いから。
「……君が、いつも教室にいないから」
すると、錨田くんは「もしかして、お前、同じクラス?」と小首を傾げた。
「う、うん、2年B組」
小刻みに頷く僕に向かって、次の瞬間、彼は信じられない発言をした。
「じゃあさ、トモダチになろうよ」
「え」
一瞬、耳を疑った。
聞き間違えかと思った。
「……今、なんて?」
「トモダチになろう、俺と」
聞き間違えじゃなかった。
あまりの急展開に、僕の頭は混乱していた。
「え、いや、あの、錨田くん、なんで――」
「アサヒでいいよ。呼びにくいだろ、イカリダクンって」
困惑する僕を無視し、彼は話を進めていく。
「で、お前は?」
「え」
「名前」
「あっ……そ、宙野、月斗」
「ツキト」と、俺の名前を反芻する。「呼びにくいから、じゃあ『ツキ』な」
〓
ずっと、友達がほしかった。
中学のとき、僕はいじめに遭っていて、最悪の青春時代を過ごす破目になったから。仲がいい人なんて、誰もいなかったから。
この島に引っ越してきてからも、高校に入ってからも、それは同じだった。人をいじめる奴はどこにでもいるし、だいたいターゲットになる人は決まっている。僕はここでも、その嫌な役を引いてしまった。
誰も仲良くしてくれなかった。
だから、友達という存在に、ずっと憧れていた。
けれども、僕が理想としていた友人像とは、錨田朝陽はあまりにもかけ離れ過ぎている。僕が欲しかった友達は、真面目で、優等生で、性格がよくて、優しくて、みんなに好かれている、善性の塊みたいな人だったのに。
彼は、その真逆だった。
錨田朝陽は、うちのクラスの転校生だ。
以前は島の外、本土にある高校に通っていたらしい。1学期の5月という中途半端な時期に転入してきたため、何かやらかしだのだろうという、悪い噂が飛び交っていた。同級生をボコボコにして病院送りにしたとか、新任の女性教師と関係をもって妊娠させたとか、半グレグループに属していて警察沙汰になったとか、とにかく何かしらの不祥事で退学になった超絶問題児なのだと聞いていた。
単なる噂に過ぎないけど、あながち嘘ではなさそうだと思う。だって、錨田朝陽は見た目からして悪そうだから。髪の毛は金髪に染めてるし、制服の着こなしもだらしない。背が高くて体もでかくて、肩幅も腕の太さも、普通の生徒の二倍くらいあって、喧嘩も強そうだし。目つきも悪くて、顔にも威圧感がある。圧倒的強者というか、人を寄せ付けない雰囲気を醸し出している。転校初日の自己紹介で気怠そうに挨拶をする彼の姿を見たとき、なんだか猛獣みたいな男だな、と僕は思った。
だけど、錨田朝陽を見たのは、そのときだけだった。素行が悪いという噂を裏付けるかのように、彼はほとんど教室にいなかった。いつも授業をサボっている。屋上で煙草を吸っているのを見た人がいるとか、いないとか。
転入初日以降、彼を見かけたことはなかった。当然、喋ったことなんて、一度も。
だから僕は、未だに信じられなかった。今日、あの錨田朝陽と言葉を交わしたことが。あの錨田朝陽が僕に、「トモダチになろう」と言ったことが。
碇田朝陽は、僕の最悪な日常に突如混入してきた、異分子だった。
複雑な気持ちが心に渦巻いている。初めて友達が出来るかもしれないという喜びと、その相手が錨田朝陽だという驚き。ふわふわと浮足立つような感覚と、さっきの出来事は本当に現実だったんだろうかという疑念。
そして、僕と友達になりたい人なんて、いるはずがないだろうという、諦観。
よくよく考えてみたら、あり得ないことだった。いや、よく考えなくてもわかる。あの錨田朝陽だぞ? 彼が本当に僕と友達なりたいなんて、思っているわけがないだろうに。
どうせ、暇つぶしに僕をからかって遊んでいるだけだ。もしかしたら何か、仲間内での罰ゲームみたいなことをやってるのかもしれない。僕のリアクションを見て、みんなで馬鹿にして、愉しんでいるだけかも。
きっとそうだ。そうに違いない。
まるで、冷水を浴びせられたかのように、体の芯が冷えていくのを感じた。
なにを本気にしているんだ。僕は馬鹿か。
そうだ、真に受けてはいけない。彼のような人種にとっては、僕なんてお遊びの道具でしかないんだから。これまでも散々痛い目に遭ってきたじゃないか。
信じてはいけない。期待してはいけない。裏切られるだけだから。僕は自分に言い聞かせた。勘違いしないように。
どうせ、彼と言葉を交わすのも、あれっきりだ。もう二度と、錨田朝陽と関わることはないだろう。
――という僕の予想は、早々に外れた。
次の日の放課後、僕はまたいつものように、校門で足止めを喰らった。あの三人組が僕の行く手を阻み、無理な要求を突き付けてくる。今日はお金ではなく、『お遊び』の方だった。
「久しぶりに、アレやろうぜ」
と、小路がニヤつきながら声をかけてきた。
