僕が不老不死の君と旅する理由〜八百比丘尼

沙穂(サホ)の両親が突然姿を消した・・・

ある日の夕暮れ、村の隅にある小さな小屋で、数人の村人が声をひそめていた。

「あんなに娘を可愛がっていたのに。ふたりはいったい何処へ…」
「まるで消えてしまったみたいだ…」
「か、神隠し?」
「そんな、そんなこと言うもんじゃないだろ」

夕闇が村人の言葉を静かに飲み込んでいく。
小屋の外には、冷えた土の匂いだけが漂っていた。

-

その少し前、村にあるただ一つの寺の本堂で、突然現れたな影のようなものが和尚と向き合っていた。

「そ、それは…」和尚の声は震えている。
「すまない。無理は承知で頼む」影は静かに、諭すように言う。

不気味にゆらめく蝋燭の光のもとで、和尚は苦悩の表情を浮かべた。
額に浮かぶ汗が沈黙を映し出す。そして震える息を吐きながら口を開く。

「わ、わかりました…お力になれるかどうかわかりませんが、できる限りの手は…尽くしてみましょう」
「時間はかかるかもしれないが、決して無理はなさらぬよう」
蜻蛉のようなものは、いつしかその場から消えていた。

怪しく揺れる蝋燭の光だけが、その場に残されていた。

-

それは三年ほど前のことだった。

穏やかなせせらぎの響くこの村で、まるで玉のような美しい女の子が生まれた。
精一杯の泣き声をあげ、その小さな手を強く握りしめ、何かを求めるように口を動かしている。

「沙穂」彼女はそう名付けられた。

「抱っこしてないと泣き止まないのよね…」少し困ったように母親が言う。
「はははっ、きっと甘えん坊なんだよ、君に似て」父親は嬉しそうに頬を緩める。

一歳になる頃には、危なっかしく歩くようになった。

「…うっ、うぎゃぁー!!」
「沙穂ちゃん、転んじゃったの?」
「どこか怪我してないか?」
「うん、大丈夫みたい。えっ?もう…抱っこしたらすぐご機嫌なんだから!」
「よ、よかった。こんなに歩き回って、沙穂はきっと丈夫な子になるよ」

そして少しずつ言葉を覚えていく。

「タータン…」
「え?どっちかな?お父さん?それともお母さん?」
「お母さんに決まってるでしょ!ね、沙穂ちゃん」
母親の膝にしがみつき、父親の指を握って笑う沙穂。

そして幸せな一日が暮れていく。
幼い命の寝息が、ゆっくりと夜の暗闇に溶け込んでいく。

しかし

彼女が三歳になるとき、運命は静かに揺らぎはじめた。

ある晩、月あかりが部屋をほんのりと染めた。
ふと目を覚ました沙穂に、両親の囁くような声が小さく聞こえる。
夢なのかもしれない。
母に抱かれている感覚が心地いい。
家の外に出た。
草木の匂いが強くなる。
時折、頬に温かい雫がかかる。
そうして沙穂は本当の夢の中に入り込んでいった。

ゆっくりとした足音が遠くで響いている。
小川のせせらぎが、かすかに耳に届く。
向かう先は見昌寺。
沙穂がよく遊ぶ場所。
境内の椿が三人の影を迎え入れるように、枝をたなびかせていた。

夜の寺の門前、和尚は震える手で小さな沙穂を受け取った。
月あかりに照らされたその顔は、まだなにも知らないあどけなさを宿している。
「沙穂殿…」
心が押し潰されそうになりながらも、両親に問いかける。

「これから…一体、どうなさるのか…」
その問いかけに、両親は口をつぐんだ。
そして深く会釈をし、ゆっくりと背を向けた。
彼らが寺の門を出たとき一瞬、霧のような何かが鈍い光を放った。
「時が来たのだ」何者かの声が聞こえた。
沙穂の頬に、温かなそして悲しみに満ちた母の雫が降りかかる。
「沙穂殿…すまない。私には…」

二つの影は霧の奥深くへ溶けるように消え、そして沙穂だけが残された。
和尚はしばらくその場を動くことができなかった。
「どうか…どうか……」
願いの言葉は、深い闇に吸い込まれるように消えた。
まだ幼い寝息だけが、彼の耳に届いていた。

-

それから月日は流れた。

「和尚さまー。今日ね、またいっぱいこんなの見つけたよ!」
悦びに溢れる笑顔で沙穂が駆け寄ってくる。
「どれどれ…これは美味しそうな木の実だね。おや?この綺麗なのは食べちゃダメだぞ」
「えー…どうしてー?こんなに綺麗で美味しそうなのに」
「お腹が痛くなっちゃうからね」
「やだそんなの。じゃあ明日捨ててくるっ」
和尚は沙穂の頭を優しく撫でながら言う。
「そうだね。じゃあ明日、一緒に捨てに行こうか」
「うん!!」

和尚はまるで本当の親のように、沙穂を守り育てた。彼女も幼いながら、その思いをしっかりと笑顔で受け止める。

それでも、時折り顔を出す寂しさは隠せない。
温かな布団にくるまると、母の歌声が聞こえてくることがある。
すぐに消えてしまうけど、胸の奥が少しだけ疼く。
友達が帰路に着くとき、一瞬胸が痛くなる。
ほんの少し、あと少しだけの温もりが欲しくなる。

