灰色の雲の下、やっぱり重い足を引きずるようにして歩く。
しばらく歩いていると、ある建物が近づいてきた。普段通っている美容院。
極限まで近づいては、遠ざかってゆく。こんな状態で入店できるはずもなかった。担当してもらっている美容師さんに合わせる顔がない。
どこで切ろうか、そもそも他の場所を知らない。
ポタ
頬の一部分が冷たいもので刺された気がした。
それは指先に触れ、グレーのパーカーに黒い染みを作ってゆく。
雨だった。大好きだったはずなのに、今は苦しいだけ。
辺りを見回した後、仕方なくさっきの美容室まで戻ろうとした時だった。
目立たない風貌をしているから、普段は通りすぎてしまう場所。
赤と青と白が回るサインポール。看板に浮かぶ店名の文字は、薄く、さび付いていた。時の流れを強く感じる。
間違いない、ここはお父さんが通う理容室。
頭で理解した途端、糸のように見えていた雨が消えた気がした。
お父さんと、それから瑠衣くんの幻が映る。
そうだった。私もこの理容室、行ったことがあった。お父さんと一緒に、何度も。用事もないのに。
いや、あった。ごくたまにだけど、理容室で瑠衣くんと会えることがあったから。
待合室で二人を待って、終わったらそのまま瑠衣くんと遊んで。
楽しかったなぁ。
やっぱり思い出すのは、瑠衣くんのことだった。
指先に冷たい感覚が戻る。視界に雨が蘇った。
パーカー全部が黒く染まる前に、理容室の扉を開けた。勇気を振り絞って、勢いよく。
そのまま店内に入ると、雨の音が止んだ。ずっとここにいたら、外が泣いていることにも気づかないくらい、静かだった。
床に落ちている髪を掃除している女性が顔を上げる。あの頃よりも皺が多くなった顔を。
いらっしゃい、と言いかけたところで、その人は目を丸めて。
「もしかして、美姫ちゃん?」
「はい、お久しぶりです……」
覚えていることに驚いて、声が尻すぼみになってしまう。
「まぁ、ずいぶん濡れてるじゃない。タオル、持ってくるわ」
慌ただしく奥へ消えたかと思えば、すぐに戻ってきた。片手にタオルを持って。
「ありがとうございます」
受け取ったタオルで、手や顔、パーカー、ズボンを拭いてゆく。パーカーは黒いままだった。
「見ないうちに大きくなったね。そういえば、お父さんは?」
「あ、えっと……」
ここに来る時は、いつだってお父さんがいた。私はあくまで付き添いだったから。でも今は。
「今日は私が切ってもらいたくて」
「え、お嬢ちゃんが⁉」
どうして、と迫られて、躊躇いを含んだ指をフードに乗せる。今から頭に起きた惨状を晒すとなると。
でもそうしなきゃ、来た意味がなくなってしまう。
意を決してフード脱ぐ。女性の表情はさらに驚きの色を濃くさせた。恥ずかしくて堪らない。
「その髪……どうしちゃったの?」
「もうすぐ夏だから、短いのもいいかなって思いまして。でも自分で切ったら失敗してしまったので、ここで整えてほしいです」
嘘を散りばめながらも、ちゃんと注文をこなせた。後戻りはできない。
「そう……わかったわ。もっとよく見せてもらっていい?」
「どうぞ」
私の頭を女性がじっと観察し出した。手で撫でられているような、ぞわっとした感覚を覚える。
浮かべる女性の表情が、嫌な予感を湧かせて。
「後頭部の真ん中あたりが一番短いんだけど、そこに合わせるとなったら全体的に相当切らないとかな」
「……そうですか」
ずん、と身体が重くなる。切らなきゃよかった。それだけがのしかかって。
具体的にどんな髪型にするか、女性は丁寧に説明してくれた。今の私の耳が優秀じゃないから、どれも拾えなかったけど。
なるべく長さは残すから。
それが唯一の心の支えだった。
黒くてふかふかしていそうな椅子へ案内される。向かいには当然ながら鏡もあった。
