「解けぬ呪いはない」
影の発したその言葉は、沙穂の胸に刺さったまま離れない。
思い出すだけで吐き気を催すような、そんな呪いを自分は背負っていた。
「そんな…そんなの、嫌だ…絶対嫌っ!!」
「わたし、まだ苦しまなきゃいけないの?もういいよ、いっそ、このまま…」
その先を言いかけたとき、突然暖かな手が、そっと沙穂の口を塞いだ。
「ひっ…あ、あ・・・」あまりにも急な出来事に、恐怖も何もなかった。冷たい汗が身体中から流れる。
「沙穂って言ったっけ。少し落ち着けよ。俺、困るんだよ。そんなに簡単に死んでもらっちゃ」
大きく見開いたままの沙穂の目に、うっすらとした影が浮かび上がってくる。
それは次第にはっきりと、輪郭を伴って見えてきた。身なりの整った若い男の姿。
沙穂は必死に言葉を搾り出す。
「だっ、誰なの…?触んないでっ!!」
口を塞いでいたその手を、思い切り振り払った。
「はぁ…少し落ち着いたか?」その声はどこか暖かく優しい。
「確か『解けぬ呪いはない』だったっけ?思い出した?」
「ほかには何か言ってなかったか?」
「え、えーと…」
「大切なことだと思うんだけどなぁ…早いな、忘れるの」
「もう、黙っててよ!」
まだ冷たい汗は止まらないが、沙穂は必死に思い出そうとしていた。
「…旅に、出よ。い、行き交う…すべての、命…見届けよ。すべての欠片…ひとつになった…とき」
その先の記憶はまるでなかった。「は…?なんで?なんで思い出せないの?」
沙穂は途方に暮れた。
「なあ沙穂」男は慰めるように言う。
「なに?いちいち話しかけないでよっ!!」涙声で言い返す沙穂。
男は、あきれたような声で返す。
「あのさ、旅に出てみろよ。だって、行き交うすべての命を見届けよ、って言われたんだろ?」
「でも…そんな、怖いし…」
「それじゃあこのまま終わらせるのか。沙穂の中にある棘はずっと大きくなり続けるのに」
「・・・つっ」もう返す言葉が見つからなかった。
沙穂は和尚に言われたことを思い出した。
「答えは…私の中にだけある。自分を信じなさい…か」
「あのとき、わたし何も言えなかった。でも…和尚さまは、ずっと信じてくれてた…」
もう何年も感じることすらできなかった、温かい心。それが再び、沙穂の心に宿り出した。
彼女の中で、暗闇を引き留めていた糸が切れた音がした。
五感が一気に広がる。
そして無意識に言葉が溢れた。
「そんな…みんな…みんなごめんね…わたし・・・」
沙穂の瞳からは、母から受け継いだ暖かな涙が流れ続ける。
「沙穂は悪くなんかないさ」
男のその言葉に、沙穂の心の緊張が一気に解けた。
疲れ果ててしまった沙穂の意識は、再び途絶えた。
-
やがて朝日が部屋に差し込み始める。長かった夜は、音も立てずに去っていった。
「う、眩しい・・・私、どれだけ寝ちゃってたんだろう。まだ、体が…」
沙穂はようやく目を覚ました。
部屋の隅では、あの男が気持ちよさそうに眠っている。
「この人、私の気も知らないで。でも、ありがと…うん、決めた…もう逃げたくない。すごく怖いけど…」
「わたし、旅に出る・・・」
「んあぁーよく寝たなぁ」男は何事もなかったかのように大きなあくびをした。
沙穂は、ため息まじりに苦笑した。
「もう…ねえ、あなた誰なの?ここ私の部屋なんだけど…」
「あ?あぁごめん。ついうっかり…」男は頭をかきながら答えた。
「それに、私の名前知ってるみたいだけど、あなたの名前、まだ教えてもらってないよね」
「んっ?そ、そうだった?」
「もう、いい加減に目を覚ましてよ!」
「わ、悪かった!!うん、俺さ、えーと…付喪神なんだ。沙穂のお守りに憑いてる」
「か、神様…?」それは沙穂にとって考えもしなかった答えだ。
「そう。名前は…アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズ・・・」
「長すぎません?」
「なんだ、意外にせっかちだな。まあ波限って呼んでくれよ」
「ナ・ギ?」
「そう。よろしくな」
「う、うん。よ、よろしく…ね」
「そうだ。沙穂、旅に出るんだろ?」
「えっ、聞いてたの?」
「まあ…一応神様だから。だったら俺も一緒に行くよ。困ったことがあったら、ちゃんと助けるからさ」
「なんか頼りなさそう…」
「えっ・・・」
「あっ、ご、ごめんなさい。あの、じゃあ、よろしくお願いします」
こうして沙穂の長い旅は、ふたり、いや、ひとりと一柱で始めることになった。
-
旅の準備は大変だった。
手間取っている沙穂を見て、和尚は、旅を手助けするために様々な手はずを整えた。
