事故物件シークレット研究会


「と、とりあえず、ミーティング始めようか」

 言いたいことは色々あるけれど、とにかく今は新入生勧誘に集中しなければ。隅にあるホワイトボードを出そうとしたとき、ふと窓の外が視界に入った。満開の桜の木陰に、人が立っている。
「あれ……」
 濡れたような黒髪と、はっと目を引く白い肌。淡い春色の風景の中で、そこだけが別世界のようにくっきりと浮き上がっているように見えた。
 舞い落ちる花びらの合間から見えた顔に、おれは慌てて窓際へ駆け寄る。
「夏目くん?」
 間違いない、あれは夏目くんだ。主席入学でテニスのジュニアチャンピオンだという美しい新入生が、事故研の部室をじっと見上げている。
 急いで窓を開けると、すぐに彼と目が合った。
 ひやりとした冷たい眼差しで、じっとこちらを睨(にら)みつけている――と感じたのは一瞬で、夏目くんはあの穏やかな笑みを浮かべると、おれに向けて軽く会釈した。
『心が決まったら部室へ伺いますね』
 そんな彼の言葉を思い出し、体温がいっきに上昇する。
 まさか、本当に入部希望者?
「う、うそ……」
 気が付いたらおれは部室を飛び出して、階段を駆け下りていた。背後から葛西くんの声が飛んできたが、身体が止まらない。

「夏目くん……!」
 片足の靴が脱げかかっているおれを見て、夏目くんはビックリしたように瞳を丸めた。
 急に立ち止まった勢いで転びかけるおれを、長い腕がとっさに身体を支えくれる。ふわっと、花のような甘くて良い匂いがした。
「南さん、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫。ごめんね、ありがとう」
「ケガはありませんか。そんなに急いで走ると危ないですよ」
「うん……」
 入学したての一年生に注意されてしまった。いや、今はそんなこと言ってる場合じゃない。
 転びかけていた体制を整えて、おれは夏目くんの顔を間近で覗き込んだ。
「それより夏目くん、そんなところでどうしたの。もしかして、うちの部を見に来たとか?!」
 彼の右手に事故研のチラシが握られているのを見て、かすかな希望が確定に変わる。やっぱり、うちに興味があったんだ。
「いまちょうどミーティングしてるところだったんだ。夏目くんも見学していく? 資料とかもたくさんあるから、それ見るだけでも活動内容のイメージつくと思うよ」
 夢中でそう言うおれに、夏目くんは申し訳なさそうに苦笑した。
「ああ、いえ……。実はさっき頂いたこのチラシ、裏にこんな書き込みがあって」
 昼休みに渡した、クシャクシャのチラシをおれの方へ向ける。裏面に、ボールペンの走り書きがあった。おれの字だ。
【〇〇県〇〇市あさひ町2丁目1―12】
 それを見たとたん、どきんと心臓が跳ね上がった。
「これ……」
「もしかしたら大事なメモだったのかなと思って。個人情報ですし、お返しに来ました。紛らわしくてすみません」
 この住所は、おれが調べものをしているときに急いで書いたものだ。つい熱中してしまって、配布用のチラシに書き込んでいた自覚がまったくなかった。しかもそれを、一年生に渡していただなんて。
「そ、そうだったんだ……わざわざごめんね。ありがとう」
 自分でも分かるくらいに声が沈んでしまう。入部希望どころか、単にチラシを返却されただけだったのか。
 勝手に期待した自分が悪いのだけど、今度こそはと手ごたえを感じたせいで余計にショックだった。
 チラシを受け取ってうなだれていると、夏目くんが腰を屈めた。きれいな顔が近付いてきて、つい緊張してしまう。

「……この事故物件研究会は、なにが目的なんですか?」
「え?」
 唐突な質問に、おれはポカンと彼の顔を見つめた。
 間近で見るその瞳は、黒にグレーと青が交じり合ったような不思議な色をしていた。その両目いずれにも、おれの顔が映り込んでいる。
「事故物件の研究会なんて、初めて聞いたので。顧問の先生からも許可が下りてるんでしょう? 生徒と一緒に物件を調査するなんて、変わった先生ですね」
「え……あ、えっと……」
 不意打ちで痛いところを突かれ、おれはつい口ごもってしまった。
 事故物件研究会の顧問は、この資料室を管理している日本史の先生だ。あくまで書類上の顧問で、先生はこの部が何をしているのか、どういう目的で活動しているのか、一切知らない。
 埃のたまりやすい資料室の掃除を条件に、おれが必死で説得して顧問になってもらっただけなのだから。
「先生は、その、どっちかというと活動を見守ってくれてて……部員の自主性を尊重、してくれてるというか……」
 冷や汗を掻きながら言葉をひねり出すおれの顔を、夏目くんは瞬きすらせずじっと見つめていた。
「南さんは、事故物件がお好きなんですか」
 深くて広い、底なしの夜空のような瞳。
 その奥へ吸い込まれてしまいそうで、おれはつい彼から一歩離れた。
 質問の意図がまったく分からなくて、背中を冷たい汗が伝い落ちていく。
「す……好きとか、嫌いとかで、考えたことないよ」
 人形のように整った顔も、優しい声音も、穏やかな佇まいも、先ほどまでと何も変わらないはずなのに。
 どうしてだろう、なんだか怖い。