奥にも理容室があると思わせるくらい、磨かれた鏡。
座ると、想像通りの感触が腰から伝わってきた。
目はまっすぐに向けられなかった。綺麗すぎる鏡は、どこまでも私を醜く映すから。
「じゃあ、さっき説明したとおりでいいね?」
「はい、お願いします……」
内容なんて、これっぽちも覚えてない。
ただ、女性のさっきの言葉を信じるしかない。
ケープを巻かれることで、緊張が強く走った。
少し皮の伸びた指が、うなじに触れる。襟足の髪を持ち上げられて、首に空気が通った。
サク
刃と刃が擦れ合って、鋭い音が響く。
重力に従って髪は戻ってゆくはずなのに、いつまで経っても首に髪がかかることはなかった。
女性は何の躊躇いもなく、二枚の刃を交差させてゆく。襟足から後頭部の真ん中辺りまでを何度も往復して。
とうとう床さえも見れなくなった。白かったはずの床が黒くなり始めて。
女性が私のそばを離れた。
もしかして終わった、と安堵しかけた時。
「ちょっとこれで整えるからね」
女性が持つ黒い物体に、ずっと抱えていた不安ごと凍り付いた。
バリカン。
お父さんや瑠衣くんが散髪する時にしか見たことがなかったそれが、私の頭に近づいてくる。
嫌だ、来ないで。心の中でそう叫ぶも、ついに音まで鳴り出して。
襟足にくっつくと、一際鳴き声が大きくなる。
頭が軽くなって、梅雨なのに寒いとさえ思うようになった。上へ上へ、未知の機械が目指すたび。
後頭部の真ん中までの往復が終わると、女性は今度左に立つ。
まだ唸っているそれを、容赦なくもみ上げから耳の上へ通してゆく。同じことを右も。
耳の淵にも、髪はかからなくなった。
目頭が熱くなる。我慢の限界はもう近い。
いくら視覚を消したところで無駄だった。聴覚とか触覚がその分研ぎ澄まされて。余計に自分が変わってしまったことを感じさせられて。
髪を食べ尽くした機械がやっと鳴くのを止めた。でも、もう遅い。
諦めて鏡を見ると、知らない人と目が合う。女の子というより男の子だった。
後ろは見えないけど、耳周りの髪は地肌が見えるほど刈り揃えられていて。頭頂部こそ、まだ天使の輪が作れるほど長さが残っていたものの。
頭の上には、ハサミを持った女性がいる。口角を上げながらも、目尻を下げて。
シミと皺が刻まれた指が、長さの残る髪を半分のところで挟むと。
サク
指の上をハサミが通って、髪が落ちてきた。バリカンの時よりも明らかに長い一房。
光の輪が崩れてゆく。頭頂部の髪が重力に屈するのをやめて、抗い始めていた。
それに合わせて前髪にもハサミが入る。眉下で揺れていた毛先が、今や頭頂部の髪と一体化しようとしていた。
丁寧に前髪を整えていた昨日が遠い昔のよう。
見た目は強くなって、心は弱くなってゆく。
それから記憶はほぼない。セニングとか産毛処理とか色々された気がするけど、何も。
代わりに再生されたのは、瑠衣くんと過ごした眩しい日々たち。
どこを切り取っても、瑠衣くんはかっこよかった。
特にあの雨の日は。
小学五年生の、梅雨。
その時期は、いつも気分が晴れなかった。窓際の席だった私の耳には、必ず雨音が届くから。
雨なんて嫌いだった。
じめじめするし、髪の調子は悪くなるし。
何より一番嫌だったのは、瑠衣くんと離れて歩くことだった。傘の幅だけ。
その日は、もっと最悪なことがあった。
朝登校して、教科書を机の中に入れようとした時のこと。
べちょっ
不快な音だった。しかも教科書は奥まで行ってくれなくて。
見たくない。でもそれじゃ、謎のまま。
ゆっくり、勝手に開いた扉の部屋をそっと覗くように。
予想通りだった。
雨水をたっぷり吸った折り畳み傘があって。
と、同時にくすくす笑う声が、辺りの空気を汚した気がした。私に向けた悪意のある話も聞こえてくる。
振り返りもしない。誰かも分かっているし、これが初めてなわけじゃないから。むしろマシな方。
