勝手口から家を出ると、すでに辺りは暗くなっていた。藍色に染まった庭で、ユキヤナギの花が静かに揺れている。
「やべぇ、バスの時間!」
門の外へ出るなり、葛西くんが慌ててスマホを取り出した。
「19時半……駅までのバスって、つぎ何時だっけ」
「……次はないっすね。19時が最終です」
「えッ、マジで?! ここのバスってそんな早えーの?」
慌てて時刻表を確認してみると、土日は特に便が少ないらしい。こんなに遅くなるとは思っていなかったので、最終バスの時間をちゃんと確認していなかった。
「来るときの電車遅延が痛かったな……もう少し早く着いてれば、ギリギリ間に合ったのに」
「ご、ごめん。おれがここに戻ったせいだ」
「いや、だれも時間のこと考えてなかったんだから、連帯責任だろ」
メッシュの入った髪の毛を掻き上げながら、葛西くんがうなる。そして、夏目くんの方をちらりと見やった。
「お前は? 帰り大丈夫か」
「帰りは遅くなると思ったので、泊まるところを予約してます。僕のことはお気になさらず」
「こんな住宅街に、ホテルなんてあるか?」
「さすがにこの団地にはありませんけど、国道をすこし戻ると民宿がありますよ。けっこう安いし、個人経営なので高校生ひとりでも泊めてくれます」
夏目くんは、おれの方を見て微笑んだ。
「部屋にまだ空きがあるか、聞いてみましょうか。南さんのケガは、僕がこの家に入ったのがそもそもの原因ですし」
「べつに、夏目くんのせいじゃないよ」
「民宿の人に電話するので、待っててくださいね」
おれたちから少し離れ、夏目くんはスマホを取り出して耳へあてる。有無を言わさず確認してくれる彼を眺めながら、おれたちはぼんやりと待つしかなかった。
カサカサ、カサカサと、家に貼り付けられた紙が夜風に揺れている。
暗くて貼り紙がよく見えないせいか、家は昼間に見た時のような怖さはなかった。この家だって、数年前は人が住んでいたのだ。窓には明かりがともり、台所からご飯の匂いがして、風呂場からは水の流れる音が聞こえる。そういう、人の生きている場所だった。
「部屋、空いていたので取っておきました。三人部屋で大丈夫でしたか」
通話を終えた夏目くんが、スマホ片手に戻ってくる。
「マジかよ、サンキュー夏目! 助かったわ」
手放しで喜ぶ葛西くんとは逆に、志度くんは眉間へ皺を寄せた。
「……コイツのこと、信用して良いんすか」
「まぁまぁ志度、落ち着けって。マコトもケガしてるし、とりあえずどこかに入らねぇと」
そう言われた志度くんはちょっと迷ったような顔をした後、黙ってうなずいた。
「マコトは泊まりで大丈夫か? 家に電話する?」
「大丈夫。叔父さん、出張で家にいないし」
おれの返事に、夏目くんがちょっと不思議そうな顔をする。
「あ……おれね、いま叔父さんと一緒に住んでるんだ。家、学校から遠くて」
「そうだったんですね」
それ以上のことは何も聞かず、夏目くんは「民宿の場所、案内しますね」と歩き出す。
「葛西くんは、外泊して大丈夫?」
「ぜんぜん平気。うちの親、放任主義だし」
「お母さんたちもだけど、その……」
おれが言おうとしていたことが伝わったのか、葛西くんは両目を細めて笑った。
「お前が夏目を信じるんなら、俺も信じるよ。アイツがここにいたのはちょっと驚いたけど、たぶん悪い奴じゃないと思うし」
彼の返事に、ほっと息をつく。
夏目くんは、何かを隠している。
だけど、疑う気にもなれなかった。部室まで来てくれたときも、そしてこの家の中でも、彼はずっとなにかを必死に追い求めているように見えたから。
夏目くんは、この事故物件になにを求めているのだろう。
バサバサ。
ガサガサ。
貼り紙が舞い上がり、いっせいに音を立てる。無数の貼り紙が、背後から追いかけてきてるみたいだ。
家を離れて国道沿いに出ても、しばらくその音は耳に残っていた。
街灯の少ない国道を数十分ほど歩くと、2階建ての建物が見えてきた。
横に長いマッチ棒のような外観で、テラスの手すりに『民宿 いこい荘』と書かれてある。
てっきり個人宅のような民宿を想像していたけれど、見た目は公民館かスポーツ施設だ。もともとはそういう建物を、民宿にリフォームしたのかもしれない。
「ごめんね志度くん、もう大丈夫だから」
「部屋までおぶんなくて良いすか」