胸の中に宿る、小さな棘のような感情。
それがゆっくりと大きくなっていくことに気づくのには、沙穂はまだ幼な過ぎた。

-

さらに年月が経った。
美しい髪が、風にたなびくようになった頃。

「な、何なの?この苦しさ…息が、、、誰か、誰か助けて…」

参拝する家族の、楽しげな笑い声。
それを耳にするたびに繰り返される息苦しさ。
沙穂は身体中が強張るような痛みを、唇を噛んで耐え続けた。

彼女の胸に宿った小さな棘。
それは時が進むにつれ、確実に大きくなっていた。

ある月のない夜のこと、部屋でひとり座り込む沙穂。
その肩は、はじめは少しずつ、やがて波打つように大きく震えだす。
堪えようとした涙が、とめどなく流れる。
必死で堪えようとしたのに、喉からは嗚咽が漏れ出す。

自分に帰る場所はない。そんなこと、ずっと前から気づいていた。だけど声に出さずに我慢してきた。
でも、もう限界だった。沙穂は声にならない声で叫んだ。

「お母さんっ…!!わたし、、、わたしどうしたら…いいの!!」

頬からこぼれ落ちた涙が、月明かりもないのに鈍い光を放っている。
誰もいない境内で、彼女の嗚咽だけが響いている。

-

一夜明けたがその痛みは、彼女の胸に留まり続けていた。

そして静かな誰もいない本堂で、沙穂は和尚と向き合う。
美しい顔は青白く、澄んだ瞳は赤く腫れ、整った唇はかすかに震えている。

和尚には、沙穂の言いたいことが手に取るようにわかった。そして静かに、その時を待った。

やがて彼女は震えた唇を開く。

「和尚さま…わたし…わたし、もうどうすればいいのか、わからなくなって…」
「どうしてわたしだけ、こんな気持ちになるの?どうしてわたしだけ…」
「ねえ、どうして…!!」

沙穂の声が本堂に響く。

和尚は思い出していた。沙穂を引き取る前、あの「影」と交わした約束を。

「ついにこの日が来てしまったのか…」
彼は深く息を吸い込み、覚悟を決めた。そして何かを悟ったような声で語りかける。

「沙穂殿。明日、白石神社に参拝してみなさい」

-

その夜、沙穂はほとんど眠る事ができなかった。
「あの場所で、なにが始まるんだろ?……怖い…」
いつものように、ひとりっきりの晩。
もう慣れたはずなのに、気がつくと歯を食いしばり、目を見開いてしまっている。

そして、いつの間にか朝を迎えた。日の光が眩しく感じる。
「全然眠れなかった。今日大事な日なのに…」

朝の食事も喉を通らない。
朝のお勤めでも、気持ちは落ち着かない。

「…和尚さま!」
お勤めの最中だったが、沙穂は気持ちを抑えきれず立ち上がった。
まるで雨に濡れてしまった小鳥のように、体が震えている。
他の僧たちは何事もなかったかのように、修行を続けている。

「…気をつけて行ってきなさい」
和尚の声もまた、心を決めたかのように落ち着いていた。
なのにその目には、あの夜の霧のような業が宿っていた。

通い慣れた道を通り、神社に向かう。

「ふぅ…」沙穂は大きく息を吐いた。

拝殿で静かに目を閉じ、遠い記憶に手を伸ばす。
大好きな白い椿の花が、彼女を手招きするように揺れている。
鵜の瀬のせせらぎだけが、気持ちを落ち着けるように彼女に届く。

ふと、抗えない睡魔が訪れる。
意識が遠のく。
そして、どこからか現れた蜻蛉のような何かが、ゆっくりと語りかける。

「沙穂よ・・・・・・」

朦朧とした意識の中、過去の記憶が彼女の脳裏に次々と浮かび消える。
「…苦しい、、、嫌っ、も、もうやめて!!」
しかし残酷な記憶の流れは止まらない。
やがて一片の暖かな記憶が蘇る。

「あなたは…だ、れ?」
沙穂の頬を一筋の涙が流れ落ちた。

意識がもう一度彼女の身体に戻ったころ、すでに日の光は高くなっていた。
夢から覚めたばかりのように、おぼろげな、しかし確かな記憶。
それが彼女の心の中に、何かを芽生えさせた。

「帰ろう・・・帰らなきゃ」

震えるようにそう呟き、彼女は寺へ戻った。
そして、ふたたび和尚と向き合う。

薄暗い本堂は不思議に静まり返っている。ふたりの息遣いだけが、時折り静寂を遮る。
和尚は何も言わず、そっと優しい眼差しで沙穂を見つめている。

「…和尚さま、わたし、、、わたしは・・・」

沙穂はようやく口を開いた。
だが言葉が続かない。
その代わりに、とめどなく涙が溢れてくる。

でもそれだけで、和尚は全てを察した。
そして穏やかに諭すように言った。
「沙穂殿、真実はあなたの中にだけあるもの。どうかご自分を、そしてその先にあるものを信じてくだされ」

-

その夜、ふたたび蜻蛉のような何かと向き合う和尚の姿があった。

蝋燭の火が怪しく揺れる本堂で、言葉を一つ一つ選ぶように和尚は言う。
「…本当に、本当にこれでよろしかったのでしょうか?」
「あぁ。多くの苦労をかけて申し訳なかった。これまでのこと、感謝している」
蜻蛉の声は深く、澱みなく、そしてどこか優しい。

和尚は最後に、震えるように声を絞り出した。
「そうですか…くれぐれも…沙穂殿のこと、よろしく…お願い致します」

そうして、八百比丘尼となる沙穂の人生が、ゆっくりと動き出した。

彼女はまだ知らない。
これから歩む道がどれほど長く、どれほど孤独で、そしてどれほど美しいものなのかを…