あっ、あの声はっ! 音楽の松田先生だ!
僕はすぐに気が付き振り返った。職員専用の玄関口から松田先生が入ってきたんだ。
「松田先生だよ! やった、創くん! 助かるよ!」
「うん、直生それ貸して?」
華道くんが僕の握っていたバールを持ち、背後に隠した。
「……あら? 停電? っていうか、誰かいるの?」
徐々に声が近づいてくる。助けが現れて喜んでいた僕だったけどハッと気付いた。
のんびりしていると二階堂先生が降りてくるかもしれない。そうなれば、松田先生まで危険な目に遭ってしまう。
僕は廊下を蹴り、松田先生に駆け寄った。
「先生っ! 逃げないと! 二階堂先生がっ」
「きゃっ! びっくりした! ……影野君? どうして……」
松田先生は僕を見て、背後に立つ華道くんへ視線を移した。
「……華道君がいるの?」
戸惑っている松田先生の腕を両手で掴み、僕は必死に訴えた。
「先生、そんなことより早くここから出よっ」
松田先生は焦る僕の顔を見て、優しく微笑んだ。
「先生?」
「影野君、可愛いわね」
「……え?」
思いもよらない松田先生の言葉に僕は戸惑った。
この状況で……なに言ってるの?
変な違和感を感じて、僕は松田先生の腕からそっと手を外した。足が後ずさりする。
いつもと違う。気のせいじゃない。楽しそうな気持ちが伝わってくる。でも、華道くんのとは何かが違ってるような……。そう、二階堂先生と同じ……。松田先生から放たれる……禍々しさ。
「私、好きなのよね。か弱い子ヤギさんが何もできないでぷるぷる震える姿。ほら、その表情。真っ青になって、瞳をキラキラ潤ませて。すっごく萌えちゃう」
そう言ってふわっと微笑む。いつもの優しい表情。でも松田先生の右手は、さっきからずっと背中に回ったままだ。
「影野君、一緒に遊びましょ? 先生、ずっと楽しみにしてたの。ほら、レコードをしまうのを手伝ってもらったでしょ? あのあと、すぐに二階堂先生にお願いしたのよ。早く影野君と遊びたいって……」
「直生」
華道くんが僕の腕を掴んでグイッと引っ張った。庇うように花道くんが僕の前へ出る。
松田先生は片方の眉をちょっと上げて、花道くんを見上げた。
「あなたも仲間に入りたいの?」
小首をかしげた松田先生は、一歩前に出ると背中に隠した右手を振り上げた。
握っているのは、台所で使うような銀色の包丁だった。
「いいわ。一緒に遊びましょ!」
松田先生が声を張り上げた。目は大きく見開き、口角が裂けるようにみるみる上がる。恍惚とした異様な笑みに、僕の思考は完全に止まった。次の瞬間、華道くんがバールをブンッと勢いよく振った。包丁を振り上げている白い右手に鉄の棒が当たる。
「ギャッ!」
松田先生が悲鳴を上げたのと同時に、骨が砕けるような鈍い音がした。
手から落ちた包丁が床で跳ね、カラカラと回転する。僕はハッとした。
今だ!
松田先生の腹部めがけ思いっきり突進すると、手首を抑えていた松田先生は悲鳴を上げ、呆気なく倒れた。華道くんが包丁を蹴り、松田先生と一緒に倒れた僕を引っ張り起こす。
「あ、ありがと!」
打ちどころが悪かったのか、松田先生は眠ってるように目を瞑り、意識を失っている。
「し、死んじゃった?」
「残念。脈はあるよ」
松田先生の手首に触れ、花道くんは立ち上がった。
「直生、松田を見てて」
「えっ、あ、うん」
華道くんがバールを僕へ手渡す。冷たく硬い鉄の塊。
窓ガラスを割るのとはわけが違う。バールの重さに戸惑いながらも、松田先生の頭側に立った。バールをしっかり両手で握る。
色々ショックだけど、もし意識が戻ったら戦わなきゃいけない。松田先生を見張りながらも、華道くんをチラチラと見る。
華道くんは保健室の横にある『書庫』の前へ立った。
その部屋は普段は鍵がかかっていて、中にはたまにしか使わない資料などが入っている。基本的に、生徒には無縁な場所だ。
華道くんはポケットから何かを取り出し、鍵穴へ差し込んでドアを開けた。
「え?」
僕は目をパチパチとまばたきさせた。
中に入った華道くんはすぐに出てきたけど、その手にはガムテープとビニールテープがあった。
拘束用……ってこと? 武器だけじゃなく、そんなものまで?
