友達はサイコパス

◇ ◇ ◇


「影野君どう? 教室、戻れそう?」

 吉野先生の声だ。布団から顔を出したら、カーテン越しに先生の影が見えた。
 いつの間にか眠っちゃったみたい。

「……あ、はい……。大丈夫です」
「そうか、良かった。お茶飲んでいきなさいね」
「ありがとうございます」

 カーテン越しのまま言って、吉野先生は保健室から出て行った。
 また辺りがシンと静まり返る。

 急に飛び出してきちゃったけど、誰も気にしてなきゃいいな……。
 前みたいに、透明でいたい。

「ふぅ」

 ため息をついて起き上がった。
 布団を整えカーテンを開けると、対話用の丸テーブルの上に、陶器の湯呑に入った熱いほうじ茶が用意してあった。吉野先生が言ってたお茶だ。
 パイプ椅子に座ってゆっくりお茶をすすると、肩の力が抜けてホッとする。この熱さが、わざわざ自分のために用意したものなのだと知らせてくれる。先生のさり気ない優しさに少し安心できた。

 時計を見上げると、二限目が終わったところだった。
 校舎全体から賑やかな空気が振動して伝わってくる。

 ……今のうちに教室へ戻ったほうがいいか。

 とぼとぼ歩いて教室を覗くと、その風景はいつも通りだった。

 このまま誰にも気づかれないように入ってしまえば……。

 息を殺し静かに自分の席を真っ直ぐ目指す。

「あ、直生」

 背後から華道くんの声がしてビクッと足が止まる。

 ああ……また……。

 急速に空気が薄くなり、筋肉が締まっていく。
 振り向きたくない。
 なのに華道くんは、容赦なく僕の前へ回り込んでパアッと笑顔になった。

「よかった。鈴木先生から体調が悪そうだと聞いてたから。顔色良くなったね」

 嬉しそうな声。まるで友達のように話しかけてくるけれど、やっぱり発せられた言葉の音だけだった。
 心の声はなにも聞こえない。
 彼の目も同じ。感情がなにも映し出されてない。何もかもをただ吸い込み、無にしてしまうブラックホールのように、真っ黒な瞳。その目に囚われたように体が動けなくなる。
 目を見ちゃダメだ。
 僕はヒュッと息を吸い、目をギュッと瞑った。
 華道くんを避け自分の席を目指す。
 いつの間にか静まり切った教室に、僕だけに聞こえる声がポツポツとあがり、それがだんだん騒がしく響き始めた。

『感じわる』
『なによアレ』
『華道君を無視するなんて何様なわけ』
『信じられない』
『あんなのほっときゃいいのに』
『薄情者』
『わきまえろっつーの』

 どんなに耳を塞いでも聞こえてくる。みんなの視線が僕に向いている。こんな状態で飴なんて取り出せない。重い空気と淀んだ息苦しさの中で、僕はただ震えないように体を強張らせることしかできなかった。

 早く、早く始まれっ!

 教室のドアが開き、先生が入ってきた。

「起立」

 みんなの悪意がプツッと途切れる。
 耳からいつも通りの音が聞こえだし、そろりと目を開けた。誰もこちらを見ていないことを確認して立ち上がる。華道くんも前を向いていた。

 ……良かった。

「はい、よろしく。あー、昨日の続き、教科書何ページだ?」

 先生の声をBGMにして、緊張がゆっくりと解けていく。

 やっぱりもう透明人間にはなれないのかな……。僕はこれからどうすればいいんだろう。

 離れた席の華道くんを眺めた。
 遠くから眺めるぶんには怖いなんて感じないんだけどなぁ。
 明るい声とは裏腹の虚無の瞳。さっき見た華道くんの目を思い出し、ゾッとして教科書へ視線を落とした。
 保健室で後悔したばかりなのに、もう華道くんを怖いと感じている。自分も他の子たちと同じ。理解できないから怖い。僕は華道くんと同じ立場で、みんなとも同じ。僕の思考が華道くんに伝わらないことだけが救いだ。


