ばぁちゃんが、逝ってしまった。
お母さんも、子猫のミーちゃんも。みんな死んじゃった。残ったのは僕だけ……。
どうして僕は生きているんだろう。もう、誰もいないのに。
足元から吹き上げてくる夜風を受けながら僕は目を細めた。
廃墟ビルの屋上。すっかり錆びた柵の根本はグラグラで、形だけ保っているみたい。ちょっと触れたら倒れそうだ。
この高さからなら、きっとちゃんと大丈夫だろうって思ったんだけどな……。
足元の遥か下。外灯もポツポツあるだけの路地裏は表通りからだって離れているし、きっと人も通らないだろうとふんでここまで上がってきたのに。あの人が通り過ぎていなくなってから、そう思ってたら次の人が来る。もう何回、見送っただろう。
もういいんじゃない? って思ってもつい考えちゃう。
今飛び降りたら、歩いてるあの人はきっとショックで気が変になってしまうよな、とか……。ご飯も食べられなくなっちゃうだろうし、眠れなくなるかも。そんなのいくらなんでも申し訳ない。
地上から吹き上げる風が「諦めろ」と僕を押し返す。
未練なんて何ひとつないのに、情けないよね……。
「死ぬの?」
唐突に声がして僕はギョッと振り返った。
えっ? 人? なんで? だって、ここ廃墟ビルの屋上でしょ? 誰もいないはずなのに……。
真っ暗な壁にぼんやり浮かぶ黒い影。
うそ……。
口がパクパクと勝手に動く。
あれって……も、もしかして……、見ちゃった?
ユラリとゆらめく影に、ひゅっ! と体が伸びた。
……えっ。
「っうわあっ!」
思わず掴んだ手すりがグラッと揺れ、ゆっくり体が傾いていく。
あ、あれ……落ちちゃう?
星空を仰ぎながら思った。
これでばあちゃんのところに行ける。あ、でも、今、下に人って……。
歩行者がつい気になって顔を捻った。その時、ガシッと手首に衝撃が走った。次にグワンッと景色が流れる。
「ええ……」
遠心力を受けた僕は振り回されるように回転し、わけがわからないまま地面にドシンッと体を打ち付けていた。
目をパチクリしながら顔を上げると、月明りがゆっくりと黒い影を照らしていく。幽霊かと思ったけど、腕に残る確かな感触とそのカタチに生きてる人だとわかった。しかも……。
「……はな、みちくん?」
「こんばんは」
彼は驚いた様子もなく、かすかに微笑みを浮かべた表情で僕を見下ろしていた。
同じクラスの華道、創くん。
二年A組で最初のテストの順位は一番。学年でもトップだったと噂を聞いた気がする。そのうえ背が高くて、スポーツ万能、顔だって整っているから男女問わずみんなに慕われている有名人。僕は直接話したことないけど、いつだって彼の周りは人の輪ができていて、その中心で涼やかに微笑んでいる。今も同じ……笑顔。
「死ぬの?」
「えっ」
華道くんの問いかけに、僕は軽いパニックに襲われた。
二年生に進級して三ヶ月。初めての会話がこれ? 幽霊かと思ってビックリしちゃったけど、そういえばさっきも聞かれたんだっけ。
「……あの、僕のことって」
「影野君だよね? 影野ぉ……」
「直生だけど」
「そうそう。ナオ君」
知ってたんだ。同じクラスだけど、僕のことなんて絶対知らないだろうなって思ってた。会話はもちろん、華道くんの半径二メートル以内にも入ったことがないし、目が合ったことすらなかったはず。
華道くんはさらにニコニコ笑顔で小首を傾げた。
「ここから飛び降りるつもりなの?」
「……なんで?」
あの華道くんと会話していることが信じられなくて、その疑問が勝手に口から零れていた。
「なんでって、靴脱いでるし。ここ、飛び降りで有名なビルでしょ。それよりさ、どうして靴を脱ぐの?」
「え、く、靴?」
予想外の追及になんのことかわからなかったけれど、確かに僕の足元は靴下状態だった。
さっき立っていたへりのところには、きちんと揃えられた革靴があった。高校に合格した時、ばあちゃんが年金からコツコツ貯めた貯金で買ってくれた大切な革靴だった。
飛び降り自殺をする時は、靴を脱いで揃えておく。
意識なんてしていなかったけど、きっとそんな固定観念があったのかも。いわれてみれば靴を脱ぐことに意味などない気がした。ばあちゃんに買ってもらった大切な革靴だから汚したくなかったのかな? それとも、これから死ぬぞって覚悟の表れ? でも、だとすれば、それは誰のための意思表明なのだろう。
「……わかんない……」
廃ビルの屋上に人が来ることなど普通はない。だからこそ、ここは自殺の名所にもなっているわけだし。じゃあ、その意思表明って僕自身への覚悟ってこと?