お寺の弟子たちも、あれこれ準備を手伝ってくれた。
時には要領がわからず、とんでもないものが用意されたりした。
「沙穂ちゃん、足袋、ひとつ余分に持ってくといいよ」
「なあ沙穂、これもいるだろ!!」持ってきたのは大きな鍋・・・
「そっ、そんなのなんに使うのよ。邪魔になるだけじゃないっ!!」
「えーっ、だって・・・みんなでご飯食べるときに」
「沙穂ちゃんは、一人で旅に出るんだよっ!!あっちに置いてきなさいっ」
それでも沙穂は嬉しかった。みんなが自分を助けてくれている。
「いいよ、ありがとね。持ってかないけど。ふふっ」
それでも、まだふとした時に、心に不安がよぎる。
「本当に…これでいいんだよね。私、間違ってなんかないよね」
そんなとき、和尚のあの言葉が、沙穂の背中をそっと押してくれた。
-
そして、旅立ちの日の朝を迎えた。
見送りに来てくれた和尚、お寺の仲間、そして村の人たち。
それぞれの胸に去来する様々な想い。
みんな溢れそうになる涙を必死にこらえている。
それでも笑顔で沙穂を送り出そうとしている。
「沙穂ちゃん。帰ってきたら、また旅の話聞かせてね」
けど、そのあとの言葉が続かない。
和尚は何も言わず、ずっと沙穂を見守っていた。
まるで、これが彼女の最後の記憶になるのを知っているかのように。
沙穂は溢れそうな涙を必死で堪えながら、口を開いた。
その声は、悲しみと感謝で震えている。
「長い間、ありがとう…ございました。あの、またどこかで…どこかで会えたら…」
もう会うことはないだろう。そんなことは彼女が一番よくわかっていた。
そんな沙穂を見て、和尚が声をかける。
「沙穂殿、焦らずに、あなたらしく、気をつけて行ってきなさい」
彼女は流れる涙を拭おうともせず、深く一礼し、皆に背を向けた。
その瞬間、和尚は思わず我が目を疑った。
沙穂の隣にはあの「影」がしっかりと付き添っていたのだ。
「そうでしたか。そうだったのですね…」
彼の心に燻っていたすべての疑問が溶け去っていく。そして思わず手を合わせた。
「アエズ様、どうか、どうか沙穂殿を、お守りください…」
沙穂の姿が木々の向こうに消えるとき、和尚は、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
影の発したその言葉は、沙穂の胸に刺さったまま離れない。
思い出すだけで吐き気を催すような、そんな呪いを自分は背負っていた。
「そんな…そんなの、嫌だ…絶対嫌っ!!」
「わたし、まだ苦しまなきゃいけないの?もういいよ、いっそ、このまま…」
その先を言いかけたとき、突然暖かな手が、そっと沙穂の口を塞いだ。
「ひっ…あ、あ・・・」あまりにも急な出来事に、恐怖も何もなかった。冷たい汗が身体中から流れる。
「沙穂って言ったっけ。少し落ち着けよ。俺、困るんだよ。そんなに簡単に死んでもらっちゃ」
大きく見開いたままの沙穂の目に、うっすらとした影が浮かび上がってくる。
それは次第にはっきりと、輪郭を伴って見えてきた。身なりの整った若い男の姿。
沙穂は必死に言葉を搾り出す。
「だっ、誰なの…?触んないでっ!!」
口を塞いでいたその手を、思い切り振り払った。
「はぁ…少し落ち着いたか?」その声はどこか暖かく優しい。
「確か『解けぬ呪いはない』だったっけ?思い出した?」
「ほかには何か言ってなかったか?」
「え、えーと…」
「大切なことだと思うんだけどなぁ…早いな、忘れるの」
「もう、黙っててよ!」
まだ冷たい汗は止まらないが、沙穂は必死に思い出そうとしていた。
「…旅に、出よ。い、行き交う…すべての、命…見届けよ。すべての欠片…ひとつになった…とき」
その先の記憶はまるでなかった。「は…?なんで?なんで思い出せないの?」
沙穂は途方に暮れた。
「なあ沙穂」男は慰めるように言う。
「なに?いちいち話しかけないでよっ!!」涙声で言い返す沙穂。
男は、あきれたような声で返す。
「あのさ、旅に出てみろよ。だって、行き交うすべての命を見届けよ、って言われたんだろ?」
「でも…そんな、怖いし…」
「それじゃあこのまま終わらせるのか。沙穂の中にある棘はずっと大きくなり続けるのに」
「・・・つっ」もう返す言葉が見つからなかった。
沙穂は和尚に言われたことを思い出した。
「答えは…私の中にだけある。自分を信じなさい…か」
「あのとき、わたし何も言えなかった。でも…和尚さまは、ずっと信じてくれてた…」
もう何年も感じることすらできなかった、温かい心。それが再び、沙穂の心に宿り出した。