 考えていると、いつの間にか授業が終わっていた。
 僕は挨拶が終わるなり慌てて教室から出ようとした。今できることはなるべく教室にいないこと。ひとりになること。 
 その時、背中にドンと鋭い衝撃が突き刺さった。肘鉄を食らって、つんのめる。危うく転倒しそうになった。

「あ、わりぃ。見えなかった」
「存在感ゼロだしな」

 クスクスと嘲笑があちらこちらから広がる。僕は歯を食いしばって道を譲った。嫉妬の入り混じる悪意が脳内にどんどん入り込んでくる。早く教室から出なきゃ。わざと背中を突いたクラスメイトをやり過ごし、教室から出ようとすると、今度は足を引っかけられた。

「うあっ」

 硬い床に膝を打ち付けるのと同時に、上半身が廊下へ飛び出す。

「きゃっ」

 廊下を歩いていた他のクラスの女子が眉をひそめ僕を見下ろした。
 焦りと恥ずかしさ。内側から発せられる熱で、頬にあたる冷たい廊下の温度が一瞬にしてわからなくなった。

「だっせぇ」

 教室から笑い声と大声が攻撃してくる。
 僕はわたわたと立ち上がり、そのままトイレへ駆け込んだ。個室に飛び込み、両手をギュッと握る。
 小学校の頃の記憶が次々に浮かんでくる。
 やっぱり始まってしまった。目立ったら絶対こうなる。だからずっと静かにしてた。誰とも関わらなかったのに。どうしよう……もう、きっと止まらない。華道くんのせいだ。なんでだよ、なんで話しかけてきたんだよ!

 予鈴のチャイムが鳴る。
 行かないと。授業が始まってしまう。ギリギリで教室へ入れば、大丈夫かもしれない。
 次のチャイムが鳴るのは五分後。僕は時間が来るまで個室で待つことにした。
 ……そろそろかな?
 個室を出て、手を洗う。

「あ、いた。探したよ」

 突然の声に顔を向けると、華道くんがひょこっと廊下から顔を出している。
 えっ……。
 僕は目を見開き固まった。
 華道くん!

「今日、一緒に夕飯どう? さっきは……」

 僕はブンブンと首を振った。

「い、行かない……もうやめて、ぼ、僕に話しかけないで……」

 華道くんはキョトンとした表情になった。

「なんで?」
「な、なんでって、見てたでしょ? ……困る、から……」

 華道くんほどの人間であれば容易に察しがつくはずなのに、無垢な表情で首を傾げてくる。無感情のせい? それとも本当にわからないの? 判断がつかないよ。

「とにかく、僕のことは放っておいて。お願いだから」

 華道くんから目を逸らし、一気に言い切ってトイレを出た。
 ポケットからイチゴミルクの飴を取り出し、急いで口に含み教室へ向かった。


◇ ◇ ◇


 やっと終わった。

 六限目の授業が終わり、僕はよろよろと立ち上がった。
 いつもなら、みんなが教室からいなくなるまで待ってから教室を出る。でも、今日は授業が終わった瞬間に、教室から逃げ出しトイレに引きこもるのをずっと繰り返していた。気を張りっぱなしで疲れ果て、眠くてしかたがない。
 華道くんはトイレで「放っておいて」と言ってから、話しかけてこなくなった。ホッとはしたけど、罪悪感に苛まれた。

 華道くんは僕と仲良くなろうとしてくれていたのに……。
 相変わらずなんの感情も流れてこないけど、たぶんそうだと思う。華道くんに心がないのなら、傷ついていないのかも。……なら、罪悪感を感じなくてもいい? そう考えはしても、自分が吐き出した言葉が胸に突き刺さる。

『なんでそんなこと言うの?』

 小さい頃の僕の声が聞こえた。
 あんなに言われて辛かったのに。そんな僕が誰かに言葉のナイフを投げつけてしまうなんて。
 ふらふら歩いていると、「影野君?」と背後から名前を呼ばれた。振り返ると吉野先生だった。
 僕の顔を見て、吉野先生が少し眉を下げる。

