「美姫ちゃんおはよう」
「瑠衣くん、おはよう」
家の前で待っていてくれた瑠衣くんと合流する。空色を基調とした水玉模様の傘を差して。
そうしてどちらからともなく歩き始める。
小学生の頃から変わらない習慣。
瑠衣くんが待って、私は待たせる。待ち合わせの時間を破っているわけじゃない。
ただ、瑠衣くんの準備が早いだけ。
ただし、今はそれも雨の日限定。
「なんか久しぶりだな、こうやって一緒に登校するの」
「最近雨降ってなかったもんね」
だから嬉しい。そう思っているのは、多分私だけ。
「でも梅雨だからさ、これからは結構一緒に行けるんじゃない?」
「そうだね」
平静を保つのに必死だった。
一緒に学校へ行けることを、瑠衣くんも嬉しく思っているかもしれないって、期待して。
「にしても梅雨かぁ。もう中学入学してから二か月経つんだな」
「あっという間だった?」
「うん、めっちゃ充実してたから!」
「そっか……」
喜ばしいことなのに、心がモヤモヤする。陸上部のある部員を想像して。
「美姫ちゃんは、いじめとかされてない?」
「ううん、されてないよ」
されてない。でも、それだけ。
「そっか、よかった。同じクラスじゃないから、心配で」
「大丈夫だよ」
努めて笑顔を作る。瑠衣くんも控えめに笑みを浮かべた。
だけど知っているはず。いじめられてなくても、私が浮いていることは。それに昔のこともあるから。
少し微妙な空気になって、周りは雨とローファーが地面を踏む音しか聞こえなくなる。
空から落ちる重い雫がアスファルトに弾くたび、せっかくの貴重な瑠衣くんとの時間を無駄にしているような気分になった。
すぐ隣を歩いているはずなのに、やけに遠くに感じてしまうのはどうしてだろう。まるで瑠衣くんが何本も向こうの通りを歩いているみたいだった。
「水玉模様、好きだったっけ」
「え、あ。うん」
理解しきれてなくて、最初の返事がおかしくなる。ようやく私の傘のことだと気づく。
「雨みたいだなって」
「え。美姫ちゃん、雨好きだったんだ。知らなかったな」
幼なじみでも知らないことってたくさんあるんだね、と瑠衣くんは続ける。
知らないのが当たり前だよ、と心の中で呟く。
雨を好きになったのは、つい最近のことだから。
もっとお互い近くにいた、小学生の頃からじゃない。
「瑠衣くんは、雨好き?」
好きって答えてほしい。
「好きだよ」
「ほんとに!」
望み通りの返事に、驚きと喜びが混ざり合う。
「うん。雨降ったら、きつい屋外の練習なくなるから」
「そっか、陸上部って大変なんだね」
期待が膨らんだのは束の間のこと。あとは、収縮してなくなるだけ。
水たまりが陽射しで蒸発して空へ帰るように。
「そうなんだよ。少しでもタイム下がるとすぐ顧問が‘‘もいっかい‘‘ってさ」
「じゃあ、今日はラッキーなの?」
「うん、ラッキー!」
にこっと瑠衣くんが笑った。降りしきる雨を星に変えてしまうほど、眩く。
急に恥ずかしくなってきた。この傘を差すことが。
ぎゅっと持ち手を掴むと、傘の角度が変わって風が吹き込んできた。
下ろしていた背中までの髪がふわり揺れる。
「首、赤くなってない?」
「え」
風の拍子で乱れた髪をかき分けながら、指先が首の皮膚に触れる。恐る恐る撫でると、ぶつぶつとした感触が伝わってきた。
「ほんとだ」
「ゴム、持ってる?」
「持ってるけど……」
「結びなよ」
「え、でも」
「傘なら、持っておくから」
瑠衣くんが手を伸ばしてくる。
だけど持つ前にそれは離れていった。
私の指に当たったことで。まるで熱いものに触れたみたいに。
「ごめん」
「ううん。こっちも、普通に渡しちゃってごめんね」
持ち手の先端に熱を帯びた指を置く。今度こそは触れないよう。