ポケットからハンカチを取り出して、机の中を拭き始める。
ちらっと瑠衣くんの方を見ると、友だちと楽しそうに談話していた。気づかれていない。
普通の傘を堂々と机の上に置かれたこともあった。でも、瑠衣くんが気づいて、相手を問い詰めてくれたから、度を越したいじめはなくなった。
でも、バレないそういったことは、むしろ増えてしまった。
憂鬱なまま、一日が過ぎてゆく。もう乾ききった机の中から荷物を取り出していると。
「今日、塾あるから先帰るね」
瑠衣くんの大きな瞳が申し訳なさそうに細められる。強く首を横に振ってから。
「ううん。また明日ね」
そんな顔をしてほしくなくて、無理に笑みを浮かべる。
やがて瑠衣くんも表情を緩めて、手を振りながら教室を出ていった。
少しして、私も荷物をまとめ終える。教室を出て、玄関で傘置き場に来た時だった。
傘がない。
そう気づくのと、外から笑い声が聞こえたのは同時だった。
朝、クスクス笑って、さらに私の悪口を吐いてた女の子。それだけじゃない。
今までされてきた嫌がらせは、全部彼女が関わっているから。
返して。私の傘なのに。
叫んで、その望みを叶えてほしいけど、できない。
そしたら、もっとひどいことをされるかもしれない。臆病な私が顔を出して。
傘置き場には、まだ傘があった。目もくれないけど。
しばらく待っても、止む気配はない。何度も迷って、仕方なく一歩を踏み出した。
雨が容赦なく私を濡らしてゆく。顔も、髪も、手も、服も、全部。頭上にもう一人自分が乗っているかのような重さだった。
構わず進む。これ以上背負い込んだら、どうかしてしまいそうで。
「美姫ちゃん」
雨は弱まっていないのに、なぜか響いた。雨を跳ね返すアスファルトから目を離す。
「瑠衣くん……」
目の前に瑠衣くんを見つけた途端、雨が止む。ううん、止ませてくれた。すぐに傘を差し出してくれて。
ほどなくして私の手首を掴み、向かおうとしていた方と逆に進もうとするから。
「瑠衣くん、塾は?」
「それどころじゃないだろ」
より力を込められて、引っ張られる。傘は依然と私の真上にあって。
「瑠衣くん、濡れてるよ。風邪引いちゃう……」
瑠衣くんの傘だけじゃ、二人は入りきらなくて。しかも瑠衣くんの身体はほとんど外へ出てしまっている。私を優先的に傘へ入れているから。
なのに、言葉は返ってこない。必然的に雨が地面を叩く音だけになる。
手首から、濡れた身体全体が温かくなってゆく。皮膚にこびり付いた雫が小さくなって、空気に溶けるくらい。
なされるがまま、着いたのは瑠衣くんの家。そばには私の家もある。
「じゃあ、わたし家戻るね。傘、入れてくれてありがとう」
鍵も渡されているし、あとは自分で何とかできるから、離れようとした。
でも、どうしてか手首の力は緩まなくて。
「ダメ」
地面に雨が当たる音とは違う響き。だから、短くても簡単に聞き取れてしまう。その一言の続きだって。
「一人になんてできないから」
頬に水の流れができる。きっと雨で濡れたせい。
結局、家の中に通されてしまう。何度も来たはずなのに、初めての場所に思えた。
「とりあえずシャワー浴びて」
「え、でも……」
「行って」
有無も言わせず、脱衣所へ押し込まれる。瑠衣くんだって濡れてるのに。
迷うけど、余計に困らせてしまうからと、服を脱いでシャワーを浴びることにした。
本当に身体が温まってゆく。頭のてっぺんから、つま先まで。
お風呂場を出ると、服が用意されていた。緩そうなスウェットで、サイズ的に瑠衣くんのだと分かってしまう。
頭がくらくらしてきた。のぼせたのかな、と思うほどに。
脱衣所を出て、居間へ向かうと、瑠衣くんがいた。ドライヤーを片手に。その先には私の服が干されていて。
