友達はサイコパス


 まただ。

 教室へ入った途端、悪意やからかいの視線とともに感情が流れてくる。
 僕は落ち着きたくて、口内の飴を気付かれないように舌の上で転がした。
 なるべく気にしないよう努めて、窓際の机にたどり着く。
 机の中からビニール袋が顔を出しているのに気が付いた。なんだろうと出してみると空き缶や、お菓子の包装紙、むしった草まで入っている。あからさまな嫌がらせに飴の味も消えた。

 華道くんはもう、学校で話しかけてこなくなった。なのに、イジメは日に日にエスカレートしている。暴力とまでは呼べないような地味な嫌がらせ。この嫌がらせは華道くんの前では決して行われない。

 今までとは違う孤立。
 これまでは自分で選んだ透明人間としての孤独だった。孤独だったけれど、安全だった。今は、教室にたくさんの生徒がいるのに、ひとりだと感じる孤独。全員が敵。
 これ以上エスカレートしたら……。
 ゾッと背筋が冷たくなった。

 引っ張りだしたビニール袋に机の中のゴミを掻き出してゴミ箱へ捨てに行く。
 嫌がらせをしているのに、クラスの誰ひとり僕に視線を送らない。ニヤニヤして見ていれば、きっと華道くんに気付かれてしまうからだ。
 みんなの声が聞こえているけど、誰がやったかわからない程たくさんの嘲りがあちらこちらで聞こえてきて、犯人なんてわからないし、わかりたくもない。

『影野君と友達になりたいと思っているのかもね』

 僕は吉野先生の声を思い出していた。
 友達という言葉になぜか惹かれてしまう。知らずに視線が華道くんへ向いていた。途端に、むき出しの感情だけが突き刺さってくる。

『なに見てんのよ』
『うっざ』
『チクったらぶっ殺す』
『被害者面でもするつもり? 華道君を無視したくせに』

 慌てて華道くんから視線を逸らす。矢のように飛んでくる負の感情に耐え切れない。
 僕は自分の席へ戻らず教室を出た。

 先生、先生、先生っ!

 僕の足は保健室へと駆けだしていた。

 もう嫌だ。リセットしたい。落ち着かなきゃ。

 そう思って向かった保健室。でも、その扉の前で足が動かなくなってしまった。
 保健室の中から聞こえてくる声。吉野先生と女の人の声。その可愛らしい声が音楽教師の松田先生の声だとすぐに分かった。男子に人気がある綺麗な先生だ。ドアの向こう側で楽しそうに話す二人に、ノックしかけた手が居場所を失くした。
 お腹の上でその手をギュッと握る。

 ここは、だめだ。

 行き場がなくて、しかたなく重い足を教室へ向けた。
 歩いていると、「あ、いた」という声が頭の中で聞こえた。目を上げると、同じクラスの男子三人が肘を突きあいながらヒソヒソ話している。僕は慌てて回れ右をして走った。

 どこに逃げればいい? 保健室はだめだし、いっそ職員室に……。

 考えていると、目の前にいきなり黒い影が現れた。
 ぶつかる! と思ってギュッと目を閉じたらガシッと両肩を捕まれた。
 ひっ!

「おっと!」

 飄々とした声。背後でバタバタと走ってきた足音がピタリとやんだ。
 そろりと顔を上げると、華道くんだった。大きな手が守るように僕の背中に回る。

「廊下を走っちゃいけないよぉ」

 華道くんは僕から男子たちへ視線を向けると、微笑んでいたその顔が一瞬にして豹変した。スッと瞼が下がり細くなる視線に、空気の温度が急降下した気がした。蔑むような冷たい眼。まるで知らない人みたい。
 初めて見る表情に僕は息を飲んだ。

「君たち、ひとりを寄ってたかって……。失望した」
「いや! 俺たちは別にっ、なにもっ!」
「僕の目を節穴とでも思っているんだね」
「そ、そんなわけ! 違うんだよ。華道君、影野が……」