さっきよりも速度を落として瑠衣くんが手を伸ばしてきた。
傘の受け渡しに次は成功した。瑠衣くんが受け取って、私が渡す。まるでバトンみたい。
傘の重みを失くした手で鞄から黒ゴムを探して、取り出す。
手首にそれを引っかけてから、両手で後ろ髪をひとまとめにしてゆく。
手櫛で膨れた頭頂部の髪を、乱れた眉下までの前髪を丁寧に整える。
時間をなるべくかけず、だけど少しでも良く見せるために。
黒ゴムで髪を結ぶ時、ふと瑠衣くんは何をしているだろう、と顔を上げたら。
「あ」
声と、それから視線が重なる。
昔から変わらない大きくて、二重瞼の瞳。その黒目は両方とも左へと流れた。
もしかしてこの一連の動作をずっと見てくれてた、なんて。そんなことあるわけないのに。
でも、嬉しい。
勘違いできることにすら、幸せを感じてしまって。
「じゃあね、美姫ちゃん」
「うん。ばいばい」
私の教室の前でお互い手を振る。
瑠衣くんの背中が小さくなってゆく。それだけならまだよかった。
「瑠衣」
遠くからでもしっかり響く声。その声の主が瑠衣くんに近づく。新井理代さん。
瑠衣くんと同じ陸上部。
スカートの裾は膝よりちょっと上で、髪は耳の先端にかかるくらいの短さ、整った顔立ち。
大人っぽいけど、私や瑠衣くんと同じ中学一年生。
瑠衣くんの顔の角度が変わる。こっちじゃなくて、新井さんのほう。
「あ、理代。おはよう」
呼び捨てだった。私はずっとちゃん付けなのに。
ずきっと胸の奥で変な音がした。ほどなくして、痛みが襲ってくる。
なら、逸らせばいい。見なければいいのに。だけど足は、心は教室へ向かわなかった。
さらに遠ざかる二人の姿。会話も聞こえない。
どんな話をしているんだろう。私たちの時みたいな、ぎこちない会話?
ううん、違う。そもそも呼び捨ての時点で、私は負けている。
二人の肩が小刻みに震えては、そのたび手を顔に近づけた。笑っている。いくら小さくなっても見えてしまう。
二人が同じ教室に入って、やっと私の足も動いてくれた。
席は、廊下側から二番目の一番後ろ。
窓が遠いから、せっかくの雨もじっくり眺められない。
中学生になったばかりの頃だった、雨を好きになったのは。
中学で陸上部に入った瑠衣くんは、朝練で早くに家を出てしまう。晴れの日も、曇りの日も。
だから雨を好きになった、水玉模様の傘だって買った。
理由は全部、瑠衣くんだった。
チャイムが鳴って、ホームルームが終わる。廊下が授業に向けてざわつく。
窓と反対側へ首が動いた。片手を上げて準備する。
来た。
上げた手を振る。思いっきりだと恥ずかしいから、遠慮がちに。
廊下を歩く瑠衣くんが、返してくれる。
胸が一気に熱くなって、たとえ通り過ぎても、温かいままで。
そのたび私は、自覚してしまう。
瑠衣くんのことを、幼なじみとして見れていないことに。
瑠衣くんに片想いしていることを。
やがて始業のチャイムが鳴る。高鳴った私の気持ちを冷ますように。
授業が長く感じる。集中しようにも、今朝のことが頭の中を回って余計に。
瑠衣くんと登校するのは、本当に久しぶりだったから。
『幼なじみでも知らないことってたくさんあるんだね』
何度も浮かんでしまうフレーズ。
知らなかったんじゃなくて、知れなかった。
私のほうが、そうだった。
今の瑠衣くんのこと、知れてない。
何を思いながら、私と雨の日歩いてくれるのか。新井さんと、どんな関係なのか。
分からない。
だからこそ、その空白を無理にでも埋めようとしてしまう。
瑠衣くんが、新井さんに気があるのかもって。
何の確証もないのに、頭の中で書いてみると、それが正解にしか見えなくなって。
私も、もし新井さんみたいになれたら。
明るくて、コミュ力があって、運動もできる完璧な女の子。私にないものを全て持っていて。