「う、うん、さすがにそのくらいは歩けるよ」
目的地までだいぶ歩くことを知り、志度くんは途中でおれのことを背負ってくれた。たかが捻挫でおんぶさせるのは申し訳なさすぎたけれど、あの距離を歩いたら絶対に腫れが悪化してただろう。
エントランスで降ろしてもらっているうちに、受付を済ませた夏目くんがやってくる。
「じゃあ、僕は二階の部屋なので。おやすみなさい」
「おやすみ夏目くん。ありがとう」
おれが慌てて声をかけると、相変わらず律義に頭を下げて夏目くんは階段へ向かった。
「俺らは一階の部屋にしてもらったわ。行こうぜ」
同じく受付を終えた葛西くんがやってきて、自分のスマホを俺たちに見せる。
「ここの部屋スマートロックだから、QRコードかざして中に入るんだと。お前らにも今のうちに送っとくわ」
ルームキーの貸し借りなく、スマホだけで出入りできるのは便利だ。旅館やホテルと違って、夜間はスタッフの人もいないのかもしれない。
「……ウス、あざす」
「ありがとう。出るときはスマホ忘れないようにしないとね」
入った部屋は8畳ほどの和室で、3つのベッドが所狭しと並んでいた。電気ケトルとテレビ、冷蔵庫が片隅に置かれている。
ようやく休める場所にたどり着いた安心感で、おれはベッドへ座るなりそのまま横になってしまった。
「スマホの充電ヤバい。コンセントどこだ? つか、飯どうすっか。今から食いにいくのも面倒だよな」
「コンビニかどこかで買いにいきますか。湿布と包帯もいるから、ドラッグストアにも寄らないと」
「そんな大げさな手当しなくても、だいじょうぶ……」
会話に混ざりつつも、二人の話し声がどんどん遠くなる。
身体が鉛のように重くて、視界がぼんやりしてきた。
今日はいろいろありすぎたのだ。
貼り紙の家。亡くなった田辺先生。どこかへいってしまった、その家族。
暗い部屋。引きずるような足音。なにかが焦げた臭い。
記憶の断片が浮かんでは消え、おれの意識は眠りに深く沈んでいった。
ズジャ……ッ、ズジャ……ッ、ズズ……ッ
どこか遠くで、なにかを引きずる音がする。
ジャッ、ズズ……ッ、ズズ……
ズサッ、ズジャッ、ズズッ
人の足音だ。
こっちに、どんどん近づいてくる。
「あ……ッ」
のどがヒュッと詰まり、おれは勢いよく身体を起こした。
息を切らしながら辺りを見渡すと、真っ暗な壁が視界に入った。
なんだっけ。
ここ、どこだっけ。
おれ、なにしてるんだっけ?
ズジャ……ッ、ズジャ……ッ、ズズ……ッ
ひきずるような足音が、すぐそばまで来てる。
おれは身体にかけてあった毛布を跳ね飛ばし、うっすらと明かりが漏れている場所へ駆け寄った。
ドアだ。ドア下のわずかな隙間から、光が差し込んでいる。
震える手でドアノブを回し、おれは勢いよくそのドアを開けた。
外へ飛び出したとたん、「うわ……ッ?!」と誰かが叫ぶ声が聞こえた。なにかと正面衝突し、はげしく弾き飛ばされる。
「びっっくりした……つか、なんだよ……」
ぶつかった衝撃で尻もちをつくおれを、知らない男の人が見下ろしていた。大きな荷物を背負った、バックパッカー風の男性だ。
「え……あれ……」
座り込んだままぼんやりしていると、その人はブツブツと文句を言いながら通り過ぎていく。
わけが分からないまま、おれは辺りを見渡した。
静まり返った薄暗い廊下に、おれはぽつんと座り込んでいた。背後でドアが閉まる音がして、ようやく意識がはっきりしてくる。
そうだ、いま、民宿に泊まってるんだった。
寝てる間に変な夢を見て、寝ぼけて外へ出てきてしまったらしい。危うく、ぶつかった人にけがをさせるところだった。
「なにやってんだ、おれ……」
深くため息をつき、汗のにじんだ首元を袖で拭う。
「いま、何時だろ」
ポケットを探ったけれど、スマホはない。部屋に置き忘れてきたのか。
中へ戻ろうとドアノブを回したら、ガタンという金属音がして扉が固まってしまった。押しても引いても、ドアは一向に開かない。
必死に苦戦しているうちに、おれは葛西くんに言われたことを思い出した。
ここ、一度出たらQRコードをかざさないと入れないんだ。
「わ……や、やばい」
スマホを忘れてしまったと言えば、マスターキーで開けてくれるだろうか。
おれは裸足のまま、廊下の端に見えるフロントへ駆け寄った。
