一ヶ月前。
六月に入った頃、入院していたおばあちゃんが病死した。
それから、僕はおばあちゃんの部屋にずっと入れずにいた。思い出がたくさん詰まっているからだ。けど、華道くんと仲良くなって少しずつ前を向けるようになってきた。
先週、おばあちゃんの部屋に入って掃除しようと思い立った。祖父は相変わらずお酒ばかりでほったらかしだったから、僕がやってあげなきゃって思ったんだ。
おばあちゃんの部屋には三面鏡とタンスくらいしかなかったけど、窓を開けて掃除機をかけた。その時にタンスの一番下の引き出しが少し開いていてアルバムを見つけたんだ。きっとおばあちゃんはしょっちゅうこのアルバムを見ていたんだと思う。閉まりきらない引き出しにそんな感じがした。
おばあちゃんのアルバムをめくると、若い頃のおばあちゃんとお母さんがいた。僕が生まれる前なんだろう。お母さんはすごく若くて、とても綺麗だった。
それでふと思ったんだ。誰かに似てるなって。
それが、音楽の松田先生だった。
音楽教師の松田ひとみ先生。年齢ははっきり知らないけど、他のおじさん先生に比べてかなり若く見える。二十代ではないだろうけど、そんなことは関係ないと思わせる可愛らしさ。
合唱に力を入れていて、課題曲を三ヶ月かけてみっちり練習させる。ソプラノ、アルト、テノールなどに分かれパート練習をしている時、クラスメイト達はみんな歌に集中し、雑念は一切流れてこない。だから僕も気兼ねなく、授業に取り組めるから、音楽の授業は比較的好きな方。
それに松田先生は美人なだけじゃなくて、性格も穏やかで誰に対しても優しい。先生から伝わってくる感情も音楽を心から愛する純粋な気持ちで心地いい。僕だけじゃなくて、クラスメイトの誰もが松田先生を慕っているように見えた。
そんなわけで、アルバムのことがあってからは更に、音楽の授業が僕にとって癒しの時間になっていた。
今日の授業は全体練習だったから、みんなの歌声に合わせつつ僕もアルトをしっかり歌い切った。松田先生も「うんうん」と嬉しそうだったから余計に楽しくなった。
三限目の音楽の授業が終わり、余韻に浸っていた僕はハッと我に返って一気に憂鬱になる。
四限目は体育だ。
体育の時間は苦手。そもそも運動自体が苦手なんだけど、そうじゃなくて……。体育の先生が怖い。二階堂先生が苦手なんだ。
僕がどんくさいから先生をイラつかせてしまうのかもしれない。
生徒からこっそり「ゴリラ」と呼ばれる二階堂先生。
顔がゴリラに似てるということじゃない。太い首、僧帽筋と呼ばれる、首の付け根から肩にかけて盛り上がる筋肉のせいで妙になで肩に見えるシルエット。発達した大胸筋でピンと張り、シワひとつないポロシャツ。丸太のような腕。八つに割れた腹筋と、野球選手のように盛り上がったお尻と、太くて頑丈な下半身。全身を覆う見事な筋肉に加え、百九十を優に超える身長。二階堂先生はまるで山のような体型だ。
クラスのみんなの「ゴリラ」呼びは、なにをどうしたとしても勝ち目がない相手に対しての畏怖を表した呼び名だった。
ただでさえそんな感じなのに、声も大きくて重低音。話し方も威圧感がすごい。僕の最も苦手なタイプ。授業も基礎訓練を重視する。だから、目立たなくしていればいいというわけにもいかない。
今日はバレーボールのレシーブの授業だった。ひたすらレシーブ。
中学生の頃の体育では友達と組んですることが多かった。その時は友達なんていなかったから、僕は最後に余った人とするか、先生とするか。
そんな僕にやっと華道くんという友達ができたのに、二階堂先生はいつも名簿順に組ませる。影野と華道では絶対に組めない。
僕と組んだクラスメイトは僕がレシーブを上手に受けられないし、返せないから、ずっと苛立っていた。
ピーッ! 先生がホイッスルを鳴らす。
やっと終わったとホッとした時だった。
「影野!」
ひっ!