とても敵う相手じゃない。これといった取柄もない私じゃ。
だけど、もしそうなれたら、瑠衣くんの隣を歩けるのかな。短い距離感で話せるようになるのかな。
幼なじみじゃなくて、一人の女の子として。
だから、決めた。
新井さんみたいになろうって。
できれば、好きになってもらえるように。
屋根に雨が弾かれる。その音が私のいる一階の洗面所にまで届く。
昨日に続いて瑠衣くんに会える、なんてことはない。今日は休みだから。
決意に悩まされ、朝、お昼と過ぎて、今や夕方にまでなりかけている。
新井さんみたいになる、そのための一歩を踏むため、まずは見た目から変えようと思った。
背中まである髪を短く切って、新井さんのようなショートカットにしようと。
だけどなかなか実行に移せないでいる。
洗面所に来ては、自室に戻る。飽きるほど、その往復を繰り返していた。
切るために結んだポニーテールを掴んで、撫でる。
美姫ちゃんの髪綺麗だね、お姫様みたい。
そう幼い瑠衣くんの声が蘇るたび、迷ってしまう。私にとっても大切だった髪だから。
でも、同時に浮かぶのは、瑠衣くんと新井さんが親し気に話している様子。
鏡を改めて見つめる。昔と変わらない見た目。ただ背が伸びただけ。
やっぱり切らないと。いつまで経っても幼なじみとしか、きっと見てもらえない。
あの頃の誉め言葉は全部、幼なじみの私に向けたもの。女の子としてじゃない。
洗面所に置いてあるハサミに手を伸ばす。掴んだ瞬間、身体全体にひんやりとした感触が伝わった。
手が汗ばんでくる。指を動かすとチャキチャキ、とハサミの空気を切る音が鈍く聞こえた。
それをポニーテールの根元へ近づけ、一気に閉ざす。
バサッと一本の髪の束が洗面所の床に落ちるはずだった。なのに舞っているのは数えられるほどの本数だけ。
何回も挟むことでやっと切れた。頭が軽くなる。
新井さんみたいなショートカットができた、とはならなかった。
「なに、これ……」
一人でそう呟いてしまうほどの、ひどい容姿になっていて。
全部の髪の長さが違う。襟足も耳元も。
恐る恐る後頭部に触れると、変な感触が伝わってきて、すぐに指を引っ込めた。まるでお父さんの髭を触っているようで。
涙が出そうになる。それが私の後頭部に広がっていると思ったら。
自分で決めたことなのに、頭の中は既に後悔しかない。
こんなはずじゃなかった。鏡には、もっと綺麗な短い髪の私が映ると思ってたのに。
「ちょっと美姫、なにやってんのよ!?」
声の方に目をやると、お母さんがいた。帰ってきたことに気づきもしなかった私は、声も上げず、静かに驚くことしかできない。
床に落ちている一本の大きな髪の束。そして、悲惨な私の髪型。全部見られたくないものばかり。
「髪の毛切ってた」
「見ればわかるわよ。なんで?」
「……暑かったから」
我ながら適当すぎる嘘。好きな幼なじみに振り向いてほしかったから、なんて言えるわけない。
お母さんは小さくため息を付いた後、腑に落ちない顔で持っていた鞄を漁り始める。
「とりあえず、これで整えてきなさい」
お財布から何枚かのお札を抜いて、私に手渡してきた。遠回しに変だと、言われたようなもの。
「行ってくる……」
自分でも思ってたけど、人に思われるのとはまた違う。
切り離された今もなお、艶のある一本の大きな髪の束。持ち上げると、想像より重かった。
近くのごみ箱にそっと捨てたら、激しい喪失感に襲われた。取り返しのつかないことをやってしまったと、今さら。
灰色のパーカーを羽織り、フードを深く被る。
いつもより重い扉を開けると、雫は見当たらなかった。いつの間にか止んでいて。
水玉模様の傘を置いて外に出る。
どんよりとした雲が頭上に広がっていたけど、気にせず。