 オロオロした声に思わず振り返ると、背中の温もりがスルリと腰へ滑って僕を引き寄せた。体の側面が密着する。

「直生は、僕の大事な友達だ。友達をイジメるのは僕が許さない」

 ──トモダチ

 はっきりと華道くんの口から聞こえた言葉。驚きと同時に、なにかほわほわとした感覚に包まれた。体に回った手はずっと僕を守るように離れない。

 なんだろう……この妙に落ち着く感じ。

 他人に触れられることが、こんなにも安心できるなんて思ってもみなかった。
 感情はやっぱり流れてこないけど、クラスの男子が怯むほどのすごみは感じ取れる。

 華道くん、本気で守ろうとしてくれてる……。

 三人は項垂れたまま顔を見合わせると、僕をジッと見た。

「ごめん」
「悪かったよ」
「もうあんなことしない」

 思いがけない謝罪に、ビックリした。机にゴミを入れたのも、この三人だったみたい。

「もう二度としないね?」

 華道くんの硬い声に三人は「しないよ。約束する」と言い、また「本当にごめん」と謝ってくれた。
 でも、ホッとするよりも僕は戸惑ってしまってた。だって、彼らの謝罪に嘘がなかったから。華道くんに注意されたから形だけのものならば、心の声が不満を上げるはず。なのに、そう言った声は全くしなかった。華道くんの態度がよほどこたえたのか、僕への敵意は微塵も感じない。ただただションボリと気落ちしてしまっているだけ。

 三人の姿が消えるのを呆然と見送っていると、華道くんが腕を解きニコッと笑った。

「さあ、僕達も教室へ戻ろう」
「うん。あ、あの……ありがとう」

 僕がお礼を言うと、華道くんが情けない表情になった。

「あれは、きっと僕のせいなんだよね? 僕こそ謝らなくちゃ」
「う、ううん。いいんだ。助けてもらったし」
「チャラにしてくれるの? ありがとう」

 無邪気で、心から嬉しそう。
 心の声は聞こえなくても、気持ちのいい笑顔に見えた。
 華道くんに友達だと言って貰えたことがとても嬉しくて、僕は思わず会話を続けた。

「あの、こないだ……放っておいてなんて、酷いことを言ってごめんね」
「僕こそ! 突然で驚かせたよね。今日は……どう? 一緒に夕飯」
「うん……」

 僕は照れくささと嬉しさでムズムズする唇を結び頷いた。

「良かった! じゃあ今日は一緒に帰ろう! 約束ね」

 華道くんが小学生みたいに小指を差し出す。

 えっ……と、……。

 一瞬驚いたけど、僕は少しドキドキしながら差し出された小指に指を絡ませた。
 初めての指切りはちょっとくすぐったくて、温かかった。


◇ ◇ ◇


 華道くんの家は隣町にあった。
 高級な住宅街が建ち並ぶ地域。築何十年かわからない僕の家とは比べようもないほど大きな家が並んでいる。その中でも一際大きな家の前で華道くんが足を止めた。

「ここだよ」

 その高い塀と立派な門構えの奥に建つお屋敷を見上げて、ポカンと口が開いてしまう。

「親はまだいないから、気楽にして」
「うん、お邪魔します」

 玄関ドアを開けると出迎えたのは、見上げる程高い吹き抜けだった。天井からぶら下がる豪華なシャンデリアがキラキラ輝いている。広すぎる玄関の左手には、二階への階段。あとは奥へ通じる長い通路。

 豪邸ってこういう家のことなんだ……。

「どうぞ」

 用意してくれたスリッパに足を入れるとスリッパなのにふかふかの弾力。
 思わずその場で足踏みをしてしまった。
 僕がスリッパの感触を味わってるうちに、華道くんは長い廊下をスタスタと歩いて行ってしまう。

「こっちだよ~」
「あ、うん!」

 慌てて華道くんを追いかけ白いドアを潜る。
 そこは大きなリビングダイニングだった。
 白い壁、壁いっぱいのテレビ、シャンデリア、落ち着いた色彩のソファセット。それとは別で色とりどりの一人がけソファがあちこちに置いてあった。リビングというより、パーティールームみたいだ。

 続くキッチンも綺麗でとっても大きい。カウンター越しの作業台は広々としているのに、物がひとつも置かれていなかった。なにもかもピカピカだ。

「すごいお(うち)だね」
「そうだね」

 華道くんはまるで他人事(ひとごと)のように相槌を打つ。
 それが妙に気になった。ただでさえ真意を掴めない華道くんの言動。でも恐怖じゃなくて、好奇心をくすぐってくる。

「華道くんのお家なんだよね?」

 当然のことを尋ねる僕に、華道くんがクスッと笑う。

「一応ね」

 なんだか皮肉っぽい響き。でも気持ちはわからなくもないかな。
 僕も祖父の家に暮らしているけど、できれば帰りたくないっていつも思ってる。実際、家にいても落ち着かないし、泊まりにでも来ているような感覚がするから。僕も他の人から同じように尋ねられたら「一応」って答えるかもしれない。