大きな声で呼ばれ背筋が跳ねる。何事かと思ったら、僕の他にも四名の名前が呼ばれ後片付けを言い渡された。
体育館のあっちこっちに飛び散っている大量に使用したボールの回収や、ネットの片付け。
体育委員でもない理不尽な選出に、みんな口には出さないけど二階堂先生に不満がいっぱいだった。四人は結託して二組ずつ組み二面コートのネット外しに取り掛かる。
僕はやっぱりひとりでボールを拾うことにした。
彼らがそう願ったから。
久しぶりの孤独。「ボールはアイツに任そうぜ」「ゆっくりやろうぜ。ゆっくり」そんな声がずっと体育館の中で響く。
四人はコートを片付けると、早々にいなくなってしまった。
「はぁ……」
ひとりぼっちなんてもう慣れたものだって思っていたのに……。
華道くんと過ごす楽しい時間を知っちゃったせいか、前よりずっと辛かった。
隅に転がった最後のボールをカゴへ戻し、倉庫へ押したり引っ張ったりしてなんとかしまった時に授業が終わるチャイムが鳴った。
もう昼休みだ。みんな着替え終わって、お昼を食べているころ。
どうしよう。もうトイレで着替えるしかないよね……そうはいっても、着替えを取りに教室に入らなきゃだし。
頭に浮かんだのは、教室に入った途端に向けられるたくさんの視線。
体ぜんたいに、ズドンと重力がかかる。
「うっ……」
急激な吐き気に口を押さえた。
ダメだ……。制服取りに行くだけなのに……。
ワシワシワシと蝉の鳴き声が聞こえる。
耳鳴りみたいで気が遠くなった。
体育館から、ひんやりした校舎へ入る。
教室へ続く階段を昇れなかった。足が保健室へと向いてしまう。
コンコンとノックすると「どうぞぉ〜」と中から吉野先生の声が聞こえ、少しだけ気持ちが軽くなった。ドアを開けると、僕を見るなり吉野先生が「いらっしゃい」と言った。
「久しぶりだね。休んでいくかい?」
「すみません」
「謝ることはないさ。保健室は休んだり、治療したりするところなんだから」
吉野先生の変わらない態度に”良かった”と心の中で呟いた。お辞儀してベッドの方へ行こうとしたらまた声をかけられた。
「影野くん。お昼は食べたかい?」
「え……」
「A組は四限目が体育だったでしょ。良かったら、一緒にどうだい?」
そう言って、吉野先生はコンビニの袋からおにぎりを取り出し、僕を手招きした。
さっきまで吐き気を感じていたはずなのに、急にお腹が減ってくる。静まり返った保健室に、くぅぅ〜と情けない音がした。
わっ! とお腹を押さえたところでもうバレバレだった。
「決まりだね。こっちで食べよう」
吉野先生はコンビニの袋を持って丸テーブルに移動した。
「鮭とこんぶどっちがいい? チーズかまぼこもあるよ」
「じゃあ、こんぶで」
「うん」
テーブルに着くと、昆布のおにぎりとチーズかまぼこを一本をくれた。
「ありがとうございます……いただきます」
華道くん以外と食事するのは初めてだ。
吉野先生は食事中、チーかまの種類がいろいろあることを教えてくれた。ビールに合うのは枝豆入りやレッドペッパ―だとか、他愛のない話をした。
僕のことは特に何も聞いてこない。
食事を終えると、吉野先生はポケットから四角い定期入れを取り出した。先生にしたら可愛らし過ぎるピンクと金色の金具がついたもの。
「影野くんにお願いしてもいいかな?」
「お願い……ですか?」
「うん。これをね。音楽の松田先生に渡してもらいたいんだ」
「はぁ」
「いやぁ、偶然たまたま廊下で拾っちゃってね! ないと帰りも困るだろうし。僕も渡しに行ってみたんだけど。留守でね。僕もだけど、職員室にもあまりいないみたいだし」
吉野先生は「ハハハ」なんて軽く笑いながら、すごく早口で話した。
チーかまの話とは声のトーンもスピードも全然違っていた。先生らしくない。「大丈夫だよね? バレてないよね?」とそわそわした心の声がした。吉野先生は穏やかな人だし。普段あまり心の声は聞こえてこない。そんな先生から聞こえた声がいつもの先生とは違っていてちょっと嫌だった。
「わかりました」
「そう? ありがとう。助かるよ。あ、松田先生がね」
「はぁ……」
吉野先生の笑顔が見られなくて、ピンク色のケースへ視線を落とした。
「放課後前には届けてあげてくれるかな?」
「……はい」
先生が何かを誤魔化しているのは明らかだけど、その何かは僕には関係のないことだろう。
「それで、休んでいくかい?」
いつものように無理強いしない言葉だったけど、吉野先生のソワソワは消えないまま。
僕も早く保健室を出て行きたくなってくる。
「いえ、もう大丈夫です。五限が始まる前に着替えなきゃいけないし」
「そうだね」
保健室を出て教室へ向かう間も、トイレでの着替えも、五限の授業も、なにも気にならなかった。ただ僕の頭の中はずっと、モヤモヤだけが支配していた。
このモヤモヤは一体なんなんだろう?
