事故物件研究会は怪異を信じない


 開け放した廊下の窓から、穏やかな春風が流れてくる。
 夏目くんの黒髪が風でサラサラと揺れるのを、おれは意味もなく眺めた。
 そして、彼の言葉を何度も脳内で再生する。
 憑かれてる?
 お化けに、憑りつかれてるってことだろうか?
「……そ、それって……どういう……」
「視えるんです。この目が」
 夏目くんがまばたきをするたびに、その瞳に映る自分が歪んでいくように見えた。
「転ぶといけないので、降りてから話しましょうか」
 そう言って階段を降りていく彼を、慌てて追いかける。
 東校舎を出ると、外は新緑の景色が広がっていた。前に夏目くんが立っていたあの桜の木も、花が散った代わりに新しい若葉を芽吹かせている。
「前に、僕が家のことでいじめられて学校に行けなくなった話をしましたよね」
 桜並木を抜けながら、夏目くんが口を開く。
「う、うん……」
 民宿で打ち明けてくれた話だ。
「おばあさんが、霊媒師をされてるって」
「そう。祖母は相手の目を見るだけで、その人に憑りついている悪い物を言い当ててたんです。そしてお守りやらお札をやらを授けて、報酬を受け取っていた」
 霊媒師というものがどういう職業なのか、おれはよく分からない。テレビの心霊番組や映画でしか見たことがないので、除霊をする人というぼんやりしたイメージしかなかった。
「子どものころは、僕も祖母のことを信じてませんでした。見えないものを見えると言ってお金をもらうなんて、インチキだって。けど小学3年生の、ちょうど田辺先生が亡くなった時期……ぼくは相手の目の中に、変なものが見えることに気付いたんです」
「へ、変なもの……?」
「怖がらせようと思ってるわけじゃないので先に言いますけど、べつに怨霊とか呪いとか、そういうものが見えてるわけじゃないですよ。幽霊が見えるんなら、僕はとっくに田辺先生に会いに行ってます」
 夏目くんはふいに立ち止まり、おれの方を向いた。
「僕には、その人が執着しているものの『念』みたいなものが見えるんです。愛情や喜びのほかに、悲しみや後悔や未練のような感情が形になったもの、と言えばいいのかな」
 意味がよく呑み込めず、おれはぽかんと彼の瞳を見るしかなかった。
 この瞳には、おれが胸にしまい込んでいたものが見えていたのだろうか?
「それ自体は、とくに悪いものじゃありません。良くないのは、その人の念があまりに強すぎて、周りの人の念までも吸い寄せてしまうことです。マコ先輩はこれまでの事故研の活動で、たくさんの家の念を集めてきた。あなたは今、『家』という念に呼ばれている。安藤さんが対応した電話に別の声を聞いたのも、そのせいです」
 風に吹かれながら、おれはあの録音内容を必死に思い出していた。
「……ごめん、ちょっと、よくわからなくて」
 うつむいて握り込んだ手が、少し震えていた。怖いというより、心が乱れてどう反応すればいいのか分からない。
 家の念に呼ばれている?
 それに呼ばれたおれは、これからどうなるんだろう?
「変なことを言ってすみません。保健室行きましょう」
 夏目くんに促され、はっと顔を上げた。
 昼休み終了を告げるチャイムが、新校舎に鳴り響いている。賑やかな一年生たちの笑い声が、素早く頭の中を通りすぎていった。



「微熱ね。午後の授業は休んで、少し休んでいきなさい」
 保健室の先生にそう言われ、おれはベッドで休ませてもらうことになった。
「心配なので、ずっと付き添っていて良いですか?」
 そう言った夏目くんを、先生は厳しく睨みつける。
「いいわけないでしょ。アンタは早く教室戻んなさい」
 学園のアイドルにも、養護教諭はぴしゃりと厳しい。
「はは……大丈夫だよ夏目くん。少し休んだら、あとは自分で帰るから」
「なにかあったら連絡してください。電話でもショートメッセージでもラインでも、インスタかTikTokのDMでもいいので」
「ごめん、後半のほうはやってないや……」
「マコ先輩が何をやってるか分からなかったので、いろいろインストールしてみたんです」
 使い方は葛西くんに教えてもらったらしい。
「ありがとう。なにかあったら、夏目くんを呼ぶね」
 おれがそう言うと、夏目くんはふわっと微笑んだ。
「マコ先輩が呼んでくれたら、夢の中でも駆けつけますよ」

◇◆◇

 ちょっと横になって休むつもりだったのに、寝不足と微熱のせいかウトウトしてしまった。
 消毒液の匂いと、加湿器のしずかな稼働音。そんな保健室の安全な世界から、ちょっとずつ意識が離れていく。