「母がもらったんだ。慰謝料としてね」

 慰謝料……。華道くんの両親は離婚したのか。

「そう……なんだ」

 視線だけで辺りを見回す。本当に大きな家。なのに、誰も迎えに出てこない。こんなにも広くて豪華なのに、住んでいるのはお母さんと二人だけなのかな……。

 少し物悲しくもあり、なんとなく感じる親近感。
 変だけど、ホッとするような温かい感情だった。

「好きにしてて」
「うん」

 好きにと言われても、こんな豪邸でどうすればいいかわからない。部屋をぐるりと見渡して、やっぱりくつろげるはずもなく、立ち尽くしたまま華道くんを眺めた。

「座りなよ」
「あ、うん」

 なんだか緊張するな。
 僕は近くにあった一人掛け用ソファに、ちょこんと浅く腰を下ろした。

「どうぞ」
「ありがとう」

 華道くんが用意してくれたチョコレートを一粒掴んで口に入れる。
 とても甘くて濃厚な深い味。普通のチョコなんかと比べ物にならないくらいの甘味が口の中だけじゃなく、頭の中にも広がっていくよう。

 美味しいな〜。
 僕はもう一粒口に入れた。
 華道くんって王子様スマイルだけじゃなくって、本当のお金持ちだったんだね。

「あ、直生の親御さんに夕飯は要らないって連絡しなきゃね」
「ううん、大丈夫。うちはご飯一緒に食べたりしないから」

 華道くんの顔が真顔になった。
 ......あ。そっか、不思議に思っちゃうよね。
 僕は、慌てて理由を付け足した。

「僕、祖父母と暮らしてたんだけど、おばあちゃんが死んじゃって……。今は祖父だけなんだ。いつもお酒を飲んでるし、お互い勝手に食べてるから」

 華道くんが微笑む。

「じゃあ、遠慮なく僕の料理を腹いっぱい食べてもらおう」

 華道くんは料理に自信があるようだ。でも……。
 金曜日に見た、赤いスポーツバッグを思い出した。
 料理って……きっと、鳩だよね……。

 ここまで来てしまったけど、僕は別に鳩が食べたくて来たわけじゃないんだよね……だって、やっぱり可哀相だし。でも、鳩も鶏と同じ鳥なのには変わりないんだよね……。鶏は食べても良くて、鳩だけ同情するのは、へん……だよね。
 そう思いながらも、公園で歩いている姿が目に浮かんでくる。
 いつも一緒に公園で晩御飯を食べてた。コンビニで買った菓子パンだ。パンくずが落ちるからか、僕が行くと頭をひょこひょこ動かして、そばに寄って来てくれたっけ。

「うっ……」

 急激に吐き気が込み上げてきて、僕は両手で口を抑えた。

 こんな、豪邸で。ダメ! せっかく華道くんが料理してくれるって、華道くん、僕を友達って言ってくれてるのに!!
 耳の奥でキーンと甲高い音が鳴る。
 き、気持ち悪い……。クラクラする。
 頭の中に映像が、声が、文字が次々に浮かび上がる。

「はぁっ、はぁ、はぁ、はぁっ、はっは……っ!」

 サイコパス。
 宙を舞う羽毛。
 当てつけに揃えられた革靴。

『死ぬの?』

 突き刺さる視線。
 重そうな赤いスポーツバッグ。
 ネコのみーちゃん。
 机の中のゴミ。

『影野君と友達になりたいと思っているのかもね』

 ばあちゃん。母さん。指切り。約束。
 鳩。ハト。はと。鳩鳩鳩鳩鳩鳩鳩鳩っ!

 ぐにゃっと視界が歪み、ゆらりゆらりと景色が揺れる。
 あぁ……。あれ……暗くなってく……ばあちゃ……ぅ……。
 とうとう目の前が真っ暗になってしまった。
 指一本、動かない。体が引っ張られる。沈んでいくみたい。
 
 僕、消えちゃうのかもしれない……。……華道く……ん……。



 ぼやんと、白くぼやけた視界の中で何かが聞こえる。
 ばあちゃんの手の感触。カラスの鳴き声。オレンジ色の空。
 そうだ、僕はばあちゃんと手を繋いで家へ帰るんだった。ここは、いつも通るあぜ道。
 また、かすかな音がした。耳を澄ますとその音は鳴き声だった。道路脇の畑から聞こえてくる声。