「瑠衣くん、おはよう」
家の前で待っていてくれた瑠衣くんと合流する。空色を基調とした水玉模様の傘を差して。
そうしてどちらからともなく歩き始める。
小学生の頃から変わらない習慣。
瑠衣くんが待って、私は待たせる。待ち合わせの時間を破っているわけじゃない。
ただ、瑠衣くんの準備が早いだけ。
ただし、今はそれも雨の日限定。
「なんか久しぶりだな、こうやって一緒に登校するの」
「最近雨降ってなかったもんね」
だから嬉しい。そう思っているのは、多分私だけ。
「でも梅雨だからさ、これからは結構一緒に行けるんじゃない?」
「そうだね」
平静を保つのに必死だった。
一緒に学校へ行けることを、瑠衣くんも嬉しく思っているかもしれないって、期待して。
「にしても梅雨かぁ。もう中学入学してから二か月経つんだな」
「あっという間だった?」
「うん、めっちゃ充実してたから!」
「そっか……」
喜ばしいことなのに、心がモヤモヤする。陸上部のある部員を想像して。
「美姫ちゃんは、いじめとかされてない?」
「ううん、されてないよ」
されてない。でも、それだけ。
「そっか、よかった。同じクラスじゃないから、心配で」
「大丈夫だよ」
努めて笑顔を作る。瑠衣くんも控えめに笑みを浮かべた。
だけど知っているはず。いじめられてなくても、私が浮いていることは。それに昔のこともあるから。
少し微妙な空気になって、周りは雨とローファーが地面を踏む音しか聞こえなくなる。
空から落ちる重い雫がアスファルトに弾くたび、せっかくの貴重な瑠衣くんとの時間を無駄にしているような気分になった。
すぐ隣を歩いているはずなのに、やけに遠くに感じてしまうのはどうしてだろう。まるで瑠衣くんが何本も向こうの通りを歩いているみたいだった。
「水玉模様、好きだったっけ」
「え、あ。うん」
理解しきれてなくて、最初の返事がおかしくなる。ようやく私の傘のことだと気づく。
「雨みたいだなって」
「え。美姫ちゃん、雨好きだったんだ。知らなかったな」
幼なじみでも知らないことってたくさんあるんだね、と瑠衣くんは続ける。
知らないのが当たり前だよ、と心の中で呟く。
雨を好きになったのは、つい最近のことだから。
もっとお互い近くにいた、小学生の頃からじゃない。
「瑠衣くんは、雨好き?」
好きって答えてほしい。
「好きだよ」
「ほんとに!」
望み通りの返事に、驚きと喜びが混ざり合う。
「うん。雨降ったら、きつい屋外の練習なくなるから」
「そっか、陸上部って大変なんだね」
期待が膨らんだのは束の間のこと。あとは、収縮してなくなるだけ。
水たまりが陽射しで蒸発して空へ帰るように。
「そうなんだよ。少しでもタイム下がるとすぐ顧問が‘‘もいっかい‘‘ってさ」
「じゃあ、今日はラッキーなの?」
「うん、ラッキー!」
にこっと瑠衣くんが笑った。降りしきる雨を星に変えてしまうほど、眩く。
急に恥ずかしくなってきた。この傘を差すことが。
ぎゅっと持ち手を掴むと、傘の角度が変わって風が吹き込んできた。
下ろしていた背中までの髪がふわり揺れる。
「首、赤くなってない?」
「え」
風の拍子で乱れた髪をかき分けながら、指先が首の皮膚に触れる。恐る恐る撫でると、ぶつぶつとした感触が伝わってきた。
「ほんとだ」
「ゴム、持ってる?」
「持ってるけど……」
「結びなよ」
「え、でも」
「傘なら、持っておくから」
瑠衣くんが手を伸ばしてくる。
だけど持つ前にそれは離れていった。
私の指に当たったことで。まるで熱いものに触れたみたいに。
「ごめん」
「ううん。こっちも、普通に渡しちゃってごめんね」
持ち手の先端に熱を帯びた指を置く。今度こそは触れないよう。
さっきよりも速度を落として瑠衣くんが手を伸ばしてきた。
