「球技大会のチームは、所属している部活動と同じ球技に出場するのは禁止だ! サッカー部はソフトかバレー。野球部はソフトボール以外だ。バレー部はソフトかサッカーにしろ」
二階堂先生の大きな声に、みんなが一斉に口を噤んだ。僕もキュッと唇を噛む。
体育館の開け放たれた窓から熱風のような風が入ってくる。天井近くにある明かり取りの窓の向こうで日光が照り付けていて眩しい。今日も外はバカみたいに暑くて、午後からの体育館なんて蒸し風呂のようだ。
涼しくて毎日が楽しかった夏休みが蜃気楼みたいに浮かんで消える。
……戻れるものなら戻りたいよ。
吉野先生が亡くなり、ぼんやりしているうちに夏休みになった。
華道くんはそんな僕がほっとけなかったのか、「夏休みはずっとうちに居れば?」と言ってくれた。
いくつも部屋があったけど、寝るところは華道くんの隣。ベッドはキングサイズだったから、華道くんを蹴ることもなかったし、そもそもエアコンが寒すぎるくらい効いていて、寝相が悪くなりようがなかった。
華道くんはどうやら暑がりみたいで、僕はトレーナーを着て過ごしていた。
昼間は五冊もあるサマーテキストを必死に埋め、夜はゲームをして過ごした。一緒にお風呂にも入った。ふたりで湯船につかってジュースとかも持ち込んだりして、好き放題して楽しかった。
相変わらず華道くんの家族とは会えなかったけど、時々華道くんの携帯が鳴ってお母さんと喋ってるのを目撃した。
だから、ちゃんとコミュニケーションはとっているみたいで安心した。
それと週に三回、華道くんと一緒に合気道やキックボクシングにも通った。先生はとても優しくて、初心者の僕に丁寧に教えてくれたから、体を動かすのも楽しい経験になった。
それに遊園地の巨大なプールにも遊びに行った。夜は花火も上がってとてもきれいだった。
ゲームをふたりでクリアしたら、コンビニでお菓子をいっぱい買って映画を観た。ホラーは苦手だったけど、隣に華道くんがいたから悲鳴を上げながら楽しんだ。でもアクション映画が好きかな。派手だし、スッキリするもんね。
食事はふたりで協力して作った。華道くんにばかり作らせるのは申し訳ない。僕が作った目玉焼きを、華道くんは「いい焼き加減だ」と褒めてくれた。掃除も洗濯もふたりでやるとなぜか面白かった。
楽し過ぎて、一ヶ月があっという間で、ずっとずっと夏休みが続けばいいのにって本気で思った。
……ああ、暑い。信じられない、こんな暑いのに外でソフトボールとかサッカーとか……死んじゃうよ。もっと寒くなってからにすればいいのに。
僕の通う学校では、毎年九月末に球技大会が行われる。
種目はソフトボール、サッカー、バレーボールの三種目。
「今日のバレーのチームは出席番号順で決める。Aチームは一番から六番! Bチームは七番から十三番! Cチームは……」
ああ、また出席番号か……。
「先生、Aチームにバレー部かたまってますけど~」
誰かが手を上げて不服を申し立てた。
やった! シャッフルになったら、もしかしたら……!