「ばーちゃん、なにかないてるよ。すごくこわがってるよ」
「ん~? おや、子猫の声やね」
「ネコ?」

 ニーニーと聞こえる細い鳴き声。
 その声は僕の心を落ち着きなく掻き立てた。
 どんどん不安になっていく。薄暗くなってくる景色。お腹がしぼんで苦しい。
 なにがなんだかわからない。ただただ寒くて怖い。

 鳴き声は、畑の奥にある小さなぼろぼろの小屋から聞こえてくるようだった。
 僕はばあちゃんから手を離して、畑と畑の小さなへこみに足を踏み入れた。

「気ぃつけて」

 背中で聞こえるばあちゃんの声に黙って頷いた。
 怖いという思いを押さえつけて、小屋の中へ足を入れる。
 弱々しい鳴き声は一瞬止んで、すぐにまた鳴き声をあげた。さっきより激しい鳴き声は「はやくはやく」って僕を急かす。
 鳴き声を辿ってガラクタを避けながら進んだら、錆びたトタンの裏側に段ボールに入った小さな黒い猫がいた。真っ黒の毛に、緑色の目がキラリと光っている。僕を見上げる目は可愛らしくって、子猫は僕を頼るように見つめ「フニー」と鳴いた。

「ばーちゃん」

 僕に追いついたばあちゃんが小屋に入ってきた。
 ばあちゃんは子猫を見て「かわいいねえ」と目を糸のように細め微笑んでくれた。段ボールからそっと子猫を持ち上げ、胸に抱えたら、子猫も糸目になった。綿毛のような頬をスリスリと僕の指に擦りつけてくる。小猫はびっくりするほど柔らかくて軽くてフワフワして温かかった。

「直生と友達になりたがっとるね」

 ばあちゃんの言葉に僕は「うん!」と頷いた。



 優しい手が僕の前髪を流す。そして、そっと頭を撫でてくれる。
 あったかい……気持ちいい……。ばあちゃん?

「ばぁ……ちゃ……」
「目、覚めた?」

 そっと目を開けると華道くんがいた。僕を見下ろし、綺麗に微笑んでくれる。

「華道くん……」
「大丈夫かい?」

 そう言ってハンカチを出し、僕の目頭と頬にハンカチを当てた。
 なんだろう?

「おばあさんの夢を見たの?」
「あ、うん」

 また頭を撫でてくれる。

「あの、僕……」
「ソファから倒れたんだよ。きっと心因性のストレスだと思う。よほど辛かったんだね。気付いてあげられなくてごめん。直生は頑張ってきた。もう心配しなくていいんだよ。僕は直生の味方だから。ここに敵はいない。学校でも、直生のことは僕が守ってあげる。だから大丈夫。もう直生はひとりぼっちじゃないんだ。だって、僕らは友達だろ?」

 ともだち──

「もう泣かなくてもいいんだよ」

 そっか、僕、泣いてたのか。

「ね。大丈夫」
「うん」

 僕はどうやらソファからずり落ちていたみたいで、華道くんが抱き起こしてくれていた。床に落ちてしまったお尻はひんやり冷たいけど、支えてくれる腕もくっついている胸もとてもあったかい。
 頭を撫でてくれた華道くんの優しい手が、僕の頭からほっぺたにおりてきた。
 頬を包む手のひら。親指で今度は小さく頬を撫でてくれる。親指の付け根部分が、撫でられるたびに下唇に触れた。
 全ての感触が初めてのものなのに、なぜか心地よくて、気持ちいい。
 華道くんの声も手も、まるで魔法みたい。どんどん気持ちが落ち着いて、穏やかになってくる。

「さぁ、ご飯を食べに行こうか。起きられるかい?」

 撫でてくれていた手が離れていく。その手が惜しくなった。

 あぁ……。

 そう思った時、華道くんは綺麗に微笑んで、僕の背中を支えていた手にグッと力を入れた。頬を撫でていた手が膝裏に入る。

 えぇ?