「痛てて……」
捻挫した足首をかばいつつ、さっき受付してくれたカウンターを覗き込む。けれどそこはすでに無人で、電灯も落とされ真っ暗だった。スタッフの人も帰ってしまったらしい。
「どうしよう……」
さっきは慌てて飛び出てしまったけれど、葛西くんと志度くんは部屋にいなかったはずだ。買い物に出ているんだろうか。もしそうだったら、外で待っているしかない。
途方に暮れていると、階段から人の足音が聞こえた。
「……南さん?」
「な……夏目くん」
階段を下りてきたのは、夏目くんだった。ブレザーを脱ぎ、ネクタイもしてないラフな姿だったので、いつもと雰囲気が違う。
夏目くんは裸足のままのおれを見て、こちらに駆け寄ってきた。
「そんな格好でどうしたんですか。葛西さんと志度さんは」
「いや、あの……実は……」
二人が不在の間に閉め出されてしまったことを正直に話すと、夏目くんは黙ってしばし考え込んだ。そして、大きな瞳でおれをじっと見つめる。
「二人が帰ってくるまで、僕の部屋に来ますか」
「え……ッ、で、でも」
「けが人を裸足でウロウロさせるわけにもいかないですし。二人には、僕から事情を話します」
水だけ買っていいですか、と言って、彼はフロント横にある自販機へコインを入れる。その後ろ姿を見ながら、おれは迷った。
このまま彼の部屋に行って、良いんだろうか。
あの家の階段で、おれを突き落としたのは夏目くんじゃない。だけど志度くんの言う通り、おれたちは全て夏目くんに誘導されるようにここへ来たのかもしれない。
何のために?
「――怖いですか? 僕のこと」
とつぜん、間近で顔をのぞき込まれた。不思議な色の瞳が近付き、一瞬だけ息が止まる。
「ッ……こ、わくないよ」
「だったら良かった。行きましょう」
いつもの柔和な笑顔を浮かべ、夏目くんは階段に向かってゆっくり歩きだす。一つだけ深呼吸すると、おれは彼を追って二階へ上がった。
「やべぇ、バスの時間!」
門の外へ出るなり、葛西くんが慌ててスマホを取り出した。
「19時半……駅までのバスって、つぎ何時だっけ」
「……次はないっすね。19時が最終です」
「えッ、マジで?! ここのバスってそんな早えーの?」
慌てて時刻表を確認してみると、土日は特に便が少ないらしい。こんなに遅くなるとは思っていなかったので、最終バスの時間をちゃんと確認していなかった。
「来るときの電車遅延が痛かったな……もう少し早く着いてれば、ギリギリ間に合ったのに」
「ご、ごめん。おれがここに戻ったせいだ」
「いや、だれも時間のこと考えてなかったんだから、連帯責任だろ」
メッシュの入った髪の毛を掻き上げながら、葛西くんがうなる。そして、夏目くんの方をちらりと見やった。
「お前は? 帰り大丈夫か」
「帰りは遅くなると思ったので、泊まるところを予約してます。僕のことはお気になさらず」
「こんな住宅街に、ホテルなんてあるか?」
「さすがにこの団地にはありませんけど、国道をすこし戻ると民宿がありますよ。けっこう安いし、個人経営なので高校生ひとりでも泊めてくれます」
夏目くんは、おれの方を見て微笑んだ。
「部屋にまだ空きがあるか、聞いてみましょうか。南さんのケガは、僕がこの家に入ったのがそもそもの原因ですし」
「べつに、夏目くんのせいじゃないよ」
「民宿の人に電話するので、待っててくださいね」
おれたちから少し離れ、夏目くんはスマホを取り出して耳へあてる。有無を言わさず確認してくれる彼を眺めながら、おれたちはぼんやりと待つしかなかった。
カサカサ、カサカサと、家に貼り付けられた紙が夜風に揺れている。
暗くて貼り紙がよく見えないせいか、家は昼間に見た時のような怖さはなかった。この家だって、数年前は人が住んでいたのだ。窓には明かりがともり、台所からご飯の匂いがして、風呂場からは水の流れる音が聞こえる。そういう、人の生きている場所だった。
「部屋、空いていたので取っておきました。三人部屋で大丈夫でしたか」
通話を終えた夏目くんが、スマホ片手に戻ってくる。
「マジかよ、サンキュー夏目! 助かったわ」
手放しで喜ぶ葛西くんとは逆に、志度くんは眉間へ皺を寄せた。
「……コイツのこと、信用して良いんすか」
「まぁまぁ志度、落ち着けって。マコトもケガしてるし、とりあえずどこかに入らねぇと」
