ブロック塀を曲がった先に、相変わらず貼り紙の家はあった。暗い空の下で、幼い文字の書かれた紙がいっせいに揺れている。
門扉は中途半端に開いていて、風に押されてギイギイと音を立てていた。
ここを去る時、おれたちは確かにこの門を閉めたはずだ。夏目くんが一人で入っていく姿を想像し、おれは急いで勝手口へ駆け込んだ。
施錠されているかもと一瞬だけ心配になったけれど、薄いドアは呆気ないほど簡単に開いた。
なにかが燃え尽きたような煙の臭いが、前よりずっと強く漂っている。
照明も懐中電灯も持ってこなかったので、おれはスマホの灯りを頼りにして中へ入った。
キッチンを出て右は突き当たり、左が洗面所と階段。そこまでの間取りは分かっている。だけれど、暗い部屋の中を手探りで歩くのは難しい。スマホのライトはあまりにも小さくて弱く、足元しか照らしてくれない。
角を曲がった先や、廊下を出たすぐ背後に、誰かが立っているような気がして呼吸が短くなっていく。
「な、なつめくん……?」
おれの呼びかけは、湿った暗闇に吸い込まれて消えた。
あと少し歩くと、おれが突き落とされた――ように感じた、あの階段がある。
床に放置されたビニール袋や雑誌の束に足を取られながら、おれは息を殺して前に進む。
その時だった。
ズジャ……ッ、ズジャ……ッ、ズズ……ッ
引きずったような足音が、上の階から聞こえた。聞き間違いじゃない。すぐそばにいる。
おれは反射的にスマホを胸に抱きしめ、ライトが漏れないように隠した。
心臓がドクドクと激しく高鳴り、両足が震える。
夏目くん? ちがう。この歩き方は、夏目くんじゃない。
ズジャ……ッ、ズズ……ッ
足音が止まる。
音しか聞こえないのに、その気配が辺りを伺っているのが分かった。
おれを見てる?
ズジャ……ッ、ズジャ……ッ、ズズ……ッ
引きずるようにして、誰かが、なにかが、こっちに向かってくる。
膝が震え、息ができない。
逃げるべきなのに、身体が動かない。
真横にある襖が、ガラッと開いた。
真っ暗な闇と、強烈な煙の臭い。口を塞がれ、ものすごい力で身体が中へ引きずり込まれる。
「っ……ひ……」
悲鳴すら上げらないまま、襖が勢いよく閉まった。
口を塞いでいるのは、人の手みたいな感触だった。何も見えないし、なにも聞こえない。
恐怖のあまり、おれはその手に思い切り噛みついた。犬歯が皮膚に食い込んだ感触がして、温かい鉄の味が舌に滲んでいく。
血の味だ。
「南さん。僕です」
呼吸が薄くなり、意識が遠のきそうになったとき、耳元で知っている声がした。
「ッ……な、なつめく……」
「大丈夫だから。じっとしてて」
誰かに聞かれるのを警戒するように、夏目くんが小さな声でそう囁く。
ズジャッ、ズジャッ、ズズッ
足音が、廊下へ向かってくる。なにかを探しているように、足音がだんだんと早くなっていく。そして音が近付くにつれ、ブツブツ呟く人の声が聞こえてきた。
「おい……ぶち殺すぞ全員、おい、ふざけやがって」
夏目くんに口を塞がれていなかったら、きっと叫び声を上げていただろう。聞こえてくるその声は、たしかにあの苦情電話の声だった。
「殺すぞ、ふざけやがって、おい、クソガキども、おい」
うなり声のような呟きをもらしつつ、靴音が近付いてくる。
そして、わずかに開いた襖の向こうを、その足音が通った。顔も姿も暗くて分からない。
ただ、赤いブーツだけが一瞬だけ見えた気がした。
音が、少しずつ遠ざかっていく。
おれは必死に息を殺し、背後にいる夏目くんの腕を握りしめていた。指が震え、込み上げてきた涙で顔が濡れる。
完全に外の気配が去ると、口を塞いでいた手がそっと離れた。
息を吐けばいいのか吸えばいいのか、叫びたいのか泣きたいのか、何も分からないまま大きく咳き込んだ。
「南さん、ケガは」
背後を振り返ると、夏目くんがおれの顔をのぞき込んだ。おれがもがいて暴れたせいか、彼の髪はひどく乱れていた。
「っ……な、夏目くん……」
「どうして、こんなところにいるんですか」
冷たく言い放つ夏目くんの手を、おれはぐっと引き寄せた。ポケットからハンカチを取り出し、血のにじんでいる親指に巻き付ける。