ドライヤーの音が大きくて、呼びかけても気づいてもらえない。今度はもっと張り上げると。
「あ、美姫ちゃん。シャワー浴びたんだね」
音が止んで、部屋が静まり返った。瑠衣くんが振り返って、私を見る。上へ下へ。上に戻っても、視線は私の目じゃない方を向いてる気がした。
「う、うん。ありがとう。服も、乾かしてくれてたんだね」
「もうちょっとだから。あ、その前に」
髪乾かすよ、と今は休んでいるドライヤーを軽く振る。さすがに申し訳なくて。
「いいよ。家でやるから……」
「風邪引いたらどうするんだよ。いいから、ちょうど出てるし」
座って、と促されると、もう従わざるを得ない。すぐに心地よい温度と強さの風が吹いてきた。
ふわっと髪が揺れるたび、毛に絡まる水がどこかへ飛んでは消えてゆく。時折、頭皮に触れる瑠衣くんの指がくすぐったい。
音が再びなくなると、瑠衣くんは手櫛で髪を整えてくれた。
「美姫ちゃんの髪綺麗だね、お姫様みたい」
「そんなことないよ」
なんて、本当は嬉しい。私自身のことを綺麗と言ったわけでもないし、たとえその優しさが幼なじみだから、がつくとしても。
大事にされてるって、痛いほど感じて。
目元が緩んできた。もう雨のせいにできないから、我慢して。
朝は傘あったよね。誰に傘取られたの?
助ける人の誰もが、訊いてくることを瑠衣くんは口にしなかった。
何があったかもう知っている、優しい手櫛の感触がそう伝えている気がして。
その日を境に、些細ないじめもなくなった。
嫌いじゃなくなったのは、雨。
好きになったのは瑠衣くん。
全ては、瑠衣くんとの優しい思い出のおかげ。
だからこそ、好きになってほしかったのに……。
「はい、終わりました。どうですか?」
現実に戻された私は、唖然とする。視線を横にずらしながら返事を考えた。
「……いいと思います。ありがとうございました」
出そうな涙とため息を我慢して鏡を改めて見る。
なるべく長さは残すから、は一体何だったのか。
映るのは、バリカンの鳴き声が止んだ時よりも、すっかり男の子らしくなった私。
新井さんどころか、切りたてのお父さんや瑠衣くんみたいな髪型になってしまった。
お会計を済ませて、出入り口へ向かおうとしたら。
「雨、強いけど大丈夫? 傘持って行ったら?」
「家近いので、いりません。フード被って帰ります」
「そう……気をつけて」
元気のない声だった。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
こうなったのは、私のせいなのに。
全ての感情を包むようにフードを被り、扉を力強く開ける。
雨の音が一気に届く。怯むけど、すぐに駆けた。今度は風も強くて、フードを押さえながら。
灰色になりかけていたパーカーが、また黒く染まる。
走って美容室の前を横切る時だった。
足が止まってしまう。もちろん美容室に行くわけでもなく。
動けない。前を歩く男女に目を奪われて。
一つの傘に二人、男の子と女の子。
瑠衣くんと新井さんだった。
しかも、瑠衣くんの手には、この辺りで一番大きなショッピングモールの紙袋が握られていて。
いつの間にか、押さえるのを止めていた。
フードが強い風に吹かれてしまう。
切り詰められた髪は、もうなびかない。
髪の覆っていない、首と耳、額がむき出しになる。
冷たい感触が、勢いよく頭を叩きつけた。髪のクッションがなくなって、頭皮に直接雫が貼り付く。
軽いはずの頭がずっしりと重くなる。短い髪が雨をたくさん吸い取って。
そっか、遅かったんだ。
小さく、霞んでゆく相合傘。
限界がきて、目から雨が流れる。思い出の中の私と重なって、勢いは増すばかり。本物に混じって、それは地面へ落ちていった。
あの中に入れない私は、ただ濡れることしかできない。
頭髪も体も心も、そして恋も。
