雨が好きな理由

 月曜日、一週間の始まり。


 アラームは雨の音だった。


 好きだったはずなのに、今は余計なお世話。


 「美姫、起きて。今日は瑠衣くんと行く日でしょ?」


 「……わかった」


 下から呼ぶお母さんに返事をして、身支度を整え始める。


 姿見を渋々覗き込むと、やっぱり、変だった。短髪とセーラー服はどう見てもチグハグで。


 すぐにそこから離れる。リボンも綺麗に結べているか、確認もせず。可愛く見せる必要は、もうない。


 部屋を出る途中、カーペットに黒いゴムが落ちていた。白いから、余計に黒が目立つ。

 
 片付けたはずなのに、と机に備えられている引き出しへ手を伸ばす。


 開けると、同じようなゴムと、可愛らしいヘアアクセサリーが敷き詰められていた。


 その中に拾った黒ゴムを入れて、封印するように閉める。


 当面、開けることはないから。


 階段を下りて洗面所で顔を洗う。鏡が大きいから、またしても自分の頭髪が見えてしまう。しかも寝ぐせだらけで、短い髪が色んな方向に跳ねていた。


 櫛を何度通しても一向に直る気配はない。そもそも短すぎる。


 蛇口を捻って指を伸ばしかけるけど、やめた。代わりに流れゆく水へ頭を突っ込んだ。


 いっそのこと、丸洗いしてしまおうと。タオルドライで乾くことは、昨日、一昨日の入浴を通して知った。


 洗って、タオルで拭き取ると、理容室の鏡で対面した自分になる。寝ぐせが嘘のように直っていた。


 起きたばかりだけど、すでに布団に戻りたい。誰とも顔を合わせたくない。何を思われるか、想像ついてしまうから。


 「おはよう」


 いつも通りを装って、居間にいる両親に挨拶する。


 「おはよう」


 ぴったりではないけど、ほぼ同じタイミングで返される。でも、目は合わなかった。先週までは目と声で挨拶してくれてたのに。


 心が折れそうだった。私じゃなくて、お母さんとお父さんを傷つけてしまっていることに。


 自分勝手な行動なのに、傷ついて、それを表に出すから、周りに心配をかける。


 「ねぇ、お母さん」


 「なに?」


 その上、お願いまでしようとしている。


 でも、これだけは聞いてほしい。


 「えっと、瑠衣くんに先行って、て伝えてほしくて」


 やっとこっちを向いてくれる。眉も目も下げて。全身を撫でるように見つめた後。


 「わかったわ」


 朝ごはんをテーブルに並べてから、私を気遣ってお母さんが玄関へ行ってくれる。


 人騒がせな自分に嫌気が差す。でも、こうするしかない。


 瑠衣くんの隣を、私は歩けない。


 瑠衣くんには、女の子がいる。


 雨の日は、もう新井さんに譲らないといけない。


 出されたばかりなのに、口に入れたトーストは冷たかった。


 気持ち遅めに食べ終えて、リュックを取りに自室への階段を静かに上る。瑠衣くんを待たせているから、と雨の日の朝は大きな音を立てていたのに。


 でも、もう叶わない。


 雨の日に瑠衣くんの隣にいることも、雨を好きになることも。


 今度は姿見に目もくれず、部屋を去った。
 



 傘を差して、家を出る。両親の控えめな挨拶が、また胸を痛めた。


 頭上に浮かぶ水玉模様。雨みたいだから買ったもの。


 可愛いけど、辛い。


 瑠衣くんと関係なく好きになりたかった。雨も、水玉模様も。


 傘と頭の距離を縮める。通り過ぎてゆく誰かに、自分の姿を見られないように。


 学校に着いたら晒すことになる。それも覚悟の上で、今だけは隠していたい。