こいつらにとっては、いじめなんてただの娯楽に過ぎない。なにもない離島の、退屈な田舎生活の中で、暇を持て余した連中のただ暇を潰すためだけの行為。その単なるお遊びに、僕が死にたくなるほど苦しんでいることなんて、こいつらは知らないんだ。……いや、もしかしたら、知りながらやっているのかもしれない。だってこいつらは、これまでも同じようなことをやってきたから。いじめで人が死ぬことがあるって、知っているはずだから。
こいつらは所詮、どうでもいいと思っているんだ。僕がどんなに傷つこうが、死のうが、どうでもいい。僕がいなくなったら、壊れたら、次の玩具を探すだけだから。前と同じように。
「ほら、こっち来いよ」
小路が肩に手を回してきて、強引に僕の行先を変えた。それを、他の二人がニヤニヤしながら眺めている。過去の経験から、これから起こることが頭の中を過り、僕の足取りは鉛のように重くなる。
周囲の生徒はみんな、見て見ぬふりで、ただ足早に通り過ぎるだけだった。僕たちの間でなにか良からぬことが起こっていることは、誰しもが薄々気付いている。学校の先生でさえも。だけど、何もしない。巻き込まれたくないから、大事にしたくないから、みんなが傍観者に徹している。気付いていないフリをする。
僕の味方は誰もいない。誰も助けてはくれない。
それが当たり前で、もはや失望も絶望も感じなくなっていた。他人に期待しても無駄だから。ただ諦めるしかない。そう学んだ。
だから、僕たちの間に誰かが介入してくるなんて、思いもしなかった。
「――ツキ」
次の瞬間、誰かの大きな掌が、僕の腕を掴んだ。
はっと驚き、僕は相手の顔を見上げた。
「ここにいたのか」
碇田朝陽だった。
掴んだ腕を強く引っ張り、彼は僕の体を引き寄せた。それから、まるで僕を庇うかのように、僕と小路の間に立った。
信じられなかった。
僕もびっくりしたけど、それ以上に小路たちが驚いていた。目を丸くしたまま、小路は僕と錨田くんの顔を見比べている。
「え、……錨田?」
と、富谷が恐々とした声色で呟いた。
僕らは全員同じクラスだけど、錨田くんはほとんど教室にいない。小路たちも、まともに彼の顔を見たのは初日の自己紹介のときくらいだろう。そんなレアキャラが急に目の前に現れて、さらには僕たちに絡んできたんだから、驚くのも無理はなかった。
碇田くんは小路を見下ろしながら、
「ちょっとこいつに用あるんだけど、いいか?」
と、低い声で告げた。
口調は柔らかいけど、態度は穏やかじゃなかった。睨むような彼の目つきには、さすがに小路もたじろいでいた。「あ、ああ」と呆気にとられた顔で頷く。それから、どこか強がるような様子で「つまんね」「行こうぜ」などと、もごもご言いながら去って行った。
三人の姿が見えなくなったところで、僕は隣の錨田くんに尋ねた。
「……な、なに、用って」
すると、
「一緒に帰ろう」
と、彼は軽い調子で答えた。
「え、なんで」
「トモダチだから」
碇田くんがにっと笑う。意外と人懐っこい顔で笑うんだな、と思った。
「一緒に帰るもんだろ、トモダチは」
僕らが暮らしている星凪島は、九州南部に浮かぶ離島で、本土からはフェリーで片道三十分ほどの距離にある。観光地としてはまだあまり栄えていない、何もない小さな島だった。
気候や風土は南国に近く、今まだ五月末だというのに、すでに真夏のように暑い日もある。今日は特に暑かった。照りつける太陽のせいか、それとも隣を歩く同級生のせいだろうか。友達と一緒に下校する、なんていう体験は、僕にとって初めてのことだった。つい緊張してしまって、さっきから変な汗が止まらない。
少しでも涼しさを得ようと、僕は制服のシャツの袖をまくり上げた。あいつらに付けられた暴行の跡を曝すのがいやだったから、こんな暑い日でも長袖を着るしかなかった。
「暑いよなあ、今日」
と、錨田くんが独り言のように呟いた。
「……暑いね」
「今日の最高気温、三十度超えてるらしい。天気予報で言ってた」
……天気予報とかチェックするんだ、錨田くんって。意外だった。
そういう彼は半袖のシャツ姿だった。前のボタンをすべて開けていて、下に着ている黒いタンクトップを曝している。完全な校則違反だけど、学校の教師は誰も注意しないんだと思う。彼が恐いから。
「アイス食おうぜ、暑いから」
と、錨田くんが提案した。辺りに何もない、歩道の途中で。
「このへんコンビニないよ。スーパーも」
星凪島は南北に長い形をしていて、電車は通っておらず、交通機関はフェリーか路線バスしかない。人口はおよそ六百人。その8割以上が島の北部で暮らしている。フェリー乗り場も、漁港も、僕の家も、通っている学校も、だいたいが北側に揃っている。とはいえ、コンビニは二件、スーパーは一件しかない。車をもたない高校生には不便な田舎だ。ちなみに南側はほとんどが森林で、今はリゾート地として開発中らしい。
「歩けばあるだろ」
「ここからだと、十五分くらいかかるよ。逆に暑くない?」
「なら、いっぱい食わねえとな、アイス」
と、錨田くんは馬鹿みたいなことを言った。