「夏目くんこそ、なんでここに来たの。たった一人で、なにするつもりだった?」
ハンカチに、じわりと血が滲んでいく。その手を上から握りしめようとすると、そっと振り払われた。
「僕が、責任を取らないと」
そう言って夏目くんは立ち上がった。
「ど……どこに行くの」
暗闇に慣れてくると、いま自分が和室らしき部屋にいることが分かった。
畳も壁も天井も、ところどころが真っ黒に焼け焦げている。部屋の中央に、燃えかけの雑誌や木材が突っ込まれたバケツが置いてあった。
家じゅうに漂っている焦げ付いた匂いは、本当にここで火を燃やしていたせいだったんだ。
焼けた畳の上には、カップラーメンや菓子パンのゴミが散乱している。明らかに、ここで誰かが生活していた残骸だ。電気もガスも通っていないから、たき火をして暮らしていたんだろう。
「……やっぱり昭一さんだよね、この家にいるの」
家を徘徊している、引きずるような足音。あれは化け物でも幽霊でもない。
外から守るように家を紙で隠し、侵入者を拒んでいた、この家の人間。田辺先生が残した家族だ。
夏目くんは答えない。
「さっきの、見たよね。近づいたり話しかけるのは危険すぎる。もう、こっちの声なんか届かないかもしれない」
「だったらなおさら、早くここを出てください。この和室は窓のサッシが歪んでて開かないから、隙をついて勝手口から外に……」
ズジャッ、ズジャッ、ズズッ
また足音が聞こえて、夏目くんが口を閉ざした。こっちに、また近づいてくる。
しかも、ものすごい速さで。
「伏せて」
夏目くんに背中を押されて身体を屈めた瞬間。
ガタガタガタッ
襖が上下に大きく揺れる。そして一拍置いたあと、ぼろぼろのブーツが襖を思い切り蹴破って中へ飛び込んできた。
「ッ……!」
叫びたいのに、声が出ない。
すえたような、ひどい臭いが漂う。
黒い影が動き回るたび、何かがギラリと鈍く光っていた。刃物だという事は、本能的に分かった。
光がとつぜん畳に突き刺さり、い草がブチブチブチと引き裂かれていく。
「おい! おい! ふざけんなよ、こ、ここここここ、こ、こ、殺すぞ、おい!」
肺から絞り出しているみたいな、ひどく震えた低い声だった。
畳を切り裂いたナイフを握り、黒い影がどんどん近づいてくる。そして、暗闇の中にはっきりと顔が浮かび上がった。
真っ黒に汚れたその顔は、階段に飾ってあった写真の昭一さんと全く同じだった。
「あ……」
「南さん、立って」
硬直して動けないおれの腕を取り、夏目くんが立ち上がる。
めちゃくちゃになった襖から廊下へ飛び出し、おれたちは勝手口のあるキッチンへ向かおうとした。
けれど、できなかった。
キッチンの入り口を、なにか大きな家具で塞がれていたのだ。震える手でスマホを取り出して照らしてみると、空の食器棚が横に倒れるようにして置いてあった。
さっきまでは、ここになかったのに。
「な、なにこれ……」
ズジャッ、ズジャッ、ズズッ
ブーツの靴底を引きずる音が、背後から聞こえてくる。暗い廊下の中で、刃物の光がユラユラと揺れていた。
この先には進めない。和室の窓は開かず、たとえ正面玄関に行けても扉はチェーンで施錠されている。
もう、逃げる場所がない。
「……南さん。彼は僕が止めるので、その隙に二階に逃げてください。そんなに高さはないので、窓から花壇に飛び降りれば掠り傷で済みます」
おれの腕を離すと、夏目くんが一歩前へ出る。
「昔、二階から花壇にみんなでジャンプするのが流行って。田辺先生にいつも怒られたんです」
「な、なに言ってるの。君だけ置いて行けるはずない」
「南さん」
こっちを振り返ると、夏目くんはほんの少し口の端を上げた。
「だました挙句、こんなことに巻き込んで、すみませんでした」
「そんなの……」
そんな言葉を聞きたくて、ここまで来たわけじゃない。こんな結果を求めて、事故研を作ったわけじゃないのに。
「嫌だ!」
おれは必死に彼の腕にすがりついた。振り払おうとした肘が胸におもいきりぶつかっても、離さなかった。
「なにしてるんですか、離してください」
焦ったような声に、首を横に振る。
ここで彼を離したら、おれは自分を許せなくなる。