 いつかは瑠衣くんの目にも届く。どう思われるのだろう。


 幻滅されるのかな、嫌われるのかな、幼なじみの縁を切られるのかな。


 反応を予想すればするほど、苦しくなる。瑠衣くんがどう思っても、私には関係ないのに。


 「美姫ちゃん」


 空耳。私が瑠衣くんのことで頭をいっぱいにしているから。


 だって、瑠衣くんは先に学校へ向かったはずで。


 なのに、その声は何度もそばで聞こえくる。


 「どうして無視するの⁉」


 「瑠衣くん、どうして……」


 すぐ後ろに瑠衣くんがいて。


 止まっちゃいけない。分かっているのに、歩くことで流れていた景色は動かなくなる。


 「どうして、じゃないよ。なにかあって行けなくなっただろうから、待ってたのに」


 「なにもないよ」


 「そんなわけないだろ。ほら、リボンだって乱れてるし」


 指摘されて、思い出す。鏡を見たくなくて、ちゃんと直せてなかったことを。


 「直すよ、他の人に見られたくないだろ」


 「いいよ、しなくて」


 瑠衣くんが指をリボンへ伸ばそうとするから、私は一歩下がった。その拍子で差してた傘の角度が変わって……。


 慌てて戻すも、もう遅かった。


 「美姫ちゃん……その髪」


 瑠衣が目を見開いて。ただでさえ大きいのにもっと。


 見られてしまった。心の準備、できてないのに。


 「なんでそんな髪型になってんだよ!?」


 苛立ちを含んだ声。ビクッと肩が震えた。


 初めてだった。こんなにも、怖い顔する瑠衣くんを見るのは。


 「そんなに怒らなくても……」


 傘をさらに深く差す。瑠衣くんの顔も、引き締まった上半身も見えなくなるまで。


 あっ、と声を漏らすのが鮮明に聞こえて。


 「ごめん。責めるつもりじゃ……」


 「雨が苦手になったよ」


 これ以上聞きたくなくて、一緒にいたくなくて、無理やり遮った。


 横切って先に行こうとするも、待って、と呼ばれてしまう。止まってしまう自分が嫌だった。


 「どうして? この間まで雨好きっていってたのに」


 一番耳を塞ぎたいことだった。私も瑠衣くんも傷つけたくなかったから、あえて遠回しに言ったのに。


 雨が苦手。それが意味することをそのまま口にするだけ。


 でも私にとっては、ただ傷つくだけの言葉だった。血が垂れるほどの傷をひっかくような。


 「瑠衣くんに、会いたくないからだよ」


 瑠衣くんがどんな表情をしているかなんてわからない。ただ、静かだった。


 一歩が水たまりに波紋を生む。


 横を通り過ぎても、しばらく歩いても、瑠衣くんの声と足音は聞こえなかった。




 恥も緊張も、全てを殺すしかない。


 私にはもう、何もない。


 あとは、無心でどれだけやり過ごせるか。


 昇降口で傘を閉じた時、廊下ですれ違う時、教室に足を踏み入れた時、全てに視線を感じた。そのたび、鈍い痛みが伴う。


 『なに、あの子』


 『頭おかしい』


 『男の子みたい』


 『前から変な人だと思ってたんだよね』


 我慢した。


 休み時間も、今日は廊下を見なかった。どれだけ足音が聞こえても。視界にすら、入れたくもない雨景色を眺めて。


 授業中は、やっぱり考えてしまう。


 傘の向こう側、瑠衣くんがどんな顔をしていたのか。


 口調通り、怒ってたのかな? それとも、引いてたのかな……。 


 浮かぶのは、どれも私の見たくない瑠衣くんの表情ばかり。


 追いかけてほしかった、なんて。