それから僕らは、強い日差しに照らされながら、十五分かけてコンビニへと向かった。さらに汗だくになってしまった。錨田くんは宣言通り、棒アイスとチョコモナカと、容器に入ったシャーベットのアイスを購入していた。僕はカップのバニラアイスだけ。
店の前にあるベンチに並んで座ると、錨田くんはあっという間に棒アイスを食べつくしてしまった。次の袋を開け、大きな口でモナカに噛り付く。バニラアイスをスプーンですくい、ちまちまと食べている僕に、彼は「早く食わねえと溶けるぞ」と忠告した。
緊張のせいか、味がしなかった。半分液体と化したアイスを口に運びながら、そういえば、と思い出す。
「……錨田くんって、家どこなの?」
島の住人はほとんどが北部に住んでいるので、帰り道はだいたい同じ方向だろうとは思っていたけど。まだ詳しくは聞いていなかった。
「霞里村の集会所の近く。飯田商店の隣の一軒家」
と、彼は端的に答えた。僕の家から、そう遠くない場所だった。僕の家も霧里村にある。
「引っ越してきたんだよね? 本土から」
彼はモナカを咀嚼しながら、「ん」と短く頷いた。
「こっちに住んでるばーちゃんが、介護が必要になってさ。わざわざフェリーで通うのもだるいから、学校変えた」
「……退学になったんじゃなかったんだ」
という僕の呟きに、錨田くんが目を丸くした。
「え、俺、前の学校退学になったって思われてんの?」
「あ、いや、えっと……」
まずい。余計なことを言ってしまったかもしれない。
僕はしどろもどろになりながら言葉を返した。
「その、みんな、いろいろ噂してるから……」
「いろいろって、どんな?」
「暴力沙汰とか、半グレにいたとか、あと……教師に手を出したとか」
「まじかよ」
逆立った短い金髪をガシガシと掻きながら、錨田くんは困ったように口を尖らせた。それから、僕の目をじっと見ながら尋ねる。
「お前も信じてんの? その噂」
僕は彼から目を逸らした。
どう答えるべきだろうか。
信じてなかったと言えば嘘臭いし。現に、ちょっと信じてたし。
少し悩んだ末に、
「……最初は、ちょっと。そうかもしれないなって、思ってた」
ここは正直に答えることにした。
「でも、今は……違うかな、って」
彼がどういう人間か、知らなかった。見た目と噂だけで判断していた。だけど、こうして実際に顔を合わせてみたら、意外と話しやすくて。容姿は怖いけど、喋り方は案外やわらかくて。
それに、こんなによく笑う人だとは、思ってなかった。
「あの噂が本当だとは、思えない、かな」
みんなに言われているような、悪いことをするような人には、見えなかった。
という僕の言葉に、錨田くんは「そっか」と目を細めた。
「デマなら、ちゃんと否定した方がいいよ。みんな信じちゃってるし……」
「いいよ、別に」錨田くんが歯を見せて笑う。「お前が信じてないなら、それでいい」
どこか嬉しそうなその表情に、僕は体が熱くなるのを感じた。暑さのせいではないことはわかっている。彼の言葉がむず痒くて、その笑顔が眩しくて、つい顔が火照ってしまう。
碇田くんは最後のアイスを取り出した。二つに割って、「半分やる」と、その片方を僕に頬に押し付けた。
つめたっ、と思わず声をあげる。
「ツキは? この島の出身?」
「あ、いや……中学卒業してから、こっちにきたんだ」
「なんで?」
「母さんの、仕事の都合で」
アイスの中身を啜りながら、僕は嘘を吐いた。やっぱり味はしなかった。
霧里村の集会所の前で、錨田くんと別れた。この辺りは古い一軒家や集合住宅が立ち並ぶ、閑静な住宅街だ。その中にある小さな家に、僕は母さんと二人で住んでいる。
帰宅し、「ただいま」と部屋に足を踏み入れる。母さんは台所に立っていた。料理を作りながら、「おかえり」とこちらを振り返る。
僕の顔を一目見て、
「なんだか嬉しそうね。いいことでもあったの?」
と、母さんは声を弾ませた。
顔に出てしまっていたようだ。同級生と一緒に下校したという初めての経験に、正直なところ、僕の心は浮ついていた。真に受けてはいけないと、あんなに自分に言い聞かせていたというのに、つい楽しんでしまった。
冷静になって考え直してみれば、これはよくない傾向だと思う。今日の出来事を、認めてはいけない気がした。喜んではいけないと思った。後で期待が裏切られたときに、傷ついてしまうから。また絶望するのが怖いから。
「……いいことなのか悪いことなのか、まだわからない、かな」
だから、僕はそう曖昧に返した。
すると、
「絶対にいいことよ」
と、母さんは断言した。
「そう信じていれば、必ずいいことになる」
母さんの力強い一言に、心が揺らいでしまう。
錨田くんが僕のトモダチになりたがっているなんて、絶対にありえないのに。だけど、どこか信じたいと思ってしまっている自分がいる。彼と仲良くなれたらいい、って思ってしまっている。
それに、もしかしたら。