 そのとき、春風が強く舞い上がった。土埃に目を閉じると、その隙を突くかのようにチラシが手からすり抜けていく。
「あ……!」
 慌てて捕まえようとするも手が届かず、チラシは春空へ向かって飛んでいく。
 すると、夏目くんが助走もせず高くジャンプしてチラシの端を掴んだ。音もなく着地した彼の周りを、桜の花びらがゆっくりと舞う。まるで映画のワンシーンだ。
「……どうぞ」
 くるりと振り返ると、彼はまったく息を上げることもなくチラシをこちらに差し出した。
「あ、ありがとう」
 受け取ろうと伸ばした手が、彼の指先とわずかに重なる。その白くて長い指は、驚くほどひんやりしていた。

 彼は、本当にこのチラシを返しに来ただけなんだろうか。
 ふとそう思い、おれはいちど伸ばした手を引っ込めた。
 裏面のメモが個人情報だと思ったのなら、破って捨てればいい。返却するだけなら部室のドアに挟んでいくこともできる。それなのに、わざわざこうして部室まで来たのは、おれたちの活動になにか引っ掛かっているものがあるんじゃないだろうか。
 怖いものが好き、とは少し違う。
 事故物件が気になる、興味がある、哀れんでいる。もしくは、それをオカルト扱いしている人間を嫌悪している?
――おれみたいに。
「あ、あのさ。夏目くん、うちに仮入部してみない?」
「……はい?」
 おれの急な問いかけに、夏目くんはまるで「聞こえませんでした」と言わんばかりに首を傾けて微笑む。だけどその一瞬、瞳の奥が鋭く光ったのを確かに見た。
「ほら、夏目くん、いつもたくさんの部に勧誘されてるだろうし、大変だと思って。もうほかの部に仮入部したっていえば、みんな諦めてくれるんじゃないかな」
 自分でも、とんでもない提案をしている自覚はあった。学園のアイドルに、こんな弱小文化部へ仮入部しろだなんて。
 だけど、なぜかこの時おれには絶対に彼を引き入れるべきだという確信があった。たとえ、カモフラージュの仮入部だったとしても。
ちょっと考えたあと、夏目くんは首を小さく横に振った。
「でも、それじゃあ顧問の先生や、ほかの部員の方にも失礼ですし」
「本当のこと言うと、うちは先生の許可もまともにもらってないし、活動の大半は勝手にやってる。だから、なにも気にする必要ないよ。そのチラシに仮入部希望の欄があるから、もしちょっとでも興味あったら、名前とクラスを書いて持ってきてくれないかな。もちろん、合わなかったら入部しなくて大丈夫だし」
 夏目くんは手に持ったクシャクシャのチラシを開き、その中身へ視線を落とした。潤んだ大きな瞳が、文字をじっと追っている。
 そしてしばらくすると、胸ポケットから万年筆を取り出して、すらすらとペン先を走らせた。
「え……」
「南さんのおっしゃる通りですね。実はテニス部の部長さんから毎日お誘いを頂いていて、ありがたくはあるんですけど困っていたんです。高校は勉強に集中したいので、テニスを続けるつもりはなくて」
 そう言うと、彼はチラシをおれに向けて差し出した。
「仮入部、受け付けてもらえますか?」
 流麗な字で『夏目玲央』と書かれたそれに、おれは飛び上がった。本当に、10センチくらい跳ねたと思う。
「も、もちろん……! よろしくね」
 仮入部の欄が埋まっているチラシを見るだけで、じわりと目頭が熱くなった。理由はどうあれ、入部検討の一年生が見つかったのだ。
 感激しているおれを見て、夏目くんが微笑む。
「まさか学校にも許可をもらっていないとは思いませんでした。なんだかスパイ組織みたいですね。事故物件シークレット研究会、に改名したらどうでしょうか」
「え……あ、はは、そうだね……」
 皮肉なのか冗談なのか、その笑顔からは読み取れない。
「さっそくだけど、部室見に来る? ほかの部員もいるから、挨拶させてほしいな」
「残念ですけど、今日は用事があるので失礼しますね」
 つれない態度の新入生は、そう言うとあっさり踵を返してしまった。
「えぇ? あの、夏目くん……」

 姿勢の良い後ろ姿が、桜並木に消えていく。その様子をぼんやり見送っていると、後ろから肩をぽんとたたかれた。
「すっげぇ一年だな。さっきのミラクルジャンプ見たか? さすが元ジュニアチャンピオン」
「べつに、あのくらいのジャンプならオレにもできるっす。てか、最高到達点ならオレのほうがぜんぜん高い」
「わ……ッ、びっくりした。二人ともいたんだ」
 いつの間に降りてきたのか、背後に葛西くんと志度くんが立っていた。突然出てきたおれに驚いて、ここまで追いかけてきてくれたらしい。
「ほらこれ、夏目くんから仮入部もらったよ」
 名前の書かれたチラシを見せると、二人はまばらな拍手をした。カモフラージュの仮入部だと、聞こえていたんだろう。
「まぁとりあえず、一歩前進じゃん。よっしゃ、事故物件シークレット研究会、本格始動だな」
「やっぱり話、聞こえてたんだね……」
 部室へ戻る二人に続こうとすると、ふわりと甘い匂いがした。
 さっき転びかけたとき、抱きとめてくれた夏目くんから感じた香りに似ている。背後を振り返ったけれど、当然ながらそこには誰もいない。
 傾きかけた日差しの中で、薄紅色の花びらが小雨のように散っているだけだった。