傘の受け渡しに次は成功した。瑠衣くんが受け取って、私が渡す。まるでバトンみたい。
傘の重みを失くした手で鞄から黒ゴムを探して、取り出す。
手首にそれを引っかけてから、両手で後ろ髪をひとまとめにしてゆく。
手櫛で膨れた頭頂部の髪を、乱れた眉下までの前髪を丁寧に整える。
時間をなるべくかけず、だけど少しでも良く見せるために。
黒ゴムで髪を結ぶ時、ふと瑠衣くんは何をしているだろう、と顔を上げたら。
「あ」
声と、それから視線が重なる。
昔から変わらない大きくて、二重瞼の瞳。その黒目は両方とも左へと流れた。
もしかしてこの一連の動作をずっと見てくれてた、なんて。そんなことあるわけないのに。
でも、嬉しい。
勘違いできることにすら、幸せを感じてしまって。
「じゃあね、美姫ちゃん」
「うん。ばいばい」
私の教室の前でお互い手を振る。
瑠衣くんの背中が小さくなってゆく。それだけならまだよかった。
「瑠衣」
遠くからでもしっかり響く声。その声の主が瑠衣くんに近づく。新井理代さん。
瑠衣くんと同じ陸上部。
スカートの裾は膝よりちょっと上で、髪は耳の先端にかかるくらいの短さ、整った顔立ち。
大人っぽいけど、私や瑠衣くんと同じ中学一年生。
瑠衣くんの顔の角度が変わる。こっちじゃなくて、新井さんのほう。
「あ、理代。おはよう」
呼び捨てだった。私はずっとちゃん付けなのに。
ずきっと胸の奥で変な音がした。ほどなくして、痛みが襲ってくる。
なら、逸らせばいい。見なければいいのに。だけど足は、心は教室へ向かわなかった。
さらに遠ざかる二人の姿。会話も聞こえない。
どんな話をしているんだろう。私たちの時みたいな、ぎこちない会話?
ううん、違う。そもそも呼び捨ての時点で、私は負けている。
二人の肩が小刻みに震えては、そのたび手を顔に近づけた。笑っている。いくら小さくなっても見えてしまう。
二人が同じ教室に入って、やっと私の足も動いてくれた。
席は、廊下側から二番目の一番後ろ。
窓が遠いから、せっかくの雨もじっくり眺められない。
中学生になったばかりの頃だった、雨を好きになったのは。
中学で陸上部に入った瑠衣くんは、朝練で早くに家を出てしまう。晴れの日も、曇りの日も。
だから雨を好きになった、水玉模様の傘だって買った。
理由は全部、瑠衣くんだった。
チャイムが鳴って、ホームルームが終わる。廊下が授業に向けてざわつく。
窓と反対側へ首が動いた。片手を上げて準備する。
来た。
上げた手を振る。思いっきりだと恥ずかしいから、遠慮がちに。
廊下を歩く瑠衣くんが、返してくれる。
胸が一気に熱くなって、たとえ通り過ぎても、温かいままで。
そのたび私は、自覚してしまう。
瑠衣くんのことを、幼なじみとして見れていないことに。
瑠衣くんに片想いしていることを。
やがて始業のチャイムが鳴る。高鳴った私の気持ちを冷ますように。
授業が長く感じる。集中しようにも、今朝のことが頭の中を回って余計に。
瑠衣くんと登校するのは、本当に久しぶりだったから。
『幼なじみでも知らないことってたくさんあるんだね』
何度も浮かんでしまうフレーズ。
知らなかったんじゃなくて、知れなかった。
私のほうが、そうだった。
今の瑠衣くんのこと、知れてない。
何を思いながら、私と雨の日歩いてくれるのか。新井さんと、どんな関係なのか。
分からない。
だからこそ、その空白を無理にでも埋めようとしてしまう。
瑠衣くんが、新井さんに気があるのかもって。
何の確証もないのに、頭の中で書いてみると、それが正解にしか見えなくなって。
私も、もし新井さんみたいになれたら。
明るくて、コミュ力があって、運動もできる完璧な女の子。私にないものを全て持っていて。