彼は助けてくれたのかもしれない。
今日、小路たちに絡まれていた僕を。助けるつもりで、声をかけてくれたのかもしれない。一緒に帰ろうっていうのは、単なる口実で。
――錨田くんなら、もしかしたら、僕をこの地獄から救ってくれるかもしれない。誰も助けてくれなかった、この僕を。
淡い期待が危うく心に芽生えそうになり、僕は慌てて首を振った。
願ってはいけない。どうせ叶わないんだから。願ったって、後々、自分が苦しくなるだけなんだから。
そんな僕の心境を知らずに、母さんは嬉しそうな顔をする。
「いろいろあったけど、心機一転、この島で再スタートしてよかったね」
と、感慨深げに言った。
「あなたには、もっといろんな世界を見てほしいの。家で寝てるだけじゃ、気が滅入るばかりだろうから」
〓
中学の頃、僕は不登校になった。
原因は、いじめだ。
思い出したくもない、酷い日々だった。
家で寝てるだけじゃ、気が滅入るばかりだろうから――母さんが何の気なしに発したその言葉は、まるで小さな棘みたいに、僕の心にちくりと突き刺さった。
まるで、家に引きこもってばかりではいけないんだと言われているみたいで。不登校になってはいけないんだ、って。以前のようになってほしくないっていう、母さんの本音が透けて見えてしまう。まるで逃げ場を奪われたような、過去の自分をすべて否定されたような、そんな気持ちになってしまった。
この島に来ることを提案したのは母さんだった。僕が高校生活を楽しめるように、新しい人生をスタートできるように、環境を用意してくれた。
だけど、母さんは知らない。ここでもまた、僕がいじめられていることを。中学の頃と、状況はなにひとつ変わっていないということを。むしろ、海に囲まれた小さな田舎の島という、どこにも逃げ場がない分、今の方が苦しいかもしれない。
再スタートなんてしていない。あの頃の続きを見ているだけだ。
綺麗な場所に避難したからといって、汚いものがなくなるわけじゃない。過去のトラウマはずっと追いかけてくる。たぶん僕は一生この問題に苦しめられる運命なんだろう。永遠に抜け出せない負のループだ。それこそ母さんが言うような、都合のいい奇跡のようなことが起こらない限り、僕の不幸は続いていく。
翌日の放課後、僕はあいつらに呼び出された。体育館に来い、って。
命令を無視したいけど、行きたくないけど、行かなかったら後でどんな目に遭うかわからない。重い足取りで廊下を進み、扉を開けて中に入った。
薄暗い体育館の中、非常口の緑色の光が不気味に輝いている。その手前にあるバスケットゴールの下で、羽佐間たちは僕を待っていた。
傍らには、キャリーケースに入ったボールの山。
「おせーよ」
と、小路が不機嫌そうに言う。
「ほら、脱げ脱げ」
命じられ、僕は制服のシャツを脱いだ。
油性のマジックペンを片手に、富谷が近付いてきた。裸になった僕の背中に、大きな二重丸を書く。外側が十点、内側が百点。いつものゲームだ。
「そこに立ってろ。動くなよ」小路が嗤う。「一人十球ずつな」
言われるまま、僕はバスケットコートの真ん中に佇み、彼らに背中を向けて待った。
次の瞬間、背中に強い衝撃が走った。
至近距離から全力で投げられたボールが、僕の肩甲骨辺りに命中する。痛みのあまり、僕はむせ返った。小路は構うことなくボールを投げ続ける。次は肩に。さらには後頭部に。
「はは、へたくそ」
「うるせ」
「ちゃんと狙えよ」
「小路、お前、わざと頭狙ってんだろ」
嗤い声が響き渡る。
拷問のような時間が続く。
僕は拳を握りしめ、ただひたすら耐え続けた。
「交代。次、俺」
富谷が投げたボールが後頭部に直撃し、僕はふらついた。頭がぐらりと揺れ、立っていられなくなる。その場に膝をついた。
そのときだった。
「――おい、なにやってんだ」
背後で声が聞こえた。
振り返ると、体育館の入り口に人影が見えた。
大股で、誰かが僕たちに歩み寄ってくる。やべ、と小路が小声で呟いた。教師が来たかと思い、焦っていた。
だけど、違った。先生じゃなかった。
碇田くんだった。
「やめろ」
彼は富谷に詰め寄り、ボールを奪い取った。
「邪魔すんなよ」と小路が反論したけど、その表情と声色は、明らかにビビっていた。それ以上の言葉は奴の口から出てこなかった。
碇田くんは小路を睨みつけた。無言のまま、見下ろしている。物凄い威圧感だった。三人はさすがに撤退を決めたようで、「だる」「萎えたわ」「おもんね」とぐちぐち言いながら、体育館を去っていった。
連中がいなくなったところで、
「ツキ、大丈夫か」
碇田くんが床にしゃがみ込み、僕の顔を覗き込んできた。
「……うん」
助けてもらえたことが嬉しいのに、ほっとしているのに、なぜか喜べなかった。複雑な気分だった。こんな惨めな姿を見られたくなかった、という気持ちが、僕の中に少しだけあったから。
服を着ようと、僕は脱いだシャツを拾った。
錨田くんがその手を握り、