「大丈夫? 体が斜めになってるよ?」
「先生……」
「保健室で休んでいくかい?」

 辺りを見回し、誰もいないことを確認して小さく頷いた。
 学校が終わっても、ゆっくり休める場所なんてない。家には常に苛立ちを抱えた祖父がいる。

 吉野先生と一緒に保健室へ向かう。

「僕は音楽を聞きながら書き物をするから、好きにしてていいよ」

 吉野先生は白衣のポケットからイヤホンを取り出し両耳へ入れた。
 保健室に来ると、先生はいつも気配を消してくれる。それが心地いい。
 先生の背中へ会釈して、ベッドへ上がり横になる。
 疲れた体はあっという間に眠りに落ちていった。



 ふと、いい香りが漂ってくる。
 どれくらい眠ったのか、先生の声で目を覚ました。

「影野君、紅茶は好きかい?」

 窓の外は水色がうっすらと夕焼けに染まっている。ベッドからのろのろと起き上がり、仕切りのカーテンから顔を出すと、先生がティーポットを持ち上げ微笑んでいた。

「おはよう。だいぶ顔色が戻ったね」
「……ありがとうございます」

 丸テーブルには紅茶の入ったティーカップとクッキーが用意してある。

「よかったらどうぞ」

 先生はスチールのデスクに座ったまま紅茶をすすった。「ふー」と満足気に吐きだされた吐息には「あぁ」と悦びの声も混じっていた。紅茶の香りを心から楽しんでいるのが伝わってくる。おばあちゃんと縁側で草餅を食べた時のような感覚。穏やかな空気に気持ちが軽くなる。プラスの感情に慰められるのは、おばあちゃんを亡くして以来かもしれない。

「いただきます」

 僕はパイプ椅子に腰を下ろし、柔らかな香りの紅茶をゆっくりすすった。
 口内にひろがる優しい風味に、美味しいと心から思った。
 しばらく無言のまま、ふたりで紅茶を楽しむ。

「今日は、いつもより元気がないみたいだね。なにか悩みがあったりする?」

 先生の尋ね方はまったく押しつけがましさがなくて、心の声はなくても穏やかな気持ちが感じられて、僕はいつの間にかコクンと頷いてしまった。

「そうか……、よかったら教えてくれる? 影野君が話したくないなら無理しなくていいよ」

 先生の声も、表情もとても心地がいい。

「クラスの人気者の人に話しかけられてしまって……でも、僕、そういうの望んでなくて……関わって欲しくなくて……静かに過ごしたいから、僕には無理で……」

 小さな声でボソボソと話す言葉を、先生は急かさず何度も頷きながら聞いてくれた。

「そうかぁ。だから疲れちゃったんだね」
「……はい」
「なんて話しかけられの?」
「晩御飯を食べにおいでって」

 食事に誘われるだけでも気が引けるのに、その晩御飯も普通の材料じゃないし……。たぶん、僕じゃなくても抵抗はあるだろうけど。さすがに吉野先生にそこまで言えない。

 先生は目を丸くして「へぇ」と感心したように頷いた。

「その子、影野君が賑やかなのが苦手だと分かってたから、家に誘ったのかもしれないね? 家だったら、ふたりでゆっくり会話できるし。ほら、今みたいに」

 先生の言葉に顔が上がる。

「今、みたい……に?」
「そう。雑音って言ったら悪いけど、教室じゃあどうしても落ち着いて話せないでしょ。その子、影野君と友達になりたいと思っているのかもね」
「トモ、ダチ……」

 意外な言葉に一瞬頭が真っ白になった。

 華道くんが僕と友達に?

 僕の人生の中で友達は幼い頃に拾った子猫のみーちゃんだけだった。そのみーちゃんももう、何年も前に交通事故で亡くなっている。それ以降、友達を持ったことがない。
 黙り込んでいると、先生は「ふふ」と微笑みながらティーカップに口をつけ言った。

「ちょっと勇気がいるけど、今度誘われたら付き合ってみてもいいんじゃない? 一回付き合ってみて、やっぱりダメだと感じたら、次からは断ればいいんだし」

 穏やかな先生の声にまた、僕は知らないうちに頷いていた。