華道くんはガムテープを適度な大きさに切って気絶している松田先生の口を塞いだ。
「ちょ、ちょっと、華道くん?」
「呼吸はできるよ」
今度は松田先生の体を無造作にゴロンと転がし、背中へ両手を回すと先生の手首をビニールテープでグルグル巻きにした。ついでに両足の足首をくっつけ同じようにグルグルと固定する。一連の様子を見ていた僕は、やっと我に返って口を開いた。
「今のって……もしかして、もしかしなくても、書庫の鍵?」
「そうだよ?」
華道くんはにっこり微笑み、松田先生の体を仰向けに戻すと脇の下へ手を入れた。
「なんで? なんで持ってんの? え、じゃあ……そこのも持ってたり、する?」
僕が体育館のドアを指さすと、華道くんがニヤリと笑った。
「実は持ってる」
「はあっ!?」
意味が分からなかった。あんなにヘトヘトに疲れるまでバールで割ろうとしていたのに、華道くんのポケットの中にはずっと鍵が潜んでいたのだ。
「ふっ、ふざけないでよ!」
僕は思わず、手に構えていたバールを勢いよく床に叩きつけた。ガツンッと音が響き、手がビリビリ痺れる。
華道くんは何事もないように、松田先生をズルズル引っ張っていくだけ。
「もう、わけわかんないよ!」
僕は両手で顔を覆った。顔をゴシゴシ擦り、そのまま髪をぐしゃっと握ってしゃがみ込む。
「何がしたいんだよ……」
そういえば、さっきサバゲーみたいで楽しいと言ってた。ってことは、あのバールで窓ガラスを割ってみたかったのか? ミッションコンプリート的な? ……こんな時なのに、常軌を逸してるよ!
掴んだ前髪を掻きむしった。その間にも華道くんは松田先生をズルズル引っ張って行く。体育館へ続くドアの前まで着くと、ポケットから鍵を取り出し鍵穴へ差し込んだ。あっさりと開くドア。
「今はとりあえず、松田を閉じ込めたいかな。また暴れると厄介だし。だから足持ってくれると助かる」
確かに、この危機的状況をなんとか切り抜けなきゃ……。
「……他にも鍵、持ってるの?」
「残念ながら持ってないよ」
華道くんがまた松田先生の両脇へ手を差し入れる。僕はふうとため息を吐き、よろよろと立ち上がった。
松田先生の足を持ち上げて、一緒に運ぶ。
仕方ない。華道くんの話を聞くのはあとからでもできる。今はただ早く解放されたい。
体育館の中はガランとしていて、明かり取りの窓からぼんやりと青白い月光が見えた。
僕はふと、華道くんを見た。
「ねぇ、僕らがここに潜伏すればいいんじゃない?」
「二階堂が見つけにくるのを待つの? 僕はごめんだね」
「でも、鍵をかけておけば安全でしょ?」
華道くんが残念そうに眉を下げた。
「体育館は、内側から鍵はかけられないんだよ」
「……あ」
「旧体育館時代、部活中におじさんがナイフを片手に勝手に入ってきたという事件があって、セキュリティがずさんだと問題になった。もともと老朽化が進んでいたから新しく立て直しをしようと声が上がり、そのタイミングで、体育館と校舎を通路で繋げた。だから体育館には、校舎側からしか入れないようになったんだ。校舎の職員専用玄関も生徒用の玄関も電子キーになっているのは知ってるだろ?」
華道くんの説明に力なく頷く。
そうだった……言われてみれば聞いたことがあるような気がする。ナイスアイデアだと思ったのに……。
僕はガクッと肩を落とした。
「体育館はあくまでも、使用時に解放するだけで、籠城する仕組みにはなってない」
「そっか……」
松田先生を閉じ込める。外から鍵をかければ出てこられない。
一人減っただけでも体育館への鍵に価値はあるのか。
……それにしても、意識のない人間ってこんなにも重いんだ。
フウフウ息を吐きながらふたりで松田先生を運び、マットなどが置いてある用具室へ転がした。出て行こうとして、華道くんの気配が無いのに気付いて振り返った。
え!?
華道くんがしゃがんだまま、松田先生の体を撫でるように触っていてギョッとした。
「ちょっ、そ、創くんっ、なにをっ」
華道くんが先生のスカートを捲し上げると白い太ももがあらわになった。
顔面がボッと熱を放ち、僕は慌てて顔を逸らした。華道くんはスカートの内側に手を突っ込み、さらに奥をまさぐる。
包丁を向けてきた相手だからって、何やってんだよ!