「ちょっと待ってろ」
と、止める。
彼は一度立ち去ると、しばらくしてまた戻ってきた。濡れたタオルを手に持って。どうやら、背中の落書きをこれで拭いて消すつもりらしい。
「無駄だよ、油性だから落ちない」
僕は首を振り、自嘲気味に笑った。
すると、
「大丈夫。これを塗れば落ちる」
と、錨田くんがポケットから何かを取り出した。
日焼け止めだった。
中身のクリームを掌の上に出すと、それを僕の背中に塗っていく。
彼の大きな掌が、僕の背筋を這う。まるでマッサージをするかのような、優しい手つきで。
なんだか恥ずかしくなってきて、僕は「いいよ、そんなことしなくて」と身を引いた。だけど、錨田くんはまったく気にする様子もなく、続ける。
「俺、結構得意なんだよ、人の体拭くの。じいさんばあさんの介護してるから」
日焼け止めのクリームを、円を描くように皮膚に塗り込んでいく。マジックの汚れを浮かせてから、濡れたタオルを僕の背に当てた。
たしかに慣れている手つきだった。そのせいか、錨田くんの掌に触れられると、なんだか安心するというか、どこか懐かしい感覚すらした。次第に心が落ち着いてきた。
「――いつからだ?」
僕の背中をタオルで拭きながら、彼が唐突に訊いた。
「あいつら、いつからお前にあんなことを」
「いつだったかな……忘れた」
いじめがいつ始まったかなんて、覚えていない。思い出したくもない。ただ、ずっと前からこうだった。気付いたときにはいじめられていて、逃げられなくなっていた。
「なんでお前を」
背中を拭き終わった錨田くんが、僕の服を拾って手渡す。
「……たぶん、理由とか、ないんだと思う」
シャツを羽織り、ボタンを閉めていると、僕の隣に彼が腰を下ろした。大きな体を丸めて、僕の顔を覗き込むような体勢で、真剣な顔で、僕の話を聞いてくれる。
「あいつらにとってはこんなの、ただの遊びで……前のターゲットがいなくなったから、僕がその代わりとして、たまたま目をつけられただけで」
「……前のターゲット?」
「うん。羽佐間たちにいじめられている人を、助けようとした人がいたんだ。そしたら、次はその人が標的になってしまって――」
僕の話に、アサヒが眉を顰めた。
「それで、どうなった? そいつは」
「……死んじゃったんだ。去年」
僕は違うクラスだったから、詳しくは知らないんだけど。去年、僕が一年のとき、うちの高校で自殺者が出た。噂で聞いた話だと、羽佐間たちからかなり酷い仕打ちを受けていたらしい。
二年になって、僕は羽佐間たちと同じクラスになった。そしたら、次は僕の番になった。連中の新しい玩具に選ばれたのが、僕だった。
「羽佐間に盾突いたら、酷い目に遭わされるんだ。あいつには誰も逆らえないから。親が、すごい金持ちでさ。イカロスホールディングスって知ってる? この島のリゾート開発やってるのが、その子会社なんだけど」
「あー、そういや前に、フェリー乗り場で会社のポスター見たかも」
と、錨田くんは思い出したように言った。
「『楽園』がどうとかって、書いてあるやつだよな?」
町の掲示板の、いたるところで見かけるポスターだ。綺麗な海の写真。『心と体を癒す あなただけの楽園』というキャッチコピーに、社名と、会社のロゴマーク。
あのポスターを島で見かける度に、どうしても羽佐間の顔がちらついてしまい、僕はいつも憂鬱になる。
「そう。羽佐間の父親、その会社の社長なんだ」
あいつの父親は、ありとあらゆるコネをもっている、この島の権力者だ。リゾート区域にある飲食店やホテルで働く予定の人は、誰も逆らえない。だから、羽佐間の悪事には、教師も見て見ぬふりをする。
「羽佐間は自分の手は汚さない。いつも人にやらせるんだ」
それが、富谷と小路。取り巻きの二人だった。
僕の話を、錨田くんは真剣な顔で、ただ静かに聞いてくれた。時折、相槌を打ちながら。だから僕は、今まで誰にも言えなかったことを、母親にすら相談できなかったことを、彼に打ち明けることができた。
「富谷はいつも金欠で。ソシャゲにハマってて。だから、お金をせびってくる」
総額なんて覚えていない。これまで二十回、三十回と、何度もお小遣いを奪われた。
「でも、あいつはあんまり暴力はしない。酷いことをしてくるのは、いつも小路で……」
厄介なのは小路の方だった。殴ったり、蹴ったり、持ち物を壊されたり。それ以上のこともされた。下着を無理やり脱がされて、その動画をクラス中に拡散されたことも。
小路の加害で苦しむ僕の姿を嘲笑いながら、富谷が動画を撮影する。そして、一線引いたところから、羽佐間はその様子を眺めるだけ。どこか退屈そうな顔で。いつもそんな感じだった。
「たぶん、小路は必死なんだ。羽佐間に認められたくて。次にいじめられるのが、自分じゃないかって、怯えてるんだと思う」
だから、どんどんエスカレートしていく。日に日に暴力が苛烈になっていく。周囲に舐められないように。虚勢を張るために、自分を強く見せるために、自分より弱い僕を利用する。