 自分から終わりにしたのに。片想いも、幼なじみという居場所も、何もかも。


 軽くて重い顔を動かすと、雨が窓に模様を描いていた。


 早く止んでほしい。


 だから、よかった。席が廊下側の後ろで。


 できることなら、その想いが笑って誰かに話せるようになるまでは、降らないでほしい。


 長い授業が終わって、給食の時間も過ぎる。放課後に掃除があるから、お昼休みに体操着に着替えないといけない。


 廊下に出て、体操着の鞄を自分のロッカーから取り出す。


 男の子は自教室、女の子は空き教室。女の子の濁流に私も吞まれようとした時だった。


 「あんた、どこ行こうとしてんの」


 梅雨時期なのに、鳥肌が立つ。目を伏せてても、誰か分かった。今でも思い出せるから。小学生の頃、友だちと笑いながら、私の傘を差していた彼女を。


 空き教室には何クラスかの女の子たちと着替えることになっていて、必然的に同じクラスじゃない彼女とも一緒になる。だから。


 「……着替えようと思って」


 「はぁ? 冗談でしょ。見た目男のくせに」


 「……」


 「あれ、だんまり? じゃあ、幼なじみくんでも呼ぶ? あ、でも確かその男、一昨日女と二人きりで相合傘してたんだっけ。新井さん? だったけ。噂になってるよ」


 聞けば聞くほど、胸に、心に痛みが走る。ガラスの破片に突き刺されるような。さらに彼女は口を開けて。


 「残念だね、もう彼は新井さんのことでいっぱいだから、男みたいなあんたを助けないだろうね。ま、とにかくどっか別の場所で着替えて。いっそのこと男子たちと着替えて」


 「着替えない!」


 目をしっかり開けてピントを彼女に合わせる。予想通りの嘲笑わらいを含んだ表情がみるみる怖い目つきに変わってゆく。それでも逸らさなかった。


 逃げない。小学生の頃の私なんかとは、さよならしないと。


 そもそも、この姿になったのは新井さんみたいになりたかったから。新井さんなら、こういう時立ち向かうはず。たとえ、もう瑠衣くんに振り向いてくれなくても。


 ううん。だからこそ、伝えないと。瑠衣くんに。私は大丈夫だよって。


 「は、なんなの? 調子乗りやがって!」


 手が上がると、それを素早く振り下ろしてきた。最も恐れていた事態がすぐそこまで迫っていて、動けなくなる。


 助けて、なんて。


 言うことも、思うことすら、私には許されていない。


 自分一人で立ち向かうと決意したのは私。だから、その痛みだって受け止めなければならない。


 誰にも守られず、自分だけで戦う覚悟を決めた私は目を閉じた。


 既に痛い視線と、これからやって来る強烈な痛み。全てを引き受けてみせる。


 なのに、いつまで経っても痛みは来なかった。それどころか、視線も幾分かマシになった気がした。私たちのいざこざ以上に目立つことが、と恐る恐る目を開けると……。


 「お前、次はないっていったよな?」


 ふいに涙が出そうになった。今までずっと助けてくれた人の声と背中で……。


 「はぁ? そっちこそ、なんでその子また助けるの? 知ってるよ、あんたが……」


 「ちょっと黙っててくれない? それともなに、小学生の時のこととか、今回のこと大ごとにしてほしい?」


 「なに、小学生のときのことって」


 周りがひそひそし始める。その中には彼女の取り巻きもいて。


 途端に大きな足音がしたかと思えば、すぐにそれは遠ざかっていった。彼女の気配が消える。


 目の前の男の子が振り返る。今朝、見れなかった、忘れようと思ってた顔。