濡れては、落ちて、消えてゆく。
しばらく歩いていると、ある建物が近づいてきた。普段通っている美容院。
極限まで近づいては、遠ざかってゆく。こんな状態で入店できるはずもなかった。担当してもらっている美容師さんに合わせる顔がない。
どこで切ろうか、そもそも他の場所を知らない。
ポタ
頬の一部分が冷たいもので刺された気がした。
それは指先に触れ、グレーのパーカーに黒い染みを作ってゆく。
雨だった。大好きだったはずなのに、今は苦しいだけ。
辺りを見回した後、仕方なくさっきの美容室まで戻ろうとした時だった。
目立たない風貌をしているから、普段は通りすぎてしまう場所。
赤と青と白が回るサインポール。看板に浮かぶ店名の文字は、薄く、さび付いていた。時の流れを強く感じる。
間違いない、ここはお父さんが通う理容室。
頭で理解した途端、糸のように見えていた雨が消えた気がした。
お父さんと、それから瑠衣くんの幻が映る。
そうだった。私もこの理容室、行ったことがあった。お父さんと一緒に、何度も。用事もないのに。
いや、あった。ごくたまにだけど、理容室で瑠衣くんと会えることがあったから。
待合室で二人を待って、終わったらそのまま瑠衣くんと遊んで。
楽しかったなぁ。
やっぱり思い出すのは、瑠衣くんのことだった。
指先に冷たい感覚が戻る。視界に雨が蘇った。
パーカー全部が黒く染まる前に、理容室の扉を開けた。勇気を振り絞って、勢いよく。
そのまま店内に入ると、雨の音が止んだ。ずっとここにいたら、外が泣いていることにも気づかないくらい、静かだった。
床に落ちている髪を掃除している女性が顔を上げる。あの頃よりも皺が多くなった顔を。
いらっしゃい、と言いかけたところで、その人は目を丸めて。
「もしかして、美姫ちゃん?」
「はい、お久しぶりです……」
覚えていることに驚いて、声が尻すぼみになってしまう。
「まぁ、ずいぶん濡れてるじゃない。タオル、持ってくるわ」
慌ただしく奥へ消えたかと思えば、すぐに戻ってきた。片手にタオルを持って。
「ありがとうございます」
受け取ったタオルで、手や顔、パーカー、ズボンを拭いてゆく。パーカーは黒いままだった。
「見ないうちに大きくなったね。そういえば、お父さんは?」
「あ、えっと……」
ここに来る時は、いつだってお父さんがいた。私はあくまで付き添いだったから。でも今は。
「今日は私が切ってもらいたくて」
「え、お嬢ちゃんが⁉」
どうして、と迫られて、躊躇いを含んだ指をフードに乗せる。今から頭に起きた惨状を晒すとなると。
でもそうしなきゃ、来た意味がなくなってしまう。
意を決してフード脱ぐ。女性の表情はさらに驚きの色を濃くさせた。恥ずかしくて堪らない。
「その髪……どうしちゃったの?」
「もうすぐ夏だから、短いのもいいかなって思いまして。でも自分で切ったら失敗してしまったので、ここで整えてほしいです」
嘘を散りばめながらも、ちゃんと注文をこなせた。後戻りはできない。
「そう……わかったわ。もっとよく見せてもらっていい?」
「どうぞ」
私の頭を女性がじっと観察し出した。手で撫でられているような、ぞわっとした感覚を覚える。
浮かべる女性の表情が、嫌な予感を湧かせて。
「後頭部の真ん中あたりが一番短いんだけど、そこに合わせるとなったら全体的に相当切らないとかな」
「……そうですか」
ずん、と身体が重くなる。切らなきゃよかった。それだけがのしかかって。
具体的にどんな髪型にするか、女性は丁寧に説明してくれた。今の私の耳が優秀じゃないから、どれも拾えなかったけど。
なるべく長さは残すから。
それが唯一の心の支えだった。
黒くてふかふかしていそうな椅子へ案内される。向かいには当然ながら鏡もあった。
奥にも理容室があると思わせるくらい、磨かれた鏡。
