僕が不老不死の君と旅する理由〜八百比丘尼

「うわぁ、綺麗な森!!」

森の中を進む美しい小径。
横を流れる小川の清らかなせせらぎ。
こだまする木漏れ日・・・

村を出発した時は息もできないほど緊張していた沙穂(サホ)だったが、しばらくすると、すぐに美しい森に見惚れてしまった。
村の外に出たことなどほとんどない彼女にとって、すべてのものは新鮮だ。

「これが、ずっと続くといいな…」
沙穂は本気でそう思った。今までがあまりにも辛かったから。

「冬になったら、枯れちゃうのにね」彼女は少し微笑んだ。
「だけど春が来たら、また生き返るんだろ」波限(ナギ)が少し戯けた様子で笑うと、木々が少しだけざわめきだした。

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「ちょっと波限、この木の実、こんなにたくさん!!」
初めは、ほっとしたように沙穂を眺めていた波限も、さすがに少し不安になってきた。

「ねえ見て!こっちに魚がたくさんいるよ!」
「おい沙穂、寄り道しすぎだよ。それじゃあ、いつまで経っても村に辿り着かないぞ」
「もう、ちょっと見てるだけじゃない。そんなに急かさないでよ」
「このまま日が暮れたらどうするんだよ」
「その時は、一緒に野宿してくれるんでしょ?ひとりじゃ危ないからね」
「お前さぁ…俺は嫌だぜ。先に村に行ってるから、ひとりで野宿しろよ」
「えー…そ、それは嫌だよ…」
「じゃあ、まっすぐ歩けって」
「わ、わかった…ごめんなさい」

「まったく…今日旅が始まったばっかりなのに。はぁ…この先大変そうだな…」
小さくつぶやく波限の頬を、どこからか吹いてきた風が優しく撫でた。
「そうなのか…そうだな、そういうもんだよな」
彼は何かに向かって話しかけた。

渋々歩き出す沙穂。そのおかげで旅は順調に進み出した。
やがて森は深くなり、薄暗さを増してきた。道も少し険しくなってきた。

「気持ちいいけど…なんか暑くなってきた」
それでも小川のせせらぎを感じながら、歩き続ける。
不意に冷たい風が頬を撫でた。
少しばかり疲れた顔を上げる。
目に映ったのは、木陰の向こうの小さな泉。

「えっ?あの話、本当だったの?」

小川のすぐ脇のほんの狭い場所に、泉が静かに湧き出ている。
水草がゆらゆらと手招きする。水面に太陽の光がはね返り、その場所だけ別世界に続く入り口のようだ。

沙穂は幼い頃、和尚から聞いた話を思い出した。
「隣村に行く道に小さな泉があってな、そこには不思議な力を持った魚が棲んでて、沙穂の元気を全部食べちゃうから、気をつけるんだよ」
「和尚さまー、こわーい!!」
彼女はその話を、無邪気に笑って聞いているだけだった。

そんなことより今は疲れた足を休ませる方が先だ。

「ちょっとだけなら…いいよね。ねえ波限、疲れたから、私ここで少し休む」
「そうだな、そうしよう」

「不思議な力って…疲れをとってくれる、ってことかしら。だったら嬉しすぎ!」

彼女は、そこに魚がいないことを確かめてから、期待を込めてそっと泉に足を浸す。
「あー気持ちいいっ!!」
ゆっくりとその足を泳がせる。

そのとき、水の煌めきが一瞬怪しい光を纏った。
その光は徐々に形となり、沙穂の爪先から触手を伸ばすように這い上がってくる。しかし彼女は、その気配に全く気付く様子がない。
やがてそれは彼女を怪しく包み込むように、気味悪い音を立てながら胸元まで這い上がってくる。
「なんか、眠くなっちゃった…」
ふと沙穂の意識が途絶えた。
気がつくと光の触手が、彼女の身体をすっかり覆っている。

沙穂は夢を見ていた。いや、本当に夢なのだろうか?

彼女は和尚と一緒にお寺の境内にいる。
「沙穂ちゃん、来たよ!」友達が慌てた様子で駆け寄ってくる。
木陰にふたつの影があらわれた。
それは懐かしい大好きな両親の姿となった。
沙穂の口元は震え、瞳からは涙が溢れる。転びそうになりながら両親に駆け寄った。
「お母さん、お父さん…私のこと、迎えにきてくれたんだよね?また一緒に暮らせるんだよね?嬉しい…ねえ、もうどこにも行かないで!」
「沙穂ちゃん、待たせちゃってごめんね。さ、一緒に帰りますよ…」
両親の手と沙穂の手が繋がろうとする…

そのとき

「此処に(まか)()(むな)しき邪気。消え失せよ…」波限が低く呪文を唱え、そのまま手刀を振り払った。
一瞬の旋風(つむじかぜ)が木々を激しく揺るがせた。妖しい光の触手は鈍い呻き声をあげ、霧のように飛び散った。

あとには、夢うつつのような表情の沙穂だけが、とり残されていた。

「ふぅ…危なかった。もう少しで向こうの世界に入るところだった…仕方ないけどまったく目が離せないな、沙穂からは」
そして優しく彼女に声をかける。

「どうした?急にしんみりして。もう寂しくなった?」
「えっ…」
唐突に響いた声に、沙穂はびくりと身体を震わせた。いつの間にか、傍らにいる波限が、彼女の頭に手を置いている。
「う…ううん。少し昔のこと思い出してただけ」
急に我に帰ったように、彼女はあたふたしながら答えた。
「そうか、まあ…気をつけろよ」
それだけ言うと、波限は森に溶け込むように姿を消した。

「もう、なによ…いつもいつも…急に話しかけないでほしいんだけど」
「わたし、もうちょっとでお母さんと手を繋げたんだよ…」
沙穂は、涙の跡が残ったままの頬を膨らませ、立ち上がる。

「もう少しゆっくりしたかったよ。時間だってまだあるし。それに『気をつけろ』って、どういうこと?あの人いっつもそうなんだから。神様だったら私のこと察してほしいんだけど」
沙穂の愚痴が止まらない。

それでも美しい泉に少しばかり感謝の祈りを捧げる。
「さあ、そろそろ出発しよ。すっかり疲れも取れたし。波限もうるさいから…」

「あの夢、本当なわけ…ないんだよね…」

そして再び歩き始める。
ここまで来れば、目的地までもう一息だ。
「やっぱりあの泉、疲れをとってくれる泉だったんだ」
沙穂の足取りは驚くほど軽い。

ところがしばらくして、荷物がひとつ足りないことに気づく。
「あ、あれ?どこかに置いてきちゃった?う、うそ、泉のとこ?」
慌てて振り返ると、波限が得意げな表情でそれを手にしていた。
「おーい、ここから道が険しくなるから、俺が荷物持っていくよ」

「え、本当に?」
「うん。俺さぁ、和尚に言われたんだ。旅の途中、沙穂をちゃんと守るようにって」
「そうだったの?」
「付喪神なんだから、それくらいするように、だってさ。だから俺に任せてよ」
「う、うん、ありがと。じゃあお願いね」
だったら最初からそう言ってくれたらよかったのに、と彼女はクスッと笑った。

荷物が軽くなり、沙穂の気持ちも少し軽くなった。
空を見上げた。
夕焼けが、いつもよりも赤く染まって見える。
山にかかって見える黒い雲の塊が、自分を手招きしているように感じた。

「やっぱり野宿なんて無理…」
ちょっとだけ背筋が震えた。沙穂は先を急ぐ。

まだ見たことのない世界に、少しばかりの不安を覚えながら。