ふと、足元が揺れた気がした。
壁がきしみ、天井から大量のホコリが落ちてくる。
地震かと思った次の瞬間、廊下の天井がバキバキと音を立てて落ちてきた。
真っ黒になった木材が、重なり合うようにして廊下へ落下する。家の中で火を燃やし続けたせいで、天井の木材が炭化していたんだ。
驚きのあまり、おれはその場でへたりこんでしまった。ホコリとすすが大量に立ち昇り、こちらに向かってきていた黒い影がひるんだように立ち止まる。
廊下の天井が崩れたのを発端に、和室の方からも大きな音が聞こえた。左右の壁が斜めに傾き、奥の天井がグニャリと曲がる。
家が、つぶれる。
天井の落下に驚いたのか、昭一さんはナイフを放りだして二階への階段を駆け上がった。途中で何かにぶつかり、ガラスの割れるような音が聞こえてくる。
「あ……!」
おれは震える膝へ必死に力を入れ、天井から落ちてきたがれきを乗り越えた。
そして、階段の下に落ちていたガラス片をかきわける。思った通り、割れたのは額縁のガラスだった。放り出されてしまった中の紙を、ガラスで切った手で慌てて拾い上げる。
「南さん……?!」
急に駆け出したおれを、夏目くんが慌てて追ってくる。
「何してるんですか、早く戻って。そっちも崩れるかもしれない」
腕を引かれ、キッチンの方へ引き返す。だけど相変わらずそこは、食器棚で道を塞がれていた。
一か八か、二人で押してどかすしかない。
そう思ったとき、食器棚がガタンと大きく動いた。
天井が揺れたのかと思ったけれど、違った。二度、三度とたしかに棚は前後に動き、そして四度目で大きな音を立てながら後ろに倒れた。
暗い廊下に、ぱっと灯りが差し込む。
あまりに眩しい光に、目がくらんでしまう。
光の中からふたつの手が差し伸べられて、おれと夏目くんの腕をしっかりとつかんだ。
「おい、二人とも早く出ろ!」
「夏目テメェ、半端なことやってんじゃねぇぞ」
葛西くんと志度くんが、大きな照明を掲げてそこに立っていた。
「ふたりとも、なんで……」
「マコトお前、やろうとしてることがバレバレなんだよ。つっても、同じ電車に間に合わなくて遅くなったけどな」
「こういうの、マジでこれっきりにしてください」
つかまれた手が、ものすごく熱い。
倒れた食器棚を乗り越え、おれたちは開いている勝手口から外へ脱出した。
甘い匂いがする。
ユキヤナギの白い花だ。
ふと顔を上げると、地面に座り込んだ四人全員がその花をぼんやり眺めていた。息が上がりすぎて、おれは何度か咳き込んだ。
「……大丈夫ですか、南さん」
自分も苦しそうに息を切らしながら、夏目くんがおれの背中を擦る。
「た、たぶん。あ、そうだ」
おれはずっと握りしめていたものを、彼へ差し出した。
金色の紙に印刷された、きれいな賞状だ。真ん中には子どもが書いた文字が転記されている。
『わらおうよ みんなでつくる 明るいみらい
なつめ れお』
彼が、小さく息を呑んだ音が聞こえた。
階段の壁に飾られた額縁は2つあった。その1つが田辺先生の家族写真。
そして2つ目は、夏目くんが小学校のころにコンクールで入賞した際の賞状だった。
「おれの父さん、おれがもらった賞状を額縁に入れて飾ってくれてたんだよね。もしかしたら、先生も同じことしてるんじゃないかと思って」
おれの手からそれを受け取ると、夏目くんはじっとそれを見つめていた。
きれいな大きい瞳が、ゆらゆらと揺れている。
失職したのは夏目くんのせいだと、先生が彼を呪って憎んでいたら、絶対にこんなもの飾らない。
「田辺先生、夏目くんのこと大事だったんだね。ずっと」
そう言うと、夏目くんは賞状を握りしめたまま「あははは」と歯を見せて笑った。
「ぜんぜん、気付かなかった。もう捨てられたと思ってたのに。こんな近くに飾ってあったんだ」
そして、ガラスで傷だらけになったおれの両手をそっと握った。
「先生の思い出、守ってくれてありがとうございます。南さん」
長いまつ毛を濡らして笑う夏目くんの顔は、小さい子どもみたいに幼く見えた。
「夏目くんが笑ったところ、初めて見たかも」
おれがそう言うと、夏目くんは「いつも笑顔を心がけてるのに」と顔をクシャクシャにして笑った。