彼女の中で、暗闇を引き留めていた糸が切れた音がした。
五感が一気に広がる。
そして無意識に言葉が溢れた。
「そんな…みんな…みんなごめんね…わたし・・・」
沙穂の瞳からは、母から受け継いだ暖かな涙が流れ続ける。
「沙穂は悪くなんかないさ」
男のその言葉に、沙穂の心の緊張が一気に解けた。
疲れ果ててしまった沙穂の意識は、再び途絶えた。
-
やがて朝日が部屋に差し込み始める。長かった夜は、音も立てずに去っていった。
「う、眩しい・・・私、どれだけ寝ちゃってたんだろう。まだ、体が…」
沙穂はようやく目を覚ました。
部屋の隅では、あの男が気持ちよさそうに眠っている。
「この人、私の気も知らないで。でも、ありがと…うん、決めた…もう逃げたくない。すごく怖いけど…」
「わたし、旅に出る・・・」
「んあぁーよく寝たなぁ」男は何事もなかったかのように大きなあくびをした。
沙穂は、ため息まじりに苦笑した。
「もう…ねえ、あなた誰なの?ここ私の部屋なんだけど…」
「あ?あぁごめん。ついうっかり…」男は頭をかきながら答えた。
「それに、私の名前知ってるみたいだけど、あなたの名前、まだ教えてもらってないよね」
「んっ?そ、そうだった?」
「もう、いい加減に目を覚ましてよ!」
「わ、悪かった!!うん、俺さ、えーと…付喪神なんだ。沙穂のお守りに憑いてる」
「か、神様…?」それは沙穂にとって考えもしなかった答えだ。
「そう。名前は…アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズ・・・」
「長すぎません?」
「なんだ、意外にせっかちだな。まあ波限って呼んでくれよ」
「ナ・ギ?」
「そう。よろしくな」
「う、うん。よ、よろしく…ね」
「そうだ。沙穂、旅に出るんだろ?」
「えっ、聞いてたの?」
「まあ…一応神様だから。だったら俺も一緒に行くよ。困ったことがあったら、ちゃんと助けるからさ」
「なんか頼りなさそう…」
「えっ・・・」
「あっ、ご、ごめんなさい。あの、じゃあ、よろしくお願いします」
こうして沙穂の長い旅は、ふたり、いや、ひとりと一柱で始めることになった。
-
旅の準備は大変だった。
手間取っている沙穂を見て、和尚は、旅を手助けするために様々な手はずを整えた。
お寺の弟子たちも、あれこれ準備を手伝ってくれた。
時には要領がわからず、とんでもないものが用意されたりした。
「沙穂ちゃん、足袋、ひとつ余分に持ってくといいよ」
「なあ沙穂、これもいるだろ!!」持ってきたのは大きな鍋・・・
「そっ、そんなのなんに使うのよ。邪魔になるだけじゃないっ!!」
「えーっ、だって・・・みんなでご飯食べるときに」
「沙穂ちゃんは、一人で旅に出るんだよっ!!あっちに置いてきなさいっ」
それでも沙穂は嬉しかった。みんなが自分を助けてくれている。
「いいよ、ありがとね。持ってかないけど。ふふっ」
それでも、まだふとした時に、心に不安がよぎる。
「本当に…これでいいんだよね。私、間違ってなんかないよね」
そんなとき、和尚のあの言葉が、沙穂の背中をそっと押してくれた。
-
そして、旅立ちの日の朝を迎えた。
見送りに来てくれた和尚、お寺の仲間、そして村の人たち。
それぞれの胸に去来する様々な想い。
みんな溢れそうになる涙を必死にこらえている。
それでも笑顔で沙穂を送り出そうとしている。
「沙穂ちゃん。帰ってきたら、また旅の話聞かせてね」
けど、そのあとの言葉が続かない。
和尚は何も言わず、ずっと沙穂を見守っていた。
まるで、これが彼女の最後の記憶になるのを知っているかのように。
沙穂は溢れそうな涙を必死で堪えながら、口を開いた。
その声は、悲しみと感謝で震えている。
「長い間、ありがとう…ございました。あの、またどこかで…どこかで会えたら…」
もう会うことはないだろう。そんなことは彼女が一番よくわかっていた。
そんな沙穂を見て、和尚が声をかける。
「沙穂殿、焦らずに、あなたらしく、気をつけて行ってきなさい」
彼女は流れる涙を拭おうともせず、深く一礼し、皆に背を向けた。
その瞬間、和尚は思わず我が目を疑った。
沙穂の隣にはあの「影」がしっかりと付き添っていたのだ。
「そうでしたか。そうだったのですね…」
彼の心に燻っていたすべての疑問が溶け去っていく。そして思わず手を合わせた。
「アエズ様、どうか、どうか沙穂殿を、お守りください…」
沙穂の姿が木々の向こうに消えるとき、和尚は、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。