「でも、僕には、どうにもできなくて……」
話をしているうちに、だんだんと自分が惨めに思えてきた。いや、ずっと惨めだった。鼻の奥がつんとして、思わず涙が出そうになって、僕はとっさに上を向いて堪えた。
「ツキ」
碇田くんが僕の名前を呼んだ。
すごくやわらかくて、優しい声色で。
「……今まで、ずっと、頑張ってきたんだな」
優しくて、それでいてどこか辛そうな表情で、僕の顔を見つめながら、そう言った。
その瞬間、僕の中で堰き止めていたものが、すべて溢れ出してしまった。これ以上は堪えることができなかった。
「よく頑張ったよ。辛いのに、よく我慢した」
涙が止まらなかった。
みっともない泣き顔で嗚咽を漏らす僕に、錨田くんが手を伸ばす。濡れた頬をタオルでそっと拭きながら、
「学校なんて、真面目に行かなくていい。これからは、俺と一緒にサボろうぜ」
彼は、僕がいちばん欲しかった言葉をくれた。
不登校になってしまった中学時代も含めて、自分のすべてを肯定してもらえたような、そんな気持ちになれた。
「……ありがとう」僕は震える声で、絞り出すように言葉を紡いだ。「アサヒ」
〓
毎日、昼休みとか放課後になると、いつも憂鬱だった。あいつらが声をかけてこないかって、また呼び出されるんじゃないかって、常にびくびく怯えていた。
だけど、今は違う。
「――ツキ」
声をかけてくるのは、あいつらじゃない。
友達だ。
「アサヒ」僕は笑顔を返した。「学校来てたんだ。また屋上にいたの?」
彼はいつも教室にいない。でも、休み時間になると、必ず僕の目の前に現れる。僕を独りにしないように。
「午後の授業サボって、メシ食い行こうぜ」
「いいよ」
僕は荷物をまとめ、席を立った。アサヒの後に続いて教室を出ると、廊下の先に羽佐間たちがいた。奴らは訝しげな顔でこっちを見ていた。
一瞬、小路と目が合った。睨まれている。
だけど、今はもう怖くなかった。僕は彼を睨み返した。
最初の頃は、学校をサボっている罪悪感と、叱られることへの恐怖心でいっぱいだったけど、今となっては慣れたものだ。アサヒとこうして学校を抜け出すことが、すっかり僕にとっての日常となりつつある。
僕たちはフェリー乗り場がある方角へと向かった。この辺りには定食屋がいくつかある。授業中にも拘わらず制服姿で現れた僕たちに、店の人は何も反応することなく、食事を提供した。あの教師がうざいとかテスト勉強だるいとか、他愛ない話をしながら、僕たちは昼食を楽しんだ。
店を出てから、近くの商店でアイスを買って、二人で防波堤に座って食べた。今日は少し涼しくて、波も穏やかで、風が心地よかった。
二人で過ごす、このまったりとした時間が、僕は大好きだった。友達ができたという実感を、ひしひしと感じることができるから。
「今度の土曜、勉強教えてくんね?」
アサヒの言葉に、僕はアイスを食べながら「いいよ」と答えた。
「うちに来いよ。誰もいないし」
「そうなの?」
親が旅行にでも行ってるのだろうかと思ったけど、違った。
「俺、一人暮らしだから。ばあちゃん死んでから」
と、アサヒはなんてことないような口調で答えた。
知らなかった。介護をしてたのは聞いたけど、まさか、独りきりで住んでたとは、思いもしなかった。
「親は?」
「小さい頃に事故で死んだ」
聞かなければよかった。
「……ごめん」
アサヒは「気にすんな」と笑って、僕の頭に手を載せた。申し訳ない気持ちもあったけど、彼が自分のことを話してくれたことは、すごく嬉しかった。
アサヒは海を見つめていた。明るい声色をつくって、久しぶりに釣りしてえなあと、呟いた。やったことないと僕が答えると、彼は俄然やる気になって、次の土曜は釣りをやろうと言い出した。
「え、テスト勉強は?」
「それはまた今度でいい。釣りの方が大事だ」
「なにそれ」
僕は思わず笑ってしまった。
「テストの方が大事じゃない?」
「バカだな、お前。やりたいことをやって、やりたくないことはやらない。そうやって今を楽しむことが、人生でいちばん大事なんだよ」
「それじゃ、なかなか勉強できないよね」
「やりたくなったときに、やる」
「やりたくなるときが来るかなぁ……」
そのときだった。
ふと、背後に人の気配を感じた。僕は振り返った。
アイスを買った店の前に、人が立っていた。腰の曲がった、小柄なお婆さんだ。何をするわけでもなく、ただ道端に佇み、こっちをじっと見つめていた。
「どうした」
と、アサヒが首を傾げて僕を見る。
何か用でもあるのかと思ったけど、お婆さんは僕と目が合っても何も言わず、ただずっと僕らを見ているだけだった。
「なんか、あのお婆さんが、さっきからずっとこっち見てて……」
ただただ無表情で、虚ろな目で、僕らを見ている。なんだかちょっと気味が悪くて、僕はぞっとした。
そのお婆さんを一瞥してから、
「あー、あれ、神尾の婆さんだよ」