そう言われた志度くんはちょっと迷ったような顔をした後、黙ってうなずいた。
「マコトは泊まりで大丈夫か? 家に電話する?」
「大丈夫。叔父さん、出張で家にいないし」
おれの返事に、夏目くんがちょっと不思議そうな顔をする。
「あ……おれね、いま叔父さんと一緒に住んでるんだ。家、学校から遠くて」
「そうだったんですね」
それ以上のことは何も聞かず、夏目くんは「民宿の場所、案内しますね」と歩き出す。
「葛西くんは、外泊して大丈夫?」
「ぜんぜん平気。うちの親、放任主義だし」
「お母さんたちもだけど、その……」
おれが言おうとしていたことが伝わったのか、葛西くんは両目を細めて笑った。
「お前が夏目を信じるんなら、俺も信じるよ。アイツがここにいたのはちょっと驚いたけど、たぶん悪い奴じゃないと思うし」
彼の返事に、ほっと息をつく。
夏目くんは、何かを隠している。
だけど、疑う気にもなれなかった。部室まで来てくれたときも、そしてこの家の中でも、彼はずっとなにかを必死に追い求めているように見えたから。
夏目くんは、この事故物件になにを求めているのだろう。
バサバサ。
ガサガサ。
貼り紙が舞い上がり、いっせいに音を立てる。無数の貼り紙が、背後から追いかけてきてるみたいだ。
家を離れて国道沿いに出ても、しばらくその音は耳に残っていた。
街灯の少ない国道を数十分ほど歩くと、2階建ての建物が見えてきた。
横に長いマッチ棒のような外観で、テラスの手すりに『民宿 いこい荘』と書かれてある。
てっきり個人宅のような民宿を想像していたけれど、見た目は公民館かスポーツ施設だ。もともとはそういう建物を、民宿にリフォームしたのかもしれない。
「ごめんね志度くん、もう大丈夫だから」
「部屋までおぶんなくて良いすか」
「う、うん、さすがにそのくらいは歩けるよ」
目的地までだいぶ歩くことを知り、志度くんは途中でおれのことを背負ってくれた。たかが捻挫でおんぶさせるのは申し訳なさすぎたけれど、あの距離を歩いたら絶対に腫れが悪化してただろう。
エントランスで降ろしてもらっているうちに、受付を済ませた夏目くんがやってくる。
「じゃあ、僕は二階の部屋なので。おやすみなさい」
「おやすみ夏目くん。ありがとう」
おれが慌てて声をかけると、相変わらず律義に頭を下げて夏目くんは階段へ向かった。
「俺らは一階の部屋にしてもらったわ。行こうぜ」
同じく受付を終えた葛西くんがやってきて、自分のスマホを俺たちに見せる。
「ここの部屋スマートロックだから、QRコードかざして中に入るんだと。お前らにも今のうちに送っとくわ」
ルームキーの貸し借りなく、スマホだけで出入りできるのは便利だ。旅館やホテルと違って、夜間はスタッフの人もいないのかもしれない。
「……ウス、あざす」
「ありがとう。出るときはスマホ忘れないようにしないとね」
入った部屋は8畳ほどの和室で、3つのベッドが所狭しと並んでいた。電気ケトルとテレビ、冷蔵庫が片隅に置かれている。
ようやく休める場所にたどり着いた安心感で、おれはベッドへ座るなりそのまま横になってしまった。
「スマホの充電ヤバい。コンセントどこだ? つか、飯どうすっか。今から食いにいくのも面倒だよな」
「コンビニかどこかで買いにいきますか。湿布と包帯もいるから、ドラッグストアにも寄らないと」
「そんな大げさな手当しなくても、だいじょうぶ……」
会話に混ざりつつも、二人の話し声がどんどん遠くなる。
身体が鉛のように重くて、視界がぼんやりしてきた。
今日はいろいろありすぎたのだ。
貼り紙の家。亡くなった田辺先生。どこかへいってしまった、その家族。
暗い部屋。引きずるような足音。なにかが焦げた臭い。
記憶の断片が浮かんでは消え、おれの意識は眠りに深く沈んでいった。
ズジャ……ッ、ズジャ……ッ、ズズ……ッ
どこか遠くで、なにかを引きずる音がする。
ジャッ、ズズ……ッ、ズズ……
ズサッ、ズジャッ、ズズッ
人の足音だ。
こっちに、どんどん近づいてくる。
「あ……ッ」
のどがヒュッと詰まり、おれは勢いよく身体を起こした。
息を切らしながら辺りを見渡すと、真っ暗な壁が視界に入った。
なんだっけ。
ここ、どこだっけ。
おれ、なにしてるんだっけ?
