友達はサイコパス


「はぁ……」

 体が重い。すごく重い。
 僕はズルズル歩きながら、鉛のような頭を持ち上げ、そびえたつ校舎を見上げた。

 結局あの日。あの日とは、華道くんと初めてまともに会話を交わした日のこと。
 僕は屋上から飛び降りることもできず、脱いで揃えた靴を履いて帰宅した。
 華道くんは興味津々な表情でそんな僕の一部始終をただ眺めていた。「帰るの?」と聞かれて、僕はしぶしぶ「うん」と頷いた。華道くんは「じゃあ僕も、帰ってこいつを調理するよ」と重そうな……たぶん、鳩を入れたスポーツバッグを持ち上げて優雅に微笑んだ。
 もちろん、その微笑みと一緒に華道くんの感情は流れてこなかった。
 まるで仮面のような微笑みだった。
 綺麗だったけど……。
 あの鳩……食べちゃったのかな。どうしてそんなことするんだろう。なにを考えているんだろう。

 僕は初めて人の考えている事を知りたいと思った。
 頭の中は華道くんでいっぱいだった。僕自身の声で。
 そのおかげで、もう祖父しかいない暗い家に帰ることも、玄関の音にビクビクすることもなく過ごせた。ずっと彼のことを思い出し、考えていたんだ。

 そして月曜日。僕は今、学校の前にいる。
 ここはいつもうるさくて、すごくしんどい。朝は特にネガティブな感情が津波のように押し寄せ、僕を押し潰そうとする。

 アア、ダリィ。ウゼェ。ネムイ。モウカエリタイ。シュクダイヤッテネェ。ガッコウバクハツシネェカナ……。

 毎度のことなのに、こういうのは慣れることがない。
 まるで呪いみたいに、いくつもの声の重みがドシンドシンと積み重なっていく。
 息苦しい。
 僕は目を閉じ、静かに深呼吸をした。少しだけ楽になる。深呼吸で脳に送られた酸素が重いモヤを浄化してくれる気がするんだ。
 ポケットからイチゴミルクの飴を取り出しこっそりと口に運んだ。
 飴はお守りだ。他人の感情に侵食されパニックを起こさないよう、別の情報を脳に送って気持ちを落ち着かせる。甘い味を舐めながら、思い出すのはばあちゃんのこと。

 僕には厄介な特徴がある。
 昔から、自分以外の感情も感じ取ってしまうこと。
 ひとつの身体と心に他人の感情が同居するのはひどく辛い。それは感情の良し悪しに関わらず、ストレスだし。拾ってしまう感情が複数ともなればなおさら負担は大きくなり、心身共に疲弊し、パニックに陥ることもあった。
 僕が怯えパニックになる度、ばあちゃんは飴玉を口に含ませてくれた。
 いちごみるくの甘く優しい味が口内に満ちると、トロンとした気持ちになったっけ。
 もう今は、そこまでの効果はないけど。それでもあるのとないのでは大違いだから。

 僕は制服のポケットの中の飴を握りながら階段を登った。
 二年A組の教室は三階にある。
 いつもと変わらぬ空間。
 ざわざわと思い思いにおしゃべりしているクラスメイト。「おはよう」が飛び交う中、僕はいつも無言で教室へ入って席につく。
 僕の席は窓側の一番後ろ。毎日こうして静かに一日が始まり、何事もなく静かなまま一日を終える。
 でも、今日はそうじゃない予感がして胸をざわつかせた。
 これは嫌な予感なのか、それとも良い予感なのか……どっち?
 僕の人生に希望なんてもうないし、なにかを期待することもないはずだった。ただ、可愛がってくれるばあちゃんを悲しませたくない一心で学校に通っていただけ。そのばあちゃんも死んじゃって、もうここにくる意味もないのに。
 あのビルの屋上で華道くんに会うまではそう思っていた。
 変……だよね。怖いはずなのに……。