吉野先生はいい先生だし。ずっと居心地も良かった。そんな先生と初めてお昼ごはんも食べた。楽しかったのに……。
ポケットの中の定期入れを触りながら思った。
やっぱり、なんだか嫌だ。松田先生がお母さんと似ているからだろうか。それとも、僕の知らない吉野先生だったから?
五限目の終わりのチャイムが鳴る。
席を立つと華道くんが近づいてきた。
「大丈夫?」
「あぁ、うん。僕、ちょっと行ってくるね」
放課後前ってことは、六限前のこの休み時間しかない。
憂鬱な気持ちで音楽室に向かった。
廊下を歩いているとピアノの音が聞こえてきた。静かでゆっくりと流れる可憐で優しい音色。とても耳心地のいい綺麗な曲。
教室を覗くと、松田先生がピアノを弾いていた。
窓から差し込む午後の光。いつもは閉じられている窓が開いているのか、ふわりとレースのカーテンがなびく中で、大きなグランドピアノを弾いている先生はまるで絵の中にいるようだった。
さっきまでのもやもやは跡形もなく消え、ただ息をするのも忘れてずっと見ていたいと思った。
でも、その願いはあっけなく終わってしまう。
ふと松田先生と目が合った。先生は柔らかく微笑んでくれて、ピアノの手を止めてしまった。
小さく手を持ち上げ、おいでおいでと手招きする。
僕は小さくお辞儀して、音楽室へ足を踏み入れた。
「どうしたの? 影野くん」
松田先生が名前を呼んでくれた。
教師が生徒の名前を呼ぶことなんて、当たり前のことなんだろうけど。僕にとっては特別なことだった。担任の先生でもちょっと考えないと思い出せないみたいだし。僕をちゃんと呼んでくれる先生は、保健医の吉野先生と体育の二階堂先生くらいだった。二階堂先生はどんくさい僕がやたら目につくようで名前を覚えたんだと思う。
松田先生はいつも優しいけど、名前を直接呼ばれたのは初めてだった。
「あ、あの……これ」
ポケットの定期入れを差し出すと、松田先生は目を丸くした。
「あら、どこでこれを?」
「保健の吉野先生が拾ったみたいです。先生に渡しておいて欲しいって言われて」
松田先生が両手を持ち上げる。定期入れを受け取るものだと思った。
「そうなのね。拾って届けてくれたのが、吉野先生とあなたで良かったわ」
あっ!
先生の手がふわりと僕の手を包み込んだ。白くて細くて、長い指先。ひんやりとした手。
長い睫毛の中の綺麗な瞳が真っ直ぐに僕を見つめる。
「影野くん。ありがとう」
僕は目を離せなかった。
◇ ◇ ◇
翌週の音楽の授業。
僕は始まる前からウキウキソワソワしていた。
華道くんに「行こう」と声をかけたらビックリされたくらいだ。
「ご機嫌だね」
音楽の授業が終わり、生徒達がゾロゾロ教室から出ていくなか、華道くんが僕の耳元でコソッと耳打ちした。
ニヤニヤしている華道くんに「そうかな」なんて返事をしたけど、僕自身、頬っぺたが上がっていることに気付いていた。
ふたりで笑っていると「影野君」と背中で可愛らしい声がした。振り返ると、窓際に立っている松田先生が小さく手招きしている。ドキンと胸が鳴った。
「影野君、ちょっとお願いしてもいい?」
華道くんが僕の腕を小さく小突いた。
「先に戻ってるよ」
「へ、あっ、うん」
思いがけなく松田先生から声をかけられ、急いで先生のもとへ。
「ごめんね? ここのレコードを一番上の棚に移動させてほしいの」
小首を傾げ「お願い」と両手を合わせる。松田先生の愛らしい仕草にドキッとしてしまう。
古い茶色の棚には、大判サイズのレコードがぎっしり並んでいた。たまに松田先生がレコードをかけて生徒へ聞かせるのだ。
松田先生は僕より小さいから、一番上の棚に移動させるのはたしかに大変かも。
僕は快く「はい」と返事をした。
レコードを手に背伸びして棚へ入れていく。入れながら、ふと思った。
隣に華道くんもいたのに、先生はどうして僕に声をかけたんだろう。
華道くんはクラスの代表で目を引くばかりではなく、僕よりもずっと背が高い。手伝いを頼むなら誰もが華道くんの方に声をかけるだろう。
「先生ね、一度、影野君と話してみたかったの」
不意に松田先生が僕の横に立ち、囁くような小さな声で言った。
レコードを棚に入れていた手がピクッと止まり、カーッと全身が熱くなる。
すぐ隣にいる先生を見ることもできなくて、固まったまま目線を下げた。
は、なし……はなしってお話? なにを?