いや、そうじゃない。僕はそんな覚悟なんて必要ないもの。きっとこれは事件や事故ではないことを遺族や警察に知らせるためのものだ。だとすれば、やはり靴を脱いで正解といえる。警察に無駄な仕事をさせないため。そして……。
ここまで考えて、ハッとした。
そうか。僕は遺族である祖父に復讐をしようとしているんだ。この靴は、自ら命を絶ち、あなたから逃げたのだと知らしめる行為。要は当てつけなんだ。
無意識の恐ろしさに僕は身震いした。
……でも、あの祖父にそんな嫌味なことをしたってきっと意味ないよね。「厄介者がいなくなってやれやれだ」ってホッとするんじゃないかな。たぶん……。バカだよな。そんな当てつけしたって、あの人は痛くも痒くもないのに。
虚しさがひゅるるると音を立て通り抜けていく。
「影野君って、形を気にするタイプなのな」
「べつに……そういうわけじゃないけど」
「ふうん」
華道くんは僕から離れ、屋上のドアの方へ歩いていく。
かえ……るのかな? ……助けてもらったお礼とか言った方がいいのかな? あれ? でも、僕は死のうとしてたんだし、助けてもらったんじゃなくて、邪魔されたのか? いや、でもあの時は落ちちゃうって焦ったわけだし……。
ぐるぐる考えていると、華道くんはドアじゃなく、その横にある数台並んだ室外機の辺りで屈みこんだ。
ん? なにかしてる?
室外機で華道くんの手元は見えないけど、ガサガサとビニール袋の音がして、袋になにか詰めているみたいだ。
その光景を見ていると華道くんがまた立ち上がった。白い羽毛が風に舞い上がり、ビルの手すりを超え蒼い空へ消えていく。
……鳩の羽かな。
廃墟ビルは鳩のお家になっているみたいで、屋上へ上がってくる間にも羽や糞があちこちに落ちてた。
しばらく見ていると華道くんが作業を終えたのか、またこっちに近づいてくる。右手には赤いスポーツバックを持っていた。
「で、飛び降りないの?」
「え……」
どうやら自殺を止めようと話しかけてきたわけじゃなかったみたい。かといって、僕をからかってるわけでもなさそう。穏やかな表情で淡々と話す華道くんの感情は、やっぱりなにも伝わってこない。
学校でもちょっと思ってた。
華道くんの周りにいる子たちの感情は、愛情や、憧れ、期待、キラキラしたものから邪なものまで、いろいろ伝わってくる。でも、その渦の中にいる当の華道くんからはなにも伝わってこなかった。
色でいうと無色透明。
音で言うと真空みたい。
表情だけは楽しそうなんだけど。そうなだけ。
不思議な人……。
華道くんのことはなにもわからない。なんでここにいるの? どうして声をかけたの? どうして助けたの? なにをしてたの?
ソレハナニ?
華道くんの持っている赤いスポーツバッグが気になる。
パンパンで、ずっしりとして、すごく重そうだ。
「華道君、それ……」
「あ、うん。さっき獲ってたんだ」
と、とってた?
風に舞い上がり、夜空へ飛んでいった羽毛を思い出す。
なんとなく赤いスポーツバッグに入っているものが分かるような気がした。
……鳩……だよね? 獲るって……ケージとかじゃないんだ……でも、なんのために?
どう考えても嫌な予感しかしなくて、彼の目的を考えるようにシフトした。
赤いスポーツバックから華道くんへ視線を戻す。
やっぱりなんの感情も流れてこない。
どうして華道くんの思ってることは、わからないんだろう? こんなに優しい顔で僕を見ているのに……。
こんなこと、生まれて初めてだ。
頭の中に勝手に入ってくる声。
僕は小さな頃からずっとそれに悩まされてきた。
大勢が集まる場所だといろんな声が同時に聞こえて、頭の中が音でいっぱいになる。目が回るような感覚がして、気持ち悪くなって、頭がすごく痛くなる。
『心の声っつーのは普通は聞こえないもんだ。このことは人に喋っちゃダメだ。怖がられるで。ばあちゃんとナオ、ふたりだけの秘密だよ』
そう、ばあちゃんに教わってからは、誰にも言わずに生きてきた。
華道くんといると無音で、聞こえてくるのは会話している声だけ。無駄な情報がない、その静寂が心地いい。心地いいのに……ちょっと怖い。感じたことのない感覚。それに……。
重そうな赤いスポーツバッグが警告している。
これ以上、踏み込むべきではないのかも。
僕は華道くんとの会話を終わらせることにした。それとなく汚れた靴下へ視線を逸らせる。
「……そ、そうなんだ」
「僕、人が死ぬところ、まだ見たことないんだ。影野君は? 見たことある?」
突然放たれた言葉にサッと血の気が引く。
ナンデ ソンナコト キクノ?
思わず見上げた華道くんは、大きな瞳をキラキラと輝かせ、僕を真っ直ぐに見つめていた。