ズジャ……ッ、ズジャ……ッ、ズズ……ッ
ひきずるような足音が、すぐそばまで来てる。
おれは身体にかけてあった毛布を跳ね飛ばし、うっすらと明かりが漏れている場所へ駆け寄った。
ドアだ。ドア下のわずかな隙間から、光が差し込んでいる。
震える手でドアノブを回し、おれは勢いよくそのドアを開けた。
外へ飛び出したとたん、「うわ……ッ?!」と誰かが叫ぶ声が聞こえた。なにかと正面衝突し、はげしく弾き飛ばされる。
「びっっくりした……つか、なんだよ……」
ぶつかった衝撃で尻もちをつくおれを、知らない男の人が見下ろしていた。大きな荷物を背負った、バックパッカー風の男性だ。
「え……あれ……」
座り込んだままぼんやりしていると、その人はブツブツと文句を言いながら通り過ぎていく。
わけが分からないまま、おれは辺りを見渡した。
静まり返った薄暗い廊下に、おれはぽつんと座り込んでいた。背後でドアが閉まる音がして、ようやく意識がはっきりしてくる。
そうだ、いま、民宿に泊まってるんだった。
寝てる間に変な夢を見て、寝ぼけて外へ出てきてしまったらしい。危うく、ぶつかった人にけがをさせるところだった。
「なにやってんだ、おれ……」
深くため息をつき、汗のにじんだ首元を袖で拭う。
「いま、何時だろ」
ポケットを探ったけれど、スマホはない。部屋に置き忘れてきたのか。
中へ戻ろうとドアノブを回したら、ガタンという金属音がして扉が固まってしまった。押しても引いても、ドアは一向に開かない。
必死に苦戦しているうちに、おれは葛西くんに言われたことを思い出した。
ここ、一度出たらQRコードをかざさないと入れないんだ。
「わ……や、やばい」
スマホを忘れてしまったと言えば、マスターキーで開けてくれるだろうか。
おれは裸足のまま、廊下の端に見えるフロントへ駆け寄った。
「痛てて……」
捻挫した足首をかばいつつ、さっき受付してくれたカウンターを覗き込む。けれどそこはすでに無人で、電灯も落とされ真っ暗だった。スタッフの人も帰ってしまったらしい。
「どうしよう……」
さっきは慌てて飛び出てしまったけれど、葛西くんと志度くんは部屋にいなかったはずだ。買い物に出ているんだろうか。もしそうだったら、外で待っているしかない。
途方に暮れていると、階段から人の足音が聞こえた。
「……南さん?」
「な……夏目くん」
階段を下りてきたのは、夏目くんだった。ブレザーを脱ぎ、ネクタイもしてないラフな姿だったので、いつもと雰囲気が違う。
夏目くんは裸足のままのおれを見て、こちらに駆け寄ってきた。
「そんな格好でどうしたんですか。葛西さんと志度さんは」
「いや、あの……実は……」
二人が不在の間に閉め出されてしまったことを正直に話すと、夏目くんは黙ってしばし考え込んだ。そして、大きな瞳でおれをじっと見つめる。
「二人が帰ってくるまで、僕の部屋に来ますか」
「え……ッ、で、でも」
「けが人を裸足でウロウロさせるわけにもいかないですし。二人には、僕から事情を話します」
水だけ買っていいですか、と言って、彼はフロント横にある自販機へコインを入れる。その後ろ姿を見ながら、おれは迷った。
このまま彼の部屋に行って、良いんだろうか。
あの家の階段で、おれを突き落としたのは夏目くんじゃない。だけど志度くんの言う通り、おれたちは全て夏目くんに誘導されるようにここへ来たのかもしれない。
何のために?
「――怖いですか? 僕のこと」
とつぜん、間近で顔をのぞき込まれた。不思議な色の瞳が近付き、一瞬だけ息が止まる。
「ッ……こ、わくないよ」
「だったら良かった。行きましょう」
いつもの柔和な笑顔を浮かべ、夏目くんは階段に向かってゆっくり歩きだす。一つだけ深呼吸すると、おれは彼を追って二階へ上がった。