はわわわっと混乱していると先生の心の声が脳を直撃した。
『ああ、思ったとおりの反応だわ。なんて可愛らしいのかしらっ!』
思いがけない声が何度も頭の中でクルクルまわる。
ぼ、僕が、可愛らしい?
ますます顔が熱くなっていく。うまく呼吸できず、ドキドキと打つ心臓の音が耳から聞こえた。
恥ずかしさと、戸惑いに顔が上げられない。
「影野君て無口だけど、熱心に歌ってくれるでしょ? それがとても嬉しくて。あ、変なこと言ってごめんね? 困っちゃった?」
僕はプルプルと小さく首を横に揺すった。
『ふふ。まるで、怯えるウサギちゃんね。食べちゃいたいっ!』
また先生の心の声が飛び込んできて、体が竦んだ。恐怖とは別の緊張。
僕はキュッと体を締めながら、目をぎゅううと瞑った。
「直生ぉ、終わったぁ?」
突然、華道くんの大きな声が音楽教室に響いた。いつもよりもずっと砕けた口調で名前を呼ばれ、張りつめていた糸がプツッと切れる。僕はハッと我に返った。
「あら、華道君、ごめんなさいね。あとはもう大丈夫よ。ありがとうね!」
松田先生が明るい声で言って、僕の背中をポンと叩いた。僕は松田先生と距離を取りながら慌ててペコッとお辞儀して、逃げ出すように華道くんへと駆け寄った。
ああ、びっくりした……。
まだ心臓がバクバクしてる。
華道くんと歩きながら、僕は火照る頬を両手で押さえた。
「なんか顔が赤いね? 松田になんか言われた?」
そう言った華道くんの顔つきが険しい。ちょっと怒ってるみたい。
なぜか悟られちゃいけない気がして、僕は慌てて顔を横に振った。
「なにもっ、言われてないよ」
声がひっくり返った。でも華道くんは気付いてないみたいだった。
「ふ~ん」
華道くんの顔は険しいままだったけど、それ以上はなにも言われなかった。
昼休みになり、僕が鞄からコンビニのパンを取り出した時だった。
僕の前の席に、華道くんがこっちを向いてドカッと座った。
いつもより動作が荒々しくてちょっとびっくりした。
不機嫌な華道くんなんて珍しい。どうしたんだろう? と、僕は首を傾げた。
「食欲ないから、食べてくれない?」
華道くんの手料理の腕前を知ってるし、いつもお弁当は豪華だ。
僕が期待して蓋を開けると、弁当の中身は彩り豊かで、とても美味しそうだった。想像以上だ。
「美味しそう! いいの? ありがとう」
「いいよ。元々一緒に食べるつもりだったし……」
「あ、でも、ちょっとは食べた方がいいよ? こっちのクリームパン食べる?」
「うん。パンちょうだい」
「じゃあ、交換ね。いただきます!」
なんとなく元気がないように見えた華道くんだったけど、僕がお弁当を「美味しい」と何度も褒めるうちにいつもの華道くんに戻っていった。
掃除が終わり、午後からの授業を受ける。
ショートホームルームも終わって、華道くんとふたりで廊下を歩いていると、ふと保健室にかかっている『不在です』と書かれたプレートが目に入った。
そういえば、朝通った時にもプレートがかかっていたよね?
珍しいな。どうしたんだろ。
保健室には、先週行ったきり。
吉野先生からおにぎりを分けてもらい、松田先生のピンク色の定期入れを渡された時……。
それまでは、僕がいつ行っても吉野先生は保健室にいた。不在を知らせるプレートがあったことも初めて知ったくらいだ。
保健室のプレートを見送っていると、華道くんが言った。
「どうしたの?」
「あ、うん。吉野先生、朝もいなかったんだよね」
「そうなんだ。まぁ、先生もたまには有給を使うよ。身内に不幸があったかもしれないし」
華道くんは興味なさそうな表情で言った。
僕とふたりで話していて、僕が他の誰かのことを話題に出すと、華道くんはよくこういう顔になる。心の底から興味がないという顔。いつものことだった。教室ではなかなか出さない表情。
「うん……」
そんなときもある……よね。
頭ではわかっていても、スッキリしなかった。
◇ ◇ ◇
翌日、目を覚ました時、一番に浮かんだのは吉野先生のことだった。
今日は来てるかな?