 きつく結ばれた口、細められた瞳、下がる眉。ずぶ濡れだった私を助けてくれた時の表情だった。


 瑠衣くんの黒目が右へ左へ、上へ下へ忙しなく動くと。


 「ケガ、してない?」


 小さくて遠慮だらけの一言。


 「……してないよ」


 瑠衣くんが助けてくれたから。でも、素直に喜べない。今までみたいには。


 ここに留まりたくない。集中する視線のご主人たちが勘違いしてしまう。瑠衣くんが新井さんじゃない、私のことを好きだって。


 瑠衣くんと新井さんは付き合ってる、噂は広まっているから。


 瑠衣くんが複数の女の子と関係を持つような男の子だと、思われたくない。


 通り過ぎようとした。波紋を作らない、廊下の床を踏んで。なのに。


 「ついてきて」


 手首を掴まれた。瑠衣くんはそのままどこかへ歩き始める。戸惑う私も、さらに驚きの目の色を浮かべる生徒たちも無視して。


 教室のある棟を抜け、人の少ない場所へと出た。


 ついてきて、なんて無理。手首を掴んだまま歩くから、ついていかないといけない。


 繋がれたところから、温かさと感触が伝わる。知っているけど、知らない。


 何も考えず手を繋いでいた時のそれでは、もうなかった。


 どこまで行くのだろう。前を歩くせいで、表情が全く見えない。と、思ったらすぐに瑠衣くんは足を止めてくれた。


 目の前にはミーティング室と書かれたプレートのある教室。私たちの普段使う教室棟の廊下よりも薄暗くて、不気味に思い始めた時。


 「ここ、陸上部のミーティング教室なんだけど、ほぼ使わなくて……だから、着替えたら?」


 身構えてた気持ちがほどけてゆく。今朝、あんなこと言ったから、質問攻めに遭うと思っていたのに。


 どこまで……優しいの?


 あの時だって、そうだった。何も聞かず私を助けてくれて。


 今の私には苦しいだけなのに。


 この優しさは、もう私のものじゃないのに。


 「どうして、助けてくれたの?」


 瑠衣くんの彼女は新井さんなのに。

 
 助ける人、間違えてるよ。
 

 「会いたかったから……」


 さっきよりも口を引き締めて、歪んだ表情をしていた。私以上に苦しみを抱えているかのような。


 現実から目を背けるように、視線は床へ吸い込まれる。


 「……変な冗談やめてよ」


 本当にやめてほしい。


 私が傷ついてるのに気づいて、慰めるのは。


 可哀想で惨めなんだと、自覚してしまうから。


 「冗談じゃないから!」


 鼓膜が大きく震えた。


 そのまま割れてしまうくらい。


 床しか見えないから、瑠衣くんの深呼吸音が鮮明に聞こえて。


 「おれは雨、好きだよ」


 「大変な部活の練習がなくなるからって、教えてくれたよね」


 もしかしたら瑠衣くんも、私と同じ気持ちを抱いてくれてるかもしれない。そんな淡い期待が萎んだ会話だった。


 だから今度は、望まない、はずだったのに。


 「違うよ」


 首が、瞳が、上を向く。


 虹を見ようと、雨上がりの空に目を輝かせる子どものように。


 「美姫ちゃんに会えるから。部活のない雨の日だけ」


 「違う、そんなはずないよ! だって……」


 荒れる声帯を整えるように、何度か息を吸っては吐いてを繰り返して。


 「瑠衣くんは、新井さんのことが好きなんでしょ……」


 「え、理代のこと? やだよ、あいつ怖いし、可愛くないし」


 「見たんだもん! 瑠衣くんが新井さんと歩いてたところ。一昨日(おととい)