座ると、想像通りの感触が腰から伝わってきた。
目はまっすぐに向けられなかった。綺麗すぎる鏡は、どこまでも私を醜く映すから。
「じゃあ、さっき説明したとおりでいいね?」
「はい、お願いします……」
内容なんて、これっぽちも覚えてない。
ただ、女性のさっきの言葉を信じるしかない。
ケープを巻かれることで、緊張が強く走った。
少し皮の伸びた指が、うなじに触れる。襟足の髪を持ち上げられて、首に空気が通った。
サク
刃と刃が擦れ合って、鋭い音が響く。
重力に従って髪は戻ってゆくはずなのに、いつまで経っても首に髪がかかることはなかった。
女性は何の躊躇いもなく、二枚の刃を交差させてゆく。襟足から後頭部の真ん中辺りまでを何度も往復して。
とうとう床さえも見れなくなった。白かったはずの床が黒くなり始めて。
女性が私のそばを離れた。
もしかして終わった、と安堵しかけた時。
「ちょっとこれで整えるからね」
女性が持つ黒い物体に、ずっと抱えていた不安ごと凍り付いた。
バリカン。
お父さんや瑠衣くんが散髪する時にしか見たことがなかったそれが、私の頭に近づいてくる。
嫌だ、来ないで。心の中でそう叫ぶも、ついに音まで鳴り出して。
襟足にくっつくと、一際鳴き声が大きくなる。
頭が軽くなって、梅雨なのに寒いとさえ思うようになった。上へ上へ、未知の機械が目指すたび。
後頭部の真ん中までの往復が終わると、女性は今度左に立つ。
まだ唸っているそれを、容赦なくもみ上げから耳の上へ通してゆく。同じことを右も。
耳の淵にも、髪はかからなくなった。
目頭が熱くなる。我慢の限界はもう近い。
いくら視覚を消したところで無駄だった。聴覚とか触覚がその分研ぎ澄まされて。余計に自分が変わってしまったことを感じさせられて。
髪を食べ尽くした機械がやっと鳴くのを止めた。でも、もう遅い。
諦めて鏡を見ると、知らない人と目が合う。女の子というより男の子だった。
後ろは見えないけど、耳周りの髪は地肌が見えるほど刈り揃えられていて。頭頂部こそ、まだ天使の輪が作れるほど長さが残っていたものの。
頭の上には、ハサミを持った女性がいる。口角を上げながらも、目尻を下げて。
シミと皺が刻まれた指が、長さの残る髪を半分のところで挟むと。
サク
指の上をハサミが通って、髪が落ちてきた。バリカンの時よりも明らかに長い一房。
光の輪が崩れてゆく。頭頂部の髪が重力に屈するのをやめて、抗い始めていた。
それに合わせて前髪にもハサミが入る。眉下で揺れていた毛先が、今や頭頂部の髪と一体化しようとしていた。
丁寧に前髪を整えていた昨日が遠い昔のよう。
見た目は強くなって、心は弱くなってゆく。
それから記憶はほぼない。セニングとか産毛処理とか色々された気がするけど、何も。
代わりに再生されたのは、瑠衣くんと過ごした眩しい日々たち。
どこを切り取っても、瑠衣くんはかっこよかった。
特にあの雨の日は。
小学五年生の、梅雨。
その時期は、いつも気分が晴れなかった。窓際の席だった私の耳には、必ず雨音が届くから。
雨なんて嫌いだった。
じめじめするし、髪の調子は悪くなるし。
何より一番嫌だったのは、瑠衣くんと離れて歩くことだった。傘の幅だけ。
その日は、もっと最悪なことがあった。
朝登校して、教科書を机の中に入れようとした時のこと。
べちょっ
不快な音だった。しかも教科書は奥まで行ってくれなくて。
見たくない。でもそれじゃ、謎のまま。
ゆっくり、勝手に開いた扉の部屋をそっと覗くように。
予想通りだった。
雨水をたっぷり吸った折り畳み傘があって。
と、同時にくすくす笑う声が、辺りの空気を汚した気がした。私に向けた悪意のある話も聞こえてくる。
振り返りもしない。誰かも分かっているし、これが初めてなわけじゃないから。むしろマシな方。