期待と不安を胸に学校へと向かう。
たった一日不在なだけ。なのにどうも気になって仕方がなかった。
ただいつもの笑顔で挨拶してくれる吉野先生を見れば安心できる気がした。
学校へ着き、逸る気持ちで上履きに足を突っ込み保健室へ急いだけど、プレートはまだかかったままだった。
「そんな……」
一気に不安が押し寄せた。「身内の不幸かも」と言っていた華道くんの言葉を思い出し、それならしばらく休むかもしれないのか……と思い直した。忌引き休暇というものがあるらしいし、だとすると一週間くらい休むことになる。それでも嫌な不安は消えない。
僕は沈んだ気持ちのまま、トボトボと教室へ向かった。
教室はいつもと同じ空気だった。華道くんが僕を見て「よ」と軽く手を上げる。
僕はそれに頷いて席へ着いた。
しばらくしてチャイムが鳴る。すぐに担任の鈴木先生が入ってきたけど、妙に重苦しい雰囲気を纏っている気がした。いつもと様子が違う。
なにかあったんだろうか?
胸騒ぎに、僕は眉をひそめた。
「えー、ショートホームルームに入る前にみんなにお知らせがあります。保健の吉野先生がお亡くなりになりました」
一気にざわめく教室。いつもなら他人の心の声が入ってきて、パニックになり体調を悪くするところだ。でも、衝撃が大きすぎて心の声も話し声も、なにひとつ聞こえてこなかった。ただ亡くなったという言葉だけが頭の中でこだましている。
「……告別式のようなものはないとのことで……」
鈴木先生の言葉が無機質に流れていく。
「直生」
肩にポンと手が乗り、振り向くと華道くんだった。
「あ……」
気が付くと教室には先生どころか、誰もいなかった。
華道くんが立っているだけ。
「帰ろうか」
「え?」
……あぁ、もう放課後なんだ。
窓の外では蝉の音にまじり、運動部のかけ声が響いてる。
まだ青い空をボーッと眺め、また華道くんへ視線を戻した。華道くんは急かすわけでもなく、僕を眺めてる。ちょっとだけ眉が下がってた。見上げていると、華道くんの唇がゆっくり動いた。
「一緒に、帰ろう」
「うん」
ふらふらと歩いて、気が付いたら住宅街の横に流れる小さな川べりに辿り着いていた。
草の上に腰を下ろして、ボーッと川の流れに目を向ける。
どうしてみんな死んでいくんだろう……。
隣に誰かの気配がして振り向くと、華道くんが静かに横に座った。
「……創くん」
「うん」
華道くんはなにも言わない。ただ隣にいてくれた。
僕はそのまま、また川へ目を向けた。二人並んで座り、何も話さないままゆっくり時間が過ぎていく。
どれくらい経ったのだろう。
僕はいつの間にか頭の中の声をもらしていた。
「人ってけっこう、あっけないよね」
「そうだね」
静かな声が返ってくる。
「みんな、死んでいくんだ。お母さんも、猫のみーちゃんも、おばあちゃんも、先生も。年齢とか、関係なく……僕は生きてるのに、親しい人は死んでしまうんだよね」
「だから、生きてることに感謝しなきゃね。ラッキーだと思うよ」
華道くんの言葉に、僕は顔を上げた。
ラッキー? 僕はラッキーだったのか。あの晩、華道くんがあとをつけてきて、話しかけてくれたから生きているのか……。
「……僕も、僕はなぜ生きてるんだろうって考えたことあるよ」
「創くんも?」
華道くんの横顔を見ながら、頭を過ったのは華道くんのお兄さんのことだった。
もしかして、お兄さんは亡くなってるのかな?
前はいたけど、今はいない。てっきり生き別れだと思っていたけど、……僕と同じ?
「でも、直生と友達になれたし。生きててよかったなと思う」
「うん……僕も」
「ね」
華道くんが微笑んで頷いてくれた。
一度は死のうと本気で考えていたのに、華道くんと友達になれて目の前の世界がいろいろ変わった。不安や戸惑いや恐怖しかなかったはずが、楽しみや喜びが増えていっていろんな感情を経験できた。
今、生きているのも、生きていられるのも華道くんのおかげなんだ。