とても敵う相手じゃない。これといった取柄もない私じゃ。
だけど、もしそうなれたら、瑠衣くんの隣を歩けるのかな。短い距離感で話せるようになるのかな。
幼なじみじゃなくて、一人の女の子として。
だから、決めた。
新井さんみたいになろうって。
できれば、好きになってもらえるように。
屋根に雨が弾かれる。その音が私のいる一階の洗面所にまで届く。
昨日に続いて瑠衣くんに会える、なんてことはない。今日は休みだから。
決意に悩まされ、朝、お昼と過ぎて、今や夕方にまでなりかけている。
新井さんみたいになる、そのための一歩を踏むため、まずは見た目から変えようと思った。
背中まである髪を短く切って、新井さんのようなショートカットにしようと。
だけどなかなか実行に移せないでいる。
洗面所に来ては、自室に戻る。飽きるほど、その往復を繰り返していた。
切るために結んだポニーテールを掴んで、撫でる。
美姫ちゃんの髪綺麗だね、お姫様みたい。
そう幼い瑠衣くんの声が蘇るたび、迷ってしまう。私にとっても大切だった髪だから。
でも、同時に浮かぶのは、瑠衣くんと新井さんが親し気に話している様子。
鏡を改めて見つめる。昔と変わらない見た目。ただ背が伸びただけ。
やっぱり切らないと。いつまで経っても幼なじみとしか、きっと見てもらえない。
あの頃の誉め言葉は全部、幼なじみの私に向けたもの。女の子としてじゃない。
洗面所に置いてあるハサミに手を伸ばす。掴んだ瞬間、身体全体にひんやりとした感触が伝わった。
手が汗ばんでくる。指を動かすとチャキチャキ、とハサミの空気を切る音が鈍く聞こえた。
それをポニーテールの根元へ近づけ、一気に閉ざす。
バサッと一本の髪の束が洗面所の床に落ちるはずだった。なのに舞っているのは数えられるほどの本数だけ。
何回も挟むことでやっと切れた。頭が軽くなる。
新井さんみたいなショートカットができた、とはならなかった。
「なに、これ……」
一人でそう呟いてしまうほどの、ひどい容姿になっていて。
全部の髪の長さが違う。襟足も耳元も。
恐る恐る後頭部に触れると、変な感触が伝わってきて、すぐに指を引っ込めた。まるでお父さんの髭を触っているようで。
涙が出そうになる。それが私の後頭部に広がっていると思ったら。
自分で決めたことなのに、頭の中は既に後悔しかない。
こんなはずじゃなかった。鏡には、もっと綺麗な短い髪の私が映ると思ってたのに。
「ちょっと美姫、なにやってんのよ!?」
声の方に目をやると、お母さんがいた。帰ってきたことに気づきもしなかった私は、声も上げず、静かに驚くことしかできない。
床に落ちている一本の大きな髪の束。そして、悲惨な私の髪型。全部見られたくないものばかり。
「髪の毛切ってた」
「見ればわかるわよ。なんで?」
「……暑かったから」
我ながら適当すぎる嘘。好きな幼なじみに振り向いてほしかったから、なんて言えるわけない。
お母さんは小さくため息を付いた後、腑に落ちない顔で持っていた鞄を漁り始める。
「とりあえず、これで整えてきなさい」
お財布から何枚かのお札を抜いて、私に手渡してきた。遠回しに変だと、言われたようなもの。
「行ってくる……」
自分でも思ってたけど、人に思われるのとはまた違う。
切り離された今もなお、艶のある一本の大きな髪の束。持ち上げると、想像より重かった。
近くのごみ箱にそっと捨てたら、激しい喪失感に襲われた。取り返しのつかないことをやってしまったと、今さら。
灰色のパーカーを羽織り、フードを深く被る。
いつもより重い扉を開けると、雫は見当たらなかった。いつの間にか止んでいて。
水玉模様の傘を置いて外に出る。
どんよりとした雲が頭上に広がっていたけど、気にせず。