そんな願いはあっけなくうち砕かれる。
「今日は練習だからいいだろう」
堂々とした体躯から放たれる声は横暴で問答無用な響きだった。それに対して異を唱える子なんてもちろんいない。
一番から六番の生徒の中に、バレー部に所属している生徒がたまたま三人固まっている。三人が顔を見合わせ「いえーい」とハイタッチした。他の生徒たちはざわつき、自分のチームを構成しているメンバーを確認しようと周りを見回す。
チーム分けの説明を聞いていた生徒たちの中でかすかに「まじかぁ」という不満げな声が零れる。ざわつきと、交わされる生徒たちの声の中で、僕はポツンと小さく体育座りをしていた。意識の中に飛び込んでくる建前の嘘と本音。
息苦しい……。
「おー、一緒じゃんよろしくー」
「わ~、一緒かよぉ」
テンション高く、楽しそうに笑顔でふざけたり励まし合う声。
表の声と同時に流れ込んでくる裏の声。
泥のような暗く重い空気。へらへらと笑って見せる笑顔の裏で舌打ちするような苛立ちと愚痴。たくさんの声とたくさんの嘘。
心と脳が圧迫される。
押しつぶされそう……。
『なーお、目ぇつぶってみ。ゆっくりと深呼吸するんだよ』
おばあちゃんの優しい声が聞こえる。
僕は結んでいた口を薄く開いて目を閉じ、誰にも気づかれないように深呼吸を繰り返した。数回深呼吸をして、意識を集中させる。
次にすべきことはわかってる。無心になる。無心。そう。これは僕の声じゃない。僕の感情じゃない。
僕はゆっくりと中心に向かって、僕の心を閉じていった。
「……の、……げの!」
遠くの方で微かに聞こえる誰かの声。僕はうっすらと目を開けた。
見れば二階堂先生がこちらを向き、呆れた顔で僕を見ていた。
二階堂先生だけじゃない。クラスの男子たちが反応しない僕を怪しむような表情で見ている。
「あ、……はい」
今の状況を理解して、やっと返事をすると二階堂先生が言った。
「なんだ、居眠りか?」
ドッと周りが笑う。
「先生、すみません。影野君、ちょっと貧血気味で」
いつの間にか隣に座っていた華道くんが僕の背中に手を添えた。
「今だいぶいいんですけど、さっき顔色がすごく悪かったんです」
ね? と優しく華道くんが僕の顔を覗き込む。
「あ、う、うん」
華道くんは先生からの信頼が厚い。ものすごく分厚い。極厚だ。二階堂先生にしてもそれは同じで、華道くんの嘘を「おお、そうか」と鵜呑みにしてくれた。
「影野、大丈夫か?」
二階堂先生が大袈裟な様子で聞いてきた。
でも僕には先生のイライラは丸聞こえだった。僕の反応が鈍いからだ。
「大! ……丈夫です」
これ以上怒らせたくない。僕はなるべく大きな声で返事をした。でも先生のイライラは収まらなかったみたいだ。
「そうか。無理しなくていい。今日は見学してろ。その代わり放課後に生徒指導室に来いよ」
二階堂先生は朗らかに微笑み、周りの男子たちは呆れるように笑った。
授業に身が入っていない生徒は、生活に乱れがあると判断され、二階堂先生に呼び出されお説教をくらう。僕もそのパターンだと笑っているのだ。
「呼び出しくらっちゃったね。大丈夫だよ。待っててあげるから」
華道くんが耳元でコソッと囁いた。
「うん。ありがとう」
大丈夫。僕には創くんがいてくれる。
僕は授業の間、体育館の隅で膝を抱え、シューズの足先だけを見つめていた。遮断した外側で、体育館シューズがあちらこちらでキュッキュッと鳴いている。二階堂先生が指示の怒号を上げ、ボールを打つ音が左から右から際限なく響いた。
僕とは関係のない世界が目の前で淡々と過ぎていく。床にバウンドしたボール音。生徒達の歓声。ピーッと鳴る笛。それは全て、薄い膜の向こう側にあった。
「直生」
すぐそばで聞こえる鮮明な華道くんの声に我に返った。視線を上げると、バレーのネットの周りに生徒はひとりもいない。二階堂先生の姿もない。とっくに授業は終わっていたようだ。
「創くん……」
声の方へ顔を向ければ、華道くんが見下ろし微笑んでいる。
「次は音楽だよ。僕達も着替えよう」