ポケットからハンカチを取り出して、机の中を拭き始める。
ちらっと瑠衣くんの方を見ると、友だちと楽しそうに談話していた。気づかれていない。
普通の傘を堂々と机の上に置かれたこともあった。でも、瑠衣くんが気づいて、相手を問い詰めてくれたから、度を越したいじめはなくなった。
でも、バレないそういったことは、むしろ増えてしまった。
憂鬱なまま、一日が過ぎてゆく。もう乾ききった机の中から荷物を取り出していると。
「今日、塾あるから先帰るね」
瑠衣くんの大きな瞳が申し訳なさそうに細められる。強く首を横に振ってから。
「ううん。また明日ね」
そんな顔をしてほしくなくて、無理に笑みを浮かべる。
やがて瑠衣くんも表情を緩めて、手を振りながら教室を出ていった。
少しして、私も荷物をまとめ終える。教室を出て、玄関で傘置き場に来た時だった。
傘がない。
そう気づくのと、外から笑い声が聞こえたのは同時だった。
朝、クスクス笑って、さらに私の悪口を吐いてた女の子。それだけじゃない。
今までされてきた嫌がらせは、全部彼女が関わっているから。
返して。私の傘なのに。
叫んで、その望みを叶えてほしいけど、できない。
そしたら、もっとひどいことをされるかもしれない。臆病な私が顔を出して。
傘置き場には、まだ傘があった。目もくれないけど。
しばらく待っても、止む気配はない。何度も迷って、仕方なく一歩を踏み出した。
雨が容赦なく私を濡らしてゆく。顔も、髪も、手も、服も、全部。頭上にもう一人自分が乗っているかのような重さだった。
構わず進む。これ以上背負い込んだら、どうかしてしまいそうで。
「美姫ちゃん」
雨は弱まっていないのに、なぜか響いた。雨を跳ね返すアスファルトから目を離す。
「瑠衣くん……」
目の前に瑠衣くんを見つけた途端、雨が止む。ううん、止ませてくれた。すぐに傘を差し出してくれて。
ほどなくして私の手首を掴み、向かおうとしていた方と逆に進もうとするから。
「瑠衣くん、塾は?」
「それどころじゃないだろ」
より力を込められて、引っ張られる。傘は依然と私の真上にあって。
「瑠衣くん、濡れてるよ。風邪引いちゃう……」
瑠衣くんの傘だけじゃ、二人は入りきらなくて。しかも瑠衣くんの身体はほとんど外へ出てしまっている。私を優先的に傘へ入れているから。
なのに、言葉は返ってこない。必然的に雨が地面を叩く音だけになる。
手首から、濡れた身体全体が温かくなってゆく。皮膚にこびり付いた雫が小さくなって、空気に溶けるくらい。
なされるがまま、着いたのは瑠衣くんの家。そばには私の家もある。
「じゃあ、わたし家戻るね。傘、入れてくれてありがとう」
鍵も渡されているし、あとは自分で何とかできるから、離れようとした。
でも、どうしてか手首の力は緩まなくて。
「ダメ」
地面に雨が当たる音とは違う響き。だから、短くても簡単に聞き取れてしまう。その一言の続きだって。
「一人になんてできないから」
頬に水の流れができる。きっと雨で濡れたせい。
結局、家の中に通されてしまう。何度も来たはずなのに、初めての場所に思えた。
「とりあえずシャワー浴びて」
「え、でも……」
「行って」
有無も言わせず、脱衣所へ押し込まれる。瑠衣くんだって濡れてるのに。
迷うけど、余計に困らせてしまうからと、服を脱いでシャワーを浴びることにした。
本当に身体が温まってゆく。頭のてっぺんから、つま先まで。
お風呂場を出ると、服が用意されていた。緩そうなスウェットで、サイズ的に瑠衣くんのだと分かってしまう。
頭がくらくらしてきた。のぼせたのかな、と思うほどに。
脱衣所を出て、居間へ向かうと、瑠衣くんがいた。ドライヤーを片手に。その先には私の服が干されていて。
ドライヤーの音が大きくて、呼びかけても気づいてもらえない。今度はもっと張り上げると。