「よっと」
「わ」

 体が浮く感覚にびっくりして華道くんの肩を思わず掴む。
 僕はそのまま、お姫様がされるようなだっこスタイルで持ち上げられた。

「では、ディナーといたしましょう」
「華道くん……」

 本当の王子様みたい……こんな人、本当に存在(いる)んだ……。
 すごいって感動でいっぱいになった僕はポーッとしながら「うん」と頷いた。

「意外と力持ちなんだね」

 ありがとうも言わず、間抜けな僕の感想に、華道くんはニヤリと笑った。
 これは王子様の微笑みじゃなくて、悪だくみの笑顔。いたずらっこみたいなやつだった。

「実戦で鍛えてるからね」

 じ? じっせん……?
 変な言い回しをどう解釈したらいいのか迷った。想像できる意味を僕は一生懸命絞り出した。

「なにかスポーツとかしているってこと?」

 華道くんは口元だけで上品に微笑んだ。

「まあね」
「そうなんだ。華道くんって部活なにしてるの? 僕、帰宅部だから部活動のことよくわかんないんだけど。僕を軽々抱えちゃうんだもんね」

 いつもよりずっと近い距離でおしゃべりするのは、なんだか緊張というか、どうしていいかわかんないっていうか、照れくさいっていうか、でも特別な感じもして……僕、今、ワクワクしてる?

「部活じゃなくて、個人で習ってるんだよ。空手、剣道、合気道、ボクシング……」
「すごい! そんなにいっぱい? どうりで! 華道くん、格闘家だったんだね。カッコいいね!」
「ありがとう。はい。到着」

 おしゃべりしている間にいい匂いがして、ダイニングテーブルに着いてしまっていた。テーブルいっぱいに美味しそうな料理がたくさん並んでいる。

「うわぁ」

 声を上げた途端、匂いで目覚めたのか僕のお腹がクゥ~と情けない音を上げた。
 そろりと降ろされ、華道くんが引いてくれた椅子に座る。華道くんは水の入ったピッチャーみたいなものを持ってきてグラスに注いでくれた。

「無理しないで、食べられそうなものだけ召し上がれ」
「うん!」

 色鮮やかなサラダ。黄色に映える赤いケチャップのかかったオムレツ。チャーハンに……鳥肉っぽいお肉の塊。薄く切ってあって、赤みのあるソースがかかってる。もうひとつは見た目は普通のから揚げだった。僕はゴクンと唾を飲み込んだ。

「すごいごちそう、こんなの見たことないよ」
「口に合うといいけど」

 華道くんが向かい側の席へ回り座る。
 テーブルにはうさぎの形をしたかわいい箸置きに、真新しい竹の箸がセットされていた。馴染みのない箸置きに一瞬戸惑った。
 目に入るもの、耳で聞く話、そのひとつひとつが新鮮で、華道くんと自分の違いを思い知らされる。

「いっぱい作ったから遠慮なく食べてね」
「うん、どれも美味しそう。いただきます」

 箸置きの上にある箸を少しドキドキしながら手に取る。

「サラダを取り分けるよ」

 華道くんはトングを掴み、サラダを小皿へ乗せると横にから揚げも乗せた。

「どうぞ。あぁ、チャーハンはスプーンが必要だね」

 小皿を僕の前へ置き「失礼」と立ち上がる。自分の前に置かれた小皿を見つめた。色鮮やかなサラダの上に、カリカリに揚がったきつね色の美味しそうなから揚げは大ぶりでゴロンとしている。華道くんがスプーンを手に戻ってきた。

「どうぞ」
「ありがとう」

 クゥ〜、キュルル〜とお腹が悲鳴を上げている。
 華道くんが席に着き、唐揚げを美味しそうに頬張った。

「…………」

 生唾が出る。
 僕も取り分けてくれた小皿を手に取り、いい香りの唐揚げに「えい」と噛みついた。
 その瞬間、ブシュッと僕の口の中で肉汁が噴射する。すごく濃厚な肉の味がした。弾力もあってマッチョな感じ。ニンニクと生姜がとっても効いている。

「すごくおいしい!」

 頬っぺたの中に、まだ唐揚げが残っていたけど、思わず言葉が飛び出してしまった。華道くんが微笑む。
 本当に、美味しい。普段食べている唐揚げとは全然違う。そう思って、あ。と思い出す。
 そっか、これ、鶏じゃないんだった。

「あの、これって……ハト?」

 から揚げを見つめたままボソッと尋ねる僕に、華道くんが平然と答えた。

「そうだよ」

 そして、みるみる嬉しそうな表情になる。

「気に言ってもらえて、よかったよ。鳩料理は下処理や調理法がとっても難しいんだ」

 下処理……。

 初めて廃ビルの屋上で話しかけられた時も、華道くんは『人が死ぬところ、まだ見たことないんだ』と言っていた。人が、ということは、他はあるということ。それは彼自身が鳩を手にかけているということ。そう漠然と思いながら、なぜかな? 不思議と前みたいな恐怖は感じなかった。
 唐揚げもすごく美味しいし。
 笑顔で食べる華道くんを見ていたら僕も嬉しくなって、楽しい。