華道くんの手がスッと差し出される。指が長くて大きな手。いつも、ひとりぼっちで取り残される僕の存在を気にかけてくれる。
差し出された手に口角を上げ、手を重ねると、華道くんはしっかりと握り直して僕を引き上げてくれた。
「行こう」
制服へ着替えて音楽室に向かう。そう、今日は音楽がある。待ちに待った時間。鼻歌が今にも飛び出てしまいそう。
華道くんが無表情な顔で言った。
「嬉しそうだね」
「え、そうかな」
僕はニコニコを抑えようと頬に力を入れた。
「面白くないね」
低い声でボソッと呟く華道くんに、聞き返した。
「え?」
「別に」
華道くんはプイッとそっぽを向いて教室から出て行ってしまった。
僕は、何だったんだろうと小首をかしげ、スタスタと歩く華道くんの後を追いかけた。
音楽室に着いてからも、華道くんの様子はどことなくいつもとは違って素っ気ない。違和感を感じていたけど、松田先生が音楽室に入ってくると同時に違和感のことはすっかりどこかへいってしまっていた。
「はーい。じゃあ今日はここまで。来週の全体練習は録音しようと思ってます。パートに不安がある子は言ってくれたらCD貸すから職員室まで取りにきてね?」
和やかな時間が終わり、女子生徒と雑談をしていた松田先生が「影野君!」と声をかけてきた。教科書を抱え教室を出ようとしていた僕は、パッと振り返り足を止めた。
「は、はいっ」
先に教室を出ていた華道くんも廊下で立ち止まった。松田先生が微笑みながら手招きしてる。
「先生、呼んでるから」
僕の言葉に華道くんがかすかに頷く。音楽室へ戻ると松田先生が近づいてきて耳打ちしてきた。
「二階堂先生から呼び出されたんだって?」
「えっと……はい……」
松田先生の耳打ちに顔が熱くなってしまう。緊張しつつ返事をすると、松田先生は同情するように苦笑した。
「さっき二階堂先生から伝言されたの。今日は職員会議があるのね? もうあと十五分くらいで始まるんだけど、一時間ほどで終わるから待っているようにって。宿題とか教室で済ませておいたらどうかな?」
松田先生が優しく提案してくれる。
用事があっても、生徒指導を明日に持ち越すつもりはないらしい。二階堂先生の強引さに落胆した。
廊下で待っていてくれた華道くんに、ポソリとさっきの伝言を伝えた。
「二階堂先生、職員会議があるけど一時間で終わるから待ってろ……だって」
「そう? じゃあふたりで宿題でもしよう」
華道くんは特に気分を害した様子もなくサラリと言う。
なんとなくだけど、この返答は予想通りだった。
華道くんは「じゃあ、別行動にしよう」という判断を、僕相手にしたことがないから。
今日は二限目に数学の授業があり、宿題もしっかり出ている。数学も苦手な教科のひとつだ。
「わからないとこ、教えてもらっていい?」
「もちろん」
「ありがとう」
僕が素直にお礼を言うと、華道くんはにっこり微笑んだ。
◇ ◇ ◇
ショートホームルームが終わり、みんなが我先にと教室を出て行く。
僕はそれを見送りながら溜息をついた。
体育の授業中、ドッと流れ込んでくる周りの人たちの思考を断ち切るため、意識をシャットダウンしていたら体育教師の二階堂先生から注意を受けた。華道くんが体調不良だってフォローしてくれたから軽い注意で済んだ。
でも呼び出しをくらってしまったのはきっと……普段から、目をつけられてしまっていたからだと思う。二階堂先生からしたら、授業中の僕の態度は最悪レベルなんだろう。
誰もいない教室で座っていると、トイレに行っていた華道くんが戻ってきた。「ちょっとお腹痛いから先に宿題してて」と言われていたんだ。時計を見ると、華道くんが教室を出てから、かれこれ二十分近く過ぎている。
「お腹平気?」
華道くんは「あ、うん」と頷き、一度はカバンにしまった数学のノートやペンケースを机に出して微笑んだ。
「じゃ、やろうか」
妙に嬉しそうな表情。よっぽど腹痛がきつかったんだろうか。
今日は職員会議。なので、部活動もお休み。いつもどこかしらで聞こえてくる元気なかけ声や、笑い声、廊下を走る音もない。校舎の中は、とても静かだった。