と、アサヒは肩をすくめた。
「知り合い?」
「近所に住んでる。認知症らしくて、よく徘徊してる」
同じ町内に住んでいるのに、僕は知らなかった。あんなお婆さんがいたことを。今まで一度も見かけたことがなかった。
気にしなくていい、というアサヒの言葉に僕は頷き、溶けそうになっているアイスにかぶりついた。
僕の生活はすっかり一変した。アサヒとの出会いによって。
初めてできた友達と、僕は毎日のように遊んだ。釣りをしたり、海で泳いだり。フェリーに乗って本土まで行くこともあった。
まるで、灰色だった世界が、カラフルに色付いたような感覚だった。目の前のすべてが新鮮に、鮮やかに感じられた。僕だけのトモダチという存在に、僕はすっかり傾倒していた。
学校では、独りぼっちになることが減った。アサヒと一緒にいる時間が多いから、必然的に羽佐間たちに絡まれることがなくなった。アサヒが傍にいると、奴らは僕に手を出せないから。
これは、あの連中にとっては面白くないことだろうと思う。特に小路にとっては。僕をいじめることで、あいつは鬱憤を晴らすことができていた。他人を虐げることで自尊心を守っていた。
溜まりに溜まった小路のフラストレーションが爆発したのは、僕とアサヒが友達になって三週間ほどが経った頃のことだった。
その日はたまたま、アサヒが用事があることのことで、先に下校していた。独り教室に残っていた僕の前に、あいつは現れた。
鞄の中に教科書を詰めている僕に向かって、
「お前、最近、調子乗ってね?」
と、小路は吐き捨てるように言った。
僕は小路を無視した。相手にする必要はないと思った。黙ったまま席を立ち、彼の隣を通り過ぎようとした。
その態度が気に食わなかったみたいで、小路は露骨に苛立った顔をした。
「錨田がいるときは強気だよな。一人じゃビビッてなにもできないくせに」
認める。小路の言うことは正しい。所詮、虎の威を借りる狐に過ぎないということは、自分でもよくわかっている。アサヒが傍にいるというだけで、気が大きくなっているんだと。
だけど、
「それは、君もだろ」
僕は小路を睨みつけ、言い返した。
「君が偉そうな顔できるのも、あの二人がいるからじゃん」
という僕の言葉は、小路のコンプレックスを見事に刺激してしまったらしい。小路は顔を真っ赤にして憤慨し、僕の頬を思い切り殴った。
顔面に衝撃が走る。頬骨に振動が伝わる。遅れて激痛がやってきた。僕はふらりとよろけ、背後にある机にもたれ掛かった。
ズキズキと痛む顔を手で押さえて、痛みに悶えている僕を、
「バカだよなあ、お前」
と、小路が嗤う。
「変だろ、普通に考えて。あいつが、お前みたいな奴と仲良くすると思うか?」
お返しとばかりに、小路が僕を罵る。僕にとって、最も効く言葉で。
「裏があるに決まってんだろ」
聞き流すことはできなかった。だってそれは、僕の中にもまだ少し、疑念として残っていたものだったから。目を逸らして、考えないようにしてきたことだったから。
どうしてアサヒは、僕なんかと友達になってくれるのか。
なにか理由が、目的が、あるんじゃないか。
そうじゃないと、おかしいから。
ずっと、そう思っていた。心の奥底で。
体の力が抜けていく。僕はそのままずるずると頽れ、机を背にして、床の上に座り込んだ。
「たとえばさぁ」
と、小路が僕を見下ろし、言う。
「俺らがお前から取った金が、全部あいつの元に行ってた――って言ったら、どうする?」
「……ありえない」
僕は否定した。こんな言葉、真に受ける方が馬鹿だ。
「君の考えはわかってるよ。僕を傷つけたいから、そんな嘘を吐くんだろ」
信じない。こんな奴のいうことなんて。
友達よりも、こんな奴を信じるわけがない。
「アサヒはそんな奴じゃない」
僕は、小路を真っ直ぐに見据えて、断言した。
その一言に、相手はギャハハと下品な笑い声をあげた。
「なにを根拠にそう言い切れるんだよ。お前、あいつのこと何も知らねえだろ」
知っている。少なくとも、お前よりかは。クラスメイトの誰よりも、僕はアサヒのことを知っている。彼がどんなにいい人か、どんなに優しいか、いちばん知っている。悪い噂とは違う、彼の本当の顔を。
「アサヒは、お前らとは違う」
「そうか」
小路はにやりと笑った。
「お前とも違うだろ」
友達ができた嬉しさと同時に、僕はずっと不安を抱えていた。アサヒとは住む世界が違う。見えている景色が違う。僕とは似ても似つかない、違う人種の、カーストの人間だから。友達になったとしても、うまくいくはずがない、いつかはアサヒが飽きて、僕を嫌になって、僕から離れていくかもしれない。そんな不安が。
だって、今までに、友達なんていなかったから。誰も仲良くしてくれなかったから。
だから、いつかはまた、そうなるんじゃないかって。前みたいな人生に戻ってしまうんじゃないかって、内心怯えてた。
胸の内を言い当てられてしまったせいだろうか。僕の心の中で、不安がどんどん大きくなっていく。