 「一昨日……」


 明らかに動揺した瞳から、また視線をずらす。


 照れ隠しなんてやめてほしい。新井さん、綺麗な顔立ちだから可愛い部類に入るはずなのに。


 そもそも可愛い女の子がタイプなら、今の私はもってのほか。


 助けてくれたのは、幼なじみだから。むしろ、縁を切られてないだけありがたいと思わなくちゃ。


 「これプレゼントしたくて」


 「……」


 目を見開いてしまう。瑠衣くんが手にしているものに。


 何かが包まれていそうな、手のひらサイズの袋。でも、ただの包装紙じゃなくて。


 模様が水玉模様だったから。


 「開けてみて」


 「え、これわたしのなの?」


 「そうだよ」


 頭が真っ白になっている私を無視して、強引に渡してきた。


 パリパリ、とした包み紙の音。でも感触はふわふわしていた。


 「本当にわたしの?」


 「うん」


 開けるのが怖くなって、もう一度訊いてみても同じだった。目で訊いても合うことはなくて。


 一本の短いテープを剥がしてゆく。それも水玉模様だった。


 包装紙が傷つかないように、そっと。
 

 袋越しと同じで、ふわふわしていた。子どもの頃、雲に触れたらこんな感じなんだろうなって想像した通りの。


 でもこれ……。


 「ありがとう、瑠衣くん。でも、返すね。今のわたしじゃ使えないよ」


 さっきの瑠衣くんみたいに、強引に手渡しで返す。


 本当は嬉しかった。これは新井さんじゃなくて、私のために買ってくれたものだと分かるから。


 ただし、”以前”の私限定。


 プレゼントはシュシュだった。触り心地のいい素材で、しかも模様が水玉で。


 この間、私が髪を一つにまとめた時に考えてくれたのかな。


 水玉が好きって言ったのも、覚えてたから買ってくれたのかな。


 でも。


 男の子並みに短い髪に触れてみる。手櫛をしてもすぐに空を切った。


 この髪じゃ、つけられない。結べるようになるまで、時間だってかかる。


 だから……。


 「美姫ちゃん、左手出して」


 「え、こう?」


 宙を彷徨(さまよ)っていた左手を、言われた通り差し出す。何をするか分からないまま。


 と、すぐにふわふわした感触が左手に宿る。指へ、手のひらへ、そして手首で止まった。


 結婚指輪を薬指にはめるように。


 「ほら、ブレスレット」


 似合ってる、と瑠衣くんが今日初めての笑みを浮かべた。


 ずるい。そんな顔されたら、離れられなくなっちゃうよ。


 新井さんじゃなくて、私の隣にいて。


 そう願わずにはいられなくなる。とんだ、自惚れなのに。


 これ以上。


 「優しくしないで。好きな人に……」


 最後まで紡げなかった。口どころか、身体全体が温かく包まれて。


 いつの間にか抱き締められていた。きつめに、でも息ができるほどに。


 「美姫が好きな人だからいいでしょ、優しくしても」


 驚きたくても声に出せない。その刹那は息を止めるくらいにきつくされて。


 想像もしてなかった。瑠衣くんが私を好きでいてくれたなんて。


 雨が空に向かって降り注ぐくらい、信じられないこと。


 夢だって思った。でも、身体の熱と、瑠衣くんの温もりが、直に感じられて。


 夢じゃない、夢みたいなことが起きた現実。


 「美姫ちゃんは?」


 緊張が、熱が身体を駆け抜ける。


 瑠衣くんの聞きたいことが、それだけでわかってしまって。


 ちょうどお昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。


 「好き」


 どこまでいっても恥ずかしくて、音と共に大事にしまっていた想いを鳴らす。


 でも身体は、もっときつく包まれた。




 靴を履いて玄関を出る。やっぱり大好きな水玉模様の傘を差すと、信じられないことに。


 「瑠衣くん、どうして?」


 目の前に瑠衣くんがいて。陸上部は雨でも、放課後は校内で活動するはずなのに。


 「さぼった」


 頬の赤みは、きっと光加減のせいじゃない。それだけで、もうわかった。


 好きな傘に、好きな天気を弾かせながら、好きな男の子の隣に並ぶ。


 周りの目は気にならない。好き、で守られているから。