「あ、美姫ちゃん。シャワー浴びたんだね」
音が止んで、部屋が静まり返った。瑠衣くんが振り返って、私を見る。上へ下へ。上に戻っても、視線は私の目じゃない方を向いてる気がした。
「う、うん。ありがとう。服も、乾かしてくれてたんだね」
「もうちょっとだから。あ、その前に」
髪乾かすよ、と今は休んでいるドライヤーを軽く振る。さすがに申し訳なくて。
「いいよ。家でやるから……」
「風邪引いたらどうするんだよ。いいから、ちょうど出てるし」
座って、と促されると、もう従わざるを得ない。すぐに心地よい温度と強さの風が吹いてきた。
ふわっと髪が揺れるたび、毛に絡まる水がどこかへ飛んでは消えてゆく。時折、頭皮に触れる瑠衣くんの指がくすぐったい。
音が再びなくなると、瑠衣くんは手櫛で髪を整えてくれた。
「美姫ちゃんの髪綺麗だね、お姫様みたい」
「そんなことないよ」
なんて、本当は嬉しい。私自身のことを綺麗と言ったわけでもないし、たとえその優しさが幼なじみだから、がつくとしても。
大事にされてるって、痛いほど感じて。
目元が緩んできた。もう雨のせいにできないから、我慢して。
朝は傘あったよね。誰に傘取られたの?
助ける人の誰もが、訊いてくることを瑠衣くんは口にしなかった。
何があったかもう知っている、優しい手櫛の感触がそう伝えている気がして。
その日を境に、些細ないじめもなくなった。
嫌いじゃなくなったのは、雨。
好きになったのは瑠衣くん。
全ては、瑠衣くんとの優しい思い出のおかげ。
だからこそ、好きになってほしかったのに……。
「はい、終わりました。どうですか?」
現実に戻された私は、唖然とする。視線を横にずらしながら返事を考えた。
「……いいと思います。ありがとうございました」
出そうな涙とため息を我慢して鏡を改めて見る。
なるべく長さは残すから、は一体何だったのか。
映るのは、バリカンの鳴き声が止んだ時よりも、すっかり男の子らしくなった私。
新井さんどころか、切りたてのお父さんや瑠衣くんみたいな髪型になってしまった。
お会計を済ませて、出入り口へ向かおうとしたら。
「雨、強いけど大丈夫? 傘持って行ったら?」
「家近いので、いりません。フード被って帰ります」
「そう……気をつけて」
元気のない声だった。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
こうなったのは、私のせいなのに。
全ての感情を包むようにフードを被り、扉を力強く開ける。
雨の音が一気に届く。怯むけど、すぐに駆けた。今度は風も強くて、フードを押さえながら。
灰色になりかけていたパーカーが、また黒く染まる。
走って美容室の前を横切る時だった。
足が止まってしまう。もちろん美容室に行くわけでもなく。
動けない。前を歩く男女に目を奪われて。
一つの傘に二人、男の子と女の子。
瑠衣くんと新井さんだった。
しかも、瑠衣くんの手には、この辺りで一番大きなショッピングモールの紙袋が握られていて。
いつの間にか、押さえるのを止めていた。
フードが強い風に吹かれてしまう。
切り詰められた髪は、もうなびかない。
髪の覆っていない、首と耳、額がむき出しになる。
冷たい感触が、勢いよく頭を叩きつけた。髪のクッションがなくなって、頭皮に直接雫が貼り付く。
軽いはずの頭がずっしりと重くなる。短い髪が雨をたくさん吸い取って。
そっか、遅かったんだ。
小さく、霞んでゆく相合傘。
限界がきて、目から雨が流れる。思い出の中の私と重なって、勢いは増すばかり。本物に混じって、それは地面へ落ちていった。
あの中に入れない私は、ただ濡れることしかできない。
頭髪も体も心も、そして恋も。
濡れては、落ちて、消えてゆく。