 ふと目を覚ますと、すごく温かくて、優しい空気に包まれていた。
 晴れ渡った日曜日の朝。
 生まれたての世界は眩しくて、今日は何をしようとワクワクした。自転車で友達と遊びにいって、午後は弟と公園に行って。母さんが迎えに来てくれたら、父さんの運転する車でどこかに出かけるんだ。
 ベッドで寝坊している母さんと弟を起こし、おれは寝室を飛び出した。
「とうさん」
 めずらしく早起きな父さんを探して、一階へ駆け下りる。
「おーい、マコト」
 ガレージの方から、声がした。
 いつもの父さんの声だ。聞き慣れているはずなのに、なぜか名前を呼ばれたとたん胸がぎゅっと痛くなった。
「とうさん、何やってるの?」
「ちょっと手伝ってくれ。車が故障したかも」
「ええ?」
 急いでガレージに向かうと、エンジンのかかったミニバンがあった。
「エンジン、動いてるよ」
 運転席まで回って声をかけると、中から父さんの声がした。
「ごめん、ごめん。ドアが開かなくなっちゃった」
「じゃあ、反対側から出てきなよ」
「それが、ぜんぶ開かないんだよ。父さん、なんか変なボタンでも押したのかな」
 おっちょこちょいな父さんらしい。
「母さん呼んでくる?」
「いやぁ、父さんが壊したんだろって怒られちゃうからさ。マコト、外からドア開けられる?」
 ヴウウウウンと、エンジンが低い唸り声をあげる。灰色の排気ガスが立ち上り、ガレージの中に漂った。
「マコト、開けて」
 中から、父さんの声がする。
「マコト、開けて」
「ちょ、ちょっと待ってて」
 ドアハンドルに手を差し込み、手前に引っ張ってみる。けど、父さんの言う通りドアは開かない。
「父さん、開かないよ」
「マコト、開けて」
 内側から開けようとしているのか、ドアがガタガタと激しく動く。ロックがかかっているのかと思ってよく見ると、窓ガラスにはガムテープがいっぱい貼り付けられていた。
「マコト、開けて」
「と、とうさん……」
「マコト、開けて」
「マコト、開けて」
「マコト、開けて」
 運転席から、父さんの声がいっぱい重なって聞こえてくる。内側からドアが押され、ガチャガチャと激しく揺れる。
 おれは、弾かれたように車から飛びのいた。
「っ……ごめん、ごめんね、とうさん。助けられなくて、ごめん」

 あの日、ガレージで車を見つけたとき、父さんは本当に亡くなっていたんだろうか。もしおれが早くドアを開けていたら、もっと早く見つけていたら。父さんと、今も一緒にいられたんだろうか。
 おれは運転席のドアに駆け寄って、ドアハンドルに手をかけた。
 いつのまにか、おれは子どもの身長ではなくなっていた。
 窓ガラスの中は真っ黒に曇っていて、なにも見えない。
「マコト、開けて」
「父さん、いま……」
 開けるから。

 ドアハンドルを思い切り引こうとしたとき、誰かが俺の手を掴んだ。
「え……?」
「開けないで」
 背後でそう囁き、誰かがおれの手をぎゅっと握りしめる。その親指には、噛まれたような傷跡があった。
「あ……」
 夏目くん。
 その名前を呼んだ瞬間、運転席のドアが今にも壊れそうなほど内側から叩かれた。
 ガムテープがビリビリと剥がれていき、窓の隙間から黒い煙があふれ出ていく。
 運転席には、だれもいなかった。
――マコト、開けて
――マコト、開けて
――マコト、あけて
 声だけが、ガレージいっぱいに響き渡る。
「父さん……?」
「早く、こっち」
 手を強く引かれ、おれはガレージのシャッターまで走った。ここから見える外は、薄暗い。
 あんなに優しかった日曜日の朝は、おれの家は、おれの父さんは、どこにいってしまったんだろう。
 もう、おれの手が届かないところに消えてしまうのだろうか。
 もう二度と、戻ってこないのだろうか。
「ここに全部、あるじゃないですか」
 手を引いていた人が、そう言ってくるりと振り向く。
 おれの目の前で、夏目くんが微笑んでいた。
「お父さんも、大事な家も、忘れたくない過去ぜんぶ。マコ先輩のなかに、ちゃんとあるじゃないですか」
 夏目くんの手が、おれの手をぐっと握りしめる。中から、なにもこぼれ落ちてしまわないように。
 背後から、車のドアがゆっくりと開く音が聞こえた。振り返ろうとしたけれど、走り出す夏目くんに手を引かれて叶わない。
 どこか遠くで、懐かしい声がする。

 ガレージから出る瞬間、誰かの大きな手で背中を優しく押された気がした。