「創くんっ!!」
「あった」
そう言って、小さな何かを取り出す。見れば、華道くんは得意気な笑みを浮かべ、取り出したものを指先でつまむように持ちクルクルと回してみせた。
「……か、鍵?」
「そう、鍵。これで外に出られるはず。二階堂が校舎の通電を切ってるから電子キーは解除できない。だから松田も鍵を持ってると推理してたんだ」
「やった!」
あらぬ誤解が吹き飛び、喜びが湧き出す。
早々と用具室から出る華道くんに続き、僕も一歩踏み出した。
「あ」
立ち止まり、松田先生を振り返る。めくれたままのスカートをそっと戻した。
ふたりで用具室から出て、体育館の出入口の重いドアを静かに閉めると、鍵をかける。トイレの個室に使うようなシンプルな鍵だけど、今日ほど、この鉄の鍵を心強く感じたことはない。
「ホントは二階堂を閉じ込めたかったけど、仕方ない。行こう」
「まあ、いいよ。これで外に出られるんだし」
華道くんがバールを拾い、校舎へ戻るために歩き出す。
「走らない。居場所を知られないように静かに行くよ」
「うん」
華道くんは二階堂先生がゴリラだからって脅してきたけど、僕たちを探して降りて来るような物音はしない。やっぱりまだ動けないんだ。そりゃそうだよね。いくらマッチョでも、目が開かなかったら階段を降りるのは不可能だもん。
緑の非常灯がぼんやり灯る廊下を息を殺して早足で歩く。
職員室の前を通り、次は校長室。この角を曲がれば職員専用玄関。
出られる……。
そう思った時、華道くんの足がピタッと止まった。
「創くん?」
華道くんの顔を覗き込むと、華道くんが腕を横へ広げ後ずさった。
「階段へ走れ」
そう言った途端、大きな影がニュッと現れる。
「ひっ、ぎゃああああああああっ!」
僕は大きな悲鳴を上げ、仰け反った体勢から振りかぶるように身を返し階段めがけ走った。背後で噴射の音が聞こえた。華道くんが催涙スプレーを噴射させたんだ。二階堂先生のわめき声。振り返ろうとしたら、華道くんの声がした。
「止まるなっ」
「ひっ」
華道くんの剣幕に、僕はただただ階段を駆け上がった。大きく腿を上げ、二段飛ばしで駆け上がるも、やっぱりあっという間に勢いを失くす。呼吸は激しく上がり内臓が口から出そうになって、こんな時なのに自分のへなちょこさにウンザリしてしまう。
追いついた華道くんが僕の二の腕を掴み引っ張った。
「がんばれ」
声も出ない僕は頷きながら、足を引き上げる。
やっと三階まで上がったけど、華道くんは止まらず四階へ上がった。校舎の最上階には科学実験室や音楽室、美術室、スクリーンやビデオカメラなどが置いてある多目的ルームがある。華道くんは科学実験室の前で足を止めた。ポケットに手を突っ込み、また鍵を取り出す。嘘つき! まだ鍵持ってるじゃん! と思っても息が上がって突っ込めない。
「っはっあ、はあ、はあ、っ、はあ……」
口の中が鉄の味で気持ち悪いし、乾いた喉が焼け付くように痛い。大きく肩を上下させ息を切らしながら、僕は舌に残るわずかな唾液を飲み込んだ。乾ききった口内の水分はほぼない。ただ、ぺっとりと粘膜が張り付くだけ。その喉を押さえ、次にうるさく暴れる鼓動を鎮めようと胸の真ん中をバンバンバンと叩いた。
……キッツイ!
足は鉛をぶら下げているように重いし、横っ腹は激痛。噴き出した汗が肌を伝っていく。
華道くんは素早く鍵を差し込みドアを開け、ヘロヘロの僕を引っ張って中へ入りドアをゆっくり閉めた。
僕は倒れ込むように四つん這いになりながら、身を潜めようと窓側まで這っていき、一番奥の実験台の裏側へ隠れた。ズルズルと冷たい床にへたり込み、同じくらい冷たい実験台に背中を押し付ける。
……ああ、気持ちいい。
何度か深呼吸を繰り返すうちに、うるさく暴れる心臓や、体内から発生する熱が治まってきた。すると突然、ガシャンッ! とガラスが割れる音が響く。ビクッと体が跳ねた。床に手を突いて、おそるおそる実験台から顔を出すと、華道くんが実験道具がしまってある棚のガラスをバールで叩き割っているところだった。枠に残るガラスもガツガツ割って、中へ手を突っ込んでいる。
「はい。直生はこれ」
戻ってきた華道くんが渡したのはトイレ掃除などに使う酸性タイプの殺菌スプレーだった。混ぜるな危険と書いてある。もうひとつは懐中電灯くらいの大きさの黒い物体。
「……っ創くん、のは?」
「これ? スタンガンだよ」
「……それも、創くんが?」
体力と思考の消耗。
いくら実験室だって、スタンガンなんて置いてあるはずがない。
僕はわかりきったことを聞いたけど、華道くんは淡々とした表情で口を開いた。
「僕の兄は、あいつらに殺されたんだ」
「えっ!?」
離れ離れになった華道くんのお兄さん……。
サッと血の気が引いた。