窓の外からは、相変わらず蝉の鳴き声が響いてる。せわしない音に混じり、ひぐらしの鳴き声も聞こえてきた。その音すらだんだん音と認識できなくなる。
静かだ……。まるでこの世界に、華道くんと僕のふたりしかいないみたい。
窓の外の水色の空から、隣の華道くんを見る。
長い睫毛に真っ直ぐに伸びる高い鼻筋。クッキリしっかりした男顔なのにすごく綺麗。ノートに向かって問題を書いてる華道くんの横顔をじっと見つめた。
……変な感じ。
ずっと遠い存在だった。ううん。別世界の人だったのに。突然おしゃべりするようになって、助けてくれたり、もてなしてくれたり。どんどん仲良くなって、夏休みには兄弟みたいに過ごした。それで今、こうして隣にいる。わざわざ僕の居残りにまで付き合ってくれて。不思議な人だ。心の声が聞こえてこないからだけじゃない。行動も雰囲気も全部。なのに、いつの間にか僕にとって、華道くんの隣が一番安心できる場所になっているんだよね。
華道くんが僕の手元を覗き、長い指がトンとノートを指さした。
「この問題は、この公式を当てはめると簡単に解けるよ」
僕が問題を解けず途方に暮れてると思ったのか、華道くんがヒントをくれた。
ハッ! まじまじ見つめてたからだよね。気を遣わせちゃった。申し訳ない。
「そ、そっか。ありがとう」
僕は慌てて頷き、シャーペンを走らせた。華道くんが丁寧に教えてくれる。
「文章問題って、要はどれをどこに当てはめればいいかだけだから。どんな長文も同じ」
「うんうん。文章問題ってだけで構えちゃってた。当てはめるだけと思えば単純に感じられるね」
「そう、わりとワンパターンだよ。その公式があるってわかってさえいれば、どんな物事も単純明快」
華道くんの言葉にコクコク頷く。「単純」という言葉が好きだ。毎日、相手の顔色を伺って、複雑な感情に振り回される僕だから、単純でいたい。それだけが僕の願いだった。
明るかった空が徐々に変化していく。
ふたりで黙々と宿題をこなしていると、手元が見えにくいことに気づいた。薄い水色は、いつの間にか色を深め、藍色へと変わりつつある。黒板の上にある時計は六時を指そうとしていた。華道くんも顔を上げる。
「もうそろそろなんじゃない?」
「そうだね」
「いってらっしゃい」
華道くんがヒラヒラと手を振る。
本当に終わるまで待っててくれるつもりなのかな? こんな時間だし、申し訳ないな。
僕の心配をよそに、華道くんは立ち上がる素振りも見せず、ニコニコ顔で見送ってくれた。「先に帰ってもいいよ」と言っても、きっと華道くんは自分のしたいようにするんだろう。僕は何も言わずに、そのまま教室を出た。
静まりきった薄暗い廊下を歩いて、階段を降りる。
生徒指導室は一階にあって、これ見よがしに保健室の前にある。療養する場所の目の前に指導部屋があるって。無言のストレスをかけてるなって前から思ってた。
「…………」
階段を下りて左手に保健室はある。
夏休みが明けて、今は新しい保険の先生が来ている。僕はあれから保険室には一度も行ってないから、新しい先生は朝礼の時に遠くの方から見ただけで名前も忘れてしまった。
保健室の前を通るとやっぱり気が沈んでしまう。
吉野先生はいい先生だったから……。
保健室にも人の気配はなかった。職員会議が終わり、他の先生はもう全員帰ってしまったみたい。それなのに、僕はこれから説教だ。
はぁ……。
心の中で重い溜息をひとつ落とし、生徒指導室のドアに手をかけた。
ドアには小さな窓がついていて、部屋の中に二階堂先生の姿が見えた。ファイルを開き、なにか書き込んでいる。
生徒指導室は六畳くらいの広さしかない。先生用のスチールデスクと椅子。あとは壁にくっつけてある細長いテーブルがひとつ。それだけだ。そんな狭い空間で、二階堂先生と対面するなんて……それだけで十分な罰になってると思う。
僕は唾をゴクンと飲み、俯いてコンコンと小さくノックをしてみた。「おう。入れ」という太い声にそろりとドアを開ける。
静かな校舎に、カラカラと乾いた音が響いた。