なにも言い返せずにいる僕に、
「――あいつのスマホ、見てみろよ」
小路は妙なことを言い出した。
「え……?」
「0831」
にやりと笑い、四桁の番号を告げる。
「なに、それ」
「覚えてないか、この数字」
知らない。記憶にない。急に、何なんだ。何を言い出すんだ。
なんだか妙な胸騒ぎがした。
そのときだった。無視できない衝撃が僕の中を駆け抜けた。片頭痛のような、ずきりとした鋭い痛みが、一瞬、こめかみの辺りを刺激した。
僕は顔を顰めた。痛みはすぐに治まったけど、不快な心臓の鼓動はまだ続いている。
「あいつのスマホを見ればわかる」
意味がわからず、僕はただ唖然として、小路の顔を見つめた。小路はただ黙ったまま、ニヤニヤと笑うだけだった。
次の瞬間、小路が突如、「うおっ」と悲鳴をあげた。
「てめえ、いい加減にしろよ」
怒鳴るような声が響き渡る。
僕も驚いた。だって、いきなり教室にアサヒが現れたから。用事があって、先に帰ったはずなのに。
アサヒは小路の制服の襟を掴み、僕から強引に引き剥した。
勢いそのままに、小路は床に倒れ込んだ。
「……錨田」
アサヒの顔を見上げ、小路が舌打ちを零す。
「まるでヒーローだな」
ゆっくりと起き上がりながら、挑発的な声色で言う。
「タイミングが良すぎる、いつも。……なんでだよ?」
アサヒは答えず、無言のまま小路を睨みつけた。これ以上争う気にはなれなかったようで、小路は肩をすくめ、教室を去っていった。
「大丈夫か、ツキ」
と、アサヒが僕に手を差し伸べる。
「う、うん」
その手を握り返し、僕は立ち上がった。
「アサヒ、先に帰ったんじゃ……」
「なんか嫌な予感がして、戻ってきた」
そう言って、彼はにっこりと笑った。僕を安心させるように、優しく肩を叩く。
アサヒはいつも助けてくれる。僕にとって、これ以上ない、最高の友達だ。
だけど、だからこそ、頭を過ってしまう。小路の言葉が。どうしても。
「……あのさ、アサヒ」
「ん?」
彼の本心が知りたかった。本音を聞きたかった。
だから、確かめるしかなかった。直接、彼の口から言葉を聞きたかった。
僕はアサヒの方に向き直った。
「なんで」
友達になってくれたのか。仲良くしてくれるのか。どうしていつも助けてくれるんだ。
「どうして、アサヒは、僕と――」
そのときだった。
「ここにいたか、錨田」
不意に声をかけられ、僕たちははっと振り返った。
教室の入り口に、うちのクラスの担任の先生が立っている。
「錨田、ちょっといいか。話があるから職員室に来てくれ」
アサヒは「うっす」と不愛想な返事をした。それから僕を見て、少し申し訳なさそうに眉を下げる。
「ちょっと行ってくる。すぐ終わるから、ここで待ってて」
「うん」
アサヒは机の上に鞄を置くと、そのまま教室から出て行った。
僕は椅子に座り、ため息をついた。
アサヒと過ごすようになってから、あいつらとの接触はなかった。久しぶりに小路に絡まれて、殴られて、内心すごく怖かった。強がって、平気なふりをしていたけど。少し気が動転していた。今もまだ、心臓の鼓動が落ち着かない。
でも、理由はそれだけじゃなかった。
――あいつのスマホ、見てみろよ。
小路が発した、あの言葉。
どうしても引っ掛かってしまって、しょうがなかった。
見たら、得られるのだろうか。僕が求め続けていた答えが。
「……」
アサヒの鞄をじっと見つめる。
それから、ゆっくりと、その鞄に手を伸ばす。
ポケットを開ける指が震えた。友達のスマホを勝手に見るなんて。こんなことしてはいけないという気持ちと、確かめたくてたまらない気持ち。罪悪感と期待感。複雑な感情が渦巻き、心臓が高鳴った。
アサヒのスマホを取り出し、画面に触れる。四桁のパスワードを求められた。
小路が口にした数字が目に浮かんだ。
――0831。
まさか、さすがにそんなことはないだろう、と半信半疑に思いながらも、僕はその数字を入力した。
すると、
「え――」
ロックが解除された。
なんで、と目を見開く。
……なんで小路が、アサヒのスマホのパスワードを知っている?
疑問はそれだけじゃなかった。画面に表示された光景に、僕は目を剥いた。
「な、なに、これ――」
カメラロールが表示されている。最近撮影された写真と動画が、ずらりと並んでいる。
そこにあったのは――
「僕……?」
僕の姿だった。
僕の写真と、僕の動画。夥しい数の、隠し撮りされたデータが、そこにあった。
「な、なんで……」
震える指で、その中の一つの動画を再生する。
体育館の窓から盗み撮りした映像だった。そこに映っていたのは、何度も何度もバスケットボールをぶつけられる、上半身裸の僕の姿。
これは、あの日の映像だ。
アサヒが助けに来てくれた、あのときの。
でも、意味がわからない。理解が追い付かない。
なんで、どうして。
――どうしてアサヒが、盗撮しているんだ。僕のいじめられている瞬間を。