「おはよう」

 華道くんの声にハッと息を飲む。胸のざわめきがドキドキと音を立てる。
 彼の声が聞こえた途端、教室の空気が一気に明るくなった。それぞれお喋りにいそしんでいたクラスの子たちが一斉に振り向き、華道くんへ声をかける。

「よお、おはよ~」
「華道くんおはよ!」

 男子も女子も関係ない。
 彼に向けられるすべての目がキラキラ輝いてる。
 華道創くんはクラスの人望と憧れを一身に集める、物語に登場するヒーローみたいな人気者。最初はそれを面白くないと嫉妬してた男子生徒もちらほらいた。当然だよね。
 だけど、いつの間にか心を開いて、今は華道くんの友達。

 人の輪の中にいる華道くんを遠くからそっと眺める。
 やっぱり今日も爽やかだ。気取ったり、カッコつけてもいない。すごく自然体で完璧な王子様スマイル。
 でも、彼には心の声がない。どんなに会話をしても、どんなに綺麗に微笑んで見せても、たぶん、彼の中は何もない空洞。

 ……でも、そんな人いる? 

 ゾクッと背後に冷気が走った。
 机に肘を突き、自分の体を抱きかかえるようにして身を竦める。
 そんな人も世の中には存在するのかもしれない。でも、僕はそんな人……初めてだ。
 なにを見るでもなく俯いていると、視界の右側が暗くなった。
 なんだ? と、ゆっくり視線を上げていく。

 え……。

 僕は自分の目を疑った。

「おはよお、直生(なお)

 爽やかな声にサッと血の気が引く。

「華道くん……」

 キラキラした笑顔で僕の顔を覗き込んでくる。
 ヒュッと喉が鳴った。
 のけぞった背中がギシッと椅子の背に阻まれる。

 ち、近い……。

「え、なんで影野? てか、ナオって名前なの、あいつ?」
「ちょっとちょっと、なんで名前呼び? 華道君、みんなのこと苗字でしか呼ばないのに」

 教室中が低くざわめき、その視線が全て僕に突き刺さった。

『あんなやつに声なんてかけなくっていいのに』
『幽霊のくせに生意気なんだけど』

 ドス黒い心の声とクラスメイトのざわめく声の両方が一気に押し寄せて、頭の中で竜巻みたいに膨れ上がってくる。
 ドクンドクンドクンと心臓が胸を叩く。

 い、いき……できない━━

「金曜日は奇遇だったね! あれから家に帰ったの?」

 ヒッ! 

「ぐふっ」

 口の中のあめがヒュッと喉に落ちた。
 あ、あめが……なくなっちゃった……どうしよう! どうしよう! どうしよう……!
 焦る僕をガラス玉の瞳が面白そうに見つめている。

「あれ? 大丈夫?」

 狼狽える僕の背中を、華道くんがトントンと叩いてきた。
 みんなの重い視線がさらに強くなる。

 さ、さわんないでっ!

 声を出せずコクコク頷く僕に、華道くんがニッコリ微笑んだ。それで終わってくれたら良かったのに、「それでさ」と、話しかけてくる。華道くんの言葉にクラス中が聞き耳を立てていた。
 唇がはわはわと震える。話しかけられても、何ひとつ音を発することができない。

「例のアレ、きちんと下処理したよ。あ、ねぇ、良かったら今日の夕食を食べにこない? 僕が料理できるところを直生に見せてあげるよ」

 唇が自分のじゃないみたいに震える。
 降り注ぐ不信感や疑問、妬みの声が一気に増した。当の華道くんはそんな空気に気付くはずもなく、容赦なくみんなを煽る発言を続ける。

 も、もう勘弁してよぉぉぉぉ!

「一回食べたら分かるよ。これでも歴は長いんだ」

 もう、無理っ!