「これは今朝、獲って絞めたのだから、フレッシュだよ」
「そうなんだ。うん、美味しい」

 僕はプリッとしたから揚げを箸で掴んで口へ入れた。
 美味しさが口いっぱいに広がる。
 一般的に食べつけているか、そうじゃないか。肉屋さんが処理をしたものか、自分でしたものか。それだけの違い。美味しいものを料理して食べることに違いなんてないんだもんね。
 鶏だってペットとして飼っている人だっているかもしれない。食用に飼育されている鳩だっているかもしれないんだ。命を美味しく、感謝していただく。それが正解なんだ。
 華道くんは小首を傾げ、興味津々な様子で見守ってくれている。僕はモグモグと口を動かし味わうように咀嚼した。やっぱり弾力がすごい。大空を飛び回っているからかもしれない。

「直生は面白いね」
「面白い?」

 キョトンとする僕に、華道くんが嬉しそうに言った。

「鳩を食べるなんて! って拒否反応が全然ないから」
「うん、初めて食べたよ。華道くんは鳩料理が好きなの?」
「フランスではレストランで食べられるんだよ? 若鳩のローストとかね」
「へぇ〜、そうなんだ。美味しいもんね。もう一個もらってもいい?」
「どうぞどうぞ。気に入ってくれて嬉しいよ」

 華道くんが料理を取り分けてくれて、自分の皿にも取り分けるとナイフとフォークで上品に切り分け口へ運んだ。
 唐揚げもナイフとフォークで食べるんだぁ。僕もやってみよう。
 華道くんに習って、箸からナイフとフォークに持ち替える。

「直生はいつからおじいさんと二人暮らしなの?」
「ばあちゃんが死んでからだよ」

 優しかったばあちゃんの顔がふと浮かんだ。
 ばあちゃん、僕が友達の作ったご飯を食べたなんて知ったら、きっと喜んでくれただろうな。

「そうなんだ。じゃあ寂しいね」
「……仕方がないよね。生きてる以上、いずれはみんな死んじゃうし」

 ”仕方がない”この言葉は本音だった。
 母子家庭で僕を育ててくれたお母さんが死んで、僕を引き取り、愛してくれたのはばあちゃんだった。祖父もいたけど、冷たい人で僕に興味も愛情も全く示してはくれない。家にほとんどいないし、いつもお酒を飲んでる。深夜に酩酊して帰ってくるのは毎日だった。たまに珍しく早く帰ってきた祖父と居合わせることがあった。祖父はすごく嫌そうな顔で僕を見下ろし、舌打ちをした。その感情が初めて感じた恐怖だった。祖父は僕に対し常に苛立ち、煙たがっていた。押し付けられた面倒事だと実際に言っていた。
 僕にとって心の拠り所はばあちゃんと猫のミーコだけだった。
 祖父に内緒で、ばあちゃんと一緒に庭で飼っていた子猫は大きくなって元気になった。でもある日、道路に飛び出し車に轢かれあっけなく死んでしまったし、最愛のばあちゃんもこのあいだ他界してしまった。
 僕が心を通わせた大好きな人たちはみんなもう亡くなっている。
 幼い頃から僕にとって、死も孤独もとても身近であたり前のものだった。

「直生とは気が合いそうだね」

 嬉しそうな表情の華道くんに僕は頬を持ち上げ頷いた。

「華道くんの料理。チャーハンも、オムレツもすごく美味しい」

 僕は用意された食事をペロリとたいらげた。
 食事の後、華道くんはケーキと紅茶を出してくれた。
 久しぶりに食べ物でお腹をいっぱいに満たした。

 結局、十時過ぎまで華道くんの家で過ごした。だけど、最後まで華道くん以外の誰かの気配を感じることはなかった。

「また学校でね?」

 門まで見送ってくれた華道くんが微笑む。相変わらず心の声は何も感じ取れなかったけど、とても満ち足りた気分がした。こんなに長い時間を誰かとゆっくり過ごしたのは久し振りだったし、楽しかった。

 本当に、華道くんと友達になれたのかもしれない。
 そう考えて気付いた。普通の人は、相手の考えていることは分からないもの。だからわかってしまう僕はその輪には入れないけど、華道君となら僕も普通の人になれる。

 もしかしたら、僕が友達になれるのは、彼だけなのかもしれない。