 新鮮だった。放課後なだけで、同じ通学路なのに。また授業が始まりそうな錯覚に陥る、と思ったら大きくいつもの道から外れる。


 「今日は遠回りして帰ろ」


 「うん」


 頬がぽかぽかする。一緒にいる時間を少しでも長く。それが強く伝わって。


 「明日、理代に絶対怒られるな」


 呼び捨てにいちいち反応してしまう。私も呼んでもらったのに。


 「仲、いいんだよね」


 気持ちが落ち着かない。やっぱり新井さんのことが好きかもしれないって。でも。


 「いいかもだけど、走るのちょっと緩めただけで怒るし、遅れたらすごいしつこく問い詰めて来るし。もう尋問。あいつは警察官向いてるな」


 「……すごい人だね」


 私はいい面ばかりを見ていたらしい。


 新井さんみたいになりたいとは思ったけど、警察官にはなりたくない。


 「まぁ、部員に人気あるし実際いい奴だけど、あくまで部員だから」


 「うん」


 仲が良いことは肯定するけど、好きなのは全力で否定してくれた。安心が心地よさを生む。


 流れる景色が、違う。遠回りしているから、当たり前だけど、もっと他に理由がある気がした。


 でも角を曲がった途端、見覚えのある風景が飛んできて。


 「あ、理容室だ」


 私が言う前に、瑠衣くんが指をさす。


 「懐かしいなぁ。昔おれが切り終わったら一緒に遊んでさ」


 覚えててくれてた。些細な記憶だったから、忘れてる思ってたのに。


 建物が近づくと、扉のそばに女性を見つける。


 ぱちり、目が合う。視線を瑠衣くんに向けてから、私に戻すと表情が変わった。


 昔、瑠衣くんと理容室を出る時にしてくれた優しい笑みに。


 軽く手を振る。


 切ってくれてありがとう、心からの感謝を込めて。


 まだ短い髪に慣れてないけど、もう後悔はしていない。むしろ逆。


 髪じゃなくて、想いが結ばれた。そっちの方が大事。


 「なんで手振ってんの?」


 「あ、えっと……」


 バレないように軽く振ったのに。なら、もっと大きく振ればよかった。


 「実はあそこで髪を切ったの」


 「え、ほんと? どうりで短いわけだ」


 目を大きくさせる瑠衣くんに、少し不安が募る。


 「もしかして、短いの嫌だった?」


 「え、全然」


 「でも、今日どうしてそんな髪型になってんの、て怒ってたから……」


 正直あの時は怖かった。


 怒られるのなんて初めてで、だから短いのがすごく嫌なんだと思って。


 「だって、髪長かった女の子が急に短くしたら、からかわれると思って。また、美姫ちゃんが傷つくのは嫌だったから。でも、その時おれもびっくりしちゃって、怒る矛先間違った」


 プレゼントのこともあったしさ、と瑠衣くんは目を伏せる。


 「ありがとう」


 ちゃんと理由があった。そのことが嬉しい。


 瑠衣くんも顔を上げて、控えめに笑う。


 靴が水を踏む音しか聞こえなくなる。どちらからともなく傘を畳むと、陽の光が辺りを照らした。濡れているから余計に眩しい。


 「もうすぐ梅雨明けか。よかったな、美姫。苦手な雨は降らなくなるよ」


 珍しく瑠衣くんが意地悪な顔になる。


 「苦手じゃない、好きだもん!」


 「朝は苦手って、いってたのに?」


 「もう好きになったの!」


 「ふ~ん。あ、見て美姫!」


 瑠衣くんの人差し指の先。七色の線が半円を描いていて。


 綺麗、誰もがそう口を揃えるのに、私は言えなかった。空と私の心は、反対だから。


 梅雨が明けてしまったら、その続きを考えるだけで身が滅びそうだった。


 気づけば立ち止まっていた。私も瑠衣くんも。


 瑠衣くんは虹に夢中だった。どうしてまた朝を好きになったの? なんて訊いてこない。


 いつかの日みたいに。


 でも。


 ちゃんと伝えたい。瑠衣くんみたいに、私だって。


 「あのね、瑠衣くん」


 瞳の中に虹が消えて、代わりに私が映る。男の子みたいな、だけどちゃんと女の子を宿した瞳の私が。


 「雨が好きになった理由はね」


 雨が地面を叩きつけるくらいのタイミングで、心臓が鐘を打つ。


 「瑠衣くんに会えるから」


 頬が色を変えてゆく。目の前の男の子も、瞳の中の女の子も。


 虹の赤色に。


終わり