「と、トイレっ!」

 僕は耐えられず、教室から飛び出した。
 無我夢中で走って、酸欠でクラクラと目眩がした時だった。

「わっ!」

 正面からドンッと何かにぶつかり、反動で吹っ飛んだ。お尻にドシンと響く衝撃。
 手がぬっと伸びてくる。目の前には担任の鈴木先生が立っていた。
 鈴木先生は一瞬、目を宙へ向けなにかに気付いたように声をかけてきた。

「……影野じゃないか。どうした、そんなに慌てて」
「あ……」
「顔色が悪そうだ。一時間目はいいから、保健室でも行ってこい」

 鈴木先生は淡々とした口調で言った。
 実際にはしていない溜息が聞こえてくる。

 …………。

 見なくても先生の表情は想像できた。僕は俯いたまま、頷き立ち上がった。鈴木先生の影が通り過ぎていく。

 先生の言う通りだ。実際、僕は消耗していた。体は重く、冷や汗が背中を伝い、吐き気でしんどい。
 僕はフラフラとトイレへ向かった。顔を洗い、口を何度もすすぐ。
 チャイムの音を境に、辺りはシンと静まり返った。もう声は聞こえない。

「ふぅ」

 ホッと溜息が漏れる。
 少し楽にはなったけど、教室になんて戻れるはずもない。僕は鈴木先生の言った通り、一階の保健室へと向かった。
 小窓から灯りが漏れる白いドアをゆっくり開けると、すぐに白衣の背中が振り返った。僕と目が合うと、穏やかな表情で微笑んでくれる。中学の時はおばさん先生だったけど、吉野先生は男の人だ。

「おお、影野くん。おはよう。ベッド使っていいよ」
「すみません、ありがとうございます」

 養護教員の吉野先生は、鈴木先生とは違って僕を一目見るなり名前で呼んだ。
 ここに来た理由も聞かずに保健室の使用を許可してくれる。
 検温すらしないのは僕が保健室の常連だからだ。
 去年、四月に入学してから、週に一度は保健室へやってくる生徒。ベッドで横になると、一時間ほどで教室へもどる。それが僕。

 最初の頃はいろいろと声をかけてきたけど、少し休めば体調が戻るというのならあえて大ごとにしなくてもいいだろうって先生は思ってる。入学したばかりの生徒が不登校になって、そのまま退学するケースもよくあるみたい。
 でも僕は毎日学校へ来てるから、そこまで深刻ではないって先生も安心してる。へたに詮索しない方針を取ってるみたい。その方が、深刻な事態になった時、僕の方からSOSを出すだろうって。それが吉野先生にとっての僕との接し方。
 先生の考え方は、僕にとっても救いだった。

 吉野先生に小さく頭だけ下げ、そっとベッドへ上がって布団の中へ潜った。
 しばらくすると、吉野先生が静かに部屋を出ていく気配がした。カラカラとかすかな音を立てドアが閉まる。
 静かな保健室で天井を見つめていると、ようやく自分の声が聞こえるようになった。

 ……華道くん、なんで話しかけてきたの? 僕のことなんてこれっぽっちも興味なんてないはずなのに。クラス中のみんなが華道くんに話しかけられたがってるのに、なんで僕なんだろう。僕のことなんてなんとも感じていないのに。どうしてわざわざ話しかけるの? いままでずっと平穏にやってこれたのに、みんなに存在がバレちゃったじゃないか。

 幼い頃の記憶が蘇る。

「ねぇ、イジワル言わないでよ」
「え……なにも言ってないし」
「いま、言ったよ。どっか行けって」
「言ってない! 言ってないよな!?」

 周りのみんなが頷き、ざわめきに交じって「なに言ってるの?」とか「変なヤツ」とか「嘘つき」とか悲しい言葉と冷たい視線がたくさん突き刺さってきた。僕が聞こえてくる声に反応すればするほど、「気持ち悪い」「頭がおかしい」「人間じゃないんじゃない」ってよってたかって気味悪がった。どこに行っても、誰であってもいつも同じ。それを小学一年生の時に学んだ。
 心の声と話し声の違いも同じ頃に聞き分けられるようになった。
 それまではお母さんとふたりで暮らしてて、意識したこともなかったから。でも、病気で死んじゃって僕は初めておばあちゃんと祖父に会った。僕の家族はみんな心の声と話す声が一緒だったから、わからなかったんだ。お母さんもおばあちゃんもこんな僕を愛してくれて、いつも優しかった。祖父は反対に出会う前から大嫌いだったみたい。

 僕は幼稚園にも行かなかった。お金のこともあっただろうけど、臆病な僕のことを思ってくれたことが大きかったと思う。その代わり、おばあちゃんはいつも一緒にいてくれたから寂しくはなかった。
 いろんなことを教えてくれて、絵本で、数字や文字を教えてくれた。
 そしてパニックを抑える術も。
 パニックを阻止しても、他人とのコミュニケーションはどうしても心身に負担が掛かってしまう。だから自衛の為、僕は透明人間になる生き方を見つけた。
 それも今や、華道くんの行動で壊れそうだ。
 僕は大きなため息を漏らした。

 クラスのみんなが注目していた。なのに、当の華道くんは呑気に晩御飯まで誘ってきて。
 心の声が聞こえなくてもわかる。あんなにみんなの不満が大波になって打ち寄せていたのに、気付かなかったのかな? 

 ……それに、下処理って……。昨日のバッグに入っていた鳩のことだよね? なんでわざわざ捕まえてそんなことする必要があるんだろう。美食家なのかな? ちょっとでも新鮮なお肉がいいとか? だとしても、理解なんてできない。鳩って、食用じゃないし……ビルの屋上でも、声をかけてきたけど、自殺を止めようって気もなかったみたいだし。(あざけ)る気も感じなかったけど、純粋に面白がってはいたような気がする。

『人が死ぬところをまだ見たことがないんだ』

 華道くんの言葉を思い出し、背中にゾッと悪寒が走った。
 心の声以前に何を考えているのかまったくわからないし、理解もできない気がする。

 ……もしかして、華道くんはサイコパスなのかな?

 中学校に上がった頃だったか、心の声が聞こえてしまうことについてべたことがある。
 スピリチュアルな怪しいものもいっぱいあってどんどん不安は大きくなっていったけど、怪しいものだけじゃなくて、心理学とか、脳科学の分野でエンパシー(共感力)という単語を見つけることができた。
 人の気持ちが分かりすぎる病気があって、そのせいで普通の生活が送れない人は病院に入らなければならない場合もあると書いてあった。
 コミュニケーションが辛すぎるから、隔離された場所で精神を保護する生活。
 辛すぎるという気持ちは僕も嫌になるくらい理解できる。楽になれるならって考えたこともあるけれど、僕が楽に生きる為だけに莫大なお金なんて払えないし。治るわけでもないのに病院に通うのもバカバカしい。おばあちゃんに負担なんてかけたくなかったし。
 また同じ本の中に、人の気持ちがわからないアスペルガー症候群という病気があることも知った。それは知的・言語の遅れがない発達障害で、場の空気や相手の気持ちを読んだり、曖昧な表現を理解するのが苦手な病気だとあった。
 僕とは真逆の人たちがいることにも驚いたけど、この病気の人も普通の生活がしづらそうだなって思った。
 色々調べて、印象に残ったのはサイコパスだった。
 感情の一部、特に他者への愛情や思いやりが欠如していること。自己中心的で、道徳観念・倫理観・恐怖を感じない人。でもこの人たちは口が達者で魅力的な人が多いっていう特徴をもっていて、簡単に人を騙したりもするらしい。
 こんな人が実際いたら、すごく怖いって思った。

 心の声が聞こえない。つまり、心が無い。
 華道くんはサイコパスの条件にぴったりと当てはまってる。
 やっぱり距離を置いたほうがよさそうだよね。
 そう思ってハッとする。

 これじゃあ……。

 聞こえてきて辛かった心の声と同じ。
 ひどいこと考えてる。
 僕の中にもみんなと同じ部分があるんだ。僕はそれを、みんなに知られないだけ。

 ──最低だ。

 僕は掛け布団をグイッと引き上げた。
 膝を抱え、すき間ができないようできるだけ小さく丸まり、消えちゃえと念